第2話



 張遼ちょうりょうはゆっくりと瞳を開いた。

 側に押し黙っていた李典りてん楽進がくしんもほぼ同時に顔を上げる。

 戦場に慣れた張遼の目は、暗い戦場でも遠くに立つその姿を捉えた。


「……。一人で来たか」


 龐徳ほうとく


 死ぬつもりだな。


 張遼にはすぐ分かった。

 彼は歩き出し、号令を出す。


「全軍、私が許すまで一歩たりともここを動くな!」


「張遼殿」

 楽進がやって来る。


「手出しは無用。楽進殿、ここで待たれよ」

「龐徳はすでに剣を抜いています。

 あの顔は説得を聞く顔ではありません。涼州の仲間のために死ぬ気です。

 狙いは貴方だ。

 自分一人でも貴方と刺し違えるか、腕の一つ奪えるだけでも、魏軍に深刻な今後の傷を与えられる。

 龐徳ほうとくには失うものは何も無い! ここは私が!」


「無用。」

「しかし……!」


 楽進がくしんの肩をやって来た李典りてんが掴んだ。

「やめろ。文謙ぶんけん。言っても無駄だ。どっちもな」


 言われて楽進が俯き、一歩下がった。


 張遼が馬に騎乗する。

 彼は外套を外すと、バッ、と宙に放り捨てた。

 槍を掴み、合図を出し、駆け出す。


 荒野の遠い向こうでも、同じように龐令明ほうれいめいが馬の腹を蹴り上げ、駆け出した。


 戦場に特化した二頭の馬は、

 瞬く間に自分の足の地を蹴る打撃だけで風に乗った。


 身体に降り注ぐ雨が針のように感じられたが、

 張遼ちょうりょうは目を見開いたまま、馬上に低い体勢で剣を構えて襲いかかって来る龐徳ほうとくを見据えた。


 背後に涼州騎馬隊の姿は無い。


 はぐれたのか、

 離別を選んで出て来たのかは、表情を見れば分かる。



「龐徳! 何を守る気だ!」



 張遼は槍先を龐徳に向けて水平に構え、怒鳴った。


 戦場では、張遼は、軍を率いても誰よりも前を駆けて来ると言われる。

 だが張遼は実は、先頭ではなかった。

 彼自身は先頭ではないといつも思っていた。


 死線はそこにあっても、

 彼の前にはいつも、遙か自分の前を駆けて行く呂布りょふ赤兎馬せきとばの背が見えるのだ。

 あの背を追い抜いて、本当の先に行かなければ、


 再びまた自分の主を失う。


 無力と意地で、呂布を死なせた。


 自分が曹操のように、何か大きいものを感じさせる男だったら、

 例え主従関係に徹しても、共に酒を飲み、笑い、語らい……戦場で果てる以外の、この世の美しいものがあるのだと、呂布に思わせることが出来たかもしれない。



 そのことだけが、惜しい。


 いつまでも。


 永遠に自分は、惜しみ続けるだろう。





「――すべてを‼」





 龐徳ほうとくが叫んだ怒声が、激しい雨音を貫いて聞こえ、

 その言葉に張遼ちょうりょうは目を大きく見開き、一撃で決める為に寸前まで引きつけ、神速で貫こうとしていた槍を引いた。

 

 馬上で身を捩り、龐徳は張遼の左右どちらかへ、敵の槍を避ける決断だったらしく、

 それはほとんど賭けだった。


 張遼は先に敵に届く槍を持っていたため、剣で挑む龐徳の動きはそれよりも早く決めねば当たらない。

 龐徳は左に出ることに、自分の命を懸けた。

 張遼も龐徳が左右どちらかに懸けて槍を躱しての一撃を狙ってくることは読んでいて、

 彼も懸けたのは左だった。


 龐徳が動いてからでも、ギリギリの判断で矛先は決められたが、

 たった一人で命を投げ捨てて挑んで来た男を、そこまで待たせられなかった。

 そこまでしなくとも、第一撃が避けられても十分に第二撃を出せる自信があったから。


 龐徳ほうとくが左に馬の軌道を懸け、

 張遼も敵が左から突破すると懸けた。


 それにより――つまり獲物の長い張遼の方が、先に龐徳の胸を貫くことが決まったはずだったが、

 ぶつかる直前で槍を引いた、張遼ちょうりょうの戦場では見せない動きに驚いたのは、共に戦場を駆けて来た彼の愛馬だった。


 決して敵を前に退いたことのない主が引いたので、胴を強く足で挟まれた力を敏感に感じ取っていた馬が鋭い嘶きを上げて、後ろ足で立ち上がった。


 張遼が槍を引いたことに龐徳はそれよりも遅れて気付いたが、

 全てを懸けて振るった渾身の一撃はすでに止められず、


 ザン!


 と、龐徳の剣が張遼の身体に決まった。

 あまりに望み通りに決まった一撃に驚いた龐徳はその勢いのまま、重心が前に崩れ、馬上から放り出されて、容赦なく雨に塗れる涼州の荒野に身体が叩き付けられた。


 ほぼ同時に通り過ぎた後方でも、ドン、と何かが倒れる音がした。


 龐徳ほうとくは一瞬、動けなくなった。

 しかし辛うじて握りしめたままだった剣をすぐに握り直し、倒れた体勢のまま首だけで振り返った。


 張遼ちょうりょうが地に伏せている。


 彼を落とした馬が混乱したような首の振り方で、いびつな軌道を描き、分からない方向に走り去っていくのが見えた。


 龐徳は痛みを耐えながら、剣で自分を支えて何とか立ち上がる。

 叩き付けられた全身の痛みだけで、斬られてはいない。


 張遼は伏せたまま、全く動かなかった。



「張遼将軍!」



 半身で馬に乗った楽進がくしんが駆けて来る。

 動き出そうとした張遼の部隊を、必死に李典りてんが止めている。


文遠ぶんえん殿!」


 駆け寄った楽進が膝をつき、慌てて張遼の上半身を起こした。


「文遠殿!」


 呼んで、楽進はハッとした。

 張遼ちょうりょうの左の脇腹。

 血が溢れ出ている。あっという間に楽進の膝まで染まった。


「そんな、まさか……」


 張遼は間違いなく、魏軍最高の武将だ。

 彼が槍を合わせないで一撃で斬られるなど、可能性でも考えたことが楽進は無かった。


「張遼将軍ッ‼」


 張遼は深く目を閉じている。答えなかった。

 遅れて、彼の口の端から血が伝って来た。



「李典殿!」



 楽進が大声で呼んだ。


「軍医を!」


 龐徳は何も考えず、ゆっくりと数歩、張遼の元に歩いて行った。


「馬鹿な……、何故槍を……」


「早く軍医を――‼」


 雨の降り注ぐ荒野に楽進の叫びが谺する。


 龐徳の手から、剣が零れた。

 彼は数秒後、膝から地に崩れた。


 瞬く間にやって来た張遼軍と李典が、張遼を助け起こす楽進、そしてその側に力無く座ったままになった龐令明ほうれいめいを囲い込んで行った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る