第8話
陽太は近くに落ちていた侑真の車のキーとカバンを一旦預かりながら、美咲の車に乗り込みエンジンをかけた。
シートを少し後ろに下げ、ルームミラーを調節していると救急隊員の一人が走ってやって来て受け入れ先の病院を教えてくれた。
そして後ろをついてこないように念を押してから走って戻り、救急車の後ろに乗り込んでいった。
救急車がゆっくり出発して、しばらく走ってからサイレンを鳴らし始めた。
陽太もそのあとに続いた。
そのあとは陽太にとって、ぐったりと疲れるようなことの連続だった。
首の刺傷の出血と、侑真の状態から事件性を疑われて警察がやってきた。
病院から連絡、この場合は通報になるのか。
カンファレンスルームで細かく聞かれて何度も同じことを答えた。
自分も家族も侑真に対して危害を加えていない。
侑真の首の傷は、飛んできたセミに刺されたと言っても信じてもらえなかった。
容疑者に事情聴取しているようなものだった。
うんざりしたがしばらくして処置の済んだ侑真本人の意識が戻り、セミの話と自損の話が一致したことと、自宅のほうでも家族と犬の散歩をしていた人の証言から話が一致したため陽太は自宅へ戻ることを許された。
犬の散歩をしていた人は少し離れていて現場を見ていなかったが、侑真が叫んでいた声が聞こえていたそうだ。
正直、警察のこの対応には腹が立ったが、セミが刺したと言っても確かに誰にも信じてもらえないだろう。
警察へなのか侑真に対してなのかセミに対してなのか、もしかしたら全部に対してかもしれないぶつけどころのない怒りが陽太に込み上げていた。
陽太はスタッフステーションに立ち寄り、侑真の状態と病室を聞いた。
本当なら行きたくはなかったが、病室の侑真のところへ顔を出す。
侑真が痛々しい包帯姿でベッドに横たわっている。
レントゲンでは異常はなかったが、MRIの検査ができるようになるまでしばらく待機だった。
侑真の荷物は病院に着いたときに看護師さんに本人の荷物と伝えて渡してあった。
陽太が部屋に来たことに気づいた侑真はそのことを含め、
「陽太さん、すみません。ありがとうございました…」
と起き上がろうとしながら力なく言った。
陽太は手を前に出し、ジェスチャーで起き上がらなくていいと伝えた。
「美咲は…?」
と聞かれて、陽太は侑真に対して怒りがこみ上げたあの瞬間が脳裏をよぎった。
全身の血が逆流したようになり頭にカッと血が上るのが分かったが、ぐっとこらえた。
ここは病院で、相手はケガ人だ。
目を閉じ、一旦大きく息を吸って吐いて、乾いた喉につばを飲み込んだ。
「侑真くん」
陽太は声を絞り出し、言葉を選びながら話を続けた。
「まず、突然のこととはいえケガをしてしまって災難だったと思う。うちに立ち寄ってもらったばっかりに」
「いえ…」
「うちに停めてもらっている侑真くんの車だけど、今の侑真くんの感じだと運転できそうにないから代行を頼もうと思うんだ。代行の人が来たら車のキーを預けてもらえるかな。侑真くんのアパートまで乗って行ってもらうよ。駐車場の説明は頼むね」
「はい…そうですね…お願いします」
侑真はバツが悪そうに返事をした。
侑真は陽太に頼んで枕元のカバンを渡してもらい、キーホルダーから車のキーだけを外して手の届くところに置いてもらった。
「最後に」
陽太が深く息をついた。
言いにくそうに言葉を絞り出しながら
「もうこれから美咲と会わないでほしい」
と頭を下げた。
「え…?え、何言ってるんですか?」
侑真は冗談を聞いたようにひきつった顔で笑った。
驚いて体を起こそうとしたが起き上がることができなかった。
陽太が病院にいる間、家にいる母から美咲の様子がLIMEで伝えられてきていた。
美咲が正気じゃなくなっていることは玄関で見た時から陽太には想像がついていた。
「美咲から言われているんだ、もう侑真くんには会いたくないって…」
これは事実だった。
突然のことで混乱している侑真に、陽太が声を震わせながら伝えた。
「君は何を言ったのか、覚えていないのか?それは無意識だったのか、頭を打ったからなのか…?」
奥歯を噛み締めるというのはこういうことなのかと、頭のどこかで思っていた。
「今は安静にして。僕ができるのはここまでだ。じゃ…お大事に」
そういうと病室を出て、スタッフステーションに運転代行業者が来ることを伝え、お辞儀をして病院の夜間緊急玄関へと向かった。
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