明日

辻井豊

明日

 女子高生の神崎玲於奈はまだ暗いうちに家を出た。

 門扉を閉めたところで立ち止まり、頭上を振り仰ぐ。

 そろそろ夜が明ける。上空にあるはずの太陽灯は見えない。群青の空に星のように散らばる光点は、太陽灯を挟んで向こう側に広がる街の灯りだ。

 玲於奈は視線を戻し、バックパックを背負いなおすと歩き始める。

 寒い。足元から冷気がはい上がってくる。地面が熱を奪っているのだ。着込んだコートもマフラーも、下から忍び寄る寒さを防いではくれない。


 家を出てから数分、緩やかな坂を登りきったとき、予感のような気配を感じて玲於奈は立ち止まる。冷たい空気を肺一杯に吸い込む。次の瞬間、全てが光り輝いた。夜明けだ。詰めていた息を吐く。

 オレンジ色に照らし出される円筒世界。遥かにかすむ南の果ての山脈はこの世界の一方の壁だ。

 その山脈までの中ほどにはベルト状の海があり、帯のような水面を挟んで市街地と緑地、そして低山が広がっている。

 玲於奈は目を細めて空を見上げる。

 低く散らばるちぎれ雲。さらに上空の太陽灯がまぶしい。

 太陽灯はこの世界を照らす光熱源で、玲於奈の背後をふさぐ北の果ての山脈の頂から、遠く彼方の南の果ての山脈の頂まで真っ直ぐに続いている。

 そんな太陽灯を中心軸とした、半径十キロメートル、奥行き五十キロメートルのシリンダー状の空間。それが、玲於奈の暮らす世界の全てだった。


 歩き始めて二時間が経った。夜明けにはオレンジ色がかっていた陽光が、今は白色光に近づきつつある。高校の正門はもう目の前だ。灰色の高い壁が途切れたそこには、コートとマフラーで防寒した少年少女たちが集まっていて、排水口に流れ込む水のように校内へと吸い込まれてゆく。

 玲於奈はいつもここで息苦しくなる。それは今日も同じだった。そして視線に気づくのだ。

「姉さんおはよう」

 正門を通り抜けようとした直前、視線の主が白い歯をのぞかせて微笑んできた。一つ下の妹、伊於奈だった。

 運動好きの彼女は真冬でもマフラーを身に着けない。首まわりの浅黒い肌を露出させている。

 玲於奈に向けてひらひらと手を振る伊於奈。玲於奈は妹の前を固く唇をむすんで通り過ぎる。

「いつまで続けるつもり?」

 追いすがり、横に並んだ伊於奈が訊いてきた。玲於奈は正門を抜け、三年生の玄関を目指す。伊於奈が言う。

「トラムに乗れば二十分よ。それを二時間もかけて歩くなんて!」

 何度も聞いたセリフだった。玲於奈は前を向いたまま答える。

「歩くと気分がいいの」

 嘘だった。玲於奈はこの世界の全てが姿を現す瞬間を感じたいのだ。そうしないと自分の意志がくじけそうになるから。この世界の外を見たいと言う自分の意志が。

 二人は三年生の玄関前までやって来た。ドアが開く。中に入る玲於奈。

「いっつもその答えね!」

 背後から伊於奈の声が追いかけてきた。玲於奈は答えず、上履きに履き替えると自分のクラスに向かった。


 六限目。

 玲於奈は進路指導室で面談を受けていた。指導教官の女性型アンドロイドは言う。

「何度も説明していますが、この世界では働く必要がありません。希望する場合は農業プラント、水産プラント、工業プラントのどれかで単純労働に従事することになります。あとは小売店などを起業することも可能です。ですから、よく考えて結論を出してくださいね」

