『階下から聞こえる』

ぼくしっち

階下から聞こえる(1話完結)

 夜の二時。

 陽介はベッドの上で目を覚ました。耳に届くのは、規則的な「コト…コト…」という音。

 このアパートに越してきてから、深夜になると時々聞こえてくる。最初は水道管か冷蔵庫の振動かと思ったが、音の間隔が妙に均一だ。まるで、誰かが意図的に刻んでいるように。


 ──階下の部屋は、空き家のはずだ。


 引っ越しのとき、不動産屋から聞かされた。「下の部屋は数年前から誰も借りていません」と。

 古いアパートだから音が響きやすいのかもしれない、と自分に言い聞かせ、布団を頭までかぶった。


 それでも、音は止まらない。

 コト……コト……。

 間に、小さな“呼吸”のようなものが混じる。

 ふっと、背筋を冷たい指でなぞられたような感覚が走った。



 翌日、仕事帰りに大家へそれとなく尋ねてみた。


「下の部屋、最近誰か入ったりしてませんよね?」


「いやぁ、ずっと空いてるよ。鍵も私が持ってるし、入れるはずがないんだがね」


 にこやかに笑う大家の顔に嘘はないように思えたが、その「入れるはずがない」という言葉が妙に引っかかった。



 夜。

 音は昨日よりも近い。床板のすぐ下で鳴っているような響き方だ。

 眠れず、陽介は懐中電灯を手に、そっと部屋を出た。階段を下り、階下の部屋の前に立つ。


 ……静かだ。

 さっきまで確かに聞こえていたのに、廊下に出た途端、音は消えてしまった。


 念のため、ドアノブを握ってみる。

 ──開いた。

 大家の言葉が頭をよぎる。「鍵も私が持ってる」と。

 なのに、このドアは施錠されていない。



 中は真っ暗で、湿った空気がまとわりつく。

 照らされた床には、埃が薄く積もっているのに、中央だけがきれいに拭かれている。

 そこに──四つの小さな木箱が並んでいた。


 耳を澄ますと、箱の中から「コト…コト…」と音がする。

 そして、かすかな呼吸音。

 陽介は震える手で一つの箱の蓋を開けた。


 中には、濁った目の小さな顔があった。

 顔は皮膚ごと切り取られ、湿った布に包まれている。

 それが、かすかに動いていた。

 呼吸している。


「……あ、たす……けて……」


 背後で、もう一つの蓋が勝手に開く音がした。

 振り向くと、残りの箱の蓋が次々にゆっくり持ち上がっていく。


 暗闇の中で、幾つもの濁った瞳が、陽介を見上げていた。



 翌朝、大家は首をかしげながら、空き部屋の前に立っていた。


「おかしいな……昨夜から、この部屋の床からコトコト音がするんだよ。しかも……なんだか、息づかいみたいな……」


 部屋の床下からは、確かに微かな音が響いていた。

 コト……コト……。

 その間に混じる、聞き覚えのある声。


「……だれか……たすけ……」

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『階下から聞こえる』 ぼくしっち @duplantier

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