花天月地【第69話 凍土を焦がして】

七海ポルカ

第1話



 強い雨の中、張遼ちょうりょうは掲げられた燭台の側で目を閉じ、その時を待っていた。


 ザー、と滝のような水の音、時折聞こえてくる微かな、兵達の身に着けた武具が触れ合う静かな金属音。


 水の音に、張遼は思い出があるのだ。


 戦場の空気の中で、

 静かに時を待っていると、

 ……自然と【下邳かひ】の戦いを思い出す。



『猛虎は大海を生かず』



 下邳かひ城に籠城した時、ある時点で曹操軍の水計を見抜いた陳宮ちんきゅうが、そう言っていたのをよく覚えている。

 

 それを聞いて自分は水など恐れぬと呂布りょふが快闊に怒っていた。

 

(そうではないのだ、呂布殿)


 今と同じように大雨の中、

 敵の総攻撃を待って、張遼は剣を手元に、目を閉じその時を待っていた。


 あの頃の張遼は今よりは若く、武人が戦場で主君に口を利くなど、甘えだと考える思いがずっと強かった。

 今ではもう少し心は開けて、言葉というものの大切さを噛み締めるようになったが、あの頃は呂布に仕え、言葉で語るのは陳宮で、自分は戦場の剣でのみ己を示すべきだと考えていたから。


 陳宮が言いたかったのは、水計を仕掛けられれば貴方は勝てないということではなく、貴方は猛虎なのだから、地に出て駆けて戦うことが一番だということだったのだ。

 どんな武の誉れが高い人間でも、強敵相手には得意で挑まなくてはならないと。

 水計すいけいで呂布を戦わせることになった不利を、それを招いた軍師の自分を嘆いたのだ。


 陳宮ちんきゅう呂布りょふの強さに心酔していた。

 地を駆る者は地を、

 空を飛ぶ者は空を、

 そうしている姿が一番強く美しいのだと、語っていたことがある。


 呂布は自ら身を滅ぼしたと誰もが言う。


 武力はあったが志がなく、力に驕り、人心を失い、自ら身を滅ぼしたのだと。


 確かに呂奉先りょほうせんという男の生き様は、

 咲くべき時に定められたように咲き、許された時間だけ咲き誇り、

 全ての者がそれを見届けたら、役目を終えて閉じる花のような所があった。


 しかし張遼ちょうりょうの胸にあるのは、ひたすらに、

 呂布りょふを守り切れなかったという想いだけだ。

 呂布が死んでから、その想いは一度として言葉で外に出したことはない。

 他人に悟られたこともない。


 確かに呂布は奔放なところがあり、領主ではなく生粋の武将で、政は無理だった。


 それでもあの男の武には、この世の万人が一目見て、老いも若きも、男も女も、彼がいかに武に優れているか、国を問わず理解出来る、そういう特別な輝きがあったのだ。

 

 董卓とうたくのように金や欲で結びつくのでは無く、えん家のように保身だけに使うのでは無く、何か別の、大いなるもので呂布を包み込めるような君主と出会っていたら、あの力が何かを守るために揺るぎなく、光るようになることがあると思ったのだ。

 

 世が、まだ混乱しすぎていたのだろう。

 呂布の目に留まる戦場がありすぎた。

 いつも目を輝かせて駆け出して行ってしまったから。


 張遼は曹操そうそうに助命されたあとぎょう蟄居ちっきょしていたが、ある夜突然曹操が夏侯惇かこうとんだけ伴い、訪ねて来たことがある。



呂布りょふの埋葬を済ませて来た。

 今宵は呂布のことを話したい気分だから、

 お前が相手をせよ』


 

 張遼は、私は酒は飲まぬのでと断ったが、

『主君が死んだのだぞ。悼む気持ちがあるならば一杯だけは飲め』と言われ、

 数秒考えたが、一杯だけ受け取った。


 呂布のことを話したいと言っていたのだが、

 曹操が話したのは今後、自分が河北かほくでどうしたいかということだった。

 袁紹えんしょうと遠くない未来に戦う。そういう話もされた。


 張遼はどうしても、呂布が処刑された時から心の時間が止まってしまっていて、

 未来のことなど考える気持ちになれなかったのだが、

 張遼が何も話さなくても、曹操は喋り続けていた。


 その時に袁紹の麾下きか顔良がんりょう文醜ぶんしゅうという非常に名高い騎馬将がいるので、それをお前に討ち取って貰いたいと思っている、とも言っていた。

 

