木漏れ日のベンチ

彩原 聖

さよならを言わなかった夏

 木漏れ日のベンチ


 そのベンチはいつもぽつんと空いていた。


 図書室の裏手の朽ちかけた温室の脇にひっそりと佇む、鉄製の古い長椅子。

 

 さびがまだらに浮かび、木陰に守られていても、午後の陽射しが背もたれを熱く焼いた。

 

 誰も座ろうとしないその場所に私はなぜか毎日のように足を運んだ。

 

 誰かとしたを守るかのように。


 そこには、どこか懐かしい空気が漂っていた。ページをめくる音と遠くで響く蝉の声が混ざり合う。夏だけの静けさだろうか。


 大袈裟にくしゃみをしても誰にも迷惑のかからないこの場所がいつしか心の支えのようになっていたと思う。

 

 いつも私は、図書館で借りた文庫本を手にそのベンチに腰を下ろす。

 ただ文字を追いながら時間を溶かした。


 七月の終わりだったと思う。

 彼女と出会ったのは。


 木漏れ日の下、ふいに現れた彼女はまるで夏の幻のようだった。白いシャツと汗で張りついた茶色の髪がなまめかしい。

 

 琥珀こはくのような瞳は夕暮れの光を閉じ込めたように揺れていた。彼女の手には私と同じく文庫本があり、少し色褪せた表紙が彼女の指にしっくり馴染んでいる。

 

私とはまるで違う風貌で、どこかこの世の人ではないとすら思えた。おそらく隣町の高校生だろうなというのは彼女の制服からわかった。


 午後一時ごろだったろうか、燦々さんさんと照りつける太陽が木陰からはみ出そうとしていた。


 ふとした時に「ここ、静かだね」と言われた。隣に座った彼女の声は涼やかで、どこか遠かった。


 私は本から目を上げ、喉の奥で言葉を探した。

 

「そうやね、でも暑いのになんでこんなとこに?」

 

 急に声をかけられたことで、少し乱暴な口調になってしまう。


 でもそれはきっと私の照れ隠しだった。それは美しい彼女との会話に対するものである。


 彼女は本にしおりを挟み、かすかに微笑んだ。


「静かだからだよ。ゆっくりと考えるのに丁度いい」

 

 それだけ言って彼女は再びページに目を落とした。

 

 本の文字をじっと見つめる彼女の鼻はほんのりと赤く、目元にはじんわりと涙が滲んでいた。


 私は何も言えず、本に戻った。だけど、文字は頭を素通りするばかり。

 

 その姿を見てからか、彼女の横顔、汗で光る髪、ページをめくる指の動きが視界の端で気になって仕方なかった。


 蝉の声が響き、風が草を揺らし、遠くで学校のチャイムが鳴る。その音を彼女は一つ一つ味わうように聞いていた。その仕草に名前の知れない哀愁が漂う。なぜか胸が締めつけられた。


 ---


 私たちは約束などしていなかった。


 それにも関わらず、彼女は次の日も、その次の日も、同じ時間にベンチに現れた。私たちは自然と隣に座る。

 

 私は彼女の読む本の背表紙を盗み見たり、ページの進みを数えたりした。

 

 彼女が読んでいたのは、古い恋愛小説だった。ページの端が少し折れていて、誰かが大切に読み返した痕跡があった。


 あるとき、ふと尋ねた。


「その本おもしろいん?」


 彼女はページから目を離さず、小さく笑った。


「まあね。ちょっと切ないけど」


 その言葉になぜか胸がざわついた。 


 しばらくの沈黙のあと彼女がふいに言った。


「……今度貸してあげようか?」


 思わず顔を上げて、「え、いいん?」と聞き返すと、彼女は少しだけ、いたずらっぽく微笑んだ。


「ちょっとだけならね」

 

 彼女の笑顔はどこか大人びていて遠い記憶を呼び起こすようだった。


 彼女は文庫本をそっと私の膝の上に置いた。

 

「返すの急がなくていいよ。でもページは折らないでね」


「……わかった」


 本を両手で受け取ったとき少しだけ彼女の指が触れた。熱くもなく冷たくもない、でもどこか儚い温度が残った。


 彼女が本を渡すとき、ページの端に小さな書き込みが見えた。

 

 鉛筆で薄く書かれた「さよならは言わない」という一文。

 

 彼女の字かどうかはわからなかったが、彼女がそのページを何度も読み返したように、紙の角がわずかに擦り切れていた。

 

 彼女は私の視線に気づいたのか、そっと本を閉じ、「この本、誰かの大事なものだったのかもしれないね」と呟いた。

 

 その声には、どこか遠くへ旅立つような響きがあった。


 私は帰り道、本を抱えるようにして家へ向かった。


 部屋の窓を少し開け放つと、夜の風がカーテンを揺らした。

 

 外では蝉がまだ鳴いていて、その声に混じって遠くの踏切がチリリと鳴いた。

 

 本の表紙は手になじむ柔らかさですでに読み込まれた紙の感触が優しかった。ページを開くとほんの少しインクの匂いが残っている。


 登場人物のセリフが、なぜか彼女の声と重なった。

 

 甘さよりもどこか切なさを含んだ恋の話。

 

 淡い気持ちがすれ違いの中でゆっくりと育ち、やがて静かに終わっていく──そんな物語だった。


 読み終える頃には蝉の声も止み、空には月がぼんやりとかかっていた。時計の針は思ったよりも遅い時刻を指していた。

 