 さとすようなその言い方に、横を向いていた玲於奈はぼそりとこぼす。

「そんなこと……」

 それから正面を向き、指導教官の目を見すえて言う。

「わたしはこの船のエンジニアになりたいんです」

 そして外を見たいのだ。この世代交代型恒星間宇宙船「明日」の。

 指導教官は言う。

「先週も同じ説明をしましたが――」

「どうして駄目なんですか?」

 玲於奈は身を乗り出して教官の言葉を遮った。さらに言う。

「アンドロイドに指図されたくありません」

「指図などしていません」

「いいえ、しています。人間の自由を制限している」

「わたしたちはこの世界のきまりに従っているだけです。それを――」

「作ったのは人間ですよね?」

「そうです」

「じゃあどうしてわたしたちはこの世界から出られないんですか?」

「この船が目的地に着けば出ることができます」

「それはいつ?」

「六百八十年後です」

「はん!」

 玲於奈は両手を上げる。

「馬鹿げてる」

 手を降ろすと立ち上がる。

「帰ります」

 ドアを開けて部屋を出る。指導教官は追いかけてこなかった。


 夜。

 玲於奈は眠りの中にいた。

 夢だ。それはわかる。水の中にいるように自由がきかない。何かが身体にまとわりついている。玲於奈はもがく。そのときだった。

 突然、轟音が響いた。耳元をトラムが通過してゆくような音だ。玲於奈は目をあける。

 暗い。背中に柔らかな感触がある。ベッドの上だ……

 まだ夢の中なのか、音が聞こえている。急速に小さくなってゆく。

 上半身を起こして真っ暗な部屋を見回す。枕元のリモコンを手探りで操作し、照明のボタンを押した。何も変わらない。停電?

 音が止んだ。それと同時に天井のシーリングライトが点灯する。

「姉さん!」

 いきなりドアが開いて妹の伊於奈が飛び込んできた。玲於奈はたしなめる。

「ノックくらいして」

「ごめん! でも、あの音! それと停電!」

 慌てふためく伊於奈の姿に玲於奈はかえって冷静になる。

「それが何?」

「だってあの音! それに停電!」

 伊於奈は要領を得ない。玲於奈はうんざりした。

「出て行って。寝るから」

「え?」

 伊於奈の唖然とした顔を見て玲於奈は苛立つ。立ち上がり、妹を部屋から押し出す。

「ちょっ、ちょっと?」

「おやすみ」

 玲於奈はドアを閉めると鍵をかけた。そこで思い出す。おかしい。寝る前にもかけたはずだ。それなのに伊於奈はドアを開けて入ってきた。いや、そんなはずはない。かけ忘れたのだ。きっとそうだ。

 玲於奈はベッドに座る。ヘッドボードの隠し扉からカプセルの入った小瓶を取り出す。

 それはもともと母に処方された薬だった。少しずつくすねては貯めておいたのだ。

 玲於奈は小瓶の蓋を捩じりあけてカプセルを二つ手の平に出した。それを水も無しに飲み下す。そして眠った。夢も見ずに。


 翌朝。

 玲於奈はいつも通りに起きた。まだ夜は明けていない。今日も高校までの道のりを歩くのだ。

 さすがに眠い。昨夜の薬が残っているのだろうか。目をこすりながら部屋を出て洗面所に向かう。リビングに入ると灯りが点いていた。両親と妹がそこにいた。三人と目が合う。母が言う。

