第3話


 敵襲だ、叫び声が聞こえた時、

 賈詡かくは自分の幕舎に戻って火鉢の側に蹲り、炭を突きながら若干心が沈んでいた所だった。


 司馬懿しばいが「何か新しい動きがあったら呼べ」とだけ静かに言って、大人しく自分の幕舎に戻ったのが不気味すぎて近づく気にならず、陸伯言りくはくげんの方は軍医がすでに打つ手が無いと報告に来た。

 

 郭嘉かくかの顔を今見たら確実にあの冷静なツラをぶん殴りたくなると思い、敢えて頭の中から弾き出し考えないようにはしたのだが、


 自分達は涼州遠征に来たのであって、その途上の兵の犠牲は、理由は何であれ遠征の犠牲だ、司馬懿の副官が一人いなくなっただけだ考えるべきことは他にあると何度も冷静に言い聞かせようとしても、血だまりの中で、返り血を顔にまで受けて、血に汚れて振り返ったあの郭嘉の姿が脳からこびりついて剥がれないのだ。


 長い付き合いの知り合いという訳でもないのに、郭嘉の人懐っこさは、何か出会った月日を曖昧に惑わして来るようなところがあって、許都きょとでまともに話すようになっただけで、風雅な王宮の回廊だの、花咲く庭だの、水鳥が浮かぶ池のほとりだの、そんな場所に佇む郭嘉しか見たことが無かったので、余計に衝撃を受けてしまった。


 その前の記憶は【白狼山はくろうざんの戦い】の帰路、奇しくも同じ西征せいせい軍に、郭嘉がそのまま合流しようとして、初めて挨拶を交わした数十分後には馬上から崩れ落ちて意識を失い、血を吐いていた姿で、確かにその姿も鮮烈だったのだが、

 五年の時を経て、すっかり忘れていた。


(あいつはいつもこんなやり方で、俺を驚かせやがって)


 はぐらかしてもはぐらかしても何故郭嘉があんな蛮行に走ったのか分からず、

 董卓とうたくの時代から、策謀張り巡らされる朝廷での暮らしをくぐり抜け、幾人の主を変えながら四十年以上この世を生きて来た自分が、たかが半分くらいの年の若造に、またこんなにも驚かされて、未だにその意図も測りかねないほど動揺させられていることに怒りを感じたが、無心に赤みを帯びる炭を、何となく突いていることしか出来なくなって更に落ち込んだ。


 ここに曹操そうそう荀彧じゅんいくがいたら、お前らは一体どういう教育をしてきたんだなどと奴らを愚痴れたものを。


 だから敵襲だと聞こえた時、賈詡は人生で一番くらい驚いてしまった。



「賈詡将軍!」


 

 なんだ、と言う前に幕舎に火が付いたのが分かった。

 咄嗟に幕舎から飛び出すと、信じられないほど――辺りは火の海だった。


 火が、並ぶ幕舎の合間を、綺麗に走っているのが分かった。


 油だ。

 意図して撒かれたことは一目で分かる。


「俺はいい! 司馬懿しばい殿を早く本陣から連れ出せ!」


 打たれたように何人かが慌てて駆け出して行く。


「急げ!」


 司馬懿と言って思い出した。

 陸伯言りくはくげんは今、昏睡状態で身動きが取れない。

 司馬孚しばふが確か側に付き添っていた。


 咄嗟にそっちを見ると、向こう側が見えないほど炎が走っていて、辛くも馬を引っ張って来た副官に、陸議りくぎと司馬孚が逃げられたかあっちの方を見て来いなどと、到底言えなかった。


「くっ……」

賈詡かく将軍!」

「先に行け! 我々は祁山きざんの麓を包囲して布陣していた。

 被害がどこまで広がってるのか、山部から確認する!」


「賈詡将軍! 山なら方向が違います!」


 駆け出した賈詡に副官二人が驚く。

「少し本陣を見てから行く!」

 賈詡は幕舎の合間に火が走るのを見て、幕舎の幕をめくり、その中を駆けて陣を横断した。

 二つ目の幕舎を抜けた時、足下に矢が飛んで来て、咄嗟に転がるように横に避けた。

 黒衣を纏った男が弓なりの短剣を構えて、間を置かず飛びかかって来る。


「ようやくお出ましか!」


 舌打ちをして、後方に飛びすさって間合いを取りながら、賈詡は苛立った表情を浮かべた。 

 すぐに反転し、腰の短剣を掴むと、空中から襲いかかる。


「この俺の本陣を焼き払ったからには死んでもらうぞ‼」


 黒衣の男は横に飛んで一撃を避けた。


 ピィン、と突然賈詡の耳を、不思議な音が突いた。


 聞き慣れない音だったが、それでも賈詡の身体は咄嗟に動いた。

 身を捩って避けていなければ、腕がもがれていただろう。


 細い鋼糸独特の波打つ動き。

 触れただけで骨まで達する。

 火が鋼糸の表面を舐めるように照らし出した。


暗器あんきか! ぐッ!」


 後ろから肩を射られる。矢ではないが、針状のものだ。


 三人。


 側に立っていた篝火を咄嗟に蹴り倒し、火花が爆ぜた。紛れてその場から駆け出す。

 賈詡は撤退の判断は弁えていた。

 面倒を見切れるのは二人までだ。

 暗器を使う刺客、三人に囲まれて応戦するのは馬鹿のすることである。


 肩の傷はさほどではない。

 鋼糸こうしが少し肘を削ったが、これも深手ではなかった。


 追って来る気配はない。


 火を避けて陣の外へ追い出される。

 

