夢の鏡に咲く名は
モトノ助
佐伯澄音と神格『エネア=ヤノス』の出会い
川は日によって表情を変え、朝の光を反射して花のようにきらめいた。土手に咲く名も知らぬ白い花は、風に揺れては音もなく笑っているようだ。
澄音は、静かな中学校生活を送っていた。存在感は薄く、教室ではほとんど話すこともない。
いてもいなくても同じな自分。――だが、澄音はその曖昧な立ち位置をむしろ好んでいた。誰の視線も届かない場所で、自分という空白を保つことに、奇妙な安心を感じていたのだ。
そんな彼女の背後の席には門倉という男子がいた。寡黙で、誰とも交わらない。しかし時折、澄音は彼の視線を背中に感じることがあった。
目が合うわけではない。ただ、沈黙のなかで何かが触れる気配だけが残る。
ある日、国語の授業で『方丈記』が取り上げられた。
教師の榊原が、静かに黒板に字を書きながら一節を読む。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず……」
一瞬、教室の空気が凍る。榊原は手を止め、黒板に向けたまま、吐息のように何かを呟いた。
「……エネア、ヤノス……」
その名は風のように掠め、生徒たちの耳には届かなかったかのようだった。多くの生徒は聞き流し、ノートを取るふりをして笑い合っていた。
だが、澄音の中でその言葉だけが、やけに強く響いた。
胸の奥で水音のように反響し、どこか見知った名のような気がしてならなかった。
――その夜、夢を見た。
川が流れていた。だがそれは現実の通学路の川ではなく、空のない世界を流れる、光のない水だった。川辺には花が咲いている。あの土手で見た白い花と、まったく同じもの。
川面に立つ鏡。その中に、自分と同じ顔をした“もう一人”がいた。
──『こちらへおいで』
声はなかったが、目がそう語っていた。澄音は引き寄せられるように、鏡の中へと踏み込んだ。
そこは時の流れが存在しない夢の底。名もなき白い花が揺れている。やがて、彼女はもう一人の自分と向かい合う。
『私は、あなたになれなかった
その言葉に澄音は戸惑いながらも、自分の心のどこかで、ずっとこの存在を知っていた気がした。
それから澄音の世界は崩れはじめる。現実の教室に、自分とそっくりな別の佐伯澄音が現れ、クラスメイトたちはそちらを自然に受け入れ始める。
むしろ本物の澄音を、徐々に忘れていく。
「わたしは、わたしなのに……」
存在が透けてゆく恐怖。名前が、声が、記憶がほどけていく感覚。
放課後、門倉がふと彼女に声をかける。
「……お前、見えてるのか?」
澄音はうなずけなかったが、門倉の目だけが彼女をまっすぐ見ていた。まるで、すでに彼も夢を知っているかのように。
そして再び夢。川の岸辺。今度はその川が、まるで星の光を反射するように、仄かに輝いていた。
川の先に、花が咲いている場所があった。あの白い花が群生し、風も音もない中で、ただ咲いていた。そこで澄音は、声なき神格に出会う。
──エネア=ヤノス。
白い花の影の中から、穏やかで女性のような声が響く。
「あなたは、誰になりたいの?――それとも、誰にもならずに、ただここに在り続けたいの?」
その声は温かく、澄音の心を撫でるようだった。
澄音は、幼い頃の記憶──母の優しい声、名を呼ばれた日のこと、そして名を失いかけた今──すべてを夢の川に沈めるように手放した。
「私は……誰にもなれない。でも、誰にでもなれる。それがわたし」
その瞬間、彼女は花の咲く岸辺に立っていた。あの夢の岸辺で見た花と同じ。
鏡は砕け、澄音は現実へと戻っていく。
目覚めた朝、教科書にも出席簿にも名前はなかった。だが門倉は、変わらぬ声で言った。
「おはよう、澄音」
その声に、澄音は小さく笑った。
誰かに名づけられるのではなく、自ら在ることの確信。
日常は変わらない。けれど、澄音は確かに変わった。
川沿いの帰り道、風に揺れる白い花が咲いていた。
その夜も夢は続く。星のない空の下、花はまた咲いていた。
名もなき神の声が、やわらかく囁いた。
「咲いたね」
それは、澄音自身の声だった。
夢の鏡に咲く名は モトノ助 @nimoto
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