断章「河川敷の幻影(まぼろし)」

piman

河川敷の幻影(まぼろし)

「ありがとうございました〜」


星屑の喫茶店は、今日も無事にラストオーダーを迎え、最後のお客さんを見送った。

扉にかかるプレートを「OPEN」から「CLOSE」へと裏返す。


「スズちゃん、今日もお疲れ〜」

「サクラもお疲れ様」

「今日もなんだかんだ平和だったね」

「そうだね」


着物姿のサクラと、スーツ姿のスズランが、店内の片付けを始める。

サクラはホールの掃き掃除とテーブルの拭き上げを、スズランはカトラリーの磨きと備品の在庫チェックを手際よくこなしていく。


ふと、サクラがひとつのテーブルで立ち止まった。


「あー、借りた本を忘れてっちゃってる」


本が一冊、ぽつんと取り残されたように置かれていた。


「後で図書館に返しに行かなきゃだね」


サクラはそっと本を手に取り、テーブルの隅に移動させた。


掃除を終えたサクラがスズランに声をかける。


「スズちゃん、なにか手伝おっか?」

「ううん、大丈夫。こっちもあと少しで終わるから」

「は〜い。じゃあ、裏でちょっと休憩してるね」


サクラは控室へと向かう前に、キッチンの中を覗く。

キッチンで黙々と片付けを続けている店長の背中に、声をかける。


「店長、お疲れさま〜。片付けなにか手伝う?」


サクラのその声に振り向く店長。


「ああ、サクラか。今日もお疲れ様。でももう少しだし大丈夫だよ」

「そう? じゃあ先に裏に行ってるね〜」


店長に軽く手を振って控室に向かう。


控室に入り、椅子に腰を下ろしてから、さっき回収した本をテーブルの上に置く。


「せっかくだし、返す前にちょっと読んでみよっかな」


お客さんが返却を忘れた本。──どんな物語が、綴られているのだろう。

少しだけ、覗いてみたくなった。


────


夜、ひとりの女性が河川敷を歩いている。

イヤホンから流れる音楽は、彼女の内側だけで鳴る、ささやかな灯り。

本当は海を見に行きたかったけど、今住んでいる街からは些か遠かった。

けれど、近くには大きな川があり、整備された河川敷が続いている。

いつでも行けると思って、なかなか足が向かなかったけれど、その夜は、なんとなく歩いてみようかなと思い立って、家を出てみた。

外に出ると、じっとりと肌にまとわりつくような湿気が夜の空気に漂っていた。

昼間の名残りを閉じ込めたような水たまりが、街灯の光をぼんやりと映している。

踏みしめるアスファルトの音だけが、やけに遠くまで届くようだった。


夜もだいぶ深まってきた頃だったけれど、河川敷には人影がぽつりぽつりとあって、昼間の街の喧騒とは違う、静かで穏やかな時間が流れていた。

散歩する老夫婦の、触れ合うことより離れすぎないことを知っている距離感。

すれ違う恋人たちの、触れた指先から今この瞬間を確かめ合うような近さと笑い声。


ぽつぽつとある電灯に照らしだされた、彼らの歩調の揃った影が、額縁のなかに閉じ込められた一枚の絵のようにも見えた。

羨ましいわけでもない、でも、胸のどこかがふっと沈む。

その感覚を言葉にするよりも早く、彼女の背を勢いよく追い越していくランナーの足音が、アスファルトに乾いたリズムを刻んでいく。

遠ざかるその音に、夜の空気がわずかに揺れた気がした。


私は、そんな風景に溶け込むように、ただ歩いていた。

目的もなく、答えを見つけてしまわぬよう、何かを探すわけでもなく、足だけを前へ運んでいたのかもしれない。


ふと、ベンチに座る若い男女の姿が目に入った。

顔を見合わせ笑い合っていた二人。その間に漂う気配は、私の胸の奥の小さな扉をノックしたような気がした。


視線を戻したとき、それは突然現れた。

数メートル先に、見えてしまったんだ。


……そう、あれは、私。考えるよりも先に、心がそう理解していた。

そして、隣にはもう一人。最近まで見慣れていた顔。

その二人が並んで歩く姿が。


笑い合う声。

肩が触れるたびに交わされる、小さな仕草。

二人の間に満ちているものが、夜の空気をやさしく撫でている。

その光景に、思わず足が止まる。

時間が、一呼吸分だけ伸びたように感じた。


──けれど、その光景は一瞬だった。

近くの車道を走る車のフロントライトがすべてを包んだ。影も輪郭も、音さえも。


光が流れ去ったあと、そこにはもう、何もなかった。


──少し前までは、私の隣を、同じ歩幅で歩いてくれる人がいた。

何気ない夜に交わした言葉も、触れた指先も、あれほどまでに温かかったこと。

そのぬくもりの気配が、まだ指先に残っている気がして、気づけばその指先に目を落としていた。


でも、それは記憶じゃない。


私たちは一度も、こんなふうにここを歩いたことはなかった。

あれほど近くにいたのに。

けれど、私はその光景のなかに確かに居た。

もう会えなくなったはずの彼と、今よりも、もう少しだけ素直に愛せた私とともに。


たぶん、ほんの少しだけ、遅かったんだ。

“あったかもしれない世界”。

手放したはずの願いが、まだどこかで息をひそめていて、心が映し出す幻影まぼろしとなり、一瞬だけ眼の前の景色と重なるよう見せたのだろうか。

錯覚だとしても、そこには、たしかな体温があった。


今はもう、そこに誰もいないと知っている。

それでも、このあたりにまだその気配が残っている気がして、思わずその声を探してしまった。


声が聞きたい──

それだけが胸に残った。


かつて、小さな光を宿していた指先に、もう片方の手を重ねていた。

体が覚えていたのだろう、その仕草。あの頃に感じていた感触は、もうどこにもなかった。


私は歩き続ける。


目の前に映った幻影を、そっと心の片隅へ送り返すように。

ただ歩く。語らう誰かを待つでもなく、孤独を受け入れるでもなく。

夜の空気が、言葉にならない想いの輪郭を、そっとなぞっていく。


見上げた空に星はなく、遠くに煌々と光る建物があるばかり。

たしかにそこにあるはずなのに、何かがその光を遮っているようで、今はうまく見えなかった。

まるでそれは、かつて隣にいたはずの人の気配を、思い出そうとしたときのような──


いつか見た夜空よりもどこか明るい夜の下、少しだけ姿勢を正して、目の前に続く道を私はただ歩いていく。

終わりも始まりも告げず、夜の余白のなかに、静かに身を委ねて。


────


「……幻影だったとしても、それを見てしまった心まで幻だったなんて、思わないで欲しいな」


だって、その幻影はきっと──

あなたの、願いの一片でもあったのだから。


「──サクラ、終わったよ」


スズランが、控えめに声をかけてくれる。


「あっ、スズちゃん。いつもありがと〜」


きっと、ちょうど区切りのいいところを見計らってくれたんだろうな。

そう思いながら、サクラはそっと本を閉じた。


──この続きは、またいつか。

それまで、本は静かに、読まれることを待っている。

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