無限領域の怪

ぴのこ

無限領域の怪

 無限など少しも恐ろしくないと、吾妻久幸あづま ひさゆきは心から思う。


「ははっ、やったぞ吾妻くん!何度繰り返してもこの部屋から出られない!間違いない!無限領域だ!」


 無限にループする空間に囚われているという異常な状況であっても、那智想満なち そうまの目に怯えの色は微塵も宿っていない。喜悦に満ちた笑みを端整な顔に浮かべ、弾むような調子で言葉を紡ぐばかりだ。

 那智は決して揺らがない。超常現象に直面しても恐怖に身を竦めることがない。

 その那智の姿を見ていると、いつも吾妻は恐怖心が意識の奥底へと潜り込んでいく気分になる。


「今回はアタリでしたね那智先輩。間違いなく……本物だ」


「ああ、来てよかったよ。さあ吾妻くん、確かめようじゃないか」


 那智は眼鏡の奥の瞳に吾妻を映した。長い人差し指を立て、愉しげな声を吐き出す。


「この無限領域が、僕の求めるものかどうか」




 吾妻が那智に出会ったのは、大学に入った昨年の春だった。

 大学にはオカルト研究部があると吾妻は聞いていたが、嵐のように差し出される新歓のチラシにオカルト研究部のものは一つも無かった。彼は訝しみ、一人の上級生に「オカ研って知ってます?」と問いかけた。


「オカ研ね……あるにはあるんだけどさ。前からいた部員はみんな辞めたみたいなんだ。今は三年の那智って人しかいないらしいよ」


 彼女が語るところによると、那智は少し前からいわく付きの場所への訪問を繰り返すようになったという。睡眠時間を削って情報を集め、授業を欠席してまで遠方へ赴くその姿は、まるで人が変わったようだと。

 そんな彼の姿に部員は恐れを抱き、部から離れて行ったらしい。


「那智先輩は……どうしてそんな行動を?」


「さあ……ただ、頭を掻きむしりながら変なことを呟いてたらしいよ」


 彼女は一度言葉を切り、一段低い声色で呟いた。


「どこかに、あるはずなんだ……って」




 目的の部室は、地下二階の最奥にあった。ドアに貼られた紙に、達筆な手書き文字で“オカルト研究部”と書かれている。劣化した蛍光灯が放つ薄暗い明かりの影響もあり、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。

 吾妻は深く息を吸い、右手でドアをノックした。数秒待っていると、きしんだ音とともにドアが開かれる。かびの匂いを孕んだ空気が、室内から廊下へと漏れ出した。

 ドアを開いた男の顔を見て、吾妻は思わず息を呑んだ。


「おや?見ない顔だね。新入生かな」


 美貌。

 その男を目にして真っ先に吾妻の頭に浮かんだ言葉はそれだった。

 透明感のある白磁の肌。すらりと通った鼻梁の線に結ばれる、整った形の薄桜色の唇。銀縁の眼鏡のレンズ越しに見えるものは、深いくまに縁取られた切れ長の瞳。

 まるで精巧な彫刻のように端整な容姿だと、吾妻はつい思ってしまった。オールバックに撫で付けられた黒髪が、その美しい顔つきをより強調している。

 別方向に向かってしまった思考を切り替え、吾妻は男に問いかけた。


「ええと……こちらはオカルト研究部の部室ですよね。俺は一年の吾妻久幸という者です。那智先輩というのは」


「ああ、僕だ。那智想満という。ここで立ち話というのも良くないな。中へ入ってくれ」


 那智は部室の中へと吾妻を招き入れた。失礼します、と言いながら吾妻はドアをくぐる。鼻腔に届く黴の匂いが強まった。

 かなり殺風景な室内だ。壁一面に本棚が配置されており、オカルト関係の本が所狭しと並べられている。部室の中心には長机が縦方向に置かれ、机上には本棚に入りきらない分の本が何冊も積まれている。