 私は静かに本を閉じて机の上に置いた。

 

 まるで壊れもののようにそっと。


 翌日も、彼女はいつものようにベンチにいた。いつもの白いシャツの袖を風が揺らしている。


 「ありがとう」と私は言って本を差し出した。


 彼女は本を受け取って表紙を一度撫でた。「どうだった?」


 少しだけ考えてから私は言った。


「……好きかもしれん。静かでさ、でも心がずっと動いてる感じだった」


 彼女は驚いたように私を見て、それからふっと笑った。

 

「その感想ちょっと嬉しいな」


 蝉が高く鳴いていた。空は澄んでいて、だけどどこかいつもと違った匂いがした。

 

 遠くで運動部のかけ声が聞こえて、校舎の屋根が熱を帯びてゆらゆらと揺れて見えた。


 何かが変わり始めている。そんな予感だけが胸の奥で静かに広がっていった。


 ある日、私はふと尋ねた。

 

「なんで毎日ここに来るん?」


 彼女は本から目を上げて木漏れ日を見上げた。

 

「八月の終わりまでに決めなきゃいけないことがあるの」


「何を?」


「内緒」


 彼女の笑顔はまるで夏の終わりを閉じ込めたようだった。ニヒルでどこか切ない。


「八月の終わりってもうすぐやんか」


 彼女は小さく頷き視線を遠くに投げた。


「そう。期限付きの約束みたいなもの」


 その言葉が私の胸に小さな棘のように刺さった。


 ---


 夏が深まるにつれて蝉の声はかすかに濁り、空は少しずつ高くなった。彼女は変わらずベンチに現れ、私は変わらず隣に座った。

 

 言葉は少なく、でもその沈黙は不思議と心地よかった。


 八月も半ばを過ぎ、蝉の声が少しずつ弱まってきた頃、私たちはベンチで他愛もない話をすることが増えていた。

 

「この木、なんか変な形してるよね」と彼女が指さしたのは、温室の脇に立つ歪んだ松の木だった。

 

 私は笑って「めっちゃ曲がってるな。誰かに似てるかも」と返すと、彼女は珍しくくすっと笑った。

 

 「誰に?」と聞き返す彼女の目が、木漏れ日にきらめいた。

 

 その日は本を読まず、ただ雲の形や遠くの電車の音について話した。

 

 言葉の合間に流れる沈黙は、なぜか気まずくなくて、まるで昔からの友達のようだった。

 

 でも、彼女が時折遠くを見る目には、どこか言い表せない寂しさが漂っていて、私はその理由を聞けずにいた。


 ある日、彼女は小さな封筒を私に差し出した。

 

 クリーム色の厚手の紙に赤いシーリングワックスが押されている。ワックスの模様はどこか古い紋章のようだった。

 

 彼女の目にはいつもと違う影が揺れていた。

 

 唇の端がかすかに下がり、まるで何か大切なものを手放すような、静かな悲しみが浮かんでいた。

 

「まだ開けないで。八月の最後の日まで待ってて」


 そう言う彼女の声はいつもより少し低く、夏の風に溶けるようだった。

 

 私は封筒を受け取り、頷いた。家に帰ると、引き出しの奥にそっとしまった。

 

 でも、その重さが心に引っかかり、何度も手を伸ばしそうになった。約束を守る必要なんてない、と思いつつなぜか破れなかった。


 ---


 八月三十一日。空は厚い雲に覆われ、湿った風が頬を撫でた。


 ベンチに向かったがそこに彼女の姿はなかった。

 

 鉄の長椅子は、いつもと同じくそこにあり、ただ静かに夏の終わりを見守っていた。

 

 私は腰を下ろし、目を閉じた。蝉の声は遠く、葉擦れの音が近く響く。彼女の不在が胸にぽっかりと穴を開けた。


 家に戻り、封筒を開けた。便箋には、細いインクの文字でたった一行。


「また来年、同じベンチで」


 その言葉は、さようならか、再会への約束か。どちらとも取れる曖昧さが胸を締めつけた。

 

 便箋の端は少し震えた指で書かれたように揺れ、インクはどこか滲んでいた。彼女の笑顔、琥珀の瞳、夏の光が、頭の中でぐるぐると巡る。


 私は封筒を閉じて引き出しにしまおうとした。


 それを手に持ったままふと気づいた。

 

 私はこの夏、彼女と交わした約束なんて一つもなかったはずなのに、なぜか心のどこかで「守らなきゃ」と思っていた。

 

 彼女の笑顔や、木漏れ日の下で交わした短い言葉が、私の中に小さな義務のようなものを植え付けていたのかもしれない。

 

 約束って、言葉にしなくても生まれるものなんだろうか。

 

 彼女と過ごしたあのベンチの時間は私に何か大切なものを預けた気がした。

 

 来年の夏が来るまで、それをどうやって守ればいいのかまだわからないけれど。 

 

 ふっとため息をついた後、カレンダーの八月三十一日に、小さな印をつけた。

 

 来年の自分に約束を預けるように。

 

 次の夏が来たとき、私はまたあのベンチに座った。

 木漏れ日は変わらずに揺れ、蝉の声も同じように響いていた。

 

 でも、彼女の白いシャツも、琥珀の瞳も、そこにはなかった。

 ベンチの鉄は冷たく、ただ風だけが私の指先を撫でた。

 

 封筒に書かれた「また来年」の文字が遠い夏の幻のように胸に疼いた。

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