死にゆく者が最後に愛した記憶を刻む場所「湯屋」。そこに住む今は亡き志鷹と、余命半年を宣告された葵とが互いの記憶を共有するひと夏の幻想的な恋物語です。
湯屋は死を覚悟した魂だけにその姿を現すとされる此岸と彼岸の狭間に漂う蜃気楼のような舞台。此岸に置き忘れた想いを彼岸へ渡す中継ぎとした幽玄な物々しさに強く引き込まれることでしょう。
湯屋にある木桶の中をのぞき込めば志鷹の忘れられない記憶を垣間見ることができる。葵はけぶる湯気を通じて志鷹の秘める想いの情景を感じとります。そして、ふたりで眺めていた藍色の世界でお互い「好き」という言葉を飲み込んでいたとわかるのです。
その時の気恥ずかしさやくすぐったさといったら。
これは忘れられない記憶となりそうですね。
また「藍」という色の独創的な引き出し方も印象的です。それは死を匂わせる静かで仄暗い冥色である一方で、生ける者の葵が初恋の記憶の余韻に染めていく配色。これら生死の対比をあえて同色で塗沫し、その境界を曖昧にぼかした巧みな技法で描かれています。
さらに情景・心理面ともに盛り込まれた味わいに長けていて何とも感慨深い。
そんな色の世界で微かに笑う志鷹に葵の心は揺さぶられます。彼の顔があまりにも美しく、葵は本気で彼とともに消えかけている湯屋へ戻りたいと心が傾き始めます。このまま死の側へ恋の終着点として身を投げたいと。
しかし、志鷹は葵に諭します。君が生きてくれるなら、僕はここで君の記憶の中でずっと待っていると交わすのです。死への誘惑と、余命幾許かの限りある生への情動。糾える縄のようにせめぎ合う相剋の末、生きることを選んだ葵と、ゆっくりと薄れていく志鷹の輪郭と湯屋の影。お互い生きる場所は違えど、心の住む場所は変わらない。
追憶の眼差しの先に結ばれなかった想いが浮かび上がる純然たる恋心、想い人との夏を心の藍に溶かしていく切なくも儚い幻想譚です。