日本最高気温史

川野遥

日本最高気温史

 戦後の日本。

 その当時は、まあまあ暑い、しかし秩序だった夏がある国であった。

 この国において、暑いと言えば山形が全てであり、山形に逆らおうとするものはいなかった。

 日本の政治世界を完全に支配した山県有朋は1922年に死亡したが、最高気温の世界ではもう一つの山形が支配していた。

 1933年に確立した40.8という数字が、74年体制を築き上げていたのだ。


 この戦前体制……いわゆる官署制度は山形以外の者にも高い誇りを抱かせた。

 だが、しかし、日本が経済発展を果たし、高度経済化を果たすと、官署地域のみの気温を図ることは国民全体の利便に資さないことが明らかとなった。

 そのため、1970年代後半から日本各地にアメダスが配置されることになった。


 アメダスの存在は、官署の存在意義を脅かすものではあったが、当初は大きな脅威とはならなかった。

 それだけ山形の40.8度74年体制は盤石だったのである。

 むしろ、寒い方で江丹別が-38.1度を記録し、親分の旭川に叛旗を翻すのではないかと言われた状況だ。


 しかし、時代は推移する。

 都市部ではアスファルトがいたるところに舗装され、ヒートアイランドが進み、高温化がじわじわと進んできた。

 そして、遂に74年体制が崩れる日がやってきた。


 2007年8月16日。

 この日、埼玉の熊谷、岐阜の多治見が40.9度を記録し、長きにわたる山形の支配体制を覆した。

 ただし、この変遷が即座に時代の変化までもたらすわけではなかった。

 山形は確かに脱落したが、官署の熊谷、アメダスの多治見という二地点が日本記録を立てたことである種の鼎立状態を生み出したのだ。


 山形の74年体制を打破した熊谷、多治見はそれぞれに「日本でもっとも暑い街」をアピールしていた(特に熊谷)。

 しかし、この記録からしばらくすると、多くの人は「熊谷と多治見は実は傀儡ではないか」と疑うようになった。

 この時代、毎日のように夏を騒がせていたのは館林だったからである。

 日本最大の人口を誇る関東圏では連日、「本日なんちゃらの理由で関東地方では気温が上昇し、群馬県館林市では国内最高のほにゃらら度を記録しました」というフレーズを聞くことが定番となった。単発の記録は出さないが、連日国内最高気温を出すことで、PRするという方針を立てたのである。

 故に、今や館林は夏の季語ともなっている(大嘘)。


 この強すぎる館林黒幕体制には批判も多かった。

 館林アメダスは駐車場内に隣接しており、「気温ではなく駐車場の車の排熱温度を図っている」という批判が相次いだのである。情報化が進んで日本の最高気温まで関心を集めるようになると反舘林運動には拍車がかかり、いつしか館林は「ズル林」と称されるようになってしまった。


 館林が隆盛を極める一方、傀儡ではないかと目されていた熊谷&多治見政権は2013年、脅威の西日本猛暑に覆されることになる。

 かねてから、西日本猛暑で存在感をアピールしていたのは高知・中村であったが、中村は強烈な弟子を育てていた。その弟子・江川崎は今なお日本記録である4日間連続40度超えに、日本最高の41.0度を記録するなど、大躍進を遂げたのである。

 しかし、暑い街として定着していた熊谷と多治見は、江川崎の出し抜きに猛反発(ということにしておく)。江川崎アメダスがアスファルトのすぐそばにあることを指摘して、「不当な記録だ」と批判したのである。


 熊谷と多治見は実は傀儡ではなかった。

 彼らは2010年代後半になると、猛反撃を行い、まず館林アメダスをより涼しいところに移転させる白色クーデターを成功させた。

 これにより館林は完全に失墜し、群馬県は伊勢崎に期待を託すしかなくなったが、そこはぬかりがない。伊勢崎の単独体制にならないよう桐生を強化させ、群馬が二分する措置をとったのだ。


 館林が失墜したことで、熊谷と多治見は再び春を謳歌することになった。

 2018年、熊谷は41.1度という国内最高気温記録を塗り替えた。これにより「条件さえそろえば日本で一番暑くなるのは熊谷」という信仰を打ち立てた。2020年に浜松が41.1度を記録してもそれは変わりがなかった。

 一方の多治見は、かつての舘林路線。すなわち連日、「本日の国内最高気温は岐阜県多治見市でなんちゃら度」という方向に進むことになったのである。


 だが、世界は変わる。

 旧秩序の支配がいつまでも続くはずがない。


 2020年代初頭、新型コロナウィルスが支配した3年間……このハプニングによって旧秩序は辛うじて生きながらえることができた。

 それが明けると、猛暑は完全に新時代を築いていた。

 世界経済の秩序が崩壊したのと同じく、高温世界も完全に秩序が崩壊。これまで以上の戦国時代と化したのである。

 気分屋の熊谷は数年に一度しか記録を出さない。多治見はアメダス界でも旧勢力として舘林同様の制限を食らってしまい、連年のように新しい地域が40度前後を叩きだす時代に突入したのである。


 これに対して無力な日本政府は時々高い気温を叩きだす東京と、練馬アメダスを考えられる限りもっとも涼しい地域に移転させ、「東京は暑くないのでオリンピックが開催できます」と弱々しく主張するのが精いっぱいだった。

 1980年代にジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた日本はここまで衰微していた。


 2020年代半ばに入る頃には、世界はポピュリズムが支配し、同時にアメダスの官署に対する遠慮も完全にゼロとなった。

 遂に2025年7月30日、戦国猛暑を体現するがごとく兵庫・柏原が41.2度を記録した。同地の近くには伝統ある山陰猛暑地域・豊岡が存在するが、この日は豊岡をあざ笑うがごとく、近くの柏原、福知山、西脇が40度超えを記録。もはや西日本で旧秩序は完全に打破されてしまった。


 東日本もこれに呼応した。その立役者は舘林失墜以降、群馬の希望と目されていた伊勢崎と桐生である。

 一週間も経たない8月5日に桐生が41.2度で追いついた後、伊勢崎が41.8度という圧巻の記録を打ち立てた。

 伊勢崎は同時に夏の最高気温は0.1度刻みで更新されるという馬鹿げた盲信も打ち消したのである。


 しかし、日本の戦国猛暑はまだ始まったばかりである。

 その年の気温がこれからの10年でもっとも涼しい年になると言っても良い現状、この戦国時代は更なる混迷を見せるのかもしれない。


(完?)

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