目つきが悪い女の子が彼女になるまで

@Tanabe3

声が綺麗な、無口な彼女のこと

春の風は、校舎の隅に溜まった冬の気配をそっとさらっていくようだった。

教室の窓辺で風に揺れるカーテンの向こうには、ほんのりと咲き始めた桜の枝が見えていた。

四月の始まり。クラス替え初日。浮足立つ空気の中で、佐倉悠真は新しい座席に腰を下ろしていた。

周囲のざわめきは、どこか落ち着かない。友達を見つけて歓声を上げる生徒。自分の席の場所を確認している者。静かに教科書を開いている者。そのすべてを、彼は無言で眺めていた。

そんなとき、ふと視線が止まる。

教室の一番後ろ。窓側の席。そこに、ひとりの女子生徒が座っていた。姿勢よく、まっすぐ前を見ている。

――いや、「睨んでいる」と言った方が正しいかもしれない。彼女の視線は、明らかに鋭かった。

目の細さのせいか、少し眉間に力が入っているように見えるせいか。とにかく、周囲の誰もがその目を避けるようにしていた。

「……あれ、天宮さんって言うんだよな」

隣の席の男子が、ひそひそと話しかけてきた。

「中学のときも結構有名だったらしい。目つき悪いし、話しかけても無視されるって」

悠真は答えず、もう一度その女子を見た。

彼女――天宮ひなたは、じっと前を見つめていた。

黒髪を高めの位置で結んだポニーテールと、肌は色白で制服の着こなしはきちんとしている。

背は平均よりやや低めで、肩幅も小さく、繊細な線がそのまま身体に現れているようだった。

無表情で、口を固く結んだまま。まるで、自分の存在をなるべく目立たせないように、でも気を張っているようにも見えた。

そのとき、ほんの一瞬だけ目が合った。

その鋭い瞳に射抜かれたような気がして、悠真は小さく息をのんだ。

だが、彼女はすぐに視線を逸らした。何事もなかったように、また前を見据える。

――怖い。

教室の空気が彼女を避けているような、この感覚がそう思わせるのかもしれない。

悠真の胸に広がった感情は、それだけだった。

放課後になって、帰り支度をしながらふと後ろを振り返ると、彼女の席はもう空になっていた。

誰よりも早く、そして誰にも気づかれないように教室を出ていったらしい。

(……ほんとに、話さないんだな)