 吾妻と那智は椅子に腰を下ろし、机越しに向かい合った。


「さて吾妻くん。君の用件はもしかして入部希望かな?」


 那智は微笑みを湛えて問いかける。その表情は和やかであったが、瞳には値踏みするような視線が浮かんでいた。


「はい。ですが最初に、俺が入部を望む理由をお話しさせてください」


「ほう、何か志望動機が?」


「なぜ俺がオカルト研究部にやって来たか。それは、俺にはいわゆる霊能力があるからなんです。ここでなら、この力を活かせると思ったんです」


 その返答に、那智はぴくりと眉根を寄せた。

 疑われても当然だと吾妻は思う。ゆえに証明のため、視界に映るものを見た通りに話す。


「締め付けられるような頭痛と、首筋の痛みがありますね?そして常に、両肩が重いと感じている」


 那智は両目を大きく見開いた。吾妻が挙げた症状は、まさに那智が悩まされているものだったのだ。


「あ、ああ……おととい心霊スポットに行った時からね。君には……見えるのか」


「はい。那智先輩には、霊が憑いています。小さい子どもの霊ですね。その霊が先輩の肩に両足を乗せ、頭に両腕を回してしがみ付いている……那智先輩の症状は、この霊障が原因でしょう」


 滔々とうとうと語る吾妻の目を、那智は何も言わずにじっと見つめていた。黒曜石を彷彿とさせる美しい瞳に射抜かれ、吾妻はほのかに平静を欠く。

 それを隠すように咳払いし、吾妻は立ち上がった。

 両手の指でいんを結ぶ。その体勢のまま、吾妻は静かに唱えた。


天津神あまつかみ国津神くにつかみ八百万やおよろずの神々。此処に彷徨う霊魂を清浄なる道に導きたまへ」


 霊に狙いを定め、淀みなく祝詞のりとを唱える。誰に習ったわけでもない、生まれ持った除霊の力だ。

 霊力を練りながら、吾妻は祝詞の最後の一文を口にする。


「穢れ無く安らかに還り給へと……もうす」


 断末魔の声とともに、霊が弾け飛んだ。空気がびりびりと震え、机上に積まれていた本が倒れる。

 その途端、那智を襲っていた不調が即座に消滅した。頭痛が嘘のように消え、肩がすっと軽くなる。


「那智先輩、これで霊は祓えました。ご気分はどうですか?」


「体が……いきなり軽くなった。だが何か、空気が振動したような感触があったぞ」


「霊が消滅する時には、霊体エネルギーの爆散で空間に乱れが生じます。それを感じたんでしょう。これは現象ですから、霊感が無くとも知覚できるんです」


 那智は両肩を交互に揉み、信じられないものを見るような目を吾妻に向けた。そして視線を彷徨わせ、ひとつ息を吸ってから探るように問う。


「……この世には、霊がいるのか?人は死んでも意識を残すのか?」


 妙に切実な問い方だった。吾妻は内心で少し当惑しつつも、これまでの十八年間の生で知り得た事実を語り聞かせる。


「死んで霊になった人間は、意識も理性も失って生者を害する存在になります。意思疎通が不可能な害獣に成り果てるというイメージでしょうか」


 吾妻の言葉を受け、那智の表情に落胆の色が宿った。それを隠すかのように唇を引き、柔らかな笑みを形作る。


「いや、凄いな。驚いたよ。霊能力者など初めて会った。吾妻くん、君はここでなら力を活かせると期待したそうだね」


 那智は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。レンズの奥の瞳がぎらりと光る。


「率直に言おう、大助かりだ!僕は少し危険な活動をしているからね、君がいれば心強い。僕の活動について何か聞いたかい?」


「ええと……曰く付きの場所を巡っているとだけ」


 吾妻がおずおずと答えると、那智は静かに頷く。


