酸性雨

辻井豊

酸性雨

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。


 そこは固まっている。これが今回わたし、神崎涼子の応募しようと考えている「第二十五回日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」略して「さなコン25」の課題文なのだ。この書き出しで一万文字以内のSF短編を書かねばならない。締め切りまではあと一月弱だ。

「うーん」

 椅子に座ったままわたしは伸びをする。もうどれくらい繰り返しただろうか。プロットを書いては消し、書いては消し、ちっとも前に進まない。タスクトレイの時計を見るとパソコンに向かってからもう二時間が経っていた。デスクの傍らからマグカップを取り上げて冷めたコーヒーを啜る。

「苦い……」

 椅子から立ち上がる。タッチスクリーンを操作してパソコンの画面をロックする。気分転換に近くのコンビニにでも行ってこよう。わたしは壁に吊るされているハンガーを取り上げ、そこからジャケットを外して羽織った。バッグを肩にかけると部屋から玄関へと進み、ドアあけてマンションの廊下に出る。時刻は深夜。冷たく、湿った夜の気配がわたしを包み込む。


 マンションのエントランスから出たわたしは夜の街を五百メートルほど北にあるコンビニまで歩く。数分で着く距離だ。その間、歩きながら作品の構想を練る。

 今回の課題文は難しい。セリフの内容とその口調から、セリフの主がゲーム・マスター的な立場にある何者かだと連想させるからだ。その連想をそのまま使って作品を書くと、よほど変わった展開にでもしない限り、他の多くの作品の中に埋没してしまう。

 一つの答えはその課題文を使って作品を書いている体のメタSFにすることだ。しかし、そんな書き出しは誰でも思いつくだろう。

 などなど考えていると雨がぽつぽつ降りだした。まずい。マスクとゴーグル、それに傘を忘れた。もうコンビニまでの半分を過ぎている。わたしは慌ててジャケットを脱ぐ。それを頭から被ると駆け出した。このまま雨に打たれるわけにはいかないのだ。

 コンビニまでを駆けるわたしに容赦なく雨は降り注ぐ。雷まで鳴り始めた。

 ようやっとコンビニにたどり着いたときには両目がヒリヒリと痛み出していた。強酸性の雨が降る野外にいたせいだ。咳き込みながら駆け込んだコンビニの入り口にはエアーカーテンがあって、服に残っている雫を吹き飛ばす。一つ目の自動ドアをくぐるといつものように弱アルカリ溶液の入った霧吹きが置かれていた。わたしはそれを全身に降りかける。両目のヒリヒリがおさまった。ペーパータオルで軽く服や髪、両手を拭うとようやく二つ目のドアをくぐる。人気の無い店内はむっとするほど暖かい。


 強酸性の雨。いつからこんなものが降るようになったのか。もう何年も世の中はSDGsだとかしましい。なのに。

 いや、どうしてこうなったのか、それは気候変動問題の素人であるわたしにも明らかなことだった。自然界の変化に対して、世界はなーんにもしてこなかったのだ。

 これまで、幾つもの国々がブロックを作り、そうしてできた複数のブロックそれぞれが自分たちに有利なルールを作ると、それを自分たち以外に押し付けようとしてきた。そうすることによって、気候変動対策に必要な資金を捻出しようとしたのだ。そんなこと上手くいくはずがない。

 国同士で行われる足下のすくい合い。気候変動への対策は遅々として進まなかった。そうした中、一部の若者たちが行動をおこした。しかしそれもなーんにも役に立たなかった。だって当たり前だろう。名画にペンキを浴びせて見せても、そんなことをした連中の主張に誰が耳を傾けると言うのか。過激な行動に共感する人々はごく一部で、しかも彼らには世界を変える力など無かった。むしろ大多数の反感を買うばかりだったのだ。

 確かに、過激な行動によって社会が変わってきた歴史はある。しかしそれは、その過激な行動に共感する人々がたくさんいた時代の話しだ。過激な行動を支持してしまうほどに皆が圧制に苦しんでいた時代の話しなのだ。