その日、天宮の声を聞いた者はいなかった。もちろん悠真も。

けれど、その沈黙と鋭い視線は、確かに彼の中に残ったままだった。



その日も、天宮は教室で一言も話さなかった。

悠真は彼女の目を避けるようにして、机の上の教科書に視線を落とした。

しかし、放課後の教室では、わずかながら彼女と接点が生まれた。

「掃除当番、隣だったな」

悠真は声をかけた。言葉は簡単だったけれど、普段自分から話しかけることが少ない彼にとっては、大きな一歩だった。

天宮は一瞬だけ彼の顔を見たが、すぐに床に目を落とした。

口は閉ざされていたが、何かを考えているようにも見えた。

掃除が始まり、二人は自然と同じ範囲を担当することになった。悠真は雑巾を固く絞りながら、ゆっくりと話を続けた。

「窓、きれいにしたいだろ?」

「……うん」

その返事は、驚くほど小さくて落ち着いた声だった。まるで穏やかな夜の風のように心地よくて、悠真は思わず息をのんだ。

「……声、きれいだな」

彼のつぶやきに気づいたのか、天宮はちらりと横顔を向けた。彼女のその声は、低くて澄んでいて、不思議な安心感をもたらした。

天宮が黙っている理由がわからない悠真は、無理に話を続けることをやめ、ただ彼女の背中を見つめていた。

その静けさは、不自然でもなく、ぎこちなくもなかった。まるで言葉の代わりに、互いの存在を確かめ合っているようだった。

掃除が終わりに近づいたとき、天宮が言った。

「ありがとう」

その一言は、いつもの冷たい目つきと相反して、どこかあたたかかった。

悠真は思わず顔を上げた。

「……どういたしまして」

彼女の言葉をしっかりと聞くのは、初めてだった。



文化祭が近づく秋のある日、教室のざわめきの中で、天宮はいつも通りに静かに座っていた。

目つきの悪さから周囲の噂は絶えず、彼女はその壁を自ら作るように距離を置いていた。

悠真はそんな彼女の様子を、遠くから見つめていた。自分から近づけば、壊れてしまうかもしれない繊細な空気を感じ取っていた。

ある日、放課後の図書室で、偶然天宮と二人きりになることがあった。

「……佐倉くん?」

天宮のその声は、またしても驚くほど落ち着いていて、少しだけ照れた響きが混じっていた。

「図書館に来るなんて珍しいな」

悠真は緊張しながら言った。

「……調べ物。放課後はここが静かだから」

彼女はそう言って、目を伏せた。普段の鋭い目つきはどこか影を潜めていた。

その時、天宮の落とした本が床に転がった。悠真はすぐに拾い、差し出す。

「ありがとう」

彼女は軽く会釈をしたが、どこかぎこちなさがあった。

「……話、してみる?」

悠真がそう言うと、一瞬戸惑いの色が見えたが、やがてゆっくりと頷いた。

それから、ふたりの間に言葉が少しずつ流れ始めた。話題は趣味や学校生活のこと。天宮は無口ながらも、優しい口調で答えた。

「……佐倉くんは、いつも優しいね。私、人と話すのが苦手だけど、佐倉くんになら話しやすい」

口元をわずかに緩めて話す彼女の言葉は、まるで宝石のように大切に響いた。

(俺は、天宮のこと、もっと知りたいんだ。)