「僕の目的は、大きく分けて二つ。一つは霊の実存を確かめること。もう一つは無限領域の探査だ」


 白絹のような皮膚を纏った指が二本立てられ、すぐさま一本が伏せられる。


「前者についてはもういい。ならば後者だ。吾妻くん、同じ場所を無限にループするという話を聞いたことは?」


「無限ループ……怪談でたまにありますよね。もちろん実際に体験したことはありませんが」


「僕はある」


 那智の声が、音調を一段落とした。眼前の吾妻を一瞥した後、過去を眺めるように視線を宙に向ける。


「高校生の頃だ。山岳部に所属していた僕は、とある山で奇妙な現象に遭遇した。気づけば僕は部員たちと共に、同じ場所をぐるぐると回っていたんだ。看板も、木々の配置も全てが同じ。どれほど登っても、横道に行っても抜け出せなかった」


「……そこから、どうやって脱出したんですか?」


「法則を読んだ」


 黒々とした瞳が細まり、吾妻を直視した。


「ループの境目はどこか。異なる行動を起こせば現象に変化はあるか。考え付く要素を検証し、周期や条件を考察する。そうして僕は無限の綻びを見つけ出した」


「なんだか......ダンジョン攻略みたいですね」


 吾妻の相槌に、那智は微笑みを零した。まさにそうだな、と呟き、続く言葉を紡ぐ。


「空間の歪みで無限ループを起こす場所を、僕は無限領域と呼んでいる。無限領域は、空間異常のみならず奇妙な性質も併せ持つんだ。僕が探し求めているのはね吾妻くん、空間だけでなく時間の歪みも存在する無限領域!限りない時間が流れる場所なんだ!」


 那智の声は次第に興奮を帯び、語調を強めていった。

 吾妻は多少たじろぎつつ、遠慮がちに問いかけた。


「確かに、空間の歪みがあるなら時間の歪みもあるかもしれませんが……なぜそんな場所を探すんですか?」


「死を遠ざけたいからさ」


 間髪入れずに那智は答えた。その瞳には恐れの色が宿り、ほのかに揺れている。


「僕の求める無限領域を見つければ、死ぬまでの時間を無限に引き延ばせるじゃないか。ずっと生きていられるじゃないか。それが僕の願いなんだ」


 がたりと音を立て、那智は勢いよく立ち上がった。そして吾妻の目をしかと見て、そっと手を伸ばす。


「吾妻くん、僕には君の力が必要だ!僕でも攻略できない無限領域にいつか出会うかもしれない。そんな時、君のように特異な力を持つ人間がいてくれれば僕は安心だ。ぜひ入部してほしい!」


 その言葉を受け、吾妻の胸に喜悦が湧き起こる。

 これまでの人生では、霊が見えるなど不気味だと後ろ指を差され続けた。暗く、孤独な生だった。そんな自分を強く求めてくれる人がいる。

 天井の光が、吾妻にはまるで那智の後光に見えた。

 うっそりと目を細めながら、吾妻は差し伸べられた手を取った。




 朝靄あさもやが薄くたなびく山の中に、一軒の廃墟が建っている。平屋建てのその家は白い外壁の各所がひび割れ、つたが這うように広がっている。


「大丈夫ですか那智先輩?はい、これ」


 吾妻は金属バットが突き入れられたリュックからタオルを取り出し、隣に立つ那智に差し出した。

 那智は手ぶらであるが道中でひどく疲弊した様子だ。眼鏡を取って額の汗を拭いながら、隣に立つ吾妻に言った。


「ここが噂の家だね。平成中期、ある事件が起きたんだ。夫の浮気に逆上した妻が、夫を無理やり監禁した挙句に死なせた。そして自身も命を絶ったという」


「夫の愛情が他に向いたのがよほど許せなかったんですかね」


「一途なのは美点だが無理心中は行き過ぎだな。その事件以来は放置され、こうして廃墟と化した。だが奇妙な噂がある。ここにお祓いに訪れた僧侶が、同じ部屋から出られなくなったと話していたと」