 今や大気は荒れ果て、気温は上がり、強酸性の雨が降る。しかし、そんな時代になってもなお、富める国の政府はその国の国民に対して安穏とした生活を送らせるほどに機能していた。一部の過激な行動でその他大勢が動く頃にはもう手遅れなのだ。もしそうなったら、政府はあっと言う間に瓦解してしまうだろう。あちこちで殺し合いが起きる。水や食料を求めて隣人同士で殺し合うのだ。気候変動対策どころではなくなる。その日はもうすぐそこまで来ているに違いない。


「はあ……」

 一つ溜息を吐くとわたしはアイスクリーム売り場に向かう。

 今、わたしは煮詰まっている。煮詰まっているときは時事問題についてあれこれと脳内で自論を開陳してしまうのだ。こんなときにはアイスクリームに限る。

 大きな冷凍庫から好みのアイスを二つ取り出すとわたしは無人レジに向かう。そこには大中小と三種類の大きさのレジ袋が並んでいて、その中から小サイズを一つ取ってアイスを入れる。スプーンはいらない。SDGsだ。

 あ、それとマスクとゴーグル、傘を買わねば。雨具売り場に向かう。そこに陳列されているものから適当に抜き出すと包装を解き、すぐに使える状態にしてからわたしはコンビニを出た。


 *


 朝だ。わたしはベッドに横たわったまま伸びをする。

「うーん!」

 今日の予定を思い浮かべる。洗濯も掃除も昨日に済ませた。今日は一日、執筆にあてよう。ベッドから出たわたしは朝食を済ませ、身繕いを終えるとパソコンに向かった。


「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。


 まず最初の文章をエディターに入力する。これがわたし、神崎涼子の応募しようと考えている「第三回日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」略して「さなコン3」の課題文なのだ。この書き出しで一万文字以内のSF短編を書かねばならない。締め切りまではあと一月弱だ。

 書く内容は決めてある。メタSFだ。冒頭部分は昨夜、メモに殴り書きした。舞台は酸性雨の降る近未来だ。その世界の日本で開催される「第二十五回日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」略して「さなコン25」に応募する「わたし」の物語り。

 展開はこうだ。その世界の「わたし」は一人孤独に作品と向かい合う。衣食住は政府が保障してくれていた。人々は働くことなく自動プラント群の生み出す食料や様々な製品を利用することができた。そんな世界では革命など起きない。だからこそ、気候変動は放置され、強酸性の雨が降るようにまでなったのだ。

 しかしその世界にも終わりが近づいていた。自動プラント群に故障が頻発するようになったのだ。今までならその故障さえプラント自身が修理していた。だが、多発する故障に修理が追い付かなくなり、まず贅沢品の供給に支障が出始める。それに少し遅れて消耗品。そして最後は食料品。人々は水と食料を求めて殺し合う。そんな中、「わたし」は執筆を続けるのだ。「さなコン25」に応募するために。


 うむ、なんとかなりそうだ。しかしこのストーリーを一万文字程度におさめることはできるのだろうか?

 とりあえず書き進めよう。わたしはキーボードを叩き始める。慎重に。書いては戻り、戻っては書き直し。一気に何千文字もは書けない。わたしはもともと文章を書くのが苦手なのだ。てにをはの適切な使い分けさえ心もとない。だから何度も見直し、そして書き直す。そんな書き方しかできないのだ。


「ふーっ」

 キーボードを叩き始めてから四時間が経過した。そろそろ昼食にしよう。立ち上がり、廊下にある小さなキッチンに行く。そこには備え付けの冷蔵庫があった。中には配給された食料と飲料が入っている。まず冷凍室を開けて冷凍食品を一つ取り出す。今日は海老ドリアにしよう。それを冷蔵庫の上の電子レンジにセットする。スイッチオン。レンジが微かな作動音をたてている間に冷蔵室からトマトジュースを出してグラスに注ぐ。

「チン!」

 レンジのドアを開けて熱々のドリアを取り出す。それをお盆にのせ、グラスのトマトジュースものせてリビングのテーブルに向かう。座布団に座ってふーふーしながらドリアを味わう。うん、美味しい!

