第9話
陽太にとってはせっかくかわいい弟ができるかもという期待があの一瞬で全て失われた。
あの時の言葉が、本当の侑真なのだろう。
なんだろう、ただただ悔しい。
野次馬で見に来ていたひそひそ話をしている人たちが世間の姿なのだろう。
なぜ何も悪いことをしていない美咲がこんなに何度も傷ついて、何度も世間の噂話の的にされ、外に出るのが怖いと精神的に追い込まれなくてはいけないのか。
本当なら侑真を殴って暴れて何もかもぶっ壊してしまいたいくらいだった。
だが、ここで自分が感情的になってニュースにでもなってしまったら、後でもっと美咲に辛い思いをさせることになる。
場所が病院で冷静になれて良かった、と思った。
車の移動だって、そんなの関わりたくなかったし正直知らんことだ、放っておこうと思った。
ただ、侑真が退院するまで家の前にずっと停められていてもこちらの気分もよくないし、第一美咲のことを考えた。
自分は侑真の車を運転したくない。
だったら移動させてくれるプロに頼んだ方がいい。
何とも言えない気持ちで車に乗り込み、エンジンをかけた。
夜中の静かな道を運転しながら、陽太は自分を納得させようとした。
土曜の朝になった。
美咲はセミの鳴き声を聴くとパニックを起こしてしまうので、家で通常の生活をすることができなくなってしまった。
理由はそれだけではなかったが、この家で過ごすには辛いことが多すぎた。
精神が不安定になりパニックになるので入院することになった。
会社を辞める手続きを取り、有休を消化したのち退職することとなった。
侑真との結納の話は白紙になり、ホテルへ料理等のキャンセル料を半額払うことになった。
後の半額は侑真側の支払いだ。
母は憔悴して家族の日常生活が崩れてしまった。
父も陽太も寝不足と疲労でふらふらではあったが週明けはしばらく二人で有休をとり、美咲の入院の世話と母の看病をすることにした。
近所のささやく声は小さくても陽太たちに届いていた。
チクチクとした棘が刺さったが、美咲や母のことを思うと堪えるしかなかった。
今朝、陽太は母を連れて美咲の病院に行く予定になっていた。
日差しはまた今日も強く、暑くなることを予感させるセミの大合唱が響いている。
陽太は廃品の段ボールを指定のごみ置き場へ出しに行った。
ごみを出し終わって家に入ろうとしたとき、玄関ポーチの横に仰向けになっている一匹のセミを見つけた。
あの時侑真にまとわりついていたセミの中の一匹だろうか?
『忌々しい…』
陽太は憎しみが湧いてきて思い切り踏みつけてやろうかと思ったが、踏みつぶした後の不快感を想像し、蹴飛ばすことでそのイライラをセミにぶつけた。
セミを踏みつぶして今までのことが解決するならそうしたかった。
セミは「ジジッ…!」っと鳴いて最後の力を振り絞ったのか、方向を定めずにバタバタと上下へ苦しむように飛んだ。
フンッと小さくため息のような侮蔑のような息をつき、セミなんて二度と見たくないと思った。
玄関のドアを開け家に入ろうとした陽太の背中にさっきのセミが飛んできて静かに止まり、陽太と一緒に家の中へと入っていった。
残暑はまだ始まったばかりだ。
『残暑』 上園 夕睦(かみぞの ゆりく) @Yuriku_kamizono
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