紫陽花の檻とペンギン
島本 葉
紫陽花の檻とペンギン
六月の午後の光が、紫陽花の花びらに優しく降り注ぎ、色とりどりのグラデーションを際立たせていた。学校帰りの道すがら、保育園の金網越しにその鮮やかな姿を眺めるのが、この時期の僕のささやかな楽しみだった。柔らかな花房は、まるで小さな秘密を抱えているようで、僕はその可憐さに惹かれていた。もちろん、そんな風に感じているなんて恥ずかしくて誰にも言えやしない。そうして口元を緩めかけたとき、何かを蹴飛ばしたようなかすかな感触があった。チリン。涼やかな鈴の音に、僕は思わず足を止める。
音が遠ざかっていった方向に目を向けると、そこには自転車の鍵がぽつんと落ちていた。それを拾い上げてみると、もう一度涼やかに鈴の音がチリンと響いた。その音は、まるで助けを求める声のように聞こえた。
さて、どうしようか。
今頃、きっと絶望に打ちひしがれた誰かが、この鍵を探している。あるいはもうしばらくして、鍵を無くしたことに気づいて困り果てるのか。自転車に乗ろうとして鍵を失くしたことに気づくなんて、ちょっと想像しただけでも胸が苦しくなる。
鍵には小さな鈴と一緒に、水族館から逃げ出してきたようなゆるいペンギンのキーチャームが付いていて、こちらをじっと見つめていた。
「そんなに見つめるなよ」
しょぼくれたような表情が余計に哀愁を漂わせていて、僕は冗談っぽく呟いた。僕の手に収まったペンギンは、まるで安堵したかのように少し軽くなった気がした。
周りを見渡してみても、近くにそれらしい自転車はなさそうだ。数メートル先には保育園の入口があるが、防犯のためだろうか、ぴっちりと門は閉じられていた。塀の上から覗いてみるが、やはり自転車は見当たらなかった。
――まあ、拾っちゃったしなぁ。
拾い上げる前なら見ない振りもあった。けれども、この小さな鍵の重さを感じてしまった以上、さすがにもう一度路上に捨てるわけにもいかない。
その時、ふと視線が先程まで眺めていた紫陽花に呼ばれたような気がして振り向いた。これだ、と思った。まるで、紫陽花が「ここに置いていって」と囁いたかのように。
鮮やかな水色の紫陽花は、保育園の敷地の中、金網の向こう側で咲き誇っている。
僕はペンギンのチャームがこちらを向くようにしてその金網に引っ掛けた。子どもの目の高さくらいだ。これなら落とし主もすぐに気がついてくれるだろう。心なしか、ペンギンの表情も少し微笑んでいるようだ。
「じゃあ、持ち主さんによろしくな」
僕はカバンを大きく振るようにして、足取りも軽く歩き出した。
あれから数日。あれほど分かりやすいところに引っ掛けたので、その日のうちに持ち主の手に戻るだろう。安堵してもらえるだろう。そう思っていた僕の期待は、雨上がりの紫陽花が萎むように、日々力を失くしていた。あの日のペンギンは、未だに同じ場所で体を揺らしていて、悲しげな目をたたえている。
通学で毎日この道を通るので、今日こそは、今日こそはと思い続けて、そろそろ半月ほどになる。すると、あれほど咲き誇っていた紫陽花も、ずいぶんしおれてきていた。最近ではついに、茶色く醜くなった花びらをさらしている。その脇で風に揺れるペンギンは、もはや痛々しさすら感じるほどだった。
「なあ栞。これ、なんのキャラクター?」
そんなとき、僕はまるで遠い親戚に会ったかのように、リビングのソファに置かれた妹のリュックで見覚えのあるペンギンと再会した。それは自転車の鍵に付いていたキーホルダーの彼ではない。別の分身だ。リュックに飾られた缶バッチの中で、そのペンギンはくりっとした瞳をこちらに向け、愛らしく、爽やかな表情をしていた。
「なんだったかな? 白浜土産で友達に貰った──あ、これこれ」
栞はそう答えながら、手元のスマホで検索した画面を僕に向ける。「しらぺん」というらしい。その画面には蜘蛛の巣のようなヒビが入っていて、僕はそれが妙に落ち着かなかった。
「ヒビ割れひどすぎないか」
「うっさい。使えるからまだ耐えるのよ」
「こいつも、白浜だからしらぺんとか、安直じゃないか? そんなんでいいのか?」
「まあ、そういうもんじゃないの? お兄ちゃんどうしたの。なんか噛みついてくるね」
僕の頭の中にあるのは、あのペンギンだった。未だに落とし主が現れないことで、あの時の「名案だ」と思った気持ちがどんどん萎んでいき、思わず言葉に棘がのぞいてしまった。
「それがさ──」
少しだけ弱気になっていた僕は、栞に聞いてもらうことにした。鍵を拾った時の事や、それを紫陽花の傍らに引っ掛けておいた事。すぐに持ち主が現れると思っていたのに、未だに現れないことを伝えたあたりでは、栞はなんとも言えない表情をしていた。しょうがないなあ、こいつは、と言わんばかりで。