 噂を語る唇は半円状にしなっている。目的地に着いた途端に活力を取り戻したようだ。

 吾妻も釣られて笑みを浮かべつつ、軽い口調で語りかけた。


「それはまさに無限領域ですね。生還者がいるなら安心感もある。でも、まずはその話が本当かどうかです。この一年で訪れた噂の場所が本当に無限領域だったケース、一割も無いですよ」


「なあに、入ってみればわかるさ」


 那智と吾妻は廃墟に歩み寄った。玄関ドアには獅子の顔を模したドアノッカーが取り付けられており、豪奢な雰囲気を添えている。

 那智はドアノブを引いたが、施錠されているのか開く様子は無い。


「開きませんか?」


「駄目だな。他の入り口を探そうか。それとも、これを鳴らせば出迎えてくれるかな?」


 冗談めかした口調でそう言うと、那智はドアノッカーの取っ手を掴んだ。少し引き上げ、ドアに打ち付ける。


 とん。


 途端、風景が切り替わった。

 屋外にいたはずの那智と吾妻は、次の瞬間には玄関の三和土たたきに立っていた。黴とほこりの臭いが鼻を突く。


「中に入れた……のか」


「……大成功じゃないですか」


「ははっ!驚いたな。何でもやってみるものだね。我ながら良い勘をしていた」


 歓喜の声を上げた那智は、廊下の先に目を向けた。

 突き当たりには、黄ばみまじりの白い壁が広がっている。その両端に二つのドアが見えた。

 那智は靴のまま廊下へと歩を進める。ぎい、と床板が軋み、埃が舞った。吾妻も後に続く。

 廊下の左右のドアを、那智は躊躇なく両方とも開けた。錆びた蝶番ちょうつがいの甲高い音が響き、薄暗い部屋が顔を覗かせる。


「両方とも……何も無いね。家具は撤去されたらしい」


 那智は廊下から左右の部屋の様子を窺う。いずれも物が一切置かれておらず、がらんとした空間が広がっていた。

 十畳ほどの部屋だ。黒ずんだフローリングには埃が積もり、白い壁紙はところどころ剥がれかけている。光源は、壁面の採光窓から差し込む淡い日光のみ。採光窓は小さく、人がくぐり抜けることは不可能だ。