 政府からの配給は便利だ。種類も豊富で飽きることが無い。リクエストもできる。そしてなにより働く必要がない。配給品は無料で届けられるのだ。医療も教育も無料。現金が廃止されて久しい。それでも買い物はできる。近くの無人コンビニで。わたしもたまに利用する。気分転換にちょうどいいのだ。


 昼食を終えたわたしは少し仮眠をとってから再び作品と向き合う。書いては戻り、戻っては書き直し。夕刻になる頃にはおよそ三千六百文字まで書きあがった。目標の一万文字まではあと六千四百文字。うーん、なんとかなるかな?

 気づくと窓の外が暗くなっていた。まだ陽の落ちる時刻じゃない。これは予報にあった雷雲だ。そう気づいた途端、雷が鳴り響いた。やがて雨が窓を叩き始める。強酸性の雨が。


 *


 アイスクリームを一つ食べ終えたわたしはパソコンに向かう。いいアイデアが浮かんだのだ。書き出しの文章に続けてエディターに入力してゆく。内容はメタSFだ。しかも、そのメタSFの中でメタSFが書かれる。主人公はわたし、神崎涼子。うん、中々いい感じだ。


「ふーっ」

 書き始めて二時間ほど経っただろうか。わたしはキーボードを叩く手を止めた。タスクトレイを見る。時刻は午前三時。そろそろ深夜ニュースの流れ始める時刻だ。わたしは壁掛けテレビに命じる。

「テレビの電源をオン」

 テレビが点いた。

「チャンネル4」

 チャンネルが切り替わる。ニュースが流れ始めた。合成画像のアナウンサーが語る。

「政府の配給計画に若干の遅れが出ています。ですが心配はいりません。自動プラント群は問題なく稼働しています」

 そこで一呼吸。

「続いて次のニュースです。過激な環境保護団体スナップエンドウの構成員が四名、国立中央美術館に侵入しようとして拘束されました。構成員らの持ち物からは食紅のチューブが見つかりました。警察関係者によると、構成員らはそれを美術館の展示物に擦り付ける計画だったようです。」

 テレビには拘束され連行される四名の男女の姿が映し出されていた。皆雨合羽を被っている。背景は黒ずんだ外壁がむき出しの国立中央美術館だ。

「テレビの電源をオフ」

 わたしはテレビを消した。残りのアイスクリームを食べよう。


 朝になった。朝食を摂って身繕いをする。そして続きを書き始めるのだ。「さなコン25」応募作の。

 何時間書き続けただろうか。お腹が減って我に返った。キッチンの冷蔵庫からサンドウィッチと牛乳を取り出す。あれ? 今日の配給はまだだっけ? 冷蔵庫に随分スペースがある。まあいい。多少配給が遅れてもお米がある。お腹が減ったらご飯を炊けばいいのだ。ふりかけだってあるし。

 サンドウィッチと牛乳で昼食を済ませたわたしはベッドに横たわった。さすがに疲れた。寝よう。


 *


 午前零時。「さなコン3」の応募作はまだ完成しない。文字数は四千六百文字。一万文字まであと五千四百文字もある。いや、五千四百文字しかないのか?

 物語世界ではいよいよ不穏な動きが出始める。配給が滞り出すのだ。しかし主人公である「わたし」は気にしない。危機が迫っているのにそれを通常の動きだと認識している。危険を察知できないのだ。

 疲れた……

 もう寝よう。わたしはシャワーを浴び、着替えてベッドに横たわる。リフレッシュしたはずなのに頭は熱を帯びていた。物語世界から抜け出せないのだ。ベッドサイドの物入れから薬袋を取り出し、そこから青い錠剤を二つ手に取ると唾液だけで飲み下す。眠気はすぐにやって来た。まるでライトのスイッチを切るように、唐突にわたしは眠りに落ちた。


 *


 窓を激しくたたく雨音でわたしは目覚めた。雷鳴が轟いている。酸性雨だ。またあの強酸性の雨が降っているのだ。

 わたしは起き上がるとパソコンに向かう。タッチスクリーンに触れる。画面が点いた。タスクトレイの時計は午前四時。小腹が空いた。冷蔵庫を開ける。冷蔵室にはミネラルウォーターしかなかった。冷凍室の冷凍食品を温めて食べるほど空腹ではない。しょうがない。わたしはミネラルウォーターを取り出す。キャップを開けて一口含むとデスクに着く。応募作の続きを書かなくては。キーボードに手を置く。書けない……