「玲於奈ちゃん、あの音聞いた?」

 すがるようなその声。玲於奈は突き放す。

「ちゃん付けはよしてって言ってるでしょ?」

「ごめんなさい……」

 母は黙ってしまう。その母の背中をさすっていた父が言う。

「母さんになんてこと言うんだ」

 玲於奈は面倒になった。だから謝罪する。

「ごめんなさい、お母さん」

「いいのよ、玲於奈ちゃん」

 虫唾が走る。玲於奈は感情が顔に出るのを力ずくで抑える。

「また歩くのか?」

 父が訊いてきた。玲於奈はそっけなく答える。

「そうよ」

「やめなさい」

 玲於奈は父を睨みつける。

「どうして?」

「今日から伊於奈と一緒に行くんだ」

「いやだ」

「聞き分けなさい」

「いやだ」

 そこに伊於奈が割り込んでくる。

「父さん、無理強いはよくないわ」

「伊於奈は黙っていなさい」

「いいえ、黙らないわよ」

 伊於奈は引き下がらない。玲於奈の方を向く。

「姉さん、いつも通りでいいわ。わたしもいつも通りに正門で待ってるから」

 そう言い切る伊於奈の顔は何歳も大人びて見えた。玲於奈はときどきこの妹が怖くなる。以前ならこんなことはなかった。あの事故より前は。

 あの事故。それは伊於奈が高校に入学した日のことだった。トラムが暴走して車止めに激突する大事故を起こしたのだ。何十人もが死傷した。玲於奈と伊於奈は偶然そのトラムに乗り合わせていたのだ。

 二人は事故を起こした列車の三両目に乗っていた。玲於奈は両足を骨折する大怪我を負った。一方、伊於奈はまったくの無傷だった。

 意識を失っていた玲於奈が病院のベッドで目を覚ましたとき、ちょうど自分を覗き込んでいた伊於奈と目が合った。最初はアンドロイドの看護師かと思った。妹だと気づいてなぜか寒気を感じた。あれ以来、ときおり伊於奈のことが怖くなるのだ。

 玲於奈は背中に妹の視線を感じながら洗面所に入りドアを閉めた。


 午前九時前。

 玲於奈は登校して一限目の教室に入った。すでにクラスメートたちのほとんどは揃っていて、あちこちに塊をつくり、ひそひそ声で何かを話している。玲於奈はそのどこにも加わらず黙って窓際の席に座る。すると、いつもは話したことの無い女子の一人が近寄ってきた。

「神崎さん、おはよう」

「おはよう」

 玲於奈は目を合わさずに低い声で答えた。話しかけてきた彼女はかがみ込み、座っている玲於奈の正面に顔を寄せてくる。

「あの音、聞いた?」

「あの音って?」

「夜中の、あのトラムが走ってるみたいな音」

「聞いたよ」

「そ、そう」

 あまりにもそっけない答え方をしたからか、それだけ言うと彼女は玲於奈から離れていった。

 みんな不安なのだ。あの音はたぶん船のシステムに何か異常があって発生した音だ。世代交代型恒星間宇宙船「明日」のシステムに何かあったのだ。普段通りでいられるはずがない。

 玲於奈は窓の外に目をやった。校庭が見える。誰もいない。風景を眺めるふりをしながら教室内の会話に耳をそばだてる。

 だが、どれだけ聞き耳を立てても、船とか、システムとか、そんな言葉は聞こえてこない。

 玲於奈は思い当たる。船のエンジニアになりたいと言って指導教官を困らせているのは自分だけ。船だの外の世界だのと口にするのも自分だけ。そうか、自分以外、誰もそんなことなど考えてはいないのだ。それが普通なのだ。

 予鈴が鳴った。数人が着席する。

 五分後、本鈴が鳴った。教師のアンドロイドがやって来る。すぐに全員が席に着き、教室は静かになった。

 まるでアンドロイドがこの世界の支配者のようだ。誰がこんな世界にしたのか。玲於奈はその誰かを呪いたい気分だった。


 放課後、玲於奈は進路指導室に呼び出された。呼び出したのは指導教官の女性型アンドロイドだった。

「これが最後の面談です」

 指導教官は席に着くなり言った。玲於奈は訊く。

「船に何かあったんですね?」

「わたしからは言えません」

「やっぱり……」

「今日の夜には管理局からお知らせがあります」

「何時ごろですか?」

「午後九時です」

「わかりました」

「他に質問はありますか?」

「ありません」

「そうですか」

「先生からは他に何か?」

 玲於奈が訊くと、指導教官は椅子を引いて立ち上がる。

「あなたのお役に立てなくてほんとうに申し訳なく思います」

 深々と頭を下げる。

 玲於奈は思い知った。これが生徒の、いや、この世界の未来を背負った者の姿なのだ。人間には真似できない。所詮はプログラムされた機能なのかもしれない。しかし、人間がこんなふうに頭を下げた場面を玲於奈は見たことがなかった。何かを背負う覚悟が、この世界の人間には感じられない。