「賈詡将軍! こちらの馬を!」


 賈詡を見つけた兵が、馬を持って来た。

 迷わず飛び乗る。


「状況は!」

「司馬懿殿は陣を出られました。北方の張遼軍と合流すると」


 張遼ちょうりょうの側には楽進がくしん李典りてんがいる。

 司馬懿が行けば、陣容は十分になる。

 小賢しい奇襲は掛けれても相手は確実に、軍を制圧するほどの手勢ではない。

 だが正確な被害の状況が分からない。

 祁山きざんの山中に楽進と李典の部隊がまだいる。

 上からなら全方位の状況が分かる。


「俺はこれから祁山の陣に入ると総大将に伝えろ!」


「護衛を……」

「構うな! 祁山で用意する!」


 走り出そうとした時、突然喊声かんせいが聞こえた。




 ――――地鳴りだ。




 震動で分かる。

 騎馬隊の音だ。


 賈詡かくの顔面から血の気が引く。

 涼州騎馬隊りょうしゅうきばたいは完全なる地の利だ。

 

(奴らは敵の最も現れて欲しくない時に現れる)


 それを、自分が一番知っていたはずなのに。


「どこから来る⁉」





 オオォォ――――ッ!





 もう一度、上がったときの声で分かった。


 北だ。

 味方がいるはずの祁山きざんだ。


 中腹には魏軍の陣がすでに入っている。

 通常の騎馬隊では決して通れない低域の、急の斜面を走って北から縦貫して来たとしか考えられなかった。


 逃げろ、


 賈詡はそれだけ叫んだ。



祁山きざんを捨てろ!」



 瞬く間に激しい地鳴りが近づいて来る。


「とにかく天水てんすいに退け!」


 畜生、黄巌こうがんの奴。

 人の良さそうな、追い詰められた涼州の者みたいな悲愴な顔をして、何が三日の猶予をだ! と賈詡は東に退避するように怒鳴りながら、馬を力の限り駆らせ、心中で唾棄をした。


 黄巌こうがんをどこかで見たことがあると郭嘉が言っていた。


 あれをもっと深く考えるべきだったと、今更思っても遅いことが脳裏に浮かんで、馬上で思わず振り返る。



 ――――郭嘉。



 炎上する本陣が目に飛び込んで来た。


 あいつが容易くあそこに残っているはずがない、と思った。

 きっと逃れて、

 遅れて出て来た俺を自信たっぷりの顔面で迎えて、


「寝てたの?」


 などと笑って言うに違いないと思うのに、何故か馬の足を止めていた。

 

 血の海に佇んでいた姿。


 あいつらしくないと自分は思ったはずだった。


 何かが変だった。


(そうだ。ずっと、何かが変だった)


 涼州に入った時から、何かが。


(違う)


 その時、何故か――許都きょと賈詡かくの私邸の庭で、

 池の鯉を眺めながら、

 無事に戻ったらこの珍しい色の鯉をくれと頼んで来た時の郭嘉かくかを思い出した。


 欲しかったら自分で取りに来いと、ぞんざいに返すと、子供みたいに笑って帰っていったあの姿だ。



 涼州じゃない。許都にいる時から、自分は何かが変だと思っていたのだ。



 危険だから涼州には行かないで欲しいと片方の血だけ繋がった妹が、郭嘉の腕の中で泣いていた。

 命を大事にしてくれないと、頬を張られた後に郭嘉が見せた一瞬の天を仰ぐ表情。


 あいつが幼馴染みだろうと、

 血の繋がった妹だろうと、



 ――大切な女を泣かせっぱなしにして出て来るはずが、なかったのだ。



 何かが最初からおかしかった。


 操術で分かる。

 涼州騎馬隊の姿が見えた。

 燃え上がる炎の中を速さで突破し、東に出て来る。


 黒衣の暗殺者の襲撃と、

 涼州騎馬隊の追撃。


 はかったな。



野郎!)



 賈詡の表情が怒りに満ちる。

 

 後ろに吊るしていた流星鎚りゅうせいついを引き抜き、鎖を大きくしならせ、振りかぶった。


 今、この時を待っていたかのように現れた涼州騎馬隊を見た時に思ったことは、ただひたすらにこいつらをぶっ殺してやるということだったが、賈詡の口から出た怒声はたった一つだった。




「郭嘉ァ――――ッ‼」





【終】 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花天月地【第69話 凍土を焦がして】 七海ポルカ @reeeeeen13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