 ここまでは次々と場面を切り替えて、それなりに読者を引き込める展開には出来たと思っている。しかし、これ以上同じ展開を続けても惰性で文字数が増えるだけだ。そんなもの誰も読まない。わたしはミネラルウォーターのボトルをあおる。一気に飲もうとしたその時だった。ガチャリと大きな音がした。びくりと頭より身体が先に反応する。続けて激しくせき込む声。玄関からだ。

「涼子!」

 突然名前を呼ばれてわたしの身体が強張る。声が出ない。侵入者だ。しかもわたしを知っている。

「涼子……」

 廊下とリビングを隔てるすりガラスのドアに人影が写る。ドアが開かれた。びしょ濡れの青年が姿を現す。

「い……郁実君……?」

 入って来た人物にわたしは見覚えがあった。


 突然現れた侵入者は高校時代の同級生、斎藤郁実だった。わたしの初恋の相手だ。しかしそれも過去のことで、別れてから何年も経っている。ずいぶん前に彼が環境保護団体に入ったと噂で聞いたが、それっきりだった。そんな彼が突然わたしの部屋にやってきた。びしょ濡れで。明らかに不審だ。警察に通報しなきゃ。でも、どうやって?

 そうだ。わたしは思いつく。タオルで服を拭っている彼に言う。

「身体が冷えているだろうからシャワーを浴びるといいよ。入っている間にバスタオルを用意しておくから。服はバスルームの外に置いておいて。中和剤をかけておくから」

「そうかい? ありがとう」

「じゃあここは閉めるよ」

 わたしは廊下とリビングを隔てるドアを閉めた。やがて、シャワーを使う水音が聞こえてきた。わたしは手首の電話を起動する。緊急通報を指定。意外に冷静な自分に驚く。

「もしもし」

「はい、中央警察です」

 相手はすぐに出た。わたしは小声で告げる。

「部屋に不審者がいます。助けて下さい」


 通報から三分もしないうちに数名の警官がやって来た。郁実はバスルームから裸で引っ張り出される。

「騙したな! 涼子っ!」

 簡単に制圧された。警官がわたしに訊く。

「お知り合いですか?」

「いいえ」

「連行します。お二人とも」

「え?」

 三十分後、わたしは中央警察の取調室にいた。


 薄暗い部屋で机を挟んで座るわたしと刑事。机の上のライトだけが眩しい。もう何度目だろう。刑事が訊く。

「斎藤郁実とはお知り合いですね? なぜ嘘をつかれたのですか?」

 うんざりだった。彼は過去の人だ。だからそう言ってやる。何度でも言ってやる。

「彼とは昔の知り合いです。最近は会ってません」

「それはほんとうですか?」

 刑事が身を乗り出してきた。視線が鋭い。わたしは訊き返す。

「疑われているんですか? わたし?」

「あなたの名前が環境保護団体スナップエンドウの名簿にありました」

 驚いた。そんなこと知らない。わたしは無関係だ。

「そんなの知りません! 勝手に載せられたんです!」

「だといいのですが……」

「帰してください!」

「それはできかねます」

「どうして?」

「あなたがスナップエンドウとは無関係だとわかるまで帰すわけにはいきません」

 わたしは焦る。そんなこと、どうやって証明すればいいのか?

「関係無いです!」

 わたしは必死になる。

「小説を書いているんです! 締め切りまでもういくらもないんです! だから早く帰して!」

 すると刑事が目ざとく訊いてくる。

「あなたは小説家なんですか?」

 わたしは狼狽える。違う。小説はわたしの趣味だ。答えあぐねていると刑事がもう一度訊いてくる。

「どんな小説を書かれているんです?」

 鋭い視線に射すくめられる。わたしは怯えながら答える。

「……SFです……コンテストがあるんです……」

「コンテスト?」

 問いかけるような刑事の視線。わたしは懇願する。

「コンテストに応募する作品を書いてるんです。締め切りまであと一月もないんです。だからお願いです。早く帰してください」

「ほう」

 刑事が微笑を浮かべた。

 やっと通じた。理解してもらえた。これで帰れる。そう思った時だった。

 バンッ!