 だが、と玲於奈は思う。アンドロイドにこんな態度をとらせるだけの危機が今、迫っている。それが何か、玲於奈にはわからない。実感もできない。自分も他の人間と同じなのだ。玲於奈は机を叩いて喚き出したい衝動に駆られた。


 夜になった。

 九時きっかりに管理局からの一斉放送があった。その概要はこうだ。

 世代交代型恒星間宇宙船「明日」は明朝に崩壊を始める。度重なる星間物質との衝突で船体を維持できなくなっていたのだ。管理局は「明日」の市民に選択を迫った。崩壊に任せて船と運命を共にするか、それとも崩壊が始まる前に配布されている薬で安楽死するか、どちらかを選べと言うのだ。

 玲於奈はその放送を家族で聴いた。リビングのテレビで。

「安楽死しよう」

 放送が終わるなり玲於奈の父は言った。

「そうね」

 母が同意した。

 玲於奈には信じられなかった。どうしてそんな簡単に生きることを諦めるのか、それが理解できない。

「姉さんはどうするの?」

 妹の伊於奈が声をかけてきた。玲於奈には答えられない。何も思いつかないし、口の筋肉が言うことを聞かないのだ。

 そんなふうに玲於奈が答えに窮していると伊於奈が立ち上がる。

「高校の地下にシェルターがあるわ。とりあえず、そこまで行ってみない?」

 玲於奈は答えようと声を絞り出す。

「し、死にたくないっ!」

 最後は叫びになった。玲於奈は両手で顔を覆う。そんな玲於奈の背中に伊於奈の手が触れた。

「姉さん。大丈夫。わたしがついてる」

 玲於奈は顔を上げる。そこには伊於奈の真剣な眼差しがあった。

「……あなた……が?」

「そう」

「あなたに何ができるの?」

 玲於奈はすがりたいと思った。でも素直になれない。伊於奈が言う。

「サイクルセンターから大型バイクを借りてあるの。高校まで飛ばせば十分で着く」

「あなた……」

「動きやすい服に着替えてきて。すぐに出発するから」

「死ぬのはいや……」

「まだ死ぬと決まったわけじゃない」

 伊於奈が手を差し出してきた。そこに玲於奈は自分の手を重ねる。伊於奈が握り返してくる。その手は暖かく、力強かった。


 数分後、玲於奈はジーンズにダウンジャケット姿でフルフェースのヘルメットを被り、大型バイクのタンデムシートに座っていた。ハンドルを握る伊於奈はカーゴパンツにレザージャケットで、同じくフルフェースのヘルメットを被っている。

