早く寝ないとあばばが来るよ

奥羽王

第1話



卒業式を終えた私はクラスメイトとの挨拶もそこそこに校門をくぐり、ひとり家路を急いだ。「高校に行っても忘れないでね…!」と泣きつく友人の寸劇に構っているヒマはなかった。というか中高一貫校だし。


今日は私の卒業式であり、母の誕生日でもあった。仕事の忙しい母が式に参加することは叶わなかったが、都合をつけて早退してくれるという。私は一刻も早く家に帰り、母と二人の時間を過ごしたかった。


女手一つで娘を育てた苦労を全く感じさせないほど、母は美しく、聡明な人物だった。「卒業式の夜は何を食べたい?」と問いかけられた日、私は迷わず母の手料理をリクエストした。お店の方が美味しいよと笑いながらも、ご馳走を作ることを母は約束してくれた。そんな母を私は愛し、それ以上に尊敬していた。



その日の夜。

好物ばかりが並んだ食卓で、私は小さな頃の思い出を話していた。

母に直接ありがとうとは言えなかったが、こうして親子の思い出を振り返ることで、感謝を伝えられるような気がしていた。


「そうだ、あばばって覚えてる?」

「あばば?何それ」

「覚えてないの?お母さんがいつも言ってたんだよ」


それは、幼い私を叱るために母が使っていたおまじないのようなものだった。

例えば、「早く寝ないとあばばが来るよ」というように。

何かにつけて「あばばが来る」と脅されたものだが、この年になってもその正体は分からないままだった。


「あー!思い出した。あばばが来るってやつね。

 あれは適当に言った言葉だから、別に意味なんてないよ。」

「え、適当なの?」

「うん。最初は鬼が来るとか言ってたんだけど、"鬼さんに会いたい!"とか言って逆効果だったから…。それがあばばって言った瞬間、嘘みたいに言うこと聞くようになったの。」


なるほど、そういう理由だったのか。

拍子抜けというか、私の聞かん坊っぷりが原因だったとは。少し恥ずかしい。


今でもあばばは怖い?と母が笑うので、怖くないよ、むしろ会いたいくらい、と私は答えた。


瞬間、母の顔から表情が消えたような気がした。


「あばばに会いたいの?本当に?」

「え?いや…あばばなんていないんでしょ?

 会いたいも何も、いないんだったら会えないでしょ」

「いるよ。いるというか、あばばはあるよ。

 別に怪異の名前なんて何だっていいんだよ。名前なんてただの符号なんだから。特定の何かを指すための符号と、それを恐れる人間の心があれば、そこに怪異は生まれるの。私は鬼です、って、鬼が自己紹介したと思う?鬼と名付けた何かを人が恐れたから鬼はあるし、ならあばばだってあるんだよ。」


いやいや…どうしちゃったのお母さん。

普段も冗談を言うことはあるけど、こういうブラックなネタを言うタイプではない。私を本気で怖がらせようとしてるんだろうか。


「なるほどね。じゃああばばにも会えるってこと?

なら私は会いたいよ。私が生んだ怪異がどんな姿か見てみたい」

「本当に会いたいのね。どうなっても知らないよ。

 これはあなたの恐怖心だけを食ってできた怪異なんだから。

 他の誰も関係ない、あなたの恐怖が純度100%で形になったものなんだよ」

「いいから!百聞は一見にしかずだよ。あばばを連れてきて」


ガコッと、硬いものが外れるような音とともに、突然目の前の母が大きく口を開いた。一目で冗談ではないと分かるほど異様な表情だった。先の音は、恐らく顎が外れた音だった。


え…お母さん?と私は呼びかけるがその声は小さく、自分の耳にさえ届かない。

母の目が光を取り戻し、理解を超えた苦しみに見開かれた。


とうに限界を超えたはずの口は、その間もキリキリと少しずつ大きくなっていく。

まるで透明な怪物の腕にこじあけられているかのように。


苦痛を訴える母の声はいびつな形の口蓋によって歪められ、アガガ、という不快な音になった。その音を聞いて私は理解する。私を襲う最大の恐怖とは、母を襲う最上の苦痛であったことを。


恐怖と後悔によってその場に張り付けられた私の眼は、私が生んだ怪物によって美しい母の顔が破壊される様を捉え続けていた。

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早く寝ないとあばばが来るよ 奥羽王 @fukanoro

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