「吾妻くん、どちらに進みたい?」


「どっちを選んでも同じな気がしますけど……じゃあ右で」


 二人は右の部屋へと足を踏み出した。

 ひやり、と冷たい湿り気を孕んだ空気が肌を刺す。鼻腔に纏わりつく黴の臭気が増した。

 臭気に混じって、何か不吉な気配が漂っている雰囲気だ。窓の明かりが照らしきれない暗闇に、いやなものが潜んでいるような。

 部屋の左側に目を向けると、またドアがあった。錆びたドアノブが付いた、木製のドアだ。


「那智先輩、早く次の部屋に行きましょう」


 室内の様子を注意深く観察していた那智に、吾妻はドアノブを握りながら呼びかけた。那智は静かに頷く。ドアを開けてくれ、という意味の合図だ。

 古びたドアを、吾妻はゆっくりと開けた。

 ぎいいいい、と錆び付いた音が鼓膜を揺らす。


「吾妻くん......」


 次の部屋へと続くドアを開いたはずの吾妻は、こちらを振り返る那智と目が合った。

 調度品が何も無い、がらんどうの室内。先ほどの部屋と全く同じ空間に、那智が立ち尽くしていた。

 那智は唇を吊り上げ、弾かれるように駆け出した。奥のドアをくぐり、吾妻を追い越し、またドアをくぐる。一連の流れを数度経た後、頬を紅潮させながら叫んだ。


「ははっ、やったぞ吾妻くん!何度繰り返してもこの部屋から出られない!間違いない!無限領域だ!」


 那智の瞳は爛々らんらんと輝いている。笑みを象る唇の中に、真珠のような白い歯が煌めいている。

 紛れもない無限領域との遭遇に、那智は興奮を隠せない様子だった。


「こんな絶望的状況で楽しそうにするの、那智先輩くらいですよ」


 吾妻の頬が思わず緩んだ。初めて無限領域に囚われた時も、肝の据わった那智の態度が心強かったと懐かしむ。


「それは当然口角も上がるさ。今度こそは、という期待が抑えられない。さあ、目当ての無限領域かどうかの調査を始めよう」


 那智は続けて入り口側のドアを開ける。廊下に繋がっているはずのドアだったが、先ほどと同様に現在の部屋に戻るのみだった。


「なるほど。二つのドアが接続し、この部屋が円環構造になっているのか?となれば」


 那智は壁面の採光窓に目を向けた。その視線で吾妻は意図を察し、リュックを下ろす。中から金属バットを取り出した。


「あの窓からは日光が継続的に届いている。ということは外部空間との接続があると考えられるが、さてどうだろうね」


「これが外に繋がってるか賭けませんか?俺は繋がってない方で」


「実のところ僕もそっちだ」


「賭けにならないじゃないですか」


 吾妻は苦笑しつつバットを構えた。ガラスで負傷しないよう体を窓の正面から避けつつ、腕だけを伸ばしてバットを横に振り抜く。

 がしゃりと大きな音を立て、採光窓は割れた。ガラスの破片が全て、部屋のへと降り注ぐ。


「なるほどね」


 那智は吾妻のリュックから水のペットボトルを抜き取った。破片を避けて窓へと歩み寄り、キャップを窓の向こうへと放り投げる。

 瞬く間に、キャップは部屋の中へと戻ってきた。


「ドアだけでなく窓も同じだな。空間がねじれ曲がり、この部屋へと繋がっているようだ」


 那智は腰を屈め、床に落ちたキャップを拾い上げる。ふっ、と息を吐き、付着した埃を払った。

 その時、吾妻が声を上げた。


「那智先輩!あれ!」


 顔を上げた那智は、その光景を見て目を丸くした。

 床に散乱していたガラスが浮かび上がり、窓に向かって収束していく。割られたはずの窓は、瞬時に元通りに修復された。


「......驚いたな。自己修復機能でもあるのか?この家は」


 那智は採光窓に近づき、窓ガラスを観察する。窓には一本のひび跡も無く、たった今の記憶が無ければ割られたばかりとは到底信じられない状態だ。

 これまでの無限領域の探査でも初めて目にする現象に、那智は歓喜の声を上げた。


「見たか吾妻くん!まるで窓だけ時間が巻き戻ったような......よし、他も壊してみよう」


 那智の指示で、吾妻は続けてドアを壊した。壁にも、床にも、室内のあらゆる箇所にバットを打ち付けていく。

 しかしいずれの損傷も、窓と同様に修復されてしまった。

 吾妻はバットを肩に乗せ、平然とした様子で那智に語りかける。


「ええと、報告なんですが......これだけ動いたのに俺まったく疲労感が無いです」


「......そういえば、僕がさっき走った時もそうだった......待てよ。だとすると、おい......この無限領域の性質は......!」


 眼窩から溢れそうなほど見開かれた那智の目は炯々けいけいと光っている。ふたひらの唇は高速で上下し、早口でぶつぶつと言葉を吐き出している。

 しばらくの間、那智は床に視線を注いでいたが、やがてぱっと顔を上げた。素早い動作で吾妻からバットを奪い取る。

 勢いよく採光窓に駆け寄り、那智は窓を叩き割った。


「っ......!」


 ガラスの破片が降り注ぎ、那智の顔や腕を切り裂いた。つう、と鮮血の線が白皙はくせきの肌に引かれる。


「な、那智先輩......!」


「吾妻くん!見ろ!」


 那智は声を張り上げた。

 袖で血を拭い、負傷した腕を吾妻の眼前に掲げる。


「思った通りだ!傷が治っていく!」


 傷口が蠢動しゅんどうし、みるみるうちに塞がっていく。瞬く間に、那智の傷は跡さえ残らず完治していた。


「内部のものを一定の状態に保つ......それがここの性質なのか。ならば、だとすると……はっ……はは……やった!やったぞ!ついに見つけた!僕の探し求めた、理想の無限領域だ!」