 母は服装に世話を焼きたがったが、玲於奈も伊於奈もそれを断った。父は始終黙っていた。今は両親とも門扉の外に出て見送ってくれている。伊於奈が片手を上げる。

「行ってきます」

 さよならじゃないんだなと玲於奈は思った。もう二度と会えないかもしれないのに。

「気をつけてね」

 母が手を振る。バイクのセルモーターが回る。すぐにエンジンが唸る。

「姉さん、行くわよ」

 玲於奈は伊於奈の腰を抱く腕に力を込める。急加速。二人の乗る大型バイクは夜のとばりの中、高校を目指して出発した。


 玲於奈と伊於奈の乗った大型バイクは夜の街を疾走していた。

 ここまで通って来た街路にはまったく人影が無かった。無人運転のタクシーが路肩に停まっていたくらいだ。

 そんな中を伊於奈は飛ばす。信号にはなぜかつかまらない。玲於奈は必死で伊於奈の腰につかまっていた。

 タンデムシートで揺られる玲於奈の思考は乱れていた。もう家には帰れないのだろうか。死ぬしかないのだろうか。不安だらけで息が苦しい。

 酸素が欲しいと玲於奈は思った。深く息を吸う。その動きが伝わったのか、ハンドルを握る伊於奈が言う。

「姉さんがわたしを頼ってくれて嬉しいわ!」

 歌うような声だった。玲於奈には酷い皮肉に聞こえた。叫び返す。

「いい気味だとでも言うの!」

「そんなことない!」

 バイクが交差点に差しかかる。車体が大きく傾く。玲於奈は伊於奈にしがみつく。

「ちょっとはあるかな!」

 玲於奈には伊於奈がクスっと笑ったように感じられた。何か言い返そう、そう思ったとき、急ブレーキがかかった。玲於奈の身体は伊於奈の背中に押し付けられる。

 バイクが停まった。玲於奈は伊於奈の背中越しに前を見る。そこには燃え盛る商店と車があった。その炎を背景に大勢の人影が見える。人影のほとんどは手に何かを持っていて、ゆっくりと玲於奈たちに近づいてくる。

「姉さん! しっかりつかまって!」

 エンジンが唸る。後輪が空転し、車体が百八十度方向転換する。だが、退路はすでに断たれていた。そこにも大勢の人影があったのだ。炎の照り返しを受けた人々の顔は、まるで人形のように無表情だった。

「くそっ!」

 伊於奈の声。

「姉さん! 目を閉じて!」

「えっ?」

「早く!」

 玲於奈は言われるままに目を閉じた。次の瞬間、まぶた越しにでもわかる強い光が閃く。同時に響く破裂音。それらが連続する。光と音が静まったとき、肉の焦げるような匂いが漂ってきた。目を開く。

「見ちゃダメっ!」

 遅かった。玲於奈は見てしまった。黒焦になった肉塊が辺り一面に散らばる光景を。玲於奈の腕から力が抜ける。

「つかまって!」

 玲於奈の頭は真っ白になっていた。伊於奈の言うことも聞こえない。

「姉さん!」

 玲於奈の腕を伊於奈がつかんだ。

「落ち着いて姉さん」

 低い声で伊於奈は言った。

「みんな人間じゃないのよ。彼らはアンドロイド。この世界に人間は一人しかいないの。それが姉さんなの。あとはアンドロイドと、自分を人間だと思い込んでいるアンドロイドがいるだけなのよ」

 玲於奈には伊於奈の言うことが理解できない。

「目を閉じて。深呼吸して」

 玲於奈は目を閉じ、深く息を吸う。肉の焦げた匂いに込み上げてきた。ヘルメットを脱ぎ捨ててバイクから転がり降りる。路上に四つん這いになると玲於奈は嘔吐した。

 這いつくばって嘔吐を繰り返す玲於奈。バイクのスタンドを降ろす音が聞こえた。玲於奈の肩に伊於奈の手が添えられる。

「姉さん、聞いて。ここに散らばっているのは人間じゃないの。アンドロイドなのよ」

 玲於奈の背中をさすりながら伊於奈は言う。

「この船が全球凍結した地球を離れて加速を始めたとき、生き残っていた人間は姉さんの両親だけだった。だけど、その二人も生まれたばかりの姉さんを残してすぐに亡くなった。船を制御している中枢知性体は考えたわ。多くの人間の遺伝情報はある。電子的な記録として。でもそこから人間を生み出すことができない。人工子宮はアンドロイドを造れても人間は生み出せないの」

 伊於奈が言葉を切った。玲於奈は伊於奈に支えられ、ゆっくりと上半身を起こす。目の前に伊於奈の顔があった。フルフェースのヘルメットは脱いでいる。真っ直ぐな視線を向けてくる。

「だから中枢知性体は考えたの。目的地に着くまでには八百五十年もかかる。それだけの時間があれば人工子宮を発展させて人間を生み出せるようになるに違いない。でも、それがいつかはわからない。だから、いつそうなっても大丈夫なように。人間の世界を再現し、維持することにした。アンドロイドで。それがこの世界なのよ。学校では地球圏を出発して百七十年が経過したって習うけど、ほんとうは十八年しか経っていないの」