そう心の中で強く思った。



文化祭まで残り三日。

教室の机は押し寄せる段ボールに埋もれ、テープやハサミ、カラースプレーが無造作に置かれていた。

「佐倉ー、この張り紙、持ってってくんない?」

「了解」

教室内はにぎやかで、普段は大人しいクラスメイトたちも声を上げていた。

そんな中、天宮もまた黙々と作業していた。折り紙を丁寧に折り、壁に並べて貼っていく。

佐倉は、その姿を時折目で追っていた。

誰とも会話せず、けれど人並みに、いやそれ以上に真剣に取り組む彼女。

あるとき、天宮が階段下から重そうな箱を持ち上げようとしているのを見つけ、彼は思わず駆け寄った。

「それ、俺が持つよ」

「……平気」

「いや、でも……怪我とかしたら大変だし」

天宮は少しだけ戸惑ったように視線を伏せた。

「……じゃあ、お願い」

素直にそう言われたことが少し嬉しくて、佐倉は箱を軽々と引き受けた。

彼女の口調はやはり静かだが、そこにはほんの少しだけ、気を許している気配があった。


秋晴れの空の下、文化祭の朝はどこか浮き立っていた。

クラスの出し物は「チュロス」。教室の一部を装飾し、味はシナモン、チョコレート、ミルクを販売している。

佐倉はエプロンをつけ、天宮と一緒に受付係をしていた。

天宮は無口ながらも、注文を聞き、チュロス袋へ入れてお客さんへ渡している。

その姿は、普段の印象とはまるで違った。

──静かで、きれいで、目を奪われるような空気を持っている。

「いらっしゃいませ」

そう言う天宮の声は、澄んでいてやわらかい。目つきが悪いなどと噂していた同級生たちも、次第にその雰囲気に気づき始めていた。

「天宮さん、実は可愛いんじゃね?」

「なんか、声すごい綺麗……声優みたいじゃん……」

ひそひそとそんな声が聞こえてくる。

佐倉は胸の奥で何かがざわつくのを感じた。なぜか、落ち着かなかった。

「……佐倉くん」

不意に、天宮が彼の袖を軽く引いた。

「うん? どうした」

「交代の時間だから、ちょっと……外、出ない?」

次の担当者と入れ替わった後、教室を抜け出して、校舎裏のベンチに並んで座る。そこには誰もいなかった。

「……うるさくて、ちょっと疲れた」

「そっか。今日、一日中ずっと忙しかったもんね」

「うん……でも、楽しかった」

彼女の口元に、かすかに笑みが浮かんだ。

それが初めて見る“心からの笑顔”だったことに、佐倉は気づいた。

「……天宮」

「ん?」

「今日の天宮、すごくよかった。声も……、なんていうか、ちゃんと伝わってたと思う。みんなにも」

天宮は少しだけ黙ったあと、小さく呟いた。

「……ずっと、怖がられてばかりだったから」

「俺は最初、確かにちょっと怖かったよ。でも、今は……違う」

そう言うと、彼女は俯いて、小さく息を吸った。

「佐倉くんは、変わらなかった。だから……、その……私……佐倉くんの、こと」

ぎこちない言葉の先を、彼女はうまく繋げられずにいた。

だが、その目だけは真っ直ぐに佐倉を見ていた。

「俺も……天宮のこと、好きなんだと思う」

そう口にした瞬間、天宮の目がふわりと揺れた。

風が通り過ぎる中、しばらく沈黙が続いたあと──

「……ねえ、佐倉くん」

「ん?」

「付き合うことになったら……その、私のこと、名前で呼んでくれる?」

「……“ひなた”って?」

彼女は小さく頷いた。その頬は、ほんの少しだけ紅く染まっていた。

佐倉と天宮はわずかに開いていた隙間を埋め、やがて二人の顔が重なった。



天宮と佐倉は、屋上裏のベンチに並んで座ったまま、しばらく言葉を交わさなかった。

だが、それでも心は静かに、確かに繋がっていく。

「……“ひなた”、って……言い慣れないな」

佐倉が、さりげなく名前を呼ぶと──

「……でも、ちょっと嬉しい」

天宮はそう言って、照れ隠しのように視線をそらした。

付き合うことになった――それだけの事実が、ただの文化祭の空気を特別なものに変えていた。

やがてチャイムが鳴った。

「あ……そろそろ戻らなきゃ」

「うん……クラスのチュロス、まだ残ってるかな」

手をつなぐかどうか、ぎこちなく迷う間もなく、二人は並んで教室へ戻った。


「いらっしゃ……あっ、佐倉!どこ行ってたんだよー!人手足りないってのに!」

クラスメイトの男子がすかさず駆け寄る。

「ごめん、ちょっと……ひなたと外に出てて」

「……へぇ?ひなたって、天宮さんと?二人で?」

周囲の空気がピリ、と変わる。

天宮は無言のままだが、ほんの少しだけ背中を縮めるようにして俯いていた。

「……え、なにその空気。え、もしかして、付き合ってるとか?」

その言葉に、教室内が一瞬でざわついた。

佐倉は思わず天宮を見る。彼女は……頷いた。

「うん……付き合うことになった」

頬を紅く染めた天宮は静かな、でも確かな声でそう答えた。

クラスの空気が一瞬固まったあと、女子グループの一人が叫んだ。

「えっ、やば……天宮さん、めっちゃギャップじゃん!?声も可愛いし、落ち着いてて!」

「佐倉、やるなぁ〜!!」

「なんかちょっと意外だけど、わりとお似合いじゃない?」

次第に空気は柔らかく、賑やかにほどけていった。

そんな中、佐倉は天宮に顔を近づけて、そっと言った。

「ひなた……大丈夫?」

彼女は、小さく微笑んだ。

「大丈夫。……もう、逃げなくていいって思ったから」


文化祭の午後も終わりに差しかかり、教室には片付けの準備の声が響いていた。

チュロスの在庫も残りわずかになり、佐倉と天宮はカウンターの裏で少しだけ休んでいた。

「……こっち、おいで」

天宮がそっと佐倉の袖を引いた。まるで以前とは違う、少しだけ甘えたような仕草だった。

「どうした?」

「……“ひなた”って、もう一回呼んで」

「ひなた」

その一言だけで、彼女の頬がほんのり赤く染まった。

「……やっぱり、すごく変な感じ。でも……嫌じゃない」

「うん、俺もちょっと照れるけど……気に入ってる」

その日、祭りが終わっても、ふたりの関係は静かに、ゆっくりと変わり始めていた。

今まで天宮が隠していた心の奥も、少しずつ、言葉に乗るようになっていた。

そして佐倉はそのすべてを、時間をかけて、ひとつずつ受け止めていこうと決めていた。

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