 歓喜の叫びが那智の喉から迸る。頬を伝い落ちる涙を拭いもしないまま、那智はその名を口にした。


「これで助けられる!これで死なせずに済む!千歳ちとせがんの進行を止められる!」




「実はね吾妻くん、僕には恋人がいるんだが」


 昨年のこと。

 秋風が吹きつける海辺で、那智は脈絡無くそう切り出した。吾妻とともに数度目の無限領域攻略を終えた日の、夕方のことだった。


「いや初耳ですが……何ですか急に」


「僕が無限領域の探査を行う本当の理由、話してなかったなと思ってね。この活動を始めたのは、今年に入ってからなんだ。それまでは、あんな空間に囚われるのは二度とごめんだと思っていた」


「……もしかして、そのきっかけが彼女さん?」


 那智は唇を引き、スマートフォンを操作した。アルバムを開き、一枚の写真を表示する。

 病院で撮られた写真のようだ。那智ともう一人、病床に横たわる女性が写っている。


「千歳という。僕の幼馴染でもあるんだが……末期癌でね、余命一年も無いんだ」


 綺麗な人だ、と吾妻は思った。

 柳の葉に似た細眉の下で、長い睫毛に縁取られた瞳が細まっている。穏やかな笑みを湛えたその表情からは柔らかい人柄が漂っていた。

 だが最も吾妻の目を引いたものは、慈しみに満ちた視線を千歳に向ける那智の姿だった。その目つきだけで、想いの深さが見て取れた。


「医学の力でも千歳を救えないと突き付けられた時、僕は何か手立てはないかと必死に奔走した。霊の実存を探ろうとしたりね」


 吾妻は写真から目を逸らし、神妙な面持ちで相槌を打つ。


「彼女さんが亡くなった後でも話したくて、ですか」


「ああ。それともうひとつ、僕の頭に浮かんだのは高校生の時のあの体験だった。異常な法則が成り立つ空間、無限領域。あそこになら、千歳を救う手立てがあるのではと思ったんだ」


