ルドンの描いた幻想

九月ソナタ

眼球と大蜘蛛



 フランスにオディロン・ルドン(1840-1916)という画家がおり、オルセー美術館には106作(リトグラフ含)もの作品が所蔵されている。ちなみに、モネは86作品である。

 

 ルドンがどのような画家かというと、モネと生年月日が同じなのだが、彼は印象派の画家ではなく、「象徴主義」に分類されている。

 モネやルノワールが光あふれる明るい世界を描いていた頃、ルドンは、夢や幻想、内面の感情を、多くの場合、不気味に表現した。 


 特に彼の初期の「黒の時代」の作品では、たとえば、奇妙な生き物や顔、怪物を描いた。「眼」という絵では眼が大きな気球で、下に生首をのせて宙に浮かんでいる。「蜘蛛」では、蜘蛛の胴体に、人の顔が描かれている。

また代表作の「キュクロス」ではギリシャ神話にでてくる一つ目の怪物が、美しい裸のガラティアをこっそりとのぞき見している。


 やがてルドンは油彩やパステルを使い始め、「色彩」の時代へと移行した。この時期の作品は、鮮やかで幻想的な色彩に満ちており、花や神話のモチーフを多く描き、なかにはシャガールと見間違える作品もある。しかし、なんといっても、他と一線を画すのは、初期の作品群である。


 彼の絵は人の潜在意識を視覚化したもので、その点、印象派の作品とは全く違い、明るくはなく、難解である。でも、印象派に物足りなさを感じる人からは人気のあった画家で、「好きな人は好き」。

 見れば見るほど面白い絵で、これを読んでくださっているあなたの好みかもしれない。


 今回、三題噺のお題「怪物」「蚊」「土地」を見て、まず頭に浮かんだのが、ルドンの絵。これしかないでしょう、という感じ。というわけで、ここで、ルドン的世界を書いてみようと思う。


*


 灰色の霧に覆われ、すべての命が失われた不毛な土地に、巨大な一つの眼球が横たわっている。その黒い瞳には、朽ちた村々の幻影や、失われた人々の虚ろな影が映っている。まるでこの眼球が、この世の悲しみを背負っているかのようだ。


 ある日、一匹の蚊が、その眼球の、不気味に濁った涙を求めて飛んできた。蚊は喉が割れるほどに渇いていたので、無心にその水を飲み続けた。


 飲んでいる時、その小さな体に、無数の幻覚が流れ込んできて、渇きが癒された時、蚊には眼球の中で、叫んでいる人々が見えてきた。

 愛を失った女の嘆き、どんなに願っても夢が叶わなかった少年の絶望、誰からも相手にされなかった人の孤独と慟哭。


 蚊は、自分が吸い込んだこの悲しみを、誰かに伝えなければならないと思った。しかし、この土地にはもう、耳を傾けてくれる者などいない。

 

 絶望と孤独を抱えた蚊は、ゆっくりと目玉の周りを飛び回り、命が尽きるまで、その羽音で悲しみの歌を奏で続けた。

 蚊が最後に奏でた悲しみの羽音は、誰に聞かれることもなく、消えていった。それが彼の運命だったのか。

 彼は、何のために、がんばって生き続けたのか。


 しかし、ある日、眼球にわずかな変化が起きた。

 蚊の羽音が、眼球の奥深くに眠っていた存在を目覚めさせていて、それが蛍のそれよりも小さな光を放出した。その光は時間をかけて形を変え、蜘蛛の怪物みたいな姿になった。大蜘蛛の丸い胴体には、嘆きと絶望に満ちた人の顔が浮かび上がっていた。


 大蜘蛛は、眼球の中にあった嘆きと絶望を、網を張るようにして、すべて取り込んでいった。それらは、大蜘蛛の網の上で、一つひとつが歪んだ宝石のように輝き、次第に色を帯びていった。愛を失った女の嘆きは燃えるような赤に、夢を失った少年の絶望は深い青に、忘れられた人の孤独は濃い紫に。

 

 大蜘蛛は、その網に集めた色彩を、一本一本の糸に織り込み始めた。それは、この世の悲しみと孤独を閉じ込めた、悲しくも美しいタペストリーだった。

 大蜘蛛は八本の足を器用に使い、それを、丁寧に、不毛な大地の上に広げた。


 すると、タペストリーの色彩が大地に染み込み、枯れ果てた土から、奇妙な花々が咲き乱れた。人の顔を持つ花に、ガラスの羽を持つ巨大な蝶がやって来て、涙の雫の形をした果実が実をつけた。

 大地は色彩に満ちて、幻想的な世界へと姿を変えた。そして、その中心に座する蜘蛛は、新たな悲しみを待ち望むかのように、静かに眼球の傍らで、あなたが来るのを待っている。


               了

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