 大きな音だった。刑事が両手で机を叩いたのだ。わたしはすくみ上がる。

「ふざけたことを言うな! 何様のつもりだ!」

 刑事が立ち上がる。わたしの胸倉をつかんで吐き捨てる。

「今日は泊まりだ。吐くまで帰さんからそう思え」


 何時間尋問されたのだろうか。取調室から連れ出されたときには意識が朦朧としていた。独房に入れられ、鉄格子が閉じられた途端、膝から力が抜ける。わたしは床に倒れ込む。起き上がる気力も無かった。足元には食事らしきものが置かれている。食欲など無い。

 ああ、どうしてこんなことになったのだろう……

 斎藤郁実、あいつさえ部屋にこなければ……

 どうしてあいつはわたしの部屋にやってきたのだろうか?

 どうしてスナップエンドウの名簿にわたしの名前があったのだろう?

 何もかもわからない。考えたくない。いや、考えねば。ここから出なければならない。「さなコン」の締め切りがあるのだ。

 あれ?

 締め切り……「さなコン3」のだっけか? それとも「さなコン25」かな? あれ?

 わからない。わたしはどちらのコンテストに向けて書いている「わたし」なのか?

 「わたし」は這うように起き上がり、四つん這いになる。頭を抱える。

 「わたし」は誰なんだ?

 どちらの世界の「わたし」なんだ?

 必死で考える。必死で。しかし考えれば考えるほどますますわからなくなってくる。「わたし」は叫んでいた。

「ああああああ―っ!」

 足音。

「どうしたっ!」

 電子音。ガチャリと言う音。その途端、轟音が響いた。

 あっけにとられたわたしは叫ぶのを止める。耳がキーンと鳴っている。壁の一部が崩れていた。真っ黒な何かが崩れた壁の向こうに見えている。耳を聾する金属音が響いていることに気づいた。耳鳴りじゃない。わたしは独房を見回す。いつの間にか横に警官がいた。床に伏せている。起き上がる。中腰で銃を構える。真っ黒な何かに向けて発砲する。

 警官が発砲できたのは二発までだった。何かに撃たれたように彼は倒れる。階下から次々にやってきた警官たちも同じだった。

 真っ黒な何かがこちらに向かって開いた。ドアだ。その向こうから雨合羽を着た男女がやってくる。彼らはわたしを抱え上げ、何かの中に連れ込もうとする。わたしはそれを拒もうとしたが身体に力が入らない。なすがまま黒い何かの中に連れ込まれる。座席のようなものに拘束された。すると隣にドカッと腰を下ろす者がいる。彼だ。斎藤郁実。彼は自分が装着しているものと同じヘッドセットをわたしに被せる。そして言う。

「大丈夫」

 わたしは大声で問う。

「何が大丈夫なの!」

「君は自由だ」

 郁実がそう言ったとき、身体が座席に押し付けられた。上昇する感覚。

「これからフネに向かう。そこなら警察も手を出せない」

 身体が座席の右側に振られた。旋回しているのだ。そして急加速。

「これは我々が開発した垂直離着陸機、VTOLなんだ。最初からこれで君を迎えに来ればよかった」

「あなた……一体……?」

「ぼくはスナップエンドウの構成員だよ」

「スナップエンドウ! 貴方たちのせいでわたしは!」

「僕たちのせいじゃない」

「だって名簿にわたしの名前が!」

「それは着いたら説明する」

「説明って? 何を説明すると言うの!」

 タービン音を轟かせ、わたしたちを乗せたVTOLは飛び続けた。


 どれくらい時間が経ったのだろうか。VTOLは旋回しながら降下してゆく。隣の郁実がわたしの手を握った。

「大丈夫」

 VTOLが静止した。ゆっくりと降りてゆく。やがてずーんと沈み込む感覚。座席の後ろでドアが開いた。タービン音が低くなってゆく。郁実が立ち上がる。ヘッドセットを外し、わたしの拘束を解いてくれる。