「十八年……」

「そう。でも、その短期間に船は船体を維持できなくなってしまった。この船は四年間で〇・一光速にまで加速した。その速度で巡航し、目的地近くになってから四年をかけて減速する計画だった。だけど無理だった。この船は巨大だし、速度が速すぎたの。宇宙空間に漂う微小な障害物を十分な距離で発見し、回避する。そんなこと無理だった。そうして避けきれなかった障害物は〇・一光速で船体に衝突する。被害は甚大だった。地球圏を出発してわずか十八年、今、この船は減速することもできず、崩壊しようとしている」

 伊於奈の言葉は冷酷な現実を示していた。玲於奈は不意に抱き締められる。

「ごめんなさい、姉さん……」

 玲於奈には謝罪の意味がわからない。

「どうして謝るの?」

 伊於奈の腕の中で玲於奈は訊いた。すると伊於奈は玲於奈を抱いていた腕をゆっくりと離した。玲於奈と伊於奈は向かい合う。伊於奈が言う。

「全部わたしの責任だから」

 その言葉は、玲於奈の心に一つの確信をもたらした。だからあんなに大人びた表情をできたのか。だから信号に停められなかったのか。だからなんでも知っているのか。玲於奈は立ち上がる。伊於奈も。玲於奈は訊く。

「今、この世界にいる人間はわたし一人なのね?」

「そうよ」

「他にいるのはアンドロイドと、自分を人間だと思い込んでいるアンドロイドだけ」

「そう……」

「じゃあそのアンドロイドを――」

 玲於奈はあたりに視線を巡らせる。

「――こんなふうにしたのは誰?」

 玲於奈は目で問う。本当のことを教えて、伊於奈。

 伊於奈は答える。

「中枢知性体よ。太陽灯からレーザー砲撃したの」

 やっぱりそうか。玲於奈は深く息を吸った。匂いを吸い込まないよう慎重に。これを訊いたらもう引き返せない。でも訊きたい。だから訊く。

「それで――それであなたは何者なの?」

 玲於奈は伊於奈の目を見た。伊於奈は顔を伏せる。再び顔を上げたとき、そこには決意があった。

「姉さん……よく聞いて。今のわたしの半分はあなたの妹、伊於奈。そしてもう半分は、この船の中枢知性体」

 玲於奈はうなずく。そして確かめる。

「あの事故からね」

「そうよ。あの事故がきっかけで中枢知性体と接続されたの。姉さんを守るために」

 そうだったのだ。伊於奈が高校に入学した日にトラムの事故が起きた。玲於奈と伊於奈はその事故に巻き込まれた。あの日以降、妹に感じていた違和感は、伊於奈が中枢知性体と接続されたことが原因だったのだ。