 袁紹とぶつかるのは、張遼としてはまだ早い気がした。

 この夜、張遼が自分から曹操に尋ねたことはほとんど無く、二つか三つだったと思う。

 その一つが、何故今袁紹に挑むのかということだった。


袁術えんじゅつが死んだ』 


 曹操そうそうの答えは明確だった。


『袁紹だけでも強大なのに、従弟いとこの袁術と手を組まれては手が出せん。

 だがようやく袁術えんじゅつが自滅して死んだ。

 袁紹とは仲違いをしていたが、袁術は腐っても従弟、腐っても四代三公袁家だ。

 奴の握っていたものが、今各地に散らばりつつある。


 特に江東こうとうは孫家の小僧が元気よく駆け回って、奴には長江ちょうこうを渡られた。

 長江は深淵しんえんだ。容易く北から手出しは出来ん。


 俺は袁紹えんしょうを知ってる。

 孫堅そんけんも知っている。

 袁紹は孫堅を見下していたし、袁術えんじゅつ孫策そんさくを失望させた。

 江東こうとうをある程度平らげたら、孫策は絶対に袁紹とは手を組まん。


 つまり、今は大きな形では無くとも袁紹は南に大きな影を抱えた。

 今までは袁術に都合良く南をあしらわせていたが、今後はそうはいかん。

 董卓とうたくが死に、呂布りょふが死んだ。

 袁紹は今、北を見るか南を見るか迷っている状態だ。

 ぶつかるなら今しかない』


 酒杯を強く煽って、曹操は言った。


 つい昨日まで張遼は曹操の命を狙っていた。

 敵だったのだ。

 そういう人間の前で、一体この男はどこまで未来を話すのだと顔には出さず、張遼は密かに驚いていた。


 そして聞いている間に、この男なら呂布りょふが気に入り、呂布を理解し、こうして時折飲んでいるうちに何か大きなもので包み込んでみせるのではないか、そんな気がして来た。


下邳かひ関羽かんうを捕らえた』


 夜も更けて来た頃曹操が、飲まず何も喋らなくなった張遼の側で、袁紹亡き後の世がどういうことになるのか、可能性の話を勝手に話し続けながら、随分前に役目を終えて去った楽師の女から借りた手琴を気ままに爪弾いていると、

 一人の子供が入って来て、子供にしては美しい所作で曹操と張遼に挨拶をし、曹操に文を預けた。

 去り際に一瞬、張遼の顔を見て、

 見た瞬間、目を輝かせたのをよく覚えている。

 張遼の顔面は硬いので、子供はよく彼を見ると怖がる顔をするのに、その子供は何故か鶸色ひわいろの目を輝かせた。

 その表情がこの一晩中眺めた、こっちを見ながら色々語る曹操の目の輝きとひどく似ていたため、自然と曹操の子供なのだろうと思っていた。


 受け取った文を開くと、曹操が笑いながらそう言ったのだ。


『どうやら俺にもまだ風は吹いているな』


 柔らかい風が吹く、月の明るい夜だった。


『苦労して捕らえたのだぞ。

腐っても四代三公袁本初えんほんしょ殿に決戦を挑みに行くのだ。みすぼらしい陣容では失礼に当たる』


『袁紹との一戦ほど重要な局面で、今すぐの降将を使われるというのか』


『当たり前だ。古なじみの剣は俺はすでに二振りほど持ってる。

 先陣は光り輝く新品で行くぞ。張遼ちょうりょう

 袁紹自慢の寄騎よりきには、お前と関羽かんうを揃えてぶつけてやる。

 想像しただけでも胸が躍る。

 お前と関羽なら必ず華やかな戦いをするからな』


 座っていた、窓辺から外を見た。

 屋敷の中庭が見下ろせたが、先程文を届けた子供が軽やかに階段を飛んで下りて来て、たった一人曹操の護衛としてついて来て、生真面目にずっと中庭で立って待っていた夏侯惇かこうとんにじゃれついて、うるさがられているのが見えた。


 曹操がやって来て側に立った。


 とん、と何かが首に触れる。


『これは命令だ。

 絶対に断るなよ、張遼。

 断れば今度こそ、ここが飛ぶぞ』


 畳んだ扇で二度、曹操そうそうが張遼の首筋を軽く叩き、楽しそうに笑いながら去っていた。


 しばらくすると最初は夏侯惇かこうとんがうるさそうに追い払っていたのだが、いつの間にか何かを取られたらしく、返せ、と子供を追いかけ回していたところに曹操が出て来て、走り回っていた二人は彼に対して一礼すると、歩いて来た曹操と共に中庭を真っ直ぐ、帰って行った。


 子供が曹操の背に乗って、楽しそうに足を揺らしていた。

 しきりに曹操に何かを話しかけている。

 夏侯惇かこうとんはまたそんな子供を見咎めて、何か文句を言っているようだ。

 下りろ、というような大地を指す仕草を何度もしているが、曹操の背に乗った子供は、笑いながら天の方を指差している。

 そのうちに曹操も、天の星を指差して笑ったのが見えた。


 天の星を指して何を喋ったのだろうかと、張遼は珍しくそんなことが気になった。


 その子供が曹操の実の子供たちの誰でもなく、郭嘉かくかだったことに気付いたのは【官渡かんとの戦い】が終わってから、王宮で彼を見かけた時だった。


 その夜はただ子供を背負っている曹操の姿を見て、父親のように見えたから、

 そういえば呂布りょふには子供がいたのに、呂布が子供を抱き上げたり頭を撫でてやったり、背負って遊んでやっている姿を一度も見たことがないと、何故かそんなことに気付いた。



 父親であって、父ではない。

 唯一無二の才を持っていて、鳥のように羽ばたかなかった。

 鬼神と呼ばれたが今は亡く、すでに軍神ではない。

 ただの死人だ。


 確かに呂布は強さと覇気に満ち溢れていたが、同時に何かが強く欠けていたのだ。

 だがそれを補えるような人間は、もしかしたらこの世にいたのかもしれない。

 それとの出会いが、呂布には訪れなかった。


 曹操そうそうが帰ってから、少しだけ残っていた酒を飲む気になった。

 

 呂布のために涙は流れなかったが、

 微かに……泣けそうな気がした。



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