「降りて」

 わたしはふらふらと立ち上がる。開いているドアからタラップを降りる。夜だ。しかしそこは光に溢れていた。巨大な艦の後部甲板だ。何人もの男女が忙しそうに動き回っている。フラッシュライト。鳴り響くホイッスルの音。スピーカーから飛び交う様々な指示。その中を艦内へと案内される。会議室のような部屋に通された。部屋の中央には頑強そうなテーブルがあった。そのまわりに並ぶ白い制服を着た男女。中央の高齢の女性だけが座っていた。その彼女に向けて、わたしを案内してきた郁実が敬礼する。

「神崎涼子さんをお連れしました」

「ご苦労でした」

 高齢の女性が言った。郁実が再度敬礼して部屋から出てゆく。

「ちょっ、ちょっと!」

 わたしは郁実を呼び止める。しかし彼はわたしを一瞥しただけで出て行った。

「お座りください。簡潔にご説明します」

 高齢の女性がわたしの前の椅子を手で示した。それに従う。彼女が名乗る。

「わたしはこのフネの代表をしています。水神令子と言います」

 水神代表は続ける。

「今から二十二年前、世界のどこかで何者かによって事象駆動装置が起動されました。そしてわたしたちは取り込まれた。あなたの作品世界に。起動した誰かがあなたの作品を装置に入力したのです。その作品は未完成だった。だから、ここから脱出する方法はただ一つ。あなたが正しく物語りを完成させること。チャンスはあと三回です。それ以上は装置の電源がもたない」

 何が何だかわからない。わたしは訊く。

「事象駆動装置ってなんですか?」

「世界を記述する装置です」

「世界を記述?」

「そう。この世界は事象駆動装置によって記述された通りに存在する」

 やっぱりわからない。仮にそんな装置があったとして、そんなのわたしには関係ない。わたしは腕を組む。防衛姿勢だ。こんな話し、誰が信じる。

「端末を彼女に」

 水神代表が指示すると一番近くに立っていた女性がわたしの前にタブレット端末を置いた。

「読んでみて下さい」

 わたしはタブレット端末を手に取る。そこには物語りが表示されていた。冒頭があの文言で始まる物語りが。これはわたしの書いた小説だ。引き込まれるようにわたしは読み進める。そして知るのだ。ここに書かれていることこそ、いまこの場面までの現実だと。トリックでこんなことはできない。確かに、わたしがパソコンに入力した部分はハッキングで手に入れることができるだろう。しかし現実に経験した出来事まで、たった今の出来事まで記述することなど不可能だ。

「……こんな……」

「それが事象駆動装置の端末です。それで制御できます。現実を」

 その時、爆発音がして床が揺れた。部屋の照明が暗赤色に変る。制服姿の男女が中央の水神代表を抱え上げ、そのまま部屋から出てゆく。それと入れ替わりに彼がやって来た。斎藤郁実が。天井のスピーカーか告げる。

「本艦に対艦ミサイルが命中。浸水を止められない。総員退艦。繰り返す。総員退艦……」

 郁実が言う。

「逃げるよ」

「どこへ?」

「とにかく甲板に出る」


 わたしは郁実に連れられて甲板に出た。そこには大勢の男女がいた。その男女の上に雨が降っている。強酸性の雨が。足下が傾き始める。わたしは感じる。今、この艦は沈もうとしているのだ。

 わたしと郁実が茫然と立ち尽くしていると制服姿の男女に支えられた水神代表がやってきた。手にタブレット端末を持っている。それをわたしに差し出すと言う。

「書き直すのです。世界を」

 わたしはタブレット端末を受け取る。酸性雨の降りしきるなか、エディターアプリを起動し、これまでに書き上げた文章を呼び出す。全選択。削除。

 しかし操作ミスからか、一つの文章だけが削除できずに残ってしまった。反転表示されたその一文が明滅する。酸性雨で痛む目を無理やりに開けてわたしはその一文を読んだ。


「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。

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