夏が暑すぎる
伽墨
涼しさはどこにいった
暑い。暑い。暑すぎる。地球「温暖化」という言葉は今や地球「沸騰化」に置き換えられつつある。私は大賛成だ。死ぬほど暑いのだから。5分10分外に出て歩くだけで滝のように汗をかく。汗でずぶ濡れになったインナーが体にべったりと張り付く。そして汗で濡れた服は色が変わる。全てが不愉快だ。
最近よく耳にする「今日も体温超えの暑さで」という表現に違和感を覚えなくなった。まあ、実際には空気の温度と人体の温度——だいたい、水の温度と見なしても問題ないだろう——はまるで別物ではあるのだが。例えばサウナの温度は90度程度だが、入ってもやけどすることはない。しかし90度の水で手を洗おうものなら、病院行き確定のやけどをするだろう。そういうことだ。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく暑いのだから、物理法則がどうとか考えても意味がない。暑い。暑い。
「熱中症警戒アラート」なるものが存在する。私はこれについては意味がないと思っている。7月、8月になったらどうせ毎日鳴りっぱなしになるからだ。警報とは日常化してしまったら意味がない。車のクラクションもそうだろう。もし道路を走る車が日常的にクラクションを鳴らしっぱなしにしていたとしたら、クラクション本来の目的として機能しないだろう。どうせ毎日最高気温は35度を超えるのだから、警報だと言われても誰もピンとこないのだ。
こんな馬鹿みたいな暑さのなかでも、社会は動いている。汗まみれになりながら空調服に身を包む土木作業員。灼熱のヒートアイランドの中でも立ち続ける交通誘導員。狂った暑さの中でも生け垣を切りそろえる造園業者。私は彼らに尊敬の念を抱かざるを得ない。暑さのあまり狂いそうになっている自分が恥ずかしくなる。
思えば20年、30年前の夏はとてもいいものだった。「エアコンの温度は28度に設定しましょう」なんて、なんの根拠もない常識を皆が律儀に守っていた。プールに至っては「今日は水温が低すぎるので閉鎖します」なんて、呑気なことを言っていた。扇風機の前で「あ〜」と声を震わせて遊ぶ。それだけで夏は十分だった。
それがどうだ。今やマスコミは、地球環境への配慮がどうこう以前に生命の危機を案じて「エアコンを付けてください、命を守ってください」と呼びかけているではないか。「エアコンの温度は28度」なんて、もう誰も守っていない。暑すぎるからだ。昔の私は「暑いと寒い」だったら断然「暑い」ほうがましだと思っていた。手や足が冷えて不愉快なのが気に食わなかったからだ。しかし今の私は断然、寒いほうがましだと思っている。寒かったら着込めばいいだけだ。だが、暑さは服を脱いでも終わらない。それどころか、脱いだ瞬間から別の地獄が始まる。もし全裸のまま街を闊歩すればあっという間に変質者として逮捕されるだけならまだしも、「暑さに狂ったやばいおっさんがいる」と写真を撮られ、動画を撮られ、SNSで拡散され、エンターテイメントとして消費されてしまうではないか。
今になってはもう遅いのだが、人類はもう少し、地球が暑くなるということに気をかければよかったのではなかろうか。環境のために、という言葉がどこか胡散臭さを漂わせており、多くの人は真剣に考えていなかっただろう。かく言う私もその一人だ。私はひねくれたクソガキだったから、当時お題目のごとく繰り返されていた「宇宙船地球号」なんていう美辞麗句を「ばかじゃねえの」と冷笑していたのである。あの頃の私に、今の暑さを味わわせてみたいものだ。「こんなの聞いてないよ。もう無理」と3分も持たずに空調の効いた部屋に逃げ込むことだろう。そして、それなりに真剣になって、地球の未来を考えたことだろう。
暑い。暑すぎる。もう笑うしかない暑さだ。こうしてだらだらと駄文を連ねている間も、外の気温は30度をゆうに超えている。たとえ空調の効いた快適な室内でのんびりしていても、外に出れば灼熱地獄が待ち受けていると思うと、もうそれだけで体がおかしくなる。結局、誰もこの暑さから逃れることはできないさだめにあるのだ。
皆さんはくれぐれも、熱中症ならないようご自愛ください。
夏が暑すぎる 伽墨 @omoitsukiwokakuyo
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