「だから那智先輩は……危険を冒してまで無限領域に飛び込むんですね。でも、怖くはなかったんですか」


「怖かったさ。もし脱出できなければ、二度と千歳に会えなくなるんだから。だが今では怖くない。吾妻くん、君がいるからね」


 那智の口元が円弧を描き、薄桜色の唇が微笑みを形作った。那智は吾妻の手を取り、じっと目を見て語る。


「千歳のことを明かしたのも、僕なりの信頼の証だ。これからも、僕に付き合ってくれるかい」


 吾妻は唇を弓なりに引いて微笑んだ。那智の瞳を凝視し、しかと頷く。


「はい。俺はずっと、那智先輩の隣に立ちます」




「さあ吾妻くん、君の出番だ。ここから出るぞ。無限を綻ばせようじゃないか」


 那智は廊下へと続くドアの縦枠に寄りかかり、吾妻に視線を向けた。

 その背には、小柄な老人の霊がしがみ付いている。吾妻の目にはそれが見える。


「空間の繋ぎ目はこのドアだ。ならばここで霊を祓えば、今回も無限領域から抜け出せるはずだ」


 霊の消滅時には、霊体エネルギーの爆散により空間に乱れが生じる。

 那智と吾妻はこれを、無限領域から抜け出すための手段として利用してきた。事前準備として那智に霊を憑かせ、吾妻がこれを祓うことで起爆剤にするのだ。

 むろん調査過程で那智が脱出方法を見つけ出せば不要だ。だが保険として用意しているこの手段は、現在のところ脱出において確実に効果を発揮している。


「本当に、君がいてくれて良かったよ吾妻くん。さあ、やってくれ」


「……はい、那智先輩」


 吾妻はやんわりと微笑み、手印を結ぶ。低く力強い声音で、祓いの祝詞を唱えだした。


「天津神、国津神、八百万の神々。此処に彷徨う霊魂を清浄なる道に導き給へ。穢れ無く安らかに還り給へと白す」


 つんざくような絶叫とともに、霊が爆ぜた。

 空気が震え、衝撃が室内を駆け抜ける。発散されたエネルギーは無限領域を歪ませ、空間の接続を乱した。

 ドアの向こうには、廊下が広がっていた。


「吾妻くん!出るぞ!」


 那智と吾妻は部屋から飛び出した。廊下を走り抜け、玄関へと駆け込み、玄関ドアを開ける。

 暖かな陽光と、清澄な空気が二人を包み込んだ。


「外だ!脱出成功だ!ははっ、やった……!ついに見つけ出した!本当に今までありがとう、吾妻くん」


「いえ、那智先輩に頼られて俺も嬉しかったですから」


 ふと気付いたように、那智は背中に手を回す。霊が祓われて軽くなったはずが、違和感があった。


「吾妻くん、まだ背中が重いんだが……」


「霊が復活してますね。あそこでは霊を祓いきれないようです。お祓いに来たという僧侶も、本来の目的を果たせずに帰ったんでしょう」


「なるほどな、無限領域の性質のせいか。まあいい、後でまた祓ってくれ。とにかく今は早く帰りたい」


 那智は廃墟に背を向け、早足で歩きだした。その表情には溢れんばかりの喜色が浮かんでいる。


「千歳をここに連れて来るんだ。ここでなら千歳を死なせることもなく、二人でずっと暮らせるじゃないか!」

 

 那智の背に視線を注ぎつつ、吾妻はうっそりと目を細めた。そっと後ろに手を回す。

 吾妻は慣れた手つきでドアノッカーを掴み、打ち鳴らした。



 とん。



「中に入れた……のか」


 吾妻の隣から声が響いた。横に目を向けると、唇を吊り上げた那智が立っている。

 八千八百八十八回目のやり直しが始まった。




 最初に脱出した時、吾妻の胸に仄暗い感情が湧き起こった。


(これで、俺は不要になるのか)


 この家で千歳の病の進行が止まれば。無限に引き延ばされる生を手にできれば。

 もう那智に無限領域へ赴く理由は無い。吾妻の力を借りる必要は無い。


(俺には、那智先輩しかいないのに)


 自身の価値を初めて認めてくれた人が離れていく。自分にとっては那智が一番でも、那智はそうではない。それが吾妻にはひどく恐ろしく、耐え難かった。

 那智の背は次第に遠ざかっていく。だが追いつこうとする気にもなれない。怖い。

 それは一種の逃避行動だった。吾妻は震える手でドアノッカーを掴んだ。


(……戻っている?)


 その現象に、吾妻は驚愕した。

 初めて廃墟に足を踏み入れた時に巻き戻っている。吾妻だけがやり直しを知覚している。

 何が起きたのかと困惑した刹那、吾妻は霊の気配を察知した。家の奥からだ。もはや意識を残していない霊から、その思念の残渣だけが強烈に感じ取れた。


(ああ……わかるよ)


 大切な人には、他に気持ちを向けてほしくない。いっそ閉じ込めてでも繋ぎ止めておきたい。

 夫の霊に絡みつく、その女の霊。この無限領域も、この現象も、彼女の思念が生んだのだろうと吾妻は悟った。

 恍惚とした微笑みが零れる。薄く細まった瞳に、艶情えんじょうに似た色めきが宿る。


(このまま何回でも、何千回でもやり直しを続けよう。無限の周回の中で、那智先輩の隣に立ち続けよう)


 気づけば醜いほどに吊り上がっていた口角を、さっと手で覆い隠す。

 

 無限など少しも恐ろしくないと、吾妻久幸は心から思う。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無限領域の怪 ぴのこ @sinsekai0219

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