「まあ、お兄ちゃんらしいんじゃないの」
「らしいかな?」
「だね」
そう言って立ち上がると、アイス食べよ、とひとりごとをいいながら冷蔵庫に向かう。僕も食べるかと聞かれたのでお願いしておく。
「どっち?」
戻ってきた栞の手元には二種類のアイスがあった。カップのバニラアイスと小豆バー。
「栞が先取っていいよ」
「……んじゃあ小豆バーにしよ」
僕の方にカップアイスとスプーンを差し出す。
「僕らしいって、どういうことだ? 栞だったらどうしてた?」
「私ならたぶん道の端に置いておくかな」
「地面に?」
栞はあずきバーをかじりながら頷いた。カチコチだったらしい。少し表情を歪める。
「だって、探すとなると下を見ながら通った道を戻るだろうし」
なるほど。落とし主は紫陽花をみながら歩いたりはしない。言われてみれば当たり前のことかも知れない。
「今のアイスもさ、お兄ちゃんが選んで良かったんだよ。選ばせてあげようって思ったんだろうけど、私からどっちって聞いたじゃん。私もどっちでも良かったんだよね」
栞はそこで言葉を切ってアイスを再びかじり取る。僕はというとスプーンを持ったまま栞の言葉を待った。
「お兄ちゃんって、エレベーターとかでも扉開けて先に降りてももらったり、『何階ですか?』とかやるでしょ。ああいうことやる人、たまに面倒だと思う」
思い当たることが多すぎて、僕は頷くしかなかった。脳裏に、薄汚れた紫陽花と、そこに囚われたペンギンのキーチャームがよぎる。善意。そう、確かに善意のつもりだった。けれど、その気持は今はもう宙ぶらりんで、金網に引っかかったままになってしまって、あの場に留まっている。
栞の言うように道の端に置いておけば、持ち主の手元に返ったのだろうか。
スプーンでバニラアイスを掬うと、柔らかく、表面が液状に溶けかけている。口に運ぶと、甘みがやけに口の中に残った。
「あずきバーは美味しかったんだけどね」
黙り込んだ僕に、栞はそう言い残すとペンギンの缶バッチといっしょに自室へと引き上げていった。
翌朝は快晴だった。
蒸し暑いエレベーターの密閉された空間で浮遊感を感じていると、階床表示が「1」から「5」に変わった。残念ながら途中で誰か乗ってくるようだ。僕は少し後退して、壁にもたれる。乗ってきたのは女子高校生で、お互いにぼんやりと「おはようございます」と交わし、扉が閉まるのを待った。
僕は嫌でも昨日の栞との会話を思い出していた。幸い目的地はどちらも一階だから、「何階ですか」と聞く必要はなかったが、もし行き先が違ったなら、やはりそうしたのだろうか。栞の言葉が、小さな錘のように僕の胸を押さえつけていた。
一階に到着すると、こちらに背を向けてスマホをいじっていた女子高校生は、開いた扉から滑るように出ていった。僕はその後ろに続いてエレベーターを下りた。開くボタンは押された形跡がなく、光っていなかった。
エントランスから外に出ると、夏もそろそろ本気を出してきたのか、朝から随分と気温も高い。この暑さで通学の足取りもなんとなく鈍い。
いや、わかっている。足取りが重いのは暑さのせいでは無い。この先に自転車の鍵を拾った場所があるからだ。
別に大したことをしたわけでもない。落とし物を拾って、ここなら見つけやすいだろうと、目立つ場所に置いただけだ。ただそれだけの、軽い気持ちだったはずなのに。
やがて例の保育園が見えてきた。鼓動がわずかに速くなる。ペンギンの寂しそうな瞳を思い出して、なんとなく空を見上げた。眩しい日差しに、目を細める。暑いなぁ、と本筋とは関係のないことを頭に浮かべながら視線を戻した。
「……ない」
金網に引っ掛けていたはずの鍵は、どこにも見当たらなかった。周りを見渡しても、足元に落ちていることもない。持ち主が気がついて、回収してくれたのだろうか。そうであってほしい、と心の中で強く願う。
ふと見ると、命の尽きた紫陽花は剪定され、真新しい切り口がいくつも覗いていた。その剪定は、いつ行われたのだろう。その時、鍵はまだ金網にかかっていたのだろうか。
ペンギンはどんな表情をしているだろう。
持ち主のもとに帰って、喜んでいるのだろうか。
けれど、そこにどんな感情を貼り付けているかを想像することができなかった。そりゃそうだ。あのペンギンは最初から僕の頭の中でしか笑っていなかったのだ。
それでも、どうにかペンギンの笑顔を思い浮かべようとしながら、僕は歩き出した。
(了)
紫陽花の檻とペンギン 島本 葉 @shimapon
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