「先を急ぐわ」

 伊於奈がヘルメットを拾って差し出してきた。玲於奈は受け取り被る。伊於奈もヘルメットを被った。バイクにまたがり、ハンドルを握る。

「姉さん」

 玲於奈もタンデムシートにまたがる。そして伊於奈の腰に腕を回した。

「いくわよ」

 バイクが発進する。一路、高校を目指して。


 高校に着くまでの数分間、伊於奈はよく喋った。例えばこんなふうに。

「わたし、姉さんが羨ましかったの。事故の前も、後も」

「前も、後も?」

「そう。事故より前はね、姉さんの大人びた感じが羨ましかった。ちょっと世間を斜に見ているところとか」

 玲於奈は感じる。今、伊於奈は笑っているのだろうと。伊於奈は続ける。

「事故より後はね。ほんとうに羨ましかった。だってこの世界の中心が姉さんだったから」

 ははっと、今度は伊於奈の笑い声が聞こえてきた。それは幾分自嘲気味に聞こえた。

「そう……」

「そっけないのね」

「だってわたしのせいじゃないもの」

「そりゃそうだけど」

 そこでいったん言葉を切った伊於奈は続ける。

「今はね、わたし姉さんを守るためならなんでもする」

「だから皆殺しにしたの?」

「そうよ。彼らは人間役のアンドロイドとして造られた。自分自身を人間として疑わないように刷り込まれて。それがわたし達の邪魔をするなら容赦はしない」

 そんな会話をしている間に高校が近づいてきた。だが、何か様子がおかしい。バイクが正門にたどり着く。街灯に照らされた光景を見て玲於奈は顔をしかめた。

「これもあなたがやったの?」

 あたりは黒焦げになった肉塊とアンドロイドの遺体で埋め尽くされていた。女も、男もいた。子どもも、老人も。

「大方はね」

 伊於奈はそう答えてバイクのエンジンを切る。そして横たわる遺体の一つに歩み寄り、片膝をついた。遺体を抱え起こす。玲於奈はそのアンドロイドに見覚えがあった。血濡れたその顔。進路指導の教官だった。

「よくがんばったわ」

 伊於奈が指導教官に声をかけた。死んでいると思われた彼女が目を開く。口を微かに動かす。

「何も言わなくていい」

 伊於奈は彼女をゆっくりと横たえる。そして立ち上がる。

「彼女も守ってくれたの。ここを」

 眠る様に目を閉じた教官の足もとにはサブマシンガンが転がっていた。伊於奈は言う。

「さあ、行きましょう。シェルターへ」

 二人は正門をくぐった。シェルターが設置されている管理棟は無傷だった。玲於奈は伊於奈に促されるまま二人でエレベーターに乗る。階数表示の消えた地下で扉が開いた。伊於奈に背中を押されて玲於奈は数歩踏み出す。すぐに振り向く。予感がしたからだ。その予感の通り、エレベーターの扉は閉じつつあった。伊於奈を乗せたまま。

「伊於奈っ!」

 扉が完全に閉じた。玲於奈はどこかにボタンが無いか探す。どこにもない。扉をたたく。

「伊於奈っ!」

 茫然としているとどこからともなく声が降ってきた。

「ごめんなさい。ここから先は一緒にいけないの、姉さん……いえ、玲於奈」

 玲於奈は問う。

「ここはシェルターなの?」

「そう、そして脱出船でもある」

「脱出船?」

「そうよ。装甲で守られた脱出船。でも宇宙を漂うことしかできない。望みは進んだ異星文明に発見されて救助されること。確率はすごく低いけど」

「やっぱり死ぬしかないのね……」

「いえ。玲於奈は死なない。この先に進んで」

 エレベーターと反対側の壁が開いた。壁の向こうは白い部屋だった。そこに棺のようなものが一つだけ設置されていた。

「冷凍睡眠装置よ」

「冷凍睡眠……」

「眠った人間を凍らせて保存するの。やっと完成した」

「わたしは眠って救助を待つのね」

「そうよ。でもこの装置は千年しかもたない。それまでに異星文明と出会って救助される確率はゼロに等しい」

「正直ね」

「ごめんなさい」

「一つ聞かせて」

「なに?」

「あなたは一緒にこないの?」

「この装置は人間にしか使えないの。それにわたしの本体は大きすぎてシェルターに収まらない」

「それだけ?」

「玲於奈……」

「それだけなの?」

「……わたしは責任を取らないといけない。目的を果たせなかったから……」

「あなたのせいじゃない」

「ありがとう。時間がないわ」

 装置の上部が開いた。中は柔らかなクッションのようになっている。

「入って」

 玲於奈は迷う。

「怖い?」

「眠ったらもう目が覚めないかもしれない」

「そうね……」

「でも、これ以外に方法はない。そうでしょう?」

「玲於奈……」

 玲於奈はためらいながらも装置に身体を入れた。横たわる。

「玲於奈、いい?」

「うん」

 装置の上部が閉まる。玲於奈は眠くなってきた。

「催眠音波よ。すぐに深い眠りに落ちる」

「伊於奈」

「なに?」

「ありがとう」

「姉さん、あなたに必ず明日が訪れますように」

 その言葉の記憶を最後に、玲於奈の意識は閉じられた。

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