終章:新しい未来の設計

 次に目を開けた時。ヘリコプターの音は消えていた。追手たちの姿もどこにもなかった。そして僕の隣にいた海音の姿も。


 ただ彼の小さな上着だけが床に落ちていた。その上着を拾い上げると、ポケットから一枚の紙が出てきた。そこにはこどもらしい字でこう書かれていた。


『ありがとう、渉さん』



 あの日から一年が経った。世界は少しだけ変わった。


 人々はまだ気づいていない。でも確かに世界は以前よりも予測不可能になった。完璧なはずの天気予報が時々外れるようになった。絶対に当たるはずのない宝くじに当たる人が現れた。そして人々の心にほんの少しだけ遊びと余白が生まれた。


 科学者たちは困惑している。物理定数にわずかな揺らぎが観測されるようになった。ハイゼンベルクの不確定性原理の影響が巨視的な世界にまで及び始めた。因果律に小さな「隙間」ができ、そこから新しい可能性が芽生えている。


 僕はソーシャルワーカーの仕事に戻った。そして海音の両親が遺した研究資料を引き継ぎ、新しい財団を設立した。未来を予測するためではない。子供たちの無限の可能性と自由な発想を育むための財団だ。


 財団での活動を通じて、僕は多くの子供たちと出会った。その中には海音のように特別な能力を持つ子もいた。だが僕は彼らを「利用」しようとは思わなかった。代わりに、彼らが自分らしく生きられる環境を作ることに専念した。


 ある日、一人の少女が僕にこう言った。


「おじさん、世界って不思議だね。同じことの繰り返しみたいに見えて、でも実は少しずつ違っている。まるでフラクタルみたい」


 フラクタル。

 自己相似性を持つ複雑な図形。

 どんなに拡大しても同じパターンが無限に続く構造。

 しかし、その「同じ」の中には無限の多様性が隠されている。


 海音が遺してくれた世界もそうなのかもしれない。一見すると以前と変わらない日常の中に、無限の可能性の種が撒かれている。それらはいつか芽を出し、新しい現実を創造するだろう。



 僕は今でも時々あの離島の灯台を訪れる。そして夜空を見上げる。


 海音は今どこにいるのだろう。


 彼はこの世界の風の中に、波の中に、星々の光の中にいるのかもしれない。彼はこの世界の因果律にほんの少しの「揺らぎ」を与え、僕たちに未来を選ぶ自由を与えてくれたのだ。


 ある夜、星を見上げていると、頭の中に懐かしい声が響いた。


「渉さん、聞こえる?」


 それは紛れもなく海音の声だった。僕はあわててあたりを見まわした。

 しかし、彼の姿は、ない。


「僕は今、意識の海にいる。ここからは全ての可能性が見える。渉さんが作った財団で育つ子供たち、彼らが大人になった時の世界、そして僕たちがまた出会う未来も」


 僕は涙が止まらなかった。


「君が孤独じゃないか心配だった」


「孤独じゃないよ。ここにはたくさんの意識がある。過去に生きた人たち、未来に生まれる人たち、そして並行世界の僕たち。みんな繋がっているんだ」


「また会えるのか?」


「もちろん。でも次に会う時は、僕はもっと人間らしくなっているよ。渉さんが教えてくれた感情を、僕は今学んでいる。愛とは何か、希望とは何か、そして絆とは何かを」


 声は次第に遠くなっていった。


「時間は循環している。終わりは始まりで、始まりは終わり。また会おう、渉さん」



 知性の果てにたどり着いた孤独な少年。彼が最後に見つけた答えは論理ではなく感情だった。予測可能な未来ではなく、予測不可能な希望だった。


 僕も彼のように強く、そして優しくなりたい。彼が遺してくれたこの新しい未来を僕の手で少しでも良い場所にしていく。それが僕にできる唯一の彼への恩返しなのだから。


 財団で働く子供たちを見ていると、海音の遺したものの大きさを実感する。彼らの瞳には好奇心と希望の光が宿っている。未来は不確実だが、だからこそ美しい。可能性は無限だが、だからこそ選択に意味がある。


 空を見上げると流れ星が一つ流れた。僕はそっと手を合わせた。


 ありがとう、海音。

 君が開けてくれた小さな風穴から、今日も新しい風が吹いている。


 そして僕は知っている。この物語はここで終わりではない。これは新しい物語の始まりなのだ。海音が撒いた可能性の種が育ち、やがて大きな花を咲かせる物語の始まりなのだ。


 僕たちはまた出会うだろう。

 きっと、また。


(了)


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【SF短編小説】量子の少年と感情の方程式 ~透明な瞳が映す無限の未来~(約10,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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