最終話 新しき世界
「この電車、ここの初列車ですね」
「ああ、そうだな。しかし、事務所に行く前に列車が来るとは、油断していた。移行者の事前資料に、まだ目を通していない」
「どんな方なのか分かりませんが、たぶん、戸惑っていると思います。きっと怖くて仕方がないはずですよ。二号車に女性が乗っていましたから、おそらく、あの方が移行対象者だと思います。早く行ってあげないと!」
そう言うと、白露はその車両に向かって、ホームを駆け出した。彼女のパンプスが奏でる金属音がホームに響いている。
白露のこの行動は、おそらくあの晩の、三石での体験によるものなのだろう。松風室長の“親心”、ちゃんと意味をなしているようだ。
白露のあとを追って、列車の脇を進んでいくと、長身でロングヘアの女性が泣きじゃくっていた。そして、彼女に寄り添うように立ち、なだめている白露の姿が頼もしかった。
いつの間にか、運転士と車掌の移動が完了したようで、車内から、回送列車になる旨のアナウンスが聞こえてきた。
この列車は、このあと、
ふと、開いたドアから車内を見ると、薄暗い床に小さなハンカチが落ちていた。もしかしたら、あの女性のものかもしれない。そう思い、私は車内に足を踏み入れた。
腰を落としてハンカチを手にした途端、車内照明が落とされた。同じように明かりが消えた車両から飛び出してきた、三石での白露の様子を思い出し、少し吹き出しそうになりながら立ち上がり、顔を上げた瞬間、私は目を疑った。
暗い闇が支配する車内に、闇よりも黒い、靄のような人影がぎっしり詰まっている。それは、乗降口から次々と入り込んできていた。私の周りにも、それらが充満している。
私はたまらず、靄の塊をかき分けるように列車を降りた。そして振り返ると同時に、扉が閉じた。
あの晩、白露が言ったことは、決して気のせいではなく、真実だったのだ。一体今のは何だったのか。
考えがまとまらない私をよそに、列車は警笛を一度鳴らすと、元来た方向へ動きだす。
黒い靄を満載し、ホームの闇に消えていく回送列車。車掌の敬礼が目に入ったが、私は答礼することさえ忘れていた。
不意に、先ほどの西明石駅での出来事が頭をよぎる。私を乗せてきた列車から、黒い靄が拡散していく様子。
たぶん、今去っていった列車に詰め込まれた黒い靄も、
大量の黒い存在が流入する私達の世界。移行列車が
もしや、我々が異界移行事業と呼んでいるものの真の目的は、我々の世界から異界への移住ではなく、異界から我々の世界への侵略を意味するのではないか。
そう言えば、新たに設置された特殊駅の多くが、黒い瘴気が充ち満ちる、壊滅した都市近郊だったような気がする。
まさか、浦波が言うように、本当に裏があるというのか。
そんな恐ろしい考えに囚われるが、不意にいつもの痒みが首筋に広がる。思わず掻きむしると、途端に自分の考えが馬鹿らしくなってきた。そして不安感が消えていく。
そう、そんなことは、ありはしない。官邸主導で行われているこの事業に、裏なんてあるものか。首相をはじめ、各省の大臣や事務次官が直接、使者として訪れた
そしてそれは、他国においてもそのはずだ。ホワイトハウスやクレムリンはもちろんのこと、中南海にエリゼ宮、ダウニング街十番地にも
浦波は考えすぎだ。何も知らないからそう思うのだ。一度、
そのためにも、今は私達異界移行事業に携わる者が、職務を全うすることが大切なのだ。そう考えると、この陰鬱な世界での業務に希望が見えてくる。
少し気が楽になった私は、白露とともに移行対象の女性を慰めながら、まだ見ぬ駅事務所へ向かうことにした。女性はかなり怯えた様子で、辺りを見回しながら歩いている。
それは、当然のことだろう。予想さえしていなかったであろう不可解な現象に巻き込まれ、不気味な駅で降ろされて、そうならないわけがない。
だからこそ私達は、移行者に寄り添って、親身に対応していかなければならないのだ。
西明石特殊駅。陰鬱な闇に包まれながらも、ここは私と白露にとって、希望に満ちた世界なのだ。そしてこの異界は人類の新たなる世界。ニューフロンティアなのだ。
そう言えば、
それとも、三石の
しかし、この仕事に就いていながら、未だに説話の深い内容を知らないのは恥ずかしい。
そうだ。今度の休みに駅の車を借りて、白露とともに三石の
そうだった。今はもう、三石駅ではなかったな。
あの駅の名は「きさらぎ」だ。
なんだか胸の奥が、こそばゆかった。
異界駅怪異譚 乃木重獏久 @nogishige
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます