夜に寄り添う
目良木五月
君を待つ
突発的に死にたくなった。
深夜、眠ることを拒否した頭が弾き出したのは、いっそ永眠してしまおうという思い付きだった。
ふらっとアパートの部屋を抜け出して、しんと静まり返った郊外の歩道を歩いた。都会は高い建物に事欠かないが、生憎この辺りは二階建てのアパートばかりだった。だから、というか、なんとなく、歩道橋を上った。
階段を一段一段踏みしめていくと、まるで断頭台に向かっているようだった。いつか何かで読んだ文章を頭の中で反芻しながら、歩道橋の真ん中へと向かう。この前降った雪が、まだ溶けずに溝に集まっていた。
信号の裏側から車道を見下ろした。いくら愛知といえど、この時間では車通りは少なかった。
今なら、人を巻き込むこともない。
ふっと息を吐いて、信号を覗き込むように身を乗り出した。
「待って」
一際冷たい風とともに聞こえてきた高い声に、私は緩慢な動作で顔を上げた。
階段を上り切ってすぐのところに、やけに大きな荷物を抱えた背の高い女性がいた。雲が晴れて、月明りがその人の顔を青白く照らし出す。ゾッとするほど綺麗な顔に、幻想的な月明りのスポットライトもあいまって、まるであの世から迎えに来た死神か何かのようだった。
女性が小さな鞄の中に手をしのばせ、何かを取り出した。月明りが反射して、それは銀色に輝いた。
「私のこと、死ぬ前に助けて」
「……」
銀色に光る物が私に向けられる。十メートル以上離れた場所からでも、それが刃物であることはなんとかわかった。しかし、わかったからと言って、この距離ではあまり脅迫効果はない。
「聞いてる?」
女性の声に、私は頷いた。今さっき死のうとしていた私よりも、彼女の方が切羽詰まっているようだった。
「断ったら、どうするの?」
心持ち声を張って聞いてみると、刃物の先が揺れた。
「こ、殺す!」
「……」
震える声がそう宣言した。言葉自体が持つ凶悪性とは裏腹に、私に向けられた光は頼りなさげに揺れ続けている。彼女は気付いているだろうか。これから死のうとしている人間を、殺意をもって脅迫することの愚かさに。
「わかった」
「……え?」
手すりに触れていた手を離し、私は来た道を戻る。もともと突発的な思い付きだった自殺願望も、こうなっては萎れきってしまっていた。今更死ぬ勇気なんて残っていない。
「で?」
女性の前で立ち止まる。さっきまでこっちを向いていた刃はすっかり下を向いていた。それはよくあるカッターナイフだった。私よりも少し高い位置にある目が濡れたように光っている。色素の薄い瞳が戸惑ったように私を見下ろした。
「助けてほしいんでしょ?」
そう言うと、彼女は深く頷いた。そして、安心したようにこわばっていた表情を緩めた。
歩道橋で拾ってきた女性は、梅原夏南と名乗った。年は二十二。それ以外のことはよくわからない。歩道橋からアパートの部屋まで、大した距離が無かったせいで、込み入った話はできなかったのだ。そもそも話す気も無かった私は、自分から彼女に何かを聞いたりもしなかった。助けてほしい理由ぐらいは聞いておいた方が良かったのかもしれないけど。
正直、やばい拾いものをしてしまった自覚はあった。しかし今更リリースするわけにもいかないし、警察に連絡する気力もない。
「おじゃましまーす」
アパートの部屋に入ると、梅原さんは礼儀正しく挨拶をしてから、自分が脱いだ靴を揃えて隅に置きなおした。玄関の明かりの下で鮮明になった彼女の服装や容姿はかなり派手だったが、所作には育ちの良さを感じた。
黙って部屋に入る私のあとについてきた梅原さんは、えっと驚きの声を上げた。
「お姉さん、引っ越すんですか?」
彼女の前に広がるのは最小限の家具しか配置されていない部屋と、クローゼットに詰め込まれた数個の段ボール箱だった。段ボールの中には本や食器、夏服や小物が入っている。
「しないよ」
そっけなく答えながら上着を脱ぐ。脱いだものを椅子の背にかけようとして、もう分解して片付けてしまったことを思い出す。仕方なく、クローゼットの中に申し分程度に残っているハンガーにかけた。衣装持ちではないためこのクローゼットはもっぱら本や小物の収納に使っていたのだが、今では全部段ボールの中にしまいこんでしまったため、空いた部分には椅子の部品やもう使わないと判断したクッションが押し込まれている。部屋に残っているのは、どうしても収納しきれなかったローテーブルと、キッチン前に佇むダイニングテーブル、そしてダブルサイズのベッドだけだった。
「じゃあこの荷物は……?」
目をぱちくりと瞬かせる梅原さん。大きな目から、眼球が零れ落ちてしまいそうだと思った。
「終活」
「就活? じゃあやっぱりどこか引っ越すんじゃ……それか、最近引っ越してきたとか?」
違う、と返す。だんだん面倒くさくなってきたからか、口調がおざなりになってきている。会ったばかりの他人で、しかも面倒事に巻き込もうとしているかもしれない相手であっても、適当な態度は失礼だ。もう少しゆっくり話そう。
「お仕事探しじゃなくて、終わりの方の」
「終わり……ああ! あの終活」
納得したらしく何度か頷いた梅原さんから逃げるように、私は唯一そのまま部屋に残していたベッドに潜り込む。ここ数年の不眠を改善するために揃えたダブルサイズの硬いマットと、体に適度な重みを与えてくれる掛け布団の狭間で身を縮こまらせる。他人を部屋に入れているときにこんなだらしないこと、いつもだったら絶対にしない。けど、もう今夜は、寝て全てを強制終了させたかった。
「お姉さん、もしかして病気ですか?」
「違うけど」
「じゃあなんで終活なんか」
「……さっき自殺しようとしたの、止めたのあなたでしょ」
もうこれ以上の会話はしない。そう決めて、枕元に置いていたリモコンで部屋の明かりを落とす。目をつぶると、しばらく経ってからくしゃみが聞こえた。一度目は小さく抑えるようなくしゃみだった。二度目は抑えるのに失敗して、変な音がした。三度目のくしゃみを聞く頃には、呆れて思わず溜息を零してしまった。
「入れば」
「んえ?」
間接照明をつけて起き上がると、自分の荷物からポケットティッシュを取り出して鼻をかんでいた梅原さんが、間の抜けた声を上げた。
「いいの?」
「寒いでしょ」
壁際に体を寄せると、梅原さんはそろりとこちらに近づいてきた。
「おじゃまします」
部屋に入ってきたときとは違い、その声には少し緊張が乗っていた。同じベッドに自分ではない人間の体重がかかって、なんだか不思議な感じがした。
「ベッド、広いですね」
「……そうね」
言葉とは裏腹に、私は壁と密着するくらい、自分の体を彼女から遠ざけた。昨日までは広々としていたベッドが、途端にひどく狭く感じられた。
朝、目を覚ますと、目の前に綺麗な顔をした女性が寝ていた。
「っ……」
思わず息をのむと、すうすうと寝息を立てていた女性の顔が歪んだ。一晩経って化粧だってよれているはずなのに、眉間に寄った皺までもが作品の一部であるかのように錯覚するほど、女性の顔は端正だった。
「ん……?」
目を開けた女性が、私を見て固まる。数秒、私たちは見つめ合った。人と目を合わせるのは随分と久しぶりのことで、彼女の色素の薄い大きな瞳に自分の呆けた顔が映っているのが途端に恥ずかしくなった。
「お、もいだした。私、そっか……」
掠れた声で、女性、梅原さんは呟いた。彼女の方で昨夜の記憶が鮮明になったのと同じように、私の方でもこの状況に至るまでの出来事を思い出した。あの後、緊張してしばらくは寝付けずにいたのだが、結局ちゃんと眠れたらしい。
「お姉さん、シャワー借りてもいい? ていうか布団入っちゃってごめんなさい。汚いよね」
「別に、入ればって言ったの私だし」
さっさとベッドから降りて距離をとった梅原さんは、申し訳なさそうに眉尻を下げた。まるで捨てられた子犬のようだ。
「シャワー、浴びてくれば。お湯張る?」
「ううん。シャワーだけで大丈夫です」
「そう」
シャワーの場所と使い方を口頭で教え、大きな旅行用バッグから着替えを取り出していそいそと部屋を出て行く梅原さんの背中を見送る。まだ布団の中に残る他人の温もりに触れないようにしながら、私はローテーブルの上に放置していたスマホを手に取った。
画面を開くと、すぐにSNSのアプリをタップした。今日もいつもと変わり映えのしない、政治批判や芸能人のゴシップ、様々な二項対立のトレンドが流れている。見るだけで気が滅入りそうな文字列をなんともなしに見つめ、飽きたら閉じる。習慣なんて健康的なものではなく、ただの悪癖だった。
画面を横にスクロールすると、メールのアイコンにバッジがついていた。憂鬱な気持ちで届いたメールを確認すると、それは昨日面接を受けた会社からの不採用通知だった。
『慎重に検討してまいりました結果』
『誠に残念ではありますが』
そんな慰めにもならない気遣いの定型文が並ぶメールをゴミ箱に送る。
なんとなく、面接官の態度からこうなるだろうなとは思っていた。思っていたけど、ダメージは相当だった。
「お姉さん?」
ぐるぐると内臓の隙間を蠢く自己嫌悪やら罪悪感やらを自分ごと布団で隠すように包まっていると、頭上から高い声が降ってきた。
「具合悪い?」
小さな隙間から中を覗き込んできたのは、シャワーを浴びてほかほかとした梅原さんだった。濡れた髪をタオルで抑えながら心配そうに声を潜めた彼女に、私はいたたまれない気持ちになった。年下の他人に、こんな醜態を晒してしまうなんて。
「死にたい」
「え、それは困る」
かなり深刻な思いで呟いた言葉は、思っていたより軽い調子の声に打ち返された。困ると言われても、私も困る。そもそも私の生き死にが他人に不利な影響を与えるほど重いものだとは思えない。というか彼女の許可は必要ないはずだ。
「気分転換しましょ、お姉さん」
「え?」
「ほら起きて起きて~」
「ちょっと……!」
ものすごい力で被っていた布団を奪われ、寒さに体を縮こませる。
「どっか出かけましょ。早く準備しないとお昼になっちゃいますよ」
布団を抱えながらそう言う梅原さんの髪から雫が零れ、タオルの表面へ吸い込まれていく。このままだと布団や床を濡らされかねない。私は大きく溜息を吐き出して、重たい体を起こした。
「わかったから、髪乾かしてきなさい」
「はーい」
軽い足音が遠ざかり、少ししてドライヤーの音が聞こえてきた。それを聞きながら、私は無心で外出の準備を始めた。
服を着替え、簡単なメイクをして髪を整えるのには一時間もかからなかった。梅原さんは準備に時間をかける人らしく、声をかけると慌てた様子で「もう少し待って!」と返ってきた。
なかなか準備が終わらない梅原さんを待つ間、段ボールにしまっていた食器や調理器具をキッチンへと戻すことにした。死にたい気持ちは変わらないけれど、そう簡単に死ねないことは理解していた。このまま一人で過ごしていくだけなら、この食器たちは小さな箱にしまわれてこの部屋での役目を終えていたのかもしれない。お気に入りの小鉢を食器棚に戻しながら、そんなことを考える。空っぽだった食器棚が次第に鮮やかに彩られ、私の気分とは関係なしに、そこだけ世界が色づいて見えた。
調理器具もあらかた戻し終えると、途端に空腹を覚えた。何かないかと冷蔵庫を開けても、すぐに食べられそうなものは入っていない。当然だ。死のうと思っていたのだから。使い切らなかった調味料と皺の増えたネギが力なく横たわっているだけだ。
梅原さん、まだかかりそうかな。
「車、エンジンだけかけてくる」
「え、お姉さん車あるの!?」
髪を巻いている後ろ姿に声をかけると、驚いたようにこちらを振り向いた。あまりの勢いに、うっかり火傷でもしないかと一瞬ヒヤッとした。
「行きたいところ、考えておいて」
曖昧に頷いてからそう伝えると、梅原さんは喜色満面の笑みを浮かべた。
「隣の駐車場に停めてるピンクの軽だから。玄関の鍵閉めておいて」
「え」
「なに?」
キーホルダーも何もついていないシンプルな鍵を一本渡すと、梅原さんは驚いたように目を丸くした。
「いや、鍵はさすがに、危機感なさすぎじゃないです?」
変な敬語。先に思い浮かんだのがそっちだったのは、自分でもなかなか終わっていると思う。危機感とか、そういうものが。しかし人をカッターで脅したあげく、ぬくぬくと一晩ベッドで眠ってシャワーまで浴びた不審者本人に言われるのは、ちょっと腑に落ちない。
「悪いことするの?」
「いやいや! しないです!」
意地悪く聞くと、食い気味に否定された。じゃあ大丈夫ね。そう言いながら鍵を預けて、私は車のキーとバッグを持って部屋を出た。
車内の温度が上がってきて外の寒さを忘れ始めた頃、ようやく梅原さんがやってきた。
助手席に乗り込んだ彼女の姿を見て、私は密かに溜息を吐いた。洗面所でちらっと感じてはいたけれど、化粧も髪型もばっちり決めて、スタイルの良さを強調するようなスタイリッシュな服を身にまとった梅原さんは、もとの容姿もあいまってプロのモデルのようだった。一方私は、適当に選んだ防寒重視の服装に、三十分かけたかどうかもわからない薄い化粧、髪にいたっては前髪以外は軽く梳かしただけ。今日一日、梅原さんの隣を歩く人間として、明らかに見劣りする野暮ったさだ。
「外寒かったー」
手をエアコンの通風口に宛てながら、梅原さんはぷるぷると震えている。
「それ、温まるまでかけてていいから」
ダッシュボードの上に置いてある膝掛けを指すと、梅原さんはシートベルトをしてからそれをふわりと膝にかけた。
コンビニで買った軽食を食べながら向かったのは、名古屋港水族館だった。
「シャチがいるって聞いて、一回行ってみたかったんですよね」
サンドイッチを食べながら、梅原さんはそう言った。細身で美容に気を使っていそうな容姿の彼女が、カロリーも値段も高そうなカツサンドを食べているのが少し意外だった。私はと言えば、運転しながらでも食べやすいからあげクンを赤信号のたびに一つずつつまんでいる。
「名古屋港、行ったことないの?」
長めの信号に捕まって、手持無沙汰になった私はコーヒーに口をつけながらそう聞いた。子供の頃とか、学生の頃とか、この辺に住んでいたら一度は行ったことがある場所だと思っていたから、初めて行くという梅原さんは珍しいなと思ったのだ。
「私この辺の出身じゃないので。短大卒業してからこっちに来て、もうずっと水族館とか行ける余裕もなくて」
「……。シャチのショーの時間、調べておいてね。あとイワシも」
「イワシ?」
「そう。綺麗だから」
どこの出身なの? とか、どんな仕事をしてたの? とか。聞きたいことはたくさんあった。しかし思いつくものは全て彼女の内側に土足で踏み込むようなものばかりで、うっかり聞いてしまうことが怖くて、私は適当な話で誤魔化した。
信号が青になった。ゆっくりと景色が過ぎ去ってゆく。助手席でスマホを操作する梅原さんは、思ったよりも無口だった。車の走行音が響くだけの沈黙を覆い隠すように、私は次の赤信号で小さく音楽をかけた。
名古屋港に着いたのは一時近くだった。海辺の寒さに震えながら中に入ると、梅原さんのガイドに従ってまずはシャチのショーを目指すことになった。入口のところですでにシャチには会っているのだが、水槽越しに見るのとショーで見るのとでは違うらしい。また外に出るのかと内心尻込みしながらも、私は梅原さんに腕を引かれて水族館の広い敷地内を速足で巡った。
「あ! ガチャガチャありますよ!」
シャチのショーもイワシのトルネードも無事に見終え、一通り水槽の中も見て回った頃、梅原さんが通路の片隅に置かれたガチャガチャコーナーに足を止めた。
「シャチ狙いで」
ラインナップを確認した梅原さんは、私にそう宣言するとブランドものの財布から小銭を取り出し、ガチャガチャの持ち手をひねった。
「あー、カメ……」
可愛らしいカメのストラップにわかりやすくがっかりする梅原さん。カメだって可愛いじゃない。とは、シャチ一点狙いの彼女にはさすがに言えない。
「私もやる。……チンアナゴ狙い、ね」
彼女に倣って私も一点狙いの宣言をする。すると梅原さんの顔からは落胆の色がすっきりと消え去り、興味津々といった明るさでいっぱいになった。
使い古した財布から小銭を取り出し、持ち手をひねる。緩い手ごたえの後、ごとりとカプセルが落ちてくる。蓋を開けると、中から出てきたのはカメだった。
「あ……」
ここでシャチでも出せたら交換してあげられたのに。運の無い自分が嫌になる。さっきまでは可愛いと思っていたカメも、さすがに今は憎らしい。
「あはは!」
不意に、隣から笑い声がした。顔を上げると、梅原さんがおかしそうに顔を歪めて笑っていた。
「すご、二人してカメとか、運なさすぎ……」
笑いながら梅原さんがカメを見る。
「引き直そうかなって思ってたけど、これがいいや」
「え……?」
あんなにがっかりしていたのに、なんで?
戸惑いが顔に出ていたのか、梅原さんはそんな私を見て小さく笑った。
「おそろいだもん。これがいい」
よく見たら可愛い顔してるしね。そう言って梅原さんは、私の腕をとって上機嫌で歩き出した。異常な好感度の上がり方に依然戸惑い続ける私のことなんて、彼女は少しも気にしていない。
腕を組んで歩くのも、助手席に乗せるのも、同じベッドで寝るのも、これまでの私がしてこなかったことを、梅原さんは一日足らずでどんどんやり遂げていく。昨日まで知らなかった他人なのに。今でも重要なことは何一つ知らない者同士なのに。
それでも、カメを引いた私を笑ってくれた梅原さんに、私は少しだけ救われた気がして、いつもなら後悔と羞恥の記憶になるはずの出来事が、楽しい思い出になるような予感がした。
いつの間にかかなりの時間を過ごしていたらしく、水族館を出る頃には空が赤らみ始めていた。
「今日は帰ろうか」
「そうですね。あっちの船も見たかったけど」
駐車場に戻る道すがら、梅原さんはオレンジ色の大きな船を見ながらそう言った。時間的にはまだ入場できるのだが、彼女の腕にはお土産屋で買った大きなシャチの抱き枕があった。それを抱えての入場も、一度駐車場に戻って置いてきてから入場するのも、どちらも面倒に感じた。
「はぁ、散財した気分」
「抱き枕しか買ってないのに?」
あまり詳しくない私でもわかるようなブランドものの小物を多く身に着けているのに、抱き枕一つで散財だなんて随分とおかしな金銭感覚だ。エンジンをかけてナビを操作していると、梅原さんは苦笑しながらずっと手に持っていたカメのストラップを指先で撫でた。
「自分が本当に欲しいもので、しかも生きていくのに特に必要でもないものに大金をかけることを散財って言うんだと思うから、私はこれが初散財」
「……そっか」
また、きっとこの先は触れてはいけないというラインを目の前にして、私は小さく頷いた。ナビの無機質な声に従ってアクセルを踏むと、途端に心がざわついた。夕空の色、濃密な時間、いつもは来ない海辺の施設。非日常との別れが、ずしりと心に圧し掛かってくる。このまま日常に戻ってしまうのが惜しくて、自分の足で帰らなければならない理不尽に泣きたくなった。
「そういえば」
名古屋港を出て少しした頃、梅原さんの声が小さく流れていた音楽に被さった。
「お姉さんの名前、まだ聞いてなかった」
言われて初めて、まだ自分が名乗っていなかったことに気付いた。ナチュラルなお姉さん呼びに違和感がなかったというのもあるし、名前というものに大した執着が無かったせいでもある。
「桜井静、です」
「静さん……」
梅原さんは、確かめるように私の名前を小さく呟いた。まるで口の中でその音の響きを味わうようにじっくりと呟くものだから、恥ずかしくなってハンドルを握る手に力が入った。
「なんか綺麗な名前ですね」
「そう?」
「そうですよ。字は青が左につく静であってます?」
「あってるよ」
「じゃあ私の名前とあわせたら青と夏ですね」
「なんだっけそれ、なんか有名なバンドの……」
あまり音楽には興味が無かったからよくわからないけど、その響きには覚えがあった。確か有名なバンドの曲の一つにそんなタイトルがあった気がする。
「静さん知らないんですか!? 後で一緒にMV見ましょう。私あのMVを見ないと夏が来ないんですよねぇ」
「そんなことある?」
夏が来ないなんて、随分大袈裟な表現だ。
「それ、曲だけなら今聞けるかも」
そう言ってナビに繋いでいたスマホを梅原さんに差し出す。音楽に興味は無いが、運転中の眠気防止のために流行の曲は一通りダウンロードしていたから、その中に件の曲があったかもしれない。
「触っていいんです?」
「別に、構わないけど」
「……じゃあ、失礼します」
おずおずとスマホを受け取った梅原さんは、まるでスマホを持ち始めたおばあちゃんのような手つきで画面をスクロールし始めた。腕を組んだりベッドに入ってきたり、身体的な接触には遠慮がないくせに、鍵とかスマホとか物に対してのセキュリティ意識はかなり高いらしい。普通の人はもしかしたらそうなのかもしれない。もう何年も親しい間柄の人間なんていなかったせいで、他人と自分との間に生じるズレをどうチューニングしたらいいのかがわからなかった。
「あ、あった!」
梅原さんの嬉しそうな声の後に、爽快な前奏が車内を満たした。少しだけ音量を上げたらしく、突き抜けるようなギターの音が私の中にあった寂寥感を木っ端微塵にしていった。
これから日常に帰ろうという真冬の夕方に、全く真逆の青春を歌った曲が流れていく。特別夏が好きなわけでも無いくせに、遠い夏が恋しくなった。
アパートに帰ってきたときにはすっかり暗くなっていて、寒さも一層増していた。車を降りて外階段を上ろうとしたとき、唐突に一階の一室から人影が現れた。
「こんばんは」
玄関越しに顔を出したのは、このアパートの大家さんだった。小柄な体が外灯に照らされ、いつも身に着けているエプロンの花柄がぼうっと闇の中に浮かんでいる。
「こんばんは」
挨拶を返すと、大家さんは私の後ろにいた梅原さんをじろじろと見始めた。
「そちらは?」
「えっと……親戚の子で、ちょっと家出中というか……」
しどろもどろになりながらその場で思いついたでまかせを並べる。私だって梅原さんのことは何も知らないのに、この大家さんにどんな風に伝えればいいのかなんて咄嗟にわかるはずがない。
「こんばんは、初めまして。梅原夏南と言います。静さんとはいとこ同士なんです。昨日同棲中の彼氏と喧嘩しちゃって、帰る場所が無いから暫く泊めてもらえないかなぁって思って来たんですけど……」
言葉に詰まる私に代わって、梅原さんがすらすらと自己紹介をすませた。私も初耳の情報は事実なのかその場しのぎの嘘なのか、どちらとも言えないところだった。
「あら、そうなの? 大変ねぇ」
「本当に。家賃とか何か問題があるなら言ってもらえればちゃんとするので、暫くここに住んでてもいいですか?」
梅原さんの頼みに、大家さんは大きく目を見開いて首を横に振った。
「いいのよそんな家賃なんて! 困ってる若い子を放っておくなんてできないもの。いつでも頼っていいからね」
「ありがとうございます」
梅原さんのお礼を聞くと、大家さんは満足したような顔で頷いた。
「でも急に二人で暮らすなんて大変じゃない? お金とかご飯とか大丈夫なの?」
梅原さんから私へと視線を戻した大家さんに、私は心の内を悟られないように、口角をほんのわずかに上げるだけの曖昧な笑みを浮かべた。私はこの大家さんが苦手だった。
「大丈夫です。寒いので、部屋に戻りますね」
それだけ言って、私は梅原さんを促しながら階段に足をかけた。背後からは大家さんの「おやすみなさい」という声と、玄関のドアの閉まる音が聞こえてきた。
「……静さんは大家さんが苦手なんです?」
玄関の鍵を開けているときに、梅原さんがそう聞いてきた。ちらと顔を見れば、失礼な態度をとった私を非難するような目がじっと私を見つめていた。
「……お節介なの、あの人」
このアパートに暮らし始めて数年。最初の一年は一人暮らしを始めたばかりの私に親切にしてくれる良い人だと思っていたけれど、年を重ねていくうちに、それが親切心ではなく自己満足のお節介であることがわかってきた。私のためと言って無遠慮に詮索してくる大家さんが、いつしか苦手になっていた。
部屋に入ってすぐにエアコンをつける。冷え切った部屋は出かけたときのままで、数時間しか離れていないのに妙に懐かしく感じた。
「シャワー、浴びる?」
夕飯の支度をするにも買いに行くにも時間がかかる。部屋が温まるのにももう少しかかりそうで、その間の気まずさを解消するための提案だった。
「静さん先入ってください」
「でも、部屋まだ温まってないし、夕飯の準備とかも……」
「いいからいいから。静さんが家主なんだからゆっくり浴びてきてくださいよ」
思いの外頑固な梅原さんの押しに戸惑う。曲がりなりにもお客さんを差し置いて先にシャワーを浴びるのには抵抗があったが、ここでぐだぐだと譲り合っている時間も無駄な気がして、私はおとなしく着替えを持って浴室へと向かった。
シャワーを終えて部屋に戻ると、ローテーブルの上が随分と賑やかなことになっていた。
「どうしたの、これ」
パックに入ったコンビニ特有のチキンが数枚、衣を纏ったコロッケが数枚、チーズに生ハム、ミックスナッツに乾きもの。コンビニで揃えられるお酒のつまみのオードブルに、私は目を瞬かせた。
「あ、静さん何飲みます?」
声がした方を向けば、梅原さんはキッチンで何やら作業をしているようだった。何をしているのかとそばに行くと、彼女の手には見覚えのないウイスキーの瓶が握られていた。
「静さんお酒飲めます?」
「少しなら」
「よかった~。いろいろ買ってきたんで今夜は飲みましょ!」
鼻歌でも歌いそうなほどご機嫌な梅原さん。もしかしたらすでに飲んでいるのかもしれないと思い、そっと冷蔵庫の中を確認する。中には缶チューハイや炭酸水がずらっと並んでいて、これだけ見るとアル中の冷蔵庫だった。
「静さんは甘いのと甘くないのどっちが好きですか?」
「……甘いの」
「じゃあ度数が低い缶チューハイからがいいかな」
好きなの選んでくださいと言われ、私は再び冷蔵庫の中を覗く。最初に目についたピーチ味のチューハイを手に取ると、缶の冷たさが指に染みた。
「梅原さんは何を飲むの?」
「私はハイボール」
そう言って梅原さんはプラスチックの薄いコップを揺らした。氷がぶつかる音がからりと響く。コップまでコンビニで買ってきたらしい。それくらい、一言あれば貸すのに。
「食器とか、好きに使っていいから。一人暮らしだから揃ってないけど」
ペアの食器は無いけれど、気に入ったものを衝動買いしてしまうことが多かったから、足りなくなるということはないはずだ。
「じゃあ、これ飲み終わったらちゃんとしたコップ借ります。とりあえず乾杯しましょ!」
そう言って梅原さんは私の缶にハイボールの入ったコップをぶつけ、しゅわしゅわとした琥珀色をぐいっと呷った。
「うまー!」
その豪快な飲みっぷりに苦笑しながら、私も缶のプルタブを開ける。ぷしゅっという小気味いい音とともに、僅かにアルコールと桃の香りがかおった。
「おつまみも食べながら、今夜はたくさん飲みましょ。で、嫌なことは一旦全部忘れちゃいましょ」
お腹空いたと言いながら梅原さんがローテーブルの上に広がるつまみへと向かう。私もその後を追う。
「じかに座ったら痛いでしょ」
床にそのまま座る梅原さんは気にしていなさそうだが、私よりも肉付きが薄い分長時間座ったときのお尻の痛さはかなりのものだろう。缶をテーブルに置き、私はクローゼットの中からクッションを二つ取り出した。椅子は組み立てにも時間がかかるし、ひとまず今日はこれでいいだろう。
「これ、下に敷いて座って」
「ありがとうございまーす」
ふにゃふにゃとした発音でそう言いながら、梅原さんはクッションの上に座り直した。彼女の正面にクッションを置き、私もそこに座る。
落ち着いて目の前のつまみと対峙すると、途端に激しい空腹感に襲われた。
「じゃあ食べましょ! いただきまーす」
「……いただきます」
梅原さんに続いて手を合わせ、目の前に置いてあった割り箸を取る。自分で買ったものではないものへの遠慮ですぐには手を出せずにいる私を知ってか知らずか、梅原さんは真っ先にチキンへと箸を伸ばした。彼女の形の良い唇が大きく開き、カリっとサクっの中間のような音を響かせた。
「んまー!」
感動しきった顔でハムスターのように頬を膨らます梅原さんは、そのままCMにでも出れそうだった。彼女の食べっぷりに空腹感をさらに刺激され、私も恐る恐るチキンへと手を伸ばす。まだ温かさの残るそれを一口齧る。じゅわっと口内に肉汁が溢れ、濃い味付けが舌を通じて脳内で幸せホルモンをパチパチと弾けさせた。
「おいしい」
小さく呟くと、ますます美味しく感じられて、もう一口、さっきよりも大きく口を開ける。ちゃんと美味しいものを食べたのはいつぶりだろう。適当にコンビニで買った栄養ゼリーとか、安く買った豆腐やもやしを消費するためだけの美味しさは度外視した料理とか、もうずっとそんなものばかりを食べていた。
ちゃんと美味しいものを食べると、こんなに幸せなんだ。
途端に滲んだ視界を誤魔化すように缶の中身を呷る。甘いピーチ味のアルコールが体に流れ込み、ふわふわとした気分がぐっと増した。
「そうだ、私のことはカナって呼んでくださいね」
暫く無言で飲んだり食べたりしていると、不意に梅原さんがそう言った。軽く酔いが回っていた私は、彼女が何を意図してそう言っているのかが咄嗟にわからなかった。
「いとこって言っちゃったから。梅原さんじゃ、ちょっとよそよそしすぎるし」
「ああ、そうね」
確かに、大家さんにそう紹介したんだった。
「じゃあ、カナちゃんね」
「はい」
「カナちゃんは敬語でいいの?」
「それは、……もう少し親し気にした方がいいです?」
「まあ。いとこだし」
「ふふ、じゃあ静ちゃん?」
「それはダメ。アニメのキャラみたい」
「気にするんだそれ。じゃあ呼び方はそのままでいっか」
クスクスと笑いながらそんな会話を交わす。昨日会ったばかりの、素性もよくわからない、確実に訳アリの女の子と。冷静に考えたらすぐに警察に通報するべきなのかもしれない。でも、昨日の私は死にたくて冷静じゃなかったし、今の私はお酒に酔っていて冷静じゃない。じゃあ別に、いっか。警察なんて逃げないし、いつでも電話できるし。でもカナちゃんはもしかしたら逃げるかもしれないから、彼女を優先する道理はあるはずだ。
「静さんってお仕事何してるの?」
「無職」
私の答えがおかしかったのか、カナちゃんがふっと吹き出した。無職で悪いか。自己都合じゃなく、会社の都合だから私はそこまで悪くない。
「その前は?」
「その前は、不動産の営業」
「え! 静さんが営業って、想像できない」
遠慮のない物言いがおかしくって笑いがこみ上げる。私自身、営業職が向いていると思ったことは一度もない。成績は良くなかったし、生きるために仕方なく我慢していただけだ。転職活動に割ける時間もなかったため、会社が倒産しなければおそらく一生続けていたのかもしれない。そう考えるとゾッとする。
「静さん、そろそろ次のお酒いく?」
「うん」
「あはは、もうちょっと酔ってる」
私が缶を一つ空ける間に、カナちゃんはハイボールを二杯と、なんかよくわからない綺麗な色をしたお酒を一杯飲み干していたが、顔色はちっとも変わっていない。お酒に強いらしい。
「甘いのが好きなんだもんねぇ」
そう言いながら、カナちゃんが食器棚からコップを取り出し、中に氷を数個落としていく。冷蔵庫から取り出した豆乳の小さなパックの端を切り落とし、乳白色の液体をコップに注ぐと、琥珀色のウイスキーと混ざり合っていびつな模様を描いた。
「ウイスキーは少な目だから安心して飲んでね」
「ありがと」
受け取ったコップからはバニラのような甘い香りがした。試しに口に含んでみると、ウイスキーの苦味と共に、プリンのまろやかな甘さが感じられた。
「プリンみたい」
「正解! プリン味の豆乳で割ってみました」
「そういうカクテル?」
「いや、創作」
「すごい。料理が得意なの?」
「全然できないよ! でもお酒だけはなんか、組み合わせたら美味しそうなものを見つけるのが得意みたい」
お酒限定でもこの勘の良さはすごい。プリン味のお酒をちびちびと飲みながら、久しぶりに凝った料理がしたいと思った。
「カナちゃんは……」
「ん?」
「……やっぱいいや。これ、もらってもいい?」
「いいけど」
不思議そうにこちらを見る目をわざと無視しながら、私はチーズを手に取り包装を剥く。なんの仕事をしてるのか、同じ問いをカナちゃんに投げかけようとして、やめた。私からカナちゃんに何かを聞いてはいけないような気がした。それをしてしまったら、この時間が終わってしまうと思った。この時間が終わってしまったら、私はまた死に逃げてしまうと確信していた。
「静さん?」
名前を呼ばれて顔を上げると、カナちゃんが心配そうに私を見ていた。視界がぐらぐらと揺れている。いつの間にかかなり酔いが回っていたらしい。気持ち悪さはないが、頭のどこかが殴られているような痛みが近づいてきていた。
「もう寝よっか」
「……もう少し」
まだ終わらせたくなかった。まだ、もう少し、現実逃避していたい。
「こんなに楽しいの、久しぶり」
ぽつりと、心の奥底からの言葉が零れ落ちた。普段はいろんな検閲を受けて外に出していたはずの言葉た,,ちが、なんの審査も変更もされないまま滑り落ちていく感覚に、焦りと、諦めと、情けなさがこみ上げてきた。
「もう営業はしたくないの。……だから、事務職で探してるけど、上手くいかなくて……、失業保険も貯金もあるから、今はまだ困ってないけど、このままずっと、次の職が決まらなかったらどうなるんだろうとか、……不安で、でもお母さんを頼りたくはなくて、面接しんどくて、不採用のメールはもっとつらくて、三十分話しただけの他人に否定されてるみたいで、……自分が、人間の失敗作みたいで……っ」
面接官と問答をするたび、必ず思う。なんでもっと早く転職活動を始めなかったんだろう。なんであのとき自力で環境を変えようとしなかったんだろう。なんで大学時代にあんなに怠けていたんだろう。なんでもっと良い大学に入ろうとしなかったんだろう。なんで高校選びにもっと真剣にならなかったんだろう。いくら遡っても後悔ばかりが心に圧し掛かって、過去の自分の選択が、今の自分の選択肢を切り落として先細らせていくイメージが消えない。今、私の目の前にある道は瘦せ細った一本道で、途中で見つけた小道も、少し進めば先がないことがわかって、また元の一本道に戻っていく。それはただ、死へと続いていくだけの道のような気がした。
ああ、そうだ。だから私は死にたくて、死のうとして、この子に出会ったんだ。
「ごめん、楽しかったのに。酔ってるね」
「いいよ」
カナちゃんはそれしか言わなかった。変に慰めたり、根拠のない肯定をしたり、否定したり、アドバイスをしたり、そういうのをせずに、ただ黙っていた。もしかしたら単純に言葉が出てこなかっただけかもしれない。でも、私にとっては彼女の無言は何よりもありがたかった。
「もう、死んじゃいたい……」
そう呟いてから、ふっと意識が薄れ始めた。ちゃんとベッドで寝なきゃ。歯もまだ磨いてないし、テーブルの上も片付けてない。もうあと数年で三十になるのに、だらしないな。
完全に意識が飛ぶ間際、やわらかく頭を撫でられているような、そんな心地よさを感じた。
夜の栄は、食べ物の匂いと煙と、そして人で溢れている。
駅に近い広場のベンチに座って噴水を眺めていると、手に持っていたスマホのバイブが震えた。画面を見れば、SNSのダイレクトメッセージに一件のメッセージが来ていた。
『着きました』
硬質な文章に、私はすぐに自分の服装や見た目の特徴を説明した文を送り返す。黒縁の眼鏡に、肩のところで切りそろえた重めの黒髪、服は花柄のミニスカワンピ。化粧をすると相手によっては良い顔をしないから、顔には何もつけていない。中学生の脂ののった素肌が一番綺麗らしい。眼鏡は野暮ったいすっぴんを誤魔化すためのアイテムでもあった。
「サクラちゃん、かな?」
スマホを見ていた顔を上げると、目の前に一人の男性が立っていた。声の感じは、以前ダイレクトメッセージに送ってもらった録音音声に入っていたものと同じだった。ならこの人が今日のお客さんかと、私は彼を見つめた。きっちりとスーツを着こなし、こんな時間でもあまり崩れていない髪には白いものが混じってはいたが、清潔感のある男性だった。ワイシャツのお腹のところが少し出ているように見えたが、四十代と言っていたからそんなものなのかもしれないと思った。
「名前」
愛想のない口調でそう言うと、相手は思い出したようにあっと口を開けた。
「タカです。好きな画家はサルバドール・ダリ」
スマホの画面に表示した、相手のアカウントを見る。自己紹介文にはお気に入りの画家の名前が書いてあった。サルバドール・ダリ。聞いたことのない名前だけど、ゴッホとかピカソと言われるよりもよほど合言葉として機能している。
「タカさん。どうします? ご飯? ホテル?」
言葉少なに夜の過ごし方を聞くと、一瞬タカさんは眉間に皺を寄せた。この一瞬で何か気に食わないことでもあったのだろうか。他の子がどんな風にしているのかはわからないけど、私はネット上でも現実でも、彼らに媚びを売るような態度はとらない。それで気を悪くする人は以前にもいたから、タカさんもそのタイプだろうか。
「ご飯にしましょう。お腹が空いているので」
「はあ」
気の抜けた返事をした私を、タカさんは咎めも褒めもしなかった。
さっさと歩き始めた彼を、私は慌てて追いかけた。そんなに背が高くないからか、彼の歩幅は小さく、歩くのが遅い私でも置いて行かれることはなかった。
「何か食べたいものはありますか?」
「特には」
「じゃあ、好きなものは?」
「……唐揚げ」
そう言うと、タカさんは少しだけ笑った。何がおかしかったのか、私にはよくわからなかった。
中学生になってから、急にお金を稼いでみたくなった。何か欲しいものがあったわけではない。ただ、日夜働きどおしの母を見ていたら、自分でお金を稼いだ方がいいのではないかと思ったのだ。家事の助けはしていた。同い年の子たちと比べたら、私の家事スキルは頭抜けていただろう。でも、それだけでは戦力として圧倒的に不足しているのではないかと思った。
しかし中学生は仕事ができない。そういう社会の仕組みだから仕方ない。なら、抜け道を使うしかないのだ。SNSで繋がったおじさんと会って、お金をもらう代わりにできることをする。そんなお小遣い稼ぎ。援助交際というらしい。友達から借りた少女漫画のちょっとエッチなシーンを見て、偏った知識と好奇心に溢れていた私は、その行為に躊躇いもなく手を染めた。
タカさんの要求は、一緒にご飯を食べる、愚痴を聞く、一緒にお風呂に入る、の三つだった。私はそれを三万五千円で請け負った。どんな計算をして、内訳がどうなっていたのかは覚えていない。ただ、唐揚げを食べながら愚痴るタカさんの会社の話や、家での奥さんの態度の話を聞いているうちに、もう少し金額を上げておけばよかったと後悔したことは覚えている。
タカさんの愚痴は、終始誰かの欺瞞に対する正義感からきているようだった。会社の上司が間違いを認めず、部下に責任転嫁して怒鳴り散らかすだとか、妻が自分で汚した台所の掃除を自分に押し付けるとか、そういう愚痴。
そんなの、間違っていると思ったらその場で相手に言えばいいのに。
うっかりそう口にすれば、タカさんは怖い顔でビールジョッキを呷って、低い溜息を吐きながら、「じゃあ君は同じクラスのあまり仲良くない子に間違いをその場で指摘できるのか?」と言った。できないと思った。タカさんが私に言った状況とタカさん本人の状況が同じかどうかはよくわからないが、そういうものかと思った。
タカさんは唐揚げをつまみにビールを二杯飲み、それだけでかなり酔っていた。
店を出ると、ホテルに行く前にコンビニに寄った。タカさんは肝臓に効く薬を選んだ後で、私にも好きなお菓子を選ばせてくれた。せっかくだから少し高いチョコを手に取ってみたら、タカさんは苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、文句も言わずにレジに持って行ってくれた。さっきまで酔って愚痴っていたタカさんとは違い、お父さんみたいな優しいタカさんだった。お会計をしているときのタカさんは、あまり店員さんに優しくなかったけど。
ホテルに着くと、私はすぐに大きなベッドにダイブした。家にはベッドがないから、ホテルに来ると毎回、トランポリンのように弾むスプリングを全身で感じるようにしていた。子供っぽい行動は、女子中学生のカモにされるようなおじさんはむしろ好むところだったから、私は遠慮なく子供を演じた。
「ベッドふかふか。お湯溜めてる間に寝ちゃいそう」
実際寝たらまずいけど。お母さんが家に帰ってくるまでには、自分の部屋で寝ていなければならない。長くてあと一時間くらいだろうか。じゃあ急いでお風呂の準備しなきゃ。
お湯を溜めようと起き上がると、タカさんはまだ部屋の入口に突っ立っていた。顔が少し強張っている。おばけでもいたのだろうか。
「どうしたの?」
「やめよう」
ぽつりとタカさんが呟いた。
「なんで?」
「だって、こんなの、間違ってる……」
絞り出すような、苦しそうな声だった。唐揚げを食べながら愚痴っていたときの大きな声が嘘のように、弱々しい声だった。
「間違ってる……」
タカさんの言葉を反芻する。そこに疑問を抱いていたわけではなかったが、タカさんは私がこの行為の異常性に気付いていないと思ったのか、怖い顔をしてこちらに近づいてきた。
「自分の体を大切にしないとダメだ。安売りなんてするんじゃない。こんなことをして金を稼いだら、いつか絶対に後悔するぞ」
お手本のようなお説教がタカさんの口から飛び出して、私は唖然とした。この期に及んで、このおじさんはまだ正義面しているのかと、子供ながらに呆れていた。同時に、私だけが悪いことをしているかのように振る舞う彼の態度に腹が立った。直接的な行為をしなくても、ただ一緒に夕飯を食べただけだとしても、私の時間をお金で買ったということには変わりないのに、まるで自分はまだ罪を犯していないかのような顔をしているのが気に食わなかった。
「金払ってる方はどうなんだよ? 金払っておいて説教するとか、矛盾してるけど気付いてないの?」
バカにするようにそう言うと、タカさんは黙ってしまった。相手の間違いを指摘して、正義の形をした刀を振り下ろす行為は、ひどく気持ちがよかった。相手が自分よりも人生経験を積んだ大人であれば、気持ちよさもひとしおだった。
覚えたての言葉を使って大人を言い負かした私は、優越感に浸りながらタカさんの様子を窺った。まだ幼かった私は、その後のことを少しも考えず、ただ目の前の大人が情けなく負けを認めることばかりを考えていた。
「タカさん……?」
彼の顔を見た途端、私はゾッとした。深く傷ついたのが一目でわかるような、苦しそうな、悲しそうな、絶望したような顔をしていた。
この時初めて、私は自分の言葉で他人を明確に傷つけてしまったことに気付いた。
「すまなかった」
タカさんは消え入りそうな声でそれだけ言うと、鞄の中から取り出した茶封筒をベッドサイドのテーブルに置き、そのまま部屋を後にした。最後に見た彼の背中はひどく小さく見えて、これまで感じたことのない怖さを感じた。
しばらく放心状態だった私は、ゆっくりと帰り支度を始めた。時計を見ればホテルに入ってからそこまで時間は経っていなかったが、急いで家に帰りたかった。タカさんが置いていった茶封筒を掴んで、一人でホテルを出て駅に向かった。夜が深まり、店先で煙草を吸う人や、酔いが回ってふらついている人が増えてきていた。誰の目にも入らないように、私はほとんど走るように駅を目指した。
翌朝、トーストを齧りながらテレビを見ていると、ニュースキャスターの女の人の声で「援助交際」という単語が聞こえてきた。びっくりしてトーストの破片を詰まらせた私は、慌てて牛乳を喉に流し込んだ。
牛乳を飲みながら横目でニュースを確認すれば、東京で女子高生が援交相手の男性に刺殺されたという内容だった。男性はもう捕まってはいるが、援助交際という行為自体がトピックとして注目されているようだった。
「都内は物騒ね」
「そうだね」
洗濯物を干し終えて部屋に戻ってきた母が眉を顰める。私は無関心を装って、もう空っぽになったコップを呷った。
部屋に戻ってから、私はスマホで例の事件のニュースを調べた。ネットニュースにもなっていたが、テレビで言っていたこと以上の情報は載っていなかった。
どうしよう。私も殺されるかもしれない。そんな不安が渦巻いていた。援交用に使っていたSNSのアカウントを削除して、アプリ自体もアンインストールした。これまでの援交相手に本名や住所、学校名を教えたことはないし、写真だって載せていない。致命的なミスはしていないはずだ。
それから数日の間、私は常に恐怖に囚われていた。誰かが私を殺しに来るかもしれない。私が知らないところで、私の情報を拡散しているかもしれない。一緒にお風呂に入った相手、体を触らせた相手、下着を売った相手。今思えばどれも悍ましい行為だったとわかる。私の手元に残ったのは、そんな汚い行為の代償として得たお金と、日に日に募っていく自己嫌悪と、いつか誰かに殺されるかもしれないという恐怖だけだった。
もしかしたらこの恐怖は、タカさんへの罪悪感の裏返しなのかもしれない。
目を覚ますと、激しい頭痛に襲われた。
ガンガンと酷い痛みを訴えるこめかみを抑えながら起き上がると、体中の関節が軋んだ。何度か瞬きをして状況を確認する。どうやらクッションを枕にして、フローリングの上で寝ていたらしい。エアコンをつけっぱなしにしているため寒さは感じなかった。カナちゃんはどうしただろうと辺りを見渡すと、ローテーブルを挟んだ向こう側で同じようにクッションを枕にして眠っていた。先に寝落ちてしまった私をベッドに上げられず、家主を差し置いてベッドで寝ることもできず、というところだろうか。正直あまり、昨夜の記憶が無かった。
「カナちゃん、起きて」
「ん……」
せめて今からでもベッドで寝かせようと思い声をかけるが、彼女も彼女で昨夜は深酒をしたのか、なかなか起きる気配がなかった。
スマホを見れば、まだ七時前だった。酔った次の日はいつもより早く目が覚めてしまう。二度寝ができない体質を少し恨みながら、私は頭痛に響かないようにゆっくりと立ち上がった。
キッチンの水きり場には洗い終わったコップが並べてあり、揚げ物が入っていたパックは捨てられていた。冷蔵庫を開けて見れば、余ったものはお皿に移してからきちんとラップがされていた。私が寝た後に一人で片付けてくれたのだろう。音を立てないように、遠慮がちに片付けをするカナちゃんを思い浮かべたら思わず笑みが零れた。
小さな鍋で水を沸かして、萎びたネギをぶつ切りにする。収納棚から乾燥ワカメを取り出して、湧いたお湯に適当に入れる。ここで、鶏ガラを入れるか味噌汁にするか、悩む。二日酔いに効くのは味噌汁だったか。いや、あれはアサリ限定だっただろうか。ワカメスープの塩っけも二日酔いに効きそうではあるけど、味噌汁の方がいいのだろうか。普段あまりお酒を飲まない人間だから、二日酔いのときにどんなものを食べるのが効果的なのかがわからなかった。
「カナちゃん」
振り返ってまだ寝ているカナちゃんに声をかける。当然、ぐっすり寝ている彼女は起きない。やっぱりこんな早い時間に起こしてしまうのは忍びない気がする。仕方なく、私はスマホで二日酔いに効く食べ物を調べることにした。
ネットの知恵を信じて冷蔵庫から味噌を取り出し、お玉と菜箸で溶いていると、ふわりと味噌汁の香りが立ち上ってきた。空腹を拗らせたお腹がぐるぐると音を立てて目の前の味噌汁を催促してくる。卵でもあれば完璧だったのに。ワカメとネギだけの質素な味噌汁に少しの不満を覚えながら、だしの素をさっと入れて味を見る。
「うん」
香りも味もばっちりと決まっている。一発で味が決まることほど気持ちのいいことはない。
「んー……」
匂いにつられたのか、カナちゃんが唸りながら伸びをした。まるで猫のような恰好に思わず吹き出してしまった。
「カナちゃん、お味噌汁飲む?」
「ん、のむ」
舌足らずに返事をしながら、カナちゃんはむくりと上体を起こした。まだ眠そうに目を擦っている。子供みたいだと思った。
「はい、熱いから気を付けて」
「ありがと」
味噌汁の入ったお椀と一緒に水も置いてやると、喉が渇いていたのか、カナちゃんはそれを一気に飲み干した。カナちゃんの向かいに座ってから私も水を飲む。起きてからまだ何も口にしていなかったから、冷たい水がすっと体の中を移動していく感覚が心地良かった。
「いただきます」
湯気を冷ましながら一口啜ると、塩分がじわりと体中に染みわたり、少しだけ頭痛が和らいだような気がした。おそらくプラシーボ効果だとは思うが、味噌汁の効能に感心する。
「しみるー……」
カナちゃんがしみじみと呟きながら味噌汁を啜る。徐々に覚醒してきたのか、言葉がさっきよりも明瞭になっていた。
「うまぁ……。静さん天才」
まさか味噌汁を食べた感想で天才なんて言葉を聞くことになるとは思わなくて苦笑する。
「大袈裟。お味噌汁なんて誰が作っても一緒だし、二日酔いだから余計に効いてるだけでしょ」
私だって今日の味噌汁はよくできたとは思うけど、それは二日酔いという要素が加わったからだ。これくらいは誰だって作れる。しかしカナちゃんは私の言葉に納得できないようで、ムッと眉間に皺を寄せた。
「なんでそんなに謙虚かなぁ」
「謙虚じゃなくて、実際その程度の人間だからね」
「もう!」
卑下するようなことを言うと、カナちゃんはますます怒ったような顔をした。私が私を否定したところで、カナちゃんにはなんの不都合もないはずなのに。
「じゃあ私が静さんの良いところ見つけたら褒めて報告するね」
「何それ。恥ずかしい」
「あはは。覚悟してね。めっちゃ恥ずかしくなるくらい褒めるから」
そんな宣戦布告をしながら、カナちゃんはまた味噌汁を啜った。そんな彼女の様子を見ながら、私はちらりと現れようとした恐怖を心の裏側にそっと隠した。期待の裏には、失望がある。その事実を見ないように、せめてカナちゃんがこの部屋にいる間は褒められるような人間の皮を被っていようと思った。
お腹に軽く入れてから、私はベッドに寝転がった。カナちゃんはシャワーを浴びてから、さっぱりした顔で戻ってきた。どうやら二日酔いは私だけらしい。
「何かすることある?」
「すること……。椅子、組み立てたかったんだけど」
「じゃあ私やっちゃうね」
「あ、ちが……」
別に頼みたくて言ったわけではなかったのだが、カナちゃんはすでにクローゼットの中から椅子の部品を取り出していて、説明書を開いていた。
「ごめん、なんか働かせちゃって」
「全然。こういう作業って好きだし、居候してる身だし」
木でできた部品が僅かにぶつかる音と、ネジ同士が鳴らすカチャカチャという音が頭痛の隙間をぬって小気味よく響く。途中でカナちゃんの鼻歌が混じった。こんな穏やかな朝を無為に過ごすなんて、ひどくもったいないことをしているように思えた。
「椅子できたよ」
「ありがとう」
二脚の椅子がダイニングテーブルのそばに置かれているのを見て、いつもの景色だと思った。数日前からの違和感が消えて、元通りに戻ったという気がした。
「静さん、私もちょっと寝てもいい?」
大きく欠伸をするカナちゃんに、私は黙って体を壁際に寄せた。一晩床で寝かせてしまった申し訳なさが、同じベッドで横になる抵抗感よりも上回った。
「やっぱこのベッドいいなぁ」
満足げな笑みを浮かべて目をつぶると、カナちゃんはすぐに眠りについた。いくら若くても、ちゃんとベッドで寝ないと疲れはとれないのだろう。すうすうと小さな寝息を聞きながら、私は彼女の顔を観察した。ハーフ顔というのだろうか、日本人よりも彫りが深く、二重幅がくっきりとしている。白い肌は陶器のようになめらかで、毛穴がちっとも目立たない。睫毛は長く、肌に静かな影を落としている。ぽってりとした唇は艶やかで、真冬だというのに乾燥の一つもしていなかった。本当に、綺麗な顔をしている。
こんな子が、一体何から助けてほしいというのだろう。今のところ住む場所を提供するぐらいしか助けらしいことはできていないけれど、この先別の何かを要求されたりするのだろうか。
いや、もしかしたら大家さんに言っていたことが本当のことなのかもしれない。だとしたら、特に危険なこともない。誰かに追われているとか、何かから逃げているとか、そういうことではなく、ただ平和な日常の延長線上で、小さないざこざのワンシーンとして今があるのであれば、そこまで深刻なことではないはずだ。
ふと意識が浮上すると、窓の外に広がる空は赤く染まっていた。あれから夕方までずっと寝て過ごしてしまったようだ。何度か途中で目覚めた記憶はあるが、そのたびに意識を投げ出してしまっていた。
「一日無駄にした……」
最悪だと呟く。隣で似たような一日を過ごしたカナちゃんは、そんな私を見ても特に気にしたふうもなく満足げに伸びをした。
「こんなにゆっくり過ごすの久々で、ちょっと新鮮かも」
まだ二十二歳だというのに、これまでどれほど忙しくしていたのだろうか。ポジティブ思考の彼女を少し羨ましく思いながら、私は夕飯の準備をするため起き上がった。
冷蔵庫の中に昨日の残りがあるが、それだけでは味気ない。せめてお米は炊いておこうと思い二合分のお米を研ぎ始めると、突然インターホンが鳴り響いた。
「はい」
マイクに向かって返事をすると、すぐに「田中です」と大家さんの声がした。お節介な大家さんでも、部屋にまで来ることは滅多にない。何かトラブルでもあったのだろうか。
カナちゃんの方を見れば、不安そうな顔でこちらを見ていた。そういえば昨日、大家さんは名前を名乗っていなかったから、田中と聞いても誰が来たのかがわからないのだろう。
「大家さん。ちょっと出てくるね」
そう言うと、カナちゃんは少し安心したように表情を緩めた。トラブルがあるとすれば彼女に関することだろうからまだ安心はできないけれど、そこには触れずに、私は部屋を出て玄関の鍵を回した。
ドアを開けると、冷たい外気が顔を撫でていった。一日中エアコンの効いた部屋で過ごしていたから、思わず外の新鮮な空気を深く吸い込んでしまった。
「こんばんは。どうかしたんですか?」
ドアの隙間から顔を出し、なるべく愛想が悪くならないように気をつけながら声をかける。大家さんは人好きのしそうな笑みを浮かべ、両手にタッパーを持ってそこに立っていた。
「これ、ちょっと作りすぎちゃったからお裾分けしに来たの。二人で食べて」
「え……」
ずいっと差し出されたタッパーと大家さんの顔を交互に見る。戸惑いを遠慮と捉えたのか、大家さんは「遠慮しないで」と言いながらさらにタッパーを近付けてきた。
「あ、ありがとうございます」
受け取るまで帰りそうにないと思い、とりあえず差し出されたものを受け取ると、大家さんは満足そうに口角を上げた。笑うと皺が増えて、細い目がその中に埋もれてしまうように見えた。
「これって……」
「カレー。一人じゃ食べきれないけど、たまに食べたくなるのよね」
「一人……旦那さんは?」
大家さんは確か旦那さんとの二人暮らしだったはずだ。このアパートの間取りは基本的にワンルームだが、大家さんが住む一〇一号室は家族で生活ができるように広く作られていると以前聞いた記憶がある。年下の旦那さんで、食品会社で働いていると言っていたような気がするのだが、今夜は飲み会か何かで不在なのだろうか。
「あの人の分はいいのよ。どうせ私の料理なんか大して好きじゃないんだから」
「ええ……」
「三十年以上一緒にいて一度も美味しいって言ってくれたことがないんだから」
それは、旦那さんがただ褒めないだけなのか、それとも大家さんの料理に問題があるのか、かなり反応に困る話題だった。
「やあねぇ。カレーなんてルーで味付けてるんだから誰が作ったって失敗しないわよ」
微妙な顔をしているのがわかったのか、大家さんはさも不満げにそう言った。自虐なのか本気なのかわからない物言いに、私はただ曖昧に笑うことしかできない。大家さんとの会話はこちらがかなり気を使わないといけないから苦痛だった。
「あとね」
ふと大家さんが声を潜めた。聞き取りづらくなった声に合わせて少しだけ屈むと、耳元でしわがれた声が低く囁いた。
「あの子、本当に危険な子じゃないの?」
あの子、とはカナちゃんのことだろう。なるほど、カレーのお裾分けは建前で、こっちが本題ということか。
「危険って、例えば?」
「たとえば? 例えば、ヤクザに追われてるとか、実は密入国したとか……」
バツが悪いのか、大家さんの声はだんだん小さくなっていく。私は思わず吹き出しそうなのを堪えながら、精一杯不機嫌そうな顔をした。
「映画の観すぎですよ。身内のことをそんなふうに言われるの、不快です」
設定通り、私はカナちゃんの身内を演じる。本当にいとこだったら、変な誤解をされて平気な顔をしている方がおかしい。
「ごめんなさい。やっぱり失礼だったわよね」
「いえ。本当に迷惑はかけないようにするので。カレー、ありがとうございます」
素直に謝った大家さんにそう言ってドアを閉めようとしたとき、階段をものすごい力で一段一段踏みしめるような音が下から近付いてきた。ぎょっとして大家さんと二人で階段の方を見ると、外灯の下に明るい金髪が現れた。小さな体でパンパンに膨らんだ黒いトートバッグを、半ば担ぐようにして運んでいる。階段を上る音の力強さから察するに、中身がかなり重いのだろう。
「あれ! 大家さんどうしたんすか?」
階段を上り終えて顔を上げた金髪少女は、大家さんの顔を見るなり目を丸くして大きな声で話しかけてきた。その見た目からは想像できないハスキーな声と音量に驚く。同じアパートの住人とはあまり顔を合わせないし、もちろん話したこともなかったから、まさかこんなに派手な子が同じフロアに住んでいたとは思いもしなかった。
「カレーのお裾分けをしに来ただけ」
「カレー! ウチも食べたい!」
遠慮の欠片もない、まるで親しい友達を相手にしているかのような物言いに、私は大家さんが不機嫌になりやしないかと冷や冷やした。以前、大家さんに対して適当な態度をとったときに、「失礼な子」と怒られたことがあったのだ。しかし私の心配に反して、大家さんは「仕方ないわねぇ」と言いながらにこにこと笑っていた。
「静さん、大丈夫?」
ふと背後から声をかけられ、振り返るとカナちゃんが心配そうな顔をしてこちらの様子を窺っていた。
「大丈夫。大家さんからカレーいただいたの」
「え!」
タッパーを見せると、カナちゃんは慌ててこちらに駆けてきた。そのまま私の後ろからドアの外に顔を出し、金髪少女と話していた大家さんに挨拶をした。
「こんばんは。カレーありがとうございます」
「あら、わざわざ出てきてくれるなんて礼儀正しいのねぇ」
「そんなそんな」
あははと愛想よく笑うカナちゃんに大家さんも愛想の良い笑みを浮かべる。数分前はひどい疑い方をしていた相手に、よくもここまで愛想を振りまけるものだといっそ感心してしまう。とはいえ、カナちゃんのように礼儀正しく愛想の良い人間は、大家さんが気に入るタイプの人間に違いないし、特に心配するようなこともないだろう。
「めっちゃ美人! え、モデル!? ナナに似てる!」
突然、金髪少女がカナちゃんを見て悲鳴を上げた。ぽかんとする私とカナちゃんを他所に、金髪少女は凄まじい指捌きでスマホを操作し、とある女性の画像を映し出した。
「これ! アイドルのナナ!」
「あら本当。よく似てるわぁ」
スマホ画面に映った金髪のロングヘアの女性は、確かにカナちゃんに似た顔立ちをしていた。
「えー、私こんなに可愛くないよ?」
「いや十分可愛いっすよ!」
謙遜するカナちゃんに金髪少女は力強く拳を握った。彼女の動きに合わせて黒いバッグの中身が音を立てる。サイズ自体かなり大きいが、一体中には何が入っているのだろうか。
「ていうか、お姉さん初めて見る。引っ越してきたんすか?」
「ううん。ちょっと事情があって、少しの間ここでお世話になることになったの。カナちゃんって呼んで」
「そうだったんすね」
表情をころころ変えながら、金髪少女は重たそうにバッグの持ち手を肩にかけ直した。
「ウチは八代泉花っていいます。皆センって呼ぶんで、そんな感じでよろしくお願いしまーす」
八代さんはそう言うと、また軽く跳ねながらバッグをかけ直した。
「それ重そうだね」
「そうなんすよ。ウチ、美容の専門に通ってるんすけど、ウィッグとかハサミとかいろいろ入っててめちゃ重いんすよ! 最近もう電車がだるくて、グリーン車とかタクシーに課金してるんでお金が無いんすよ!」
「あら、じゃあご飯どうしてるの?」
「あんま食べれてなくてぇ! だから大家さんのカレー食べたいな」
「しょうがないわねぇ! 今持ってくるから、部屋で荷物置いて待ってなさい」
「やった! 大家さん大好き!」
それじゃあ、とあっさり帰って行った二人を見送り、私とカナちゃんはやっと玄関のドアを閉めた。まるで嵐が去った後のように、部屋の中の静けさが際立った。
部屋に戻ると、いつの間にか冷えていた体にエアコンの温風が染みわたった。冷たくなった指先を擦り合わせながら、炊飯器に研いだお米をセットして早炊きに設定する。大家さんは苦手だが、このタイミングでカレーを持ってきてくれたことはありがたかった。味の面で少し不安はあるが、大家さんが言っていたようにカレーを不味く作る方が難しい。ここはカレールーの実力を信じよう。
「センちゃん、面白い子だね」
「センちゃん?」
お米が炊けるのを待つ間に昨日の残りを温めていると、午前中に自分で組み立てた椅子に座りながらカナちゃんがそう言った。咄嗟にセンちゃんが誰のことなのかわからなくて聞き返すと、カナちゃんは驚いたように目を瞬かせた。
「え、さっきの八代泉花ちゃん。静さん、もしかして今日がはじめましてだった?」
「うん。あんまり他の住人と話したりしないから」
このアパートに来てから五年以上は経っているが、その間きちんと自己紹介をした住人は一人か二人くらいしか覚えていない。彼らはとっくに別の場所に引っ越しているため、今の住人に関しては挨拶をしたことがあるかすらも怪しいほどに交流が無かった。
「あー、でも、確かに同じアパートだからって仲良くしないか。私もお隣さんの名前とか知らないし」
「そうなの?」
「うん。ごめん、変な驚き方しちゃって」
「別にいいよ」
気にしていない風を装うけれど、内心では少し安堵していた。自分の社交性の無さを突き付けられたような気がしていたから、実際は皆こんなものだとわかって、私だけが欠陥を抱えているわけじゃないことにほっとした。
電子音が鳴り、温めが完了する。お米はあと十分ほどかかるみたいだった。タッパーの中身をお鍋に移して火にかけると、カレーのスパイシーな香りが部屋中に漂った。後で消臭スプレーをかけなきゃと思った。
少し緩いカレーを食べ終えて、私とカナちゃんは順番にシャワーを浴びた。先に入った私が髪を乾かしながらSNSを見ていると、後から部屋にやってきたカナちゃんは鞄から両手に一抱えのボトルやら何やらを持ち出してきた。
「ドライヤー、使う?」
「まだ大丈夫」
一度オフにした電源を再びつけて、まだ少し残っている根本の水分に風を当てる。そうしている私の傍らで、カナちゃんは腕に抱えていたものを一つ一つローテーブルに並べた。化粧水、乳液、パック、その他もろもろ。お風呂あがりに何かしているというのは知っていたけれど、こんなにたくさんの美容グッズがあるとは思わなかった。
「それ、毎日やってるの?」
「そうだよー」
ドライヤーを終わらせて話しかけると、のんびりとした声が返ってきた。たくさんあるボトルを迷いもせずに手に取り、顔に塗り、剥きたてのゆで卵のようなツヤツヤな肌に仕上げていく様子はもはや芸術だった。保湿目的のクリームを冬場限定でしか塗らない私の美意識とは天と地ほども差があった。
「静さんはあんまり美容とか興味ない?」
「ないわけじゃないけど、習慣化するのが難しくて」
元来飽き性なところがあるせいか、何かを習慣化することが昔から得意ではなかった。スキンケアも、ちゃんとしようと思って一通り買いそろえたことはあったのだが、お風呂あがりの十数分がなかなか習慣として身につかず、結局一週間かそこらでサボるようになってしまうのだ。
「興味がないわけじゃないなら、試しにこれやってみて」
これ、と言ってカナちゃんが手に取ったのはチャック付きの大袋だった。そこから取り出してみせた白いべちゃべちゃしたものを見て、私は思わず顔を顰めてしまった。
「え、なんでそんなに嫌そうなの?」
「いや、ちょっと」
パックにはあまり良い思い出がない。それを顔につけている間はまるでのっぺらぼうのようで、見る側も見られる側もちょっと気まずい。少し美容に目覚めかけた高校時代に、パックをしているところを母に見られて盛大に笑われたのを思い出してしまった。
これを、今から私につけさせようと言うのだろうか。
「大丈夫。私もよく真っ白お化けになるし」
「真っ白お化け……」
やっぱり皆これをつけてるときの顔をそう思ってるんだ。
「ね、一回だけ!」
カナちゃんはどうしても私にパックをさせたいらしい。どうしてかはわからないけれど、だんだん拒否するのも面倒くさくなってきた。数分の間真っ白お化けになれば彼女の気は済むのだろうし、そんなところを見てカナちゃんが私を笑うこともないはずだ。
「わかった。一枚もらうね」
ヘアクリップで前髪をとめ、カナちゃんの手から摘まみ取ったパックを広げて顔面に張り付けていく。久しぶりに使うから上手くつけられるかわからなかったが、パックのつけ方に上手い下手もないだろう。要はべちゃべちゃしたものが肌に触れていればいいのだ。
「できあがりが楽しみだなぁ」
「……」
そんなじっくりことこと煮込んだビーフシチューでもあるまいし。一回パックした程度で肌のつくりが変わることなんてないに決まっている。口を動かせないから声に出すことはないけれど、心の中では彼女のパックに対する過大評価に呆れ切っていた。
「そろそろはずそっか」
数分が経って、カナちゃんの指示でパックを外す。まだ水分が残っているのにもう外してしまうのかと、少しもったいなさを感じてしまう。
「残ってるやつはしぼって、顔とか肌に塗りたくって……」
私の手の中で丸まったパックの残骸をカナちゃんが華奢な手でぎゅっと絞った。残った美容液が私の手の中にぽたぽたと零れ落ち、彼女に促されるまま、私はそれを顔や首、手の甲に塗りたくった。
「これ、ずっとぬるぬるしてて気持ち悪いんだけど」
「もう少しぎゅって、肌に浸透させるように押し込んで」
ぺちぺち叩いて音で遊んでいると、そんなんじゃ沁み込まないと怒られてしまった。化粧水とかってぺちぺち叩きこむものじゃなかったんだ。三十路手前にしてスキンケアの常識が覆されたことに軽くショックを覚えながら、私はカナちゃんの言うとおりに肌の上に乗った水分を押し込んだ。
「鏡ある?」
「クローゼットの中」
徐々に顔の水分が肌に浸透してべちゃべちゃ感が消えてきた頃。カナちゃんはさっとクローゼットの中から卓上ミラーを持ってきて、私の前に差し出した。
たった一回のパックで何が変わるのか、なんて斜に構えていた私でも、カナちゃんのような綺麗な肌をした人の指示通りのスキンケアをした後とあっては多少の期待はあるもので、鏡を受け取ってから覗き込むまでの一瞬、ほんの少しだけ緊張が走った。
「すごい……」
思わずそんな言葉が漏れてしまった。
肌の色が違った。白くなったわけではない。ただ、明るくなった。ツヤが増したのもあるのだろうし、光の反射もあるのだろうけど、確実に明るくなった。恐る恐る触れてみると、いつもよりも弾力を感じた。すごい、モチモチしている。
「どう?」
「……パックって、すごいね」
しばらく鏡を見ながら自分の顔をつついていると、カナちゃんの笑い声が隣から聞こえてきた。
「静さん、今テンション上がってる?」
聞かれて初めて、自分のテンションが珍しく高いことに気が付いた。水族館に行ったときより、甘いお酒を飲んだときより、今が一番、素でテンションが高いかもしれない。
「自分を磨くのだって、自分の機嫌をとる方法の一つだと思うんだよね」
自分の機嫌をとる。その言葉がよく使われるようになったのは何年前だったか。自分の機嫌は自分で取るのが当たり前とされて、他人に気を遣わせることは非難されるようになった。他人に機嫌を左右される人が嫌で、私はそうはならないようにしようと思っていたが、もしかしたら、今私はカナちゃんに機嫌をとってもらったのかもしれない。
「ありがとう」
口をついて出た言葉に、カナちゃんがきょとんとしながら首を傾げた。本人に機嫌を取った自覚がないことに少し安心して、ふっと息を吐いた。
「もう少しちゃんとしたスキンケアを心がけようかなって、思わせてくれて」
「そういうことか。自分磨きっていいよぉ。なんか強くなれる気がするし」
「強く?」
筋トレとかの話だろうか。美容と強さが結びつかず、今度は私がきょとんとする。
「だって、メイクとかスキンケアって、ある意味他人から自分を守るためのバリアみたいなものだから。すっぴんで外に出るのとか、かなり怖いじゃん」
「確かに、そうね」
言われてみればその通りだ。オシャレや自分磨きに力を入れているわけでもない私でさえ、外出するときは最低限のメイクをする。近所のスーパーへの買い出しにだって、すっぴんで行くことはできない。人はそこまで他人に興味がないとはよく言うけれど、実際の他人の目と自分の中に存在する他人の目は全くの別物だった。
「だからカナちゃんは、そんなに強いのね」
外出するときのカナちゃんも、シャワーから出た後のカナちゃんも、どの瞬間も彼女は綺麗だ。寝ている時でさえ美しさを感じる。それは彼女が自分自身を磨いてきた成果で、それがそのまま心の強さに繋がっているように思えた。
「私、強いかな?」
「強いよ。少なくとも、私よりはずっと」
「うーん、人と比べるようなものでもないと思うけど」
カナちゃんは納得していないような顔で口をへの字に曲げた。形の良い上向きの口端が下がることもあるのかと、どうでもいいことが少し面白かった。
「強さは比べられるし、誰かより別の誰かの方が強いってこともあるよ」
「でも、地獄は人それぞれでしょ? 住んでる地獄が違えば必要な強さだって違うだろうし、やっぱり強さだけを基準に比べることはできないよ」
地獄、なんて言葉がそれなりの重みを伴って彼女の口から飛び出してくることに驚いた。あまりにも大人びた人生観に、私はこれまで飲み込んできた好奇心を一つ曝け出してみたくなった。
「あのさ、聞いてもいい?」
言葉を選びながら、そう切り出す。カナちゃんは、それだけで私が何を聞きたいのかがわかったのか、困ったように苦笑した。
「昨日は静さんの話、聞いちゃったからね。いいよ」
私の話。きっと、昨日酔った勢いでいろいろと暴露してしまったのだろう。どこまで話してしまったのかは覚えていないから、十数年前の汚い行為の話まではしていないことを信じるしかなかった。
「何から話そうかなぁ。結構、急カーブ続きの人生だから、部分的に話すと誤解を招きそうで……」
カナちゃんは暫く、黙って頭の中を整理していた。それから少しして、どこから話し始めるかを決めたらしく、昔を懐かしむように一点を見つめながら口を開いた。
「父がアメリカ人だったの。キリスト教徒で、私の名前も聖書の中に出てくる地名か何かから来てるみたい。私が十歳のときに離婚してアメリカに帰っちゃったんだけど、年に一度絵葉書が届くから、いつかアメリカまで父に会いに行きたくて、キャビンアテンダントになりたいって思ってた」
そこでカナちゃんはふと言葉を切った。私はじっと、彼女が紡ぐ次の言葉を待った。
「中学生になったぐらいの時期に、弟が生まれたの。母と再婚相手との子供だった。でも、すぐに新しい父親も病気で死んじゃって、金銭的な余裕が無かったから、キャビンアテンダントになるっていう夢は諦めた。代わりにたくさんお金を稼いで自力でアメリカまで行こうと思って、学生時代はバイトを詰め込んで、社会人になってからは昼職とキャバを掛け持ちして、本当に、寝る間も惜しんでずっと働いてたなぁ。今思うとすごい」
カナちゃんがクスクスと笑う。何もしない一日なんて久々だと言う彼女のことを大袈裟だと思っていたが、彼女にとっては本当に、数年ぶりに味わった無駄な一日だったのかもしれない。
「まあ、もう会いに行けなくなっちゃったんだけど。そうなったらなったでこれまで貯めてきたお金が使い放題だから、悪いことばっかじゃないはず! お金も時間も、こんなに自由に使えるなんて生まれて初めて」
カナちゃんはそう言って、少し寂しそうに笑った。会いに行けなくなった理由までは、とても聞く気になれなかった。
ふと暗闇の中で目を覚ました。枕元で充電していたスマホを見れば、丁度深夜の三時だった。珍しく零時台に眠気が来たと思えば、こんな中途半端な時間に覚醒してしまうなんて不便な体だ。
「う……」
小さくくぐもった声に隣を見れば、カナちゃんはこちらに背を向けて体を丸めるようにして眠っていた。そっと体を起こして顔を覗き込めば、ぼんやりとした視界でもわかるほど彼女の眉間には深い皺が刻まれていた。エアコンがついているとはいえそこまで暑くもない部屋の中で、額はじわりと汗ばんでいた。
「カナちゃん」
悪い夢でも見ているのかもしれないと思い、彼女の名前を呼ぶ。寝起きの声は酷く掠れていて、自分で思っていたよりも細く頼りなかった。カナちゃんが起きる気配はなく、肩でも揺すろうかと思って手を伸ばした。しかし、その華奢な肩に触れるのは躊躇われて、結局は手を引っ込め、代わりにベッド下に落ちてしまっていたシャチの抱き枕をそっと彼女の隣に寄り添わせた。
シャチと入れ替わりにベッドを出た私は、椅子にかけていたニットのカーディガンを羽織り、キッチンの照明をつけてコップに水を注いだ。冷たい水が喉を伝うと、寝起きでぼうっとしていた頭が冴え始めた。もう今夜は眠れないな。こんな時間に覚醒した夜を何度も過ごしてきた経験からそう悟る。
冷蔵庫の稼働音だけが響く、暗く静かな夜の過ごし方は決まっていた。
少し落ち着いたのか、規則正しい寝息を立てるカナちゃんを起こさないように、私は冷蔵庫から卵とバターを取り出した。二日酔いでダウンした翌日、さすがに冷蔵庫に何も無さすぎるからと、カナちゃんと二人で買い出しに行った。おかげで冷蔵庫の中がかなり豊かだ。
収納棚から砂糖と薄力粉、ベーキングパウダーを取り出して、ラップと量りで必要な量を準備する。
冷えて固いバターを泡立て器で崩し、練るようにカシャカシャと混ぜる。なかなか溶けないが、時間ならたっぷりとあるから根気よく混ぜる。固形っぽさがなくなったら砂糖を入れて擦り混ぜる。バターと砂糖の混ざり合ったときの匂いは、料理をしているなかでトップスリーに入るぐらい好きな匂いだ。白っぽいふわふわになるまで混ぜたら、卵を少しずつ加えていく。黄色くもたもたとした生地の感触が面白かった。
泡立て器の役目はここで終了。流しに置いて、ついでにオーブンの余熱を始める。
もうレシピを見なくても作れることに、それだけ眠れない夜を過ごしてきたのかと気付かされる。お菓子作りは好きだが、眠れない夜に作るのはいつもパウンドケーキだった。材料も分量も工程も、全てが単純なお菓子だから、夜中に無心で作るのにはうってつけだった。
粉類をカシャカシャと振るいにかけながら、カナちゃんのことを考える。数日前に聞いた話では、彼女は父親に会うためにお金を貯めていたが、それはもう叶わなくなってしまったということだった。どうして叶わなくなってしまったのか、その場では聞けなかったが、やはり気になってしまう。既に亡くなってしまっているのだろうか。そうすると、なぜ彼女が何かから助けてほしいと言ってこの部屋に居候しているのかという謎が残ってしまうのだが。そもそも彼女が助けを必要としている理由と、父親に会えなくなってしまったこととの間に因果関係があるのかもよくわからなかった。
聞くべき、なのだろう。大家さんには平気だと伝えているが、何かの事件に巻き込まれていないという確証だって今のところ無いのだから。でも、同時に聞きたくないとも思う。もしも彼女が悪人だったら、私は彼女を警察に差し出さなければならない。そんなことが、私にできるだろうか。
もう自分でもわかっていた。私はカナちゃんという存在にすっかり絆されてしまっている。情が移ってしまっている。いや、救われていると言った方が正確かもしれない。だから、少しでも彼女が私のそばから離れるような可能性があるのならば、私はそこから目を逸らしていたかった。
背後で小さな呻き声が聞こえた。粉を振るっていた手を止めて振り返る。起こしてしまっただろうか。酷い夢を見ているのならいっそ起きてしまった方がいいのではないかと思って、あえて音に気を配ることはしていなかったのだが、やはりこんな時間に起こしてしまうのは申し訳なかった。
「しずか、さん……?」
「ごめん、うるさかった?」
ふにゃふにゃの滑舌で名前を呼ばれ、そっと返事をする。きっとまだ四時にはなっていないだろうし、本格的に覚醒していなければもう少し寝かせてあげられる。振るいにかける作業が終わればもう音を立てるような作業もない。
「まだ早いから、寝てて」
「……おきる」
目元をおさえながら、カナちゃんはシャチの抱き枕を置いて起きてきた。私と同じで一度起きたら眠れない体質なのか、それとも夢のせいですぐに寝直す気になれなかったのか、私にはわからないから、ただカナちゃんの行動を受け入れる。
「何か飲む?」
「うん」
もうほとんど残っていなかった粉を急いで振るってから、コップに水を注いでダイニングテーブルに置く。カナちゃんは椅子に座って、子供のように両手でこくこくと水を飲んだ。
ゴムベラで粉に埋もれた生地をさくさくと混ぜていくと、すぐにもったりとしたなめらかな生地ができた。型にクッキングシートを敷き、できあがった生地を流し込む。軽く表面をならしていると、オーブンから余熱完了の合図がした。生地を流した型をオーブンに入れ、四十分に設定して加熱する。時計を確認すれば、もう四時近い時間だった。完成するのは五時頃になるだろう。
「カナちゃん、ホットミルク飲む?」
「……うん」
レンジの微かな稼働音にも負けてしまいそうな、細い声が返ってきた。彼女らしからぬ弱々しさに、私はあえて口を噤んだ。梅原夏南という人間の二十二年の人生のうち、たった数日しか関わっていない私が、彼女らしさなんて理解できているわけがない。そんな人間が何を言ったところで、余計な一言にしかならないのだ。
冷蔵庫から取り出した牛乳を小鍋に注いで、ふつふつとする手前まで温める。湯気が立ってきたら砂糖を入れ、こっそり製菓用のブランデーも垂らした。こうすると風味が出て、夜更かしのお供にぴったりの味になる。
ホットミルクをマグカップに移して、カナちゃんの前に置く。彼女の向かいに座った私は、カップの熱で指先を温めながら、ふうふうと湯気に向かって息を吹きかけた。
「いただきます」
小さな声でそう呟き、カナちゃんがホットミルクを啜った。寝起きだからか、やはり今の彼女はいつもよりも幼く見えた。
「あったかい」
ぽつりと、言葉が乳白色の中に落ちていった。まるで涙が落ちたみたいに、私には見えた。
ぶん、とレンジの音がやけに大きく聞こえた。キッチンの蛍光灯の明かりに照らされたダイニングテーブルと、光の行き届かない部屋の隅のコントラストが、まるで世界から切り離されて二人ぼっちであるかのように錯覚させた。
「すごく嫌な常連さんがいたの」
「……」
不意に飛んできた言葉に、私は暗闇に向けていた目を彼女へと戻した。カナちゃんは僅かに俯いて、少しかさの減ったミルクを見つめていた。
「すぐに人のせいにして、下品で、嘘つきで、他の女の子も皆、その人のことを嫌がってた。でも、直接的に何かやらかしたわけじゃないからって、オーナーはその人を出禁にしてはくれなかった。去年の夏頃から、その人にプライベートなことを聞かれるようになった。聞かれるたびに誤魔化してきたのに、いつの間にか電話番号も住所も職場も知られてた。怖かった。オーナーにも警察にも相談したけど、まだ実害は出てないからって、対処してくれなかった。実害って、なんだよって思った。害を被るのは私なのにって。それで、いろいろネットで調べて対策をして、防犯スプレーとか、いろいろ、買って、パパに会いに行くためのお金なのになって思いながら、スマホとかも変えて、それで……」
ぐっと詰まった言葉を押し流すように、カナちゃんはミルクを飲んだ。私も、彼女の理不尽な身の上話を少し冷めたミルクとともに飲み下す。
「それで、この前。昼間の仕事から一旦家に変える途中で、その人に会った。家の近くで待ち伏せされてたんだと思う。急に手を捕まれて、人気のないところに引っ張られて、怖くて声も出なくて、うまく歩けなくてもたついたら怒られて……。でも、このまま死にたくないって思ったら、勝手に体が動いて、……転んだ拍子に掴んだ石で、殴っちゃって……っ」
そこまで言うと、カナちゃんは両手で顔を覆った。華奢な肩が震えている。襲われたときのことを思い出した恐怖と、自分がしたことに対する罪の意識と、他にもいろんなものが混ざり合って彼女の心を苛んでいるのだろう。
カナちゃんにも地獄があるのだ。可愛くてスタイルが良くて、人に好かれやすくてポジティブな彼女を、私は羨ましいと思ったことがあった。でも、彼女の言うとおり、人にはそれぞれの地獄がある。彼女の話を聞いて初めて、私は他人の地獄というものを理解した。
「ごめんね、静さん」
「うん?」
「こんな犯罪者が近くにいたら、怖いでしょ。もう出て行くよ」
一瞬、彼女が何を言っているのかがよくわからなかった。確かに人を石で殴るのは悪いことだし、相手の安否やその後の話は聞いていないから、今の話だけでその罪の重さをはかることはできない。でも、先にストーカー行為をはたらいていたのは相手の方なのだから、正当防衛じゃないだろうか。
「私は法律とかそういうものに詳しくないから、今の話を聞いて正当防衛じゃないかなって思うんだけど……」
「……」
思ったことを言ってみるも、カナちゃんは依然、顔を両手で覆ったままだ。たとえ正当防衛だったとしても、自分では納得できない行為だったのかもしれない。
しかし、私はカナちゃんを怖いとは思わなかった。
「怖くなんかないよ」
そう言って、項垂れる頭に手を伸ばす。細い髪にそっと触れると、温かな人の体温が掌に伝わってきた。誰かの頭を撫でることなんて、これまで生きてきて数えるほども無かったから少しぎこちない動きになってしまう。それでも、伝わればいいと思った。本当に、怖いだなんて思っていないと。
「もう少し、ここにいてよ」
「なんで……?」
顔を上げたカナちゃんは、不安げな目で私を見つめた。濡れた頬には気付かなかったふりをして、私は小さく笑った。なんで、なんて。私だってわからない。奇妙な提案をしている自覚はある。でも、カナちゃんを追い出すなんてとてもじゃないけどできなかった。
「だって……」
ふと言葉を切って、オーブンの方に目を向ける。あと十五分ほど。そういえば一つやらなければいけないことを忘れていた。
私はオーブンを開けて、膨らみかけたケーキの真ん中にナイフで真っ直ぐに切れ込みを入れ、扉を閉じて加熱を再開した。
「だって、このケーキ、一人じゃ食べきれないから」
そう言うと、カナちゃんは拍子抜けしたような顔でぽかんと口を開けてから、くしゃりと顔を歪ませて、泣きそうな顔で笑った。
十五分経って、綺麗な山形に膨らんだケーキが焼き上がると、私はブランデーを塗るより先に両端を切り取って、焼き上がりを見にきたカナちゃんに片方を渡した。私たちは立ったまま、まだ熱々のケーキの切れ端を齧った。
「美味しい」
「切れ端を食べられるのは作った人の特権だからね」
「……そっか」
カナちゃんの目から、ぽろりと涙が零れた。蛍光灯の明かりに照らされたそれは、拭ったそばから溢れて、零れて、止まらなくなっていた。
「昔、パパがよく、甘いクッキーを焼いてくれて、匂いにつられて行くと、特別だよって、一つだけ型抜きじゃない、変な形のクッキーをくれたの……。あれも、作った人の特権だったのかなぁ……」
しゃくりあげながらそう言うカナちゃんの背をそっと撫でる。長年、父親に会うために必死に働いてきたカナちゃんが、この先どんな形であれ報われればいいのに。そうしてまた、手作りの甘いクッキーの、型抜きしきれなかった余りの部分を食べることができたらいい。
「特別、だったんだよ」
カナちゃんにとって、この言葉は気休めにしかならないのかもしれない。それでも、伝えずにはいられなかった。彼女の心に、触れられたような気がしたから。
『喫茶止まり木』という吊り看板のかかったドアを開けると、カランとベルの音が鳴った。中に入ると、カウンターの方から「いらっしゃいませ」と、澄んだテノールの声が聞こえてきた。小さなジャズの音色がゆったりと流れる店内には緑が多く、コーヒーのほろ苦い香りと混ざって植物の瑞々しい香りがした。
「ああ、桜井さん。おはようございます」
カウンターの奥にいたこの店のマスターが振り返る。名前を覚えられるほどには常連であることが、今日はすこしだけ気恥ずかしい。
「今日はお二人ですね」
「はい」
「テーブル席の方がいいですか?」
「空いているなら、そうですね」
「空いてますよ。なんなら、一番乗りですから」
マスターは穏やかに微笑みながらそう言った。店内を見回せば、確かにそこにはお客さんは誰もいなかった。開店と同時にやってきたのだから当然といえば当然だったが、一番乗りというのは妙な気まずさがあった。
「お好きな席にどうぞ」
レジ前でもたもたしている私にそう言って、マスターはお冷の準備を始めた。
「静さん、この喫茶店行きつけなの?」
「まあね」
窓際の席に向かい合って座ると、カナちゃんがきょろきょろと店内を見回した。植物が多く、どこに座っていても視界の端に緑がある状況は、マスターが意図して作り出したものらしい。色相は少し暗めだが、むしろそれが落ち着いた雰囲気にマッチしていた。寡黙すぎず、踏み込みすぎもしないマスターの人柄も、この店に訪れるハードルを下げてくれる一因かもしれなかった。
「メニュー見る?」
「ううん。静さんのおすすめがいい」
「おすすめ……」
急にそんなことを言われても、と僅かに困惑する。行きつけとはいえ、私のおすすめがカナちゃんの口に合うかはわからない。私がいつも食べているものが他のお客さんからしたらマイナーメニューの可能性だってあるのだ。おすすめを聞くなら、私じゃなくてマスターに聞くのが一番間違いないのに。
ちら、とメニューからカナちゃんへと視線を移す。彼女は窓枠に置かれた陶器の人形を不思議そうに見つめている。日本ではあまり見ない、おそらく海外で購入した人形だろう。それを見つめるカナちゃんの顔がどこか寂しそうにも見えるのは、彼女とその父親の話からくる先入観が邪魔をしているからだろうか。
カウンターの方を見ると、すぐにマスターがこっちに気付いた。卓上ベルみたいなものはなく、基本的には客側がマスターに声をかけて注文をするのだが、客が私たちだけなため、今日はこちらから声をかけなくてもマスターの方からやってきてくれた。お冷を二つテーブルに置くと、マスターはエプロンのポケットから伝票ととペンを取り出した。
「卵サンドとコーヒーを二つずつで」
「かしこまりました」
マスターはそう言うと、二枚重ねになっている伝票の上の一枚をぴりっと剥がしてテーブルの伝票入れに差し込んだ。
それから少しもしないうちに、マスターはコーヒーと卵サンドを運んできた。
「意外と大きいね」
シンプルな白い皿に盛り付けられたボリュームのあるサンドイッチにカナちゃんが目を丸くする。こんがりと焼いたパンの間に、たっぷりと卵が入っている。卵の黄色に隠れて見えないときもあるが、実はきゅうりも入っているのが個人的なおきにいりポイントだった。
「おいしそう。いただきます」
カナちゃんがそっとサンドイッチを手に取り、角にかぶりついた。たっぷりと入った卵がはみ出し、彼女の口元を汚した。食べづらさに関してはあまり考慮していなかった。けど、カナちゃんは汚れた口元も皿に零れた卵も気にしていなかった。ただ、キラキラと輝く瞳を丸くして、頬張ったサンドイッチの味に感動していた。
「すごい! おいしい!」
その第一声に、私はほっと安心した。カナちゃんに笑顔が戻ったこと、自分のおすすめが彼女にも通じたこと、どちらも嬉しかった。
「ここの卵サンドを食べると元気になれるの」
「確かに。元気が出る味してる」
そう言いながらカナちゃんはまたサンドイッチにかぶりついた。
コーヒーにミルクと砂糖を入れて掻き混ぜながら、私は徐々に溶けあって一つの色に変化するそれを眺めた。薄いブラウンに色を変えたコーヒーを一口啜ると、すっかりマイルドになった苦味が舌の上で転がった。それ単体では苦くてとても飲めないが、こうしてミルクや砂糖を混ぜれば味わう余裕ができる。少し前まではブラックのままで美味しいと言える人が羨ましかったが、今は不思議とそうでもなかった。
何かに頼ってもいいのかもしれない。一人ではつらくて楽しむ余裕を失うくらいなら、誰かに頼ってしまった方がいいのかも。都合の良いことに、自分だけに向いていた視野がカナちゃんと出会ってからは少し広がった。私の周りには、自分で思っているよりもちゃんと他人の存在があった。大家さんや八代さん、マスター、他にも知り合いはいる。
なんとはなしにスマホを開き、メッセージアプリの連絡先を見る。もうずっとやり取りをしていない人の名前をスクロールしていけば、当時の記憶が断片的に蘇っては消えて行った。
「静さん、食べないの?」
「ごめん、食べる」
ハッとしてスマホを閉じ、少し冷めたサンドイッチを手に取る。カリっとしたパンと濃いめの味付けの卵、シャキシャキとしたきゅうりの水分がちょうど良い割合で口の中を満たす。自然と口角が上がってしまうような美味しさだった。
「お、コーヒーも美味しい」
私の向かいではサンドイッチを食べ終えたカナちゃんがコーヒーを飲んで満足げな笑みを浮かべている。数日一緒に暮らしていてわかったことだが、カナちゃんは甘党の私と違ってコーヒーはブラック、紅茶はストレートを好む。甘いものは苦手なのかと思っていたが、ケーキやアイスはどぎつい甘さのものでも幸せそうに食べているし、今もメニューのデザートのページを見て目を輝かせている。
「デザートも頼む?」
「うーん、どうしよ。頼みたいけど、この後帰って静さんのパウンドケーキをゆっくり味わいたいのもある」
「……じゃあまた今度、デザートを食べに来ようか」
「やった!」
あまりの不意打ちに心臓が変な音を立てた気がする。カナちゃんの愛嬌というか、さらっと人が喜ぶことを言ってくるところには、スキンシップに慣れ始めた今でもまだ慣れない。こういう精神的な距離の近さは一緒のベッドで寝ること以上に気恥ずかしくて、どうしたらいいのかわからなくなる。
カナちゃんと私の関係は、言葉で定義するならなんだろう。他人というには近すぎるし、友人と言うには日が浅すぎる。そんなよくわからない関係でも、私はカナちゃんという存在に救われている。
もしも私に友人や恋人と呼べるような相手がいれば、もっと自分に自信がもてるのかもしれない。自分で自分のことを肯定することはできない。中学生のときの自分が、そうすることを永遠に許さない呪いをかけたから。でも、誰かに肯定してもらえたら、それを頼りに生きていくことができるのかもしれない。
ふと窓の外を見る。徐々に人通りが増えてきたようで、スーツを着た社会人や、ランドセルを背負った小学生、制服姿の中高生がそれぞれの所属する場所へと歩いていた。あの人たちは、誰かに愛されたり、肯定されたりして毎日生きているのだろうか。誰かに認めてもらえれば、私もあちら側に行けるのだろうか。
でも、なんだろう。何かが引っかかっているような、そんな気がする。
「あれ」
突然、カナちゃんが声を上げた。
「どうかした?」
カナちゃんの方を見れば、彼女はさっきまでの私と同じように窓の外を見つめていた。大きな瞳は私の斜め後ろの方を見ているようだった。私も少し角度をつけてもう一度窓の外を見る。すると、外の通りの、ちょうど私からは死角になっていたところに見覚えのある金髪の少女が俯いて立っていた。
「あの子、センちゃんだよね」
「うん」
「どうしたんだろ」
コンコンとカナちゃんが窓を軽くノックする。すると、八代さんらしき金髪の少女はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
「やっぱりセンちゃんだ」
カナちゃんが小さく手を振る。それを見ても、八代さんはなんの反応も示さなかった。以前会ったときの彼女とは、明らかに様子が違っていた。
「ちょっと、外行ってみる」
「え?」
言うが早いか、カナちゃんは席を立って店の外へと向かった。すぐに窓の外にカナちゃんの姿が現れ、八代さんに何かを言うと、彼女を連れて再び店内に戻ってきた。
「マスター、えっと……」
八代さんはコーヒーよりもジュースの方がいいのだろうか。そう思って注文を躊躇っていると、彼は一つ大きく頷いた。そしてすぐに爽やかに香るハーブティーをポットごと運んできた。
「新しくメニューに入れようと思っているハーブティーなんですけど、皆さんで試飲をお願いしてもいいですか? 感想は帰り際で結構ですので」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
三人分のカップにハーブティーを注ぎ、マスターはカウンターへと戻って行った。カナちゃんの隣に座った八代さんは、目の前に出されたハーブティーをしばらく見つめ、やがてくしゃりと顔を歪めた。
「う~……」
ぐずるように唸ってから、大きくしゃくりあげながら泣きだした八代さんの背をカナちゃんがさする。ここに来る前にも泣いていたのか、八代さんの目元は赤くなっていた。ずずっと鼻を啜りながら、堪えることなく思い切り泣く彼女に、私はどうしたらいいのかわからずにただじっと黙っていた。
暫くして八代さんの感情が落ち着いてくると、彼女は洟をかみながら恥ずかしそうに話し始めた。
「すみません、急にお邪魔しちゃって」
「私が連れてきたんだし、気にしないで」
カナちゃんがそう言うと、八代さんはほっとしたように少し背を丸めた。
「なんか、外寒かったから、急にあったかいところに入って良い匂い嗅いだら泣けてきちゃって」
涙や鼻水でぐしゃぐしゃになったティッシュを丸めてテーブルに置くと、八代さんは気が抜けたような顔をして溜息を吐いた。彼女の前には丸まったティッシュが散乱していた。
「話、聞いてもらってもいいっすか?」
遠慮がちに私とカナちゃんを見る八代さんに、私たちはどちらからともなく頷いた。目の前でこれだけ泣かれたら、一体何があったのか心配になってしまう。無理に聞き出すことはしないが、聞いてほしいと言うのなら断る理由もなかった。
「じゃ、話します。さっき、彼氏に振られたんすよ。バイト先で困ってるときに助けてもらって、他にも相談乗ってくれたりして、そういう優しいところが好きだったんすけど、なんか急に、優しいところが好きって言われるの正直重いとか言い出して、もうわけわかんないっすよ」
よくある失恋話といえばそうだった。もっと重たい話が飛び出して来たらどうしようと思っていた私は少し拍子抜けしてしまった。カナちゃんの様子を窺うと、彼女も少しきょとんとしていた。ここ最近、死にたいだとか襲われただとか、そういう不穏なことばかり話していたから、お互い感覚がズレてきていたのかもしれない。そうでなくても八代さんはまだ学生で、恋の悩みが目下一番の強敵であることがむしろ普通なのだと気付く。
「優しいから好きのどこが重いんだって感じじゃないっすか? いや意味わからん。頼りがいのある年上に頼って何が悪いんだっつーの!」
振られた理由に腹が立ったらしい。さっきまで泣きじゃくっていたのが嘘のように、八代さんは表情、声、肩、全てで怒っていた。感情の起伏が激しい。そのパワフルさに圧倒されて何も言えずにただ頷いていると、意味わかんないと吐き捨てた口がまたわなわなと震え始めた。
「……ムカつく……寂しいよぉ……」
再びめそめそと泣き始めた八代さんに、私は黙ってティッシュを渡した。私にできることはもうこれしかなかった。彼女のジェットコースターのような感情の波について行くことは不可能に思えた。
「友達はいるし、大家さんとも仲良いし、実家も遠いわけじゃないけど、彼氏がいないの、寂しいよぉ。う~……寂しい」
寂しいと泣く八代さんを見て、なぜだか私の涙腺までが緩みそうになった。寂しさというものは、もしかしたら伝染するものなのかもしれない。
「ウチ、ダメなやつすぎてヤバいっすね。こんなだから振られるんだよなぁ。なんかもう、自分が嫌すぎる」
あ、まずい。そう思ったのとほとんど同時に、カナちゃんが口を開いた。
「他人は他人だよ」
「……?」
驚いたように顔を上げた八代さんの目を見つめるカナちゃんの横顔は真剣で、どこか厳しさを湛えていた。
「恋人がいるかいないかとか、誰かに否定されたとか肯定されたとか、そういうのを自分自身の評価に繋げない方がいいよ。自分の価値を決めるのは他人じゃなくて自分じゃないと、しんどくなる。他人は変えられないし、自分の思い通りにもならないから」
その言葉は、八代さんに向けられたものだったけど、確かに私の心にも突き刺さった。私も八代さんと全く同じことを考えていたから。他人に自分の価値を決めてもらおうとしていたから。
「……カナちゃんって、かっこいいっす」
八代さんが呟く。その声はさっきよりも湿度が下がっていて、まるで雲間から差し込む光のような小さな明るさを秘めていた。
「ウチ、かっこいい女になりたい。まだショックなのは消えないし、寂しいのも変わらないけど、自分で自信を勝ち取れるように頑張るっす!」
真っ直ぐな目と言葉に、私は目を細めた。若さなのか、八代さん自身の性質なのか、彼女の素直さは私には眩しいくらいにキラキラと輝いて見えた。あんなふうになれたらいいのに。また、羨んでしまう。
「あはは、つい真面目な話しちゃった。ちょっと恥ずかしいね」
カナちゃんはぱたぱたと顔を扇ぐと、誤魔化すようにハーブティーに口をつけた。
「ん! すごい、これ、なんのハーブだろう」
カナちゃんの反応を見て、八代さんもハーブティーを口に含んだ。まるで姉妹のような二人を見ながら、私もカップを持ち上げる。鼻腔をくすぐるハーブの香りは甘くやわらかで、荒んでいた心が少しずつ凪いでいった。
この中で一番年上の私は、結局何もできなかった。それどころか、間違いを指摘されたような気分だった。
私は、誰かに自分を肯定させようとしていた。他人の存在は認めても、そこに当然あるはずの意志や人格を無視して、ただ自分が気持ちよく生きるために利用しようとしていた。それは、ずっと前に私を買っていた男たちと変わらない。カナちゃんを襲ったストーカーと、何も変わらない。そんな最低な考えだった。
天気予報で雪予報が出た一月下旬。カナちゃんと出会ってから、もう二週間が経っていた。
「今日の夕飯はーっと」
ざくざくと白菜を切っていると、お風呂掃除を終えたカナちゃんが背後から私の手元を覗き込んできた。私が料理をしていると、彼女はよくこうして手元の様子や材料から何を作っているのかを当てようとしてきた。
「んー……お鍋?」
「何鍋でしょう」
今日使う鍋の素はまだしまってあるため、カンニングはできない。カナちゃんは材料を見ながら真剣な顔で何味か考えだした。
穏やかな日々が続いていた。誰かの気配がする生活に、私は驚くほどに馴染んでいた。
カナちゃんはよく私の作るものを褒めてくれた。自分一人の空腹を満たすためだけに作る料理と、誰かの美味しいという言葉を聞くために作る料理は、モチベーションも達成感も何もかもが違った。カナちゃんに褒められることは嬉しい。もっと、と思う。だけど同時に、この心地良さに依存してはいけないと、自分を戒めている。こんな日々が長く続くと思ってはいけない。どれだけ他人が私に都合良くったって、最終的に私自身の問題を解決するのは私自身でなければならないのだから。
「えー、待って。鍋の味付けのストックが無さすぎてなんも思いつかない」
「ふふ」
「だって自分で作らないもん」
むっと頬を膨らますカナちゃんに、私は笑いながらキムチ鍋の素を掲げて見せた。
「キムチ鍋?」
「そう。たまには辛いものも良いかなって」
「静さん甘党だから苦手だと思ってた」
「旨辛系は平気」
人に食べさせる気のない激辛料理は好きじゃないが、ちゃんと美味しさのある辛さはむしろ好きだった。耐性があるわけではないから一人のときはチャレンジできなかったが、今はカナちゃんがいる。万一私が食べられないほどの辛さだったとしてもカナちゃんが食べられれば問題ない。
「楽しみだなぁ」
カナちゃんが歌うようにそう言うと、突然、外から怒鳴り声が聞こえてきた。庭の方から聞こえてきたそれに、私はカナちゃんと顔を見合わせる。窓はもちろん閉めている。それでも二階のこの部屋まで聞こえてくるなんて、ただ事ではない。
ベランダに続く窓を開けて下を覗くと、夕日の落ちかけた薄暗い庭に二人の人影があった。ひんやりと冷たい風が吹き、木々の生い茂る庭に小さな橙色の点が見えた。
「あんたこんなところで何やってんのよ!」
私が声をかけるより先に、大家さんの怒鳴り声が響き渡る。橙色が動揺したように僅かに揺れた。よく見ればその小さな橙色からは細い煙がたなびいていた。
「……真面目の何が悪いんだ! げっほ、うえっ」
庭にいるもう一人、おそらく煙草を吸っていたその人物は、突然叫び出し、咳き込んだ。
「あんたのどこが真面目よ!」
「っ……」
大家さんが相手に詰め寄る。相手はまだ噎せているようで、何も言い返せないでいる。というか、様子がおかしい。
「ねえ、あの人大丈夫かな?」
「あんまり、大丈夫じゃなさそうかも」
カナちゃんにそう返し、私は部屋に戻ると流しでコップに水を注ぎ、それを持って庭へ向かった。庭にはさっきと変わらず二人の姿があり、大家さんに詰められている方は依然苦しそうに咳をしていた。
「あの」
「あら、静ちゃん! ごめんなさいね騒がしくって」
「いえ、それよりもその人」
「こいつ? うちは敷地内禁煙なのに煙草なんて吸おうとしたバカ野郎よ」
大家さんの口から野郎なんて強い言葉が出てくるところを初めて聞いて思わずたじろぐ。やっぱり煙草だったかと思いながら、私は体を折り曲げて激しく咳き込んでいる人影に持ってきた水を差しだした。
「とりあえず、落ち着いて……」
「あり、っと……」
「いいから飲んで」
誇張無しで死にそうな声でお礼を言おうとした彼に早く水を飲むよう促す。眼鏡の奥の気弱そうな目は涙目だ。激しく咳き込んだせいで、襟足まで伸びた髪がぼさぼさに乱れていて邪魔そうだった。敷地内禁煙を破って煙草を吸おうとしていたことは悪いことだが、この様子からして吸い慣れている感じはしないし、ものすごい剣幕で詰められていた場面を見たからかいっそ可哀想にすら思えた。
「静さん、大丈夫そう?」
「大丈夫だと思う」
後からやってきたカナちゃんは、水を飲んで少し落ち着いた彼を見て目を瞬かせた。カナちゃんはまだ彼と会ったことがなかったのだと思い出し、私はこっそり彼の名前を彼女に伝えた。
「一(にのまえ)京(けい)くん。一階に住んでる子」
「へぇ。あれ」
ふとカナちゃんがしゃがみこむ。再び立ち上がったその手には四角いカードのようなものを持っていた。
「イチ、キョウ……?」
「にのまえ、けい。です」
カナちゃんが首を傾げながら呟くと、すぐさま一くんが訂正を入れた。すっかり回復したらしい彼はカナちゃんの手からカードを奪うと、そばに捨て置いてあったリュックの外ポケットにしまった。
「ごめんなさい。つい普通に読んじゃった」
「別に」
カナちゃんが見たのは学生証か何かだろうか。一京。確かに漢字だけ見ればイチとキョウだ。訂正の反射速度から、彼がこれまでの人生でどれだけ名前を間違えられてきたかが窺えるようだった。
「水、ありがとうございました」
「あ、うん」
コップを返され受け取ると、一くんはそのまま庭を出て部屋へ戻ろうとした。
「ちょっと待ちなさい!」
大家さんがそれを許すはずもなく、彼の細い腕をがっしと掴む。細身ではあるが背の高い彼をぎろりと睨み上げながら、大家さんは煙草の件についての謝罪を求めているようだった。
「あなたいつから煙草なんて吸うようになったの」
「……」
大家さんの問いかけに鬱陶し気な顔をする一くん。おそらく彼も大家さんは苦手なタイプなのだろう。しかし先に悪いことをしたのは彼なので、この場合は私もカナちゃんも大家さん側に立つしかない。
「なんかあったんすか?」
ひょっこりと庭に顔を出した人影に、一くんがさらに渋面を深くした。
「センちゃん。こいつがここで煙草吸ってたから捕まえてたの」
「煙草? うわ、ウチ未成年だから近寄らない方がいいっすか?」
「もう消してるけど、煙いかしら」
「念のため向こうで話しましょう」
カナちゃんが柔らかくそう提案すると、大家さんはそうねと頷いて一くんの腕を引いて庭を出た。八代さんと合流し、大家さんの部屋の前までくると、外灯の明かりでお互いの顔がよく見えるようになった。
「あ、イッケイさんじゃん」
「にのまえ。ⅠKKOさんみたいに呼ぶな」
「あ、そうだ。にのまえさんだ」
八代さんがそう呟くと、一くんはまたしても苦虫を噛み潰したようなしかめっ面を浮かべた。名前を間違えられるのが相当なストレスらしい。
「で、なんで煙草なんて吸ったの」
「別に、煙草くらい誰だって吸ってますよ」
「何その言い方。最近の子はルールも守れないのね」
「……」
一くんが黙り込むと、大家さんは大きく溜息をついた。
「もういいわ。次やったら追い出すから」
大家さんはそれだけ言うと、さっさと部屋の中に入ってしまった。後に残された私たちは顔を見合わせる。お互いに気まずさを感じながら、このまま解散という流れも作り出せずにいると、カナちゃんが意を決したように顔を上げた。
「鍋パでもしない?」
急遽決まった鍋パは、一くんの部屋で行われることになった。私の部屋が一番都合が良かったのだが、二階の部屋よりも一階の方が間取りが広いらしく、大学で使っている教材以外の物が少ないという一くんの部屋が広さ的に丁度いいということだった。
食材と鍋とガスコンロを持って一くんの部屋にお邪魔すると、彼の部屋は本当に物が少なかった。勉強机周りはかなり充実していたが、キッチン周辺や寝床は簡素で、テレビやテーブルなども無い。折りたたみのローテーブルがあったことがほとんど奇跡のような、勉強をするためだけに使っているような部屋だった。
「うわ、こんなんでどうやって生活してるんすか?」
「普通だよ」
八代さんが少し引き気味に部屋に入る。一くんも一くんで、嫌そうな顔を隠しもしない。今更ながらこのメンバーで鍋パをすることに不安を覚える。
そもそもなぜ突然鍋パなのか。鍋の用意を下に運びながら聞けば、「だって何があったか気になるじゃん」とのこと。それ以上の理由は何も言わなかったけれど、本気で一くんが抱えているかもしれない何らかの問題について気になったのか、それとも単にここの住人に興味があって交流を深めたかったのか、何か他に意図があったのか、私にはカナちゃんの考えていることはよくわからなかった。
ただ、この地獄のような状況を生み出した彼女を、今日ばかりはさすがに恨んだ。
「真面目の何が悪いんですかぁ!」
ごん、と拳がテーブルにぶつかる鈍い音とともに、酔ってヘロヘロになった声が響いた。キムチ鍋を食べながら、一くんはカナちゃんに勧められるままお酒を飲んだ。学生証に載っていた生年月日を見たところもう二十歳は超えていたので止めはしなかったが、私よりもはるかに弱い彼の姿に少しは止めればよかったと後悔する。
「カナちゃん、ちょっと飲ませすぎ」
「かもね~。でもこういうタイプはこれくらい酔わないと心開かないから」
心を開くどころか、おそらく初対面の相手にはあまり見せたくない醜態を全開にしていしまっている気がする。他人に疎い私の勘違いかもしれないからあまり強くは主張できないけれど、こういうタイプはお酒の失敗を引きずるのではないだろうか。
「ほら、八代さん。寝るなら部屋戻ろう」
「ん~」
お腹いっぱいになってすぐにうとうとしだした八代さんに声をかける。鍋も食べ終わったし、一くんの酔いもそろそろ限界そうに見える。流しぐらいは借りてもいいかと思い食器の片付けを始めると、カナちゃんがまた一くんのコップにお酒を注いだ。
「カナちゃん」
「これで終わりだから」
少しとろんとしているがまだ正気を保っている目が自信ありげに光る。カナちゃんなら何かすごいアドバイスをするんじゃないかという期待と、酔っ払いに対する不安が拮抗している。一くんはそんな私の胸中を知らずにコップに注がれたお酒を豪快に呷っている。明日の朝の彼の体調が心配になった。
「先輩が笑うから……真面目だなぁって、真面目の何が悪いんだよぉ……」
「うんうん。真面目なのは良いことだね」
「ですよねぇ……。人の名前で遊んだり、真面目イジりしてきたり……」
「ひどいねぇ」
「じゃあ真面目イジりなんてできないようにしてやりますよ!」
カナちゃんにぐずぐずと愚痴っていた一くんが突然ぐわっと大声を上げた。その声に舟を漕いでいた八代さんがびくりと跳ね起きた。
「うるさ。ていうかダッサ」
「はあ!?」
ずばっと言い放った八代さんに、酔っ払いの据わった目が向けられる。
「真面目イジりされたのにムカついて煙草とか、ダサすぎ。大家さんに怒られてるし」
「うるさいな。お前は先輩がどんなにひどい人間か知らないからそんなこと言えるだけだろ?」
「どんな人なんすか?」
「同じ研究室で成績が良くて常に人に囲まれてて、いつ見ても笑ってチャラチャラしてる一軍陽キャ。そんなやつがわざわざ俺に絡んでくるとかもはや嫌がらせだ。そうに決まってる」
「えぇ……。それ、先輩がひどいわけじゃなくない? ただイッケイが妬んでるだけじゃん」
「にのまえ。あと年上な」
「どうでもよ」
「どうでもよくない」
横目で二人のやり取りを見て、ハラハラしながら手早く洗い物を済ませる。さっさと片付けて八代さんとカナちゃんを回収して解散しなければという使命感で今の私は動いていた。
「あんなやつ、羨ましくもなんともない」
「嘘っぽ~」
「嘘じゃない。本当に、羨ましくはないんだ。ただ無意味に俺に絡んでくるのをやめてくれればそれだけでいいのに……」
「じゃあ全部無視すればいいじゃん」
「無視できないんだよ。同じ研究室の後輩の間違いを正していると必ずあいつが横入りしてくる。なんなんだあいつ。俺の邪魔ばかりする」
「えー、イッケイ真面目だね。間違ってるやつなんて放っておけばいいのに」
「うるさいな。気持ち悪いんだよ、間違ってるやつ見ると。あと、にのまえ」
一通り後片付けを終えると、丁度話の息継ぎのタイミングだった。一くんが喉を潤すようにお酒に口をつける。八代さんとの口論で少し酔いが醒めたのか、目元に正気が戻っていた。
「とにかく、強引でうざい先輩なんだよ。嫌だって言ってるのに明後日の合コンメンバーに入れられてるし。どうせ引き立て役にして笑いものにしたいだけに決まってる」
「え、行くの?」
「行くわけないだろ」
吐き捨てるように一くんが言う。八代さんは心底驚いたような顔をした。
「なんで!? 逃げるの悔しいし行って見返そうよ!」
「はあ!?」
予想外の切り返しに一くんだけでなく私まで驚く。合コンに行って相手を見返すなんて、そんなのさすがに勇者すぎる。こんなに先輩を嫌っている一くんをぽいっと放り込むのはあまりに可哀想だ。
「じゃあ明日、喫茶止まり木で作戦会議するから、ちゃんと来いよイッケイ」
そう言うと、八代さんはさっさと立ち上がり帰り支度を始めた。一瞬で取り決められてしまった明日の予定にぽかんとしていると、いつの間に帰り支度を済ませたのかカナちゃんが私の肩を叩いた。
「静さん、帰ろ」
「あ、うん」
さっきまとめておいたお鍋やら食器やらを抱えて玄関へ向かう。外に出るとすっかり夜も更けていて、曇りがかった空はどんよりと暗かった。
「それじゃあ、お邪魔しました」
「明日、三時に集合ね」
「おい、まだ行くなんて……」
一くんの焦ったような声は、無情にも玄関ドアによって遮られてしまった。八代さんは上機嫌で外階段を上り、私とカナちゃんはそれに続いた。
「では、明日よろしくお願いします! あ、ウチ午前中にバイトがあるんで、ちょっと遅れるかもなんすけど」
「わかった。先に行って待ってるね」
「よろしくっす!」
元気いっぱいにそう言って八代さんは自分の部屋に入った。私とカナちゃんも、それからすぐに部屋に入る。ちょっとの時間で体の芯まで冷える外の寒さから逃げるように、私は足早に奥へと進みエアコンを入れた。室内を温めている間に鍋や食器を片付けていると、浴槽にお湯を溜めに行ったカナちゃんが戻ってきた。前に大体どのくらいでお湯が溜まるのか計ってからは、それを参考に基本は放っておくことになっていた。追い炊きができないからとオールシーズンシャワーで済ませていたのだが、もう湯舟のない冬を過ごすことはできないだろう。
「いやぁ、若いってすごい。話の流れについていくのでやっとだったなぁ」
「私なんて終始置いて行かれてたよ」
八代さんと三つしか違わないカナちゃんと違って、私は下手したら十くらい違うんだから。心の中のそんな気持ちを外に出したかったわけではなかったけれど、言外に少しだけ滲んでしまったことに後悔する。別に若さを羨んだりはしないけど、学生を見るとどうしても違う世界を生きているように感じてしまう。
「あはは。十代と二十代の溝って深いもんね」
気にした風もなく笑うカナちゃんに私も笑みを浮かべる。そういうことを言ったわけではなかったけど、そういうことを思っていたような気がした。この溝も、自分と他人を分け隔てる溝。自覚している必要がある溝だ。その溝を不用意に飛び越えて、相手の領分を侵してはいけない。きっとその溝は少しずつ、お互いに埋めていかなければならないものだ。
「一くん、大丈夫かな」
「それは、明日にならないとわからないんじゃないかな」
その声は、酒焼けていつもより低く響いたような気がした。
翌日、喫茶止まり木に行くと、すでに一くんがテーブル席で本を読んでいた。マスターには彼との待ち合わせのことを伝え、私とカナちゃんはそのまま一くんのもとへと向かった。
「お待たせ。前の席、良い?」
「あ、はい」
声をかけると、一くんは本から視線を上げ、短く返答した。眼鏡の奥の瞳はどこか気まずそうで、すぐに本へと戻って行った。ブックカバーをつけているから何を読んでいるのかはわからなかったが、ハードカバーの分厚い本だった。
「にのまえくん、だっけ?」
「はい」
「良かった。漢字のインパクトが強くて読み方合ってるか不安だったから」
カナちゃんが一くんに話かける。本を見てはいるが、さっきからページが進んでいないことに気付いたのだろう。知り合いがいる前で本に熱中することができないところにも彼の真面目さが出ている。
「由来で覚えるといいかも」
「由来?」
「ほら、数字の一って二の前でしょ? だからにのまえ」
「あー! なるほど!」
私の解説にカナちゃんが大きな目を見開いて何度も頷いた。目から鱗という表現がぴったりな顔をするから少し笑ってしまった。
「静さんなんでそんなに詳しいの?」
「前の仕事で難しい読みのお客さんの担当をしたことがあったから」
「そっか! 営業さんだったもんね」
尊敬の眼差しで見てくるカナちゃんからそっと目を逸らす。少し濁したが、実際は相手のお客さんの名前を間違えて執拗にクレームを入れられたのがトラウマになり、珍しい読みをする苗字を片っ端から調べたというだけだった。その後就業期間中に珍しい苗字の客を担当することは無かったため、一くんがアパートに越してくるまでは一切役立つことがなかった知識だ。
「一くんは本好きなの?」
「いえ。小説はあまり」
「あれ。じゃあ今読んでたのはどんなの?」
カナちゃんが会話に入ってこれない一くんに話題を向けると、一くんはちらと本に視線を落とし、少し躊躇った。
「これは、アインシュタインについて書かれたもので……」
「アインシュタインか! 好きなの?」
「まあ」
「何した人だっけー。なんか理系の人だよね」
「理論物理学者です。相対性理論の発見とかが有名ですね」
「相対性理論! バンドしか知らなかったけどあれアインシュタインが発見したんだ~」
「バンド……?」
カナちゃんが朗らかに返すたび、一くんは少しずつ口数を増やしていく。それはまるで、自分を守っていた無言という殻を一枚一枚剥がしていくような心の開き方だった。
「そろそろ三時だね」
席に着く前に注文していたコーヒーがテーブルに並んだタイミングで時計をみると、店内の鳩時計の針は綺麗な直角を描いていた。鳩が出てきたところを見たことは無いが、アットホームで自然を感じる店内にしっくりくるデザインの時計だった。
「八代さんはバイトだっけ?」
「バイト? 自分で呼び出しておいて遅刻とか……」
一くんがぎゅっと眉を顰める。五分前を目安に来た私たちよりも先に来ていた真面目な彼にとって、遅刻は許せないことなのだろう。昨日の夜にも感じたことだが、八代さんと一くんはあまりにも性格が違いすぎる。
あまり混ぜてはいけない組み合わせなのではないかと不安になっていると、席が面している窓がコツコツと音を立てた。外を見ると、そこには黒髪の小柄な少女がこちらに手を振っていた。
「……誰?」
一くんが呟く。声には出さなかったものの、私も一瞬同じことを思った。
「お、センちゃん今日は黒髪だ」
「え、あれ八代ですか?」
「そうだよ」
ナチュラルに手を振り返しながらカナちゃんが当然のことのように言う。私も一瞬わからなかったが、確かに顔つきは八代さんとよく似ている。というか本人だった。
「いやぁ、お待たせしました! ちょっとバイト長引いちゃって」
「まだ三時になったばっかだし、昨日の時点で先に聞いてたから大丈夫だよ」
店内に入ってきた八代さんにカナちゃんがそう返す。一くんは一瞬何か言いたげな顔をしたが、それより早く八代さんが彼の隣に座り、マスターにメロンソーダを頼んだ。
「ていうかセンちゃんいつ髪染めたの?」
「染めてないっすよ。これウィッグなんで」
八代さんはそう言うと、ショートボブの毛先を指先で梳いた。本物と見分けがつかないその質感に感心していると、マスターがメロンソーダを持ってやってきた。
「メロンソーダです」
「ありがとうございます。あ、あとナポリタンお願いします」
「かしこまりました。混みあう時間帯なのでお待ちいただくかもしれません」
「大丈夫です」
マスターは小さくお辞儀をしてからカウンターへと帰って行った。三時の喫茶店でドリンクだけでテーブル席を一つ占領するのも忍びないと思っていたから、八代さんの注文に私は少し安心した。場合によってはどこかのタイミングで別のメニューも注文した方がいいかもしれないと思っていたが、その必要はないかもしれない。
「生き返るー」
メロンソーダをごくりと飲み、八代さんが満面の笑みで一息ついた。
「バイト忙しいんだね」
「そうなんすよ。やっぱ土曜のファミレスはつらいっす」
「ファミレスバイトかぁ。大変だよね」
「ほんとに大変。髪色も指定あるからこれ被らなきゃいけないし、ネイルも派手なのできないし」
「文句あるならそういうの自由なバイト探せばいいだろ」
手の甲を出しながら口を尖らせる八代さんに、一くんがイライラしたような顔でそう言った。やっぱり混ぜたらいけない組み合わせだったと確信し、目の前の二人が昨日のように口論を始めないかとハラハラする。
「別に文句じゃないし。今のバ先気に入ってるし」
「でも我慢してるんだろ?」
意味が分からないという顔をしながら一くんが聞く。八代さんはストローに口をつけてメロンソーダを飲んだ。まるで一度クールダウンしようとしているような仕草だった。
「髪はウィッグで解決してるし。ネイルはバイトだけが原因じゃないから。美容師やるのに長い爪じゃお客さんの頭傷つけちゃうじゃん」
「……」
一くんはそれ以上は何も言わなかったが、不満を飲み込むようにしかめっ面でコーヒーを飲んだ。
「でも今はまだ人の頭をやるわけじゃないんだし、我慢する必要はないんじゃないの?」
カナちゃんがそう言うと、八代さんは困ったように首を傾けた。
「うーん、やっぱ長すぎたり尖ってるのはアウトなんで。最近はジェルならオッケーって言われてるんすけど、私が好きなのは長さもあって短期間でオフしやすいやつだから相性悪くて。まあ、夢とか叶えるのに少しの我慢はあって当たり前なんで」
髪は我慢とかしてないし、と八代さんはおどけて見せた。
「八代さんはすごいね」
「え!? そんなまだまだっすよ」
八代さんは照れくさそうに笑いながらまたストローに口をつけた。本人の反応で茶化した雰囲気になってしまったが、私は彼女の考え方に本気で感心していた。何かを叶えるためには多少の我慢は必要だなんて、私は言われるまで考えたことすらなかった。
「ウチのことはいいんすよ。ほら、イッケイの合コンデビュー大作戦始めましょ!」
「にのまえだって」
強引に話題を変えた八代さんに、一くんは不服そうにしながらも律儀に訂正を入れた。相変わらず自分の名前に対する執念がすごい。桜の字を間違えられても特に気にしなかった私とは真逆だ。
「て言っても、ウチ合コンとか行ったことないんすよねぇ。どんな感じなんすか?」
「知らないのかよ」
あっけらかんと言い放った八代さんと、そんな彼女につっかかっていく一くんが同時にカナちゃんを見た。そうだよね。私とカナちゃんならカナちゃんの方が経験豊富そうだよね。見えない刃物で人知れず心を刺されながら、私もカナちゃんを見る。実際私だって合コンなんて行ったことがないから、結局カナちゃんに頼るしかないのだ。
「え、私?」
「はい。カナちゃんならいろいろ知ってそうなんで」
「いやいや。私も合コンとか行ったことないし」
「え!?」
三人の声が重なった。まさかカナちゃんが合コン未経験だとは思いもしなかった。社交的で美人だから当然あるものと思っていたが、よくよく彼女の経歴を考えてみれば、そんなものに参加している暇なんてなかったに違いないことに気付く。
「どうすんだよ。さっそく行き詰まってるぞ」
「どうしよう」
一くんに横目でじろりと睨まれて、八代さんが引き攣った笑みを浮かべた。三十路にもなって合コンの一つも経験のない大人であることが今ほど申し訳ないと思うことは今後訪れないだろう。私にもっと社交性があれば……。
「お待たせいたしました。ナポリタンです」
「あ、ありがとうございます」
「……何か落ち込んでます?」
穏やかな雰囲気そのままにこちらの様子を窺うマスターを見上げる。背は平均より高く、鍛えているのかほどほどに逞しい体型、少し童顔ぎみの垂れ目にすっと通った形の良い鼻……。
「マスター、あの、忙しい時間帯で突然こんなことをお聞きするのは失礼かと思うのですが……」
「え、何?」
「合コンに参加した経験はありますか?」
「合コン……?」
困惑した表情で繰り返すマスターに、私は慌ててことの経緯を説明した。するとマスターは戸惑いに固まっていた表情を和らげ、なんだと言って笑みを浮かべた。
「それだったら大学時代に何度か。もう十五年ほど前だから今の子たちのものとは少し違うかもしれないけど」
「それでも良いので、どういうものか教えていただけると助かります」
そう言うと、マスターは記憶を探るように視線を斜め上に向け、口をむんとへの字に曲げた。考えている姿も絵になるような佇まいで、この喫茶店を訪れるようになったばかりの頃は注文を言うのにも緊張していたことを思い出した。
「そうですね……。同じ人数の男女が集まって、飲み物頼んで、自己紹介して、あとは各自話したい人と話すって感じかな。席替えとかもあったっけ。連絡先を交換したり、二次会に行ったり、出会いを求めてる人たちの集まりだったから、皆基本的には積極的でしたね」
マスターの口から語られた合コンの様子は、昔ドラマで見たようなイメージとほとんど同じだった。今の若い子たちがどんな感じなのかはよくわからないが、大筋は変わらないはずだ。
「ありがとうございます。参考になります」
「どういたしまして。ごゆっくりどうぞ」
もう一度マスターに小さく頭を下げ、カウンターに去って行く後ろ姿を見送る。まだピークは過ぎていないはずなのに迷惑そうな顔一つせずに話に付き合ってくれたマスターに申し訳なさと感謝の気持ちが波のように交互に押し寄せてきた。
「合コンってやっぱそんな感じなんすね」
「私もイメージしてた通りだった」
八代さんとカナちゃんがそんなことを言って笑い合う。やはり皆同じイメージを持っているらしい。
「合コンが出会いを求める場なら、なおさら俺が参加する必要なんてないですよ。恋愛に興味無いので。来てもらって申し訳ないですけど、そもそも断るつもりだったし」
一くんはそう言うと、ずっとテーブルの隅に置いていた本をリュックに片付け始める。
「帰る」
言外に通路側に座る八代さんにどけと言っているのがわかった。しかし八代さんは我関せずといった顔で器用にナポリタンをフォークで巻き取っていた。
「どけって」
「やだ」
「はあ? 合コンは行かないんだから、もうここにいる意味ないだろ」
「イッケイは恋愛には興味ないだろうけど、出会いって恋愛だけじゃなくない?」
「にのまえ。恋愛以外の出会いってんなんだよ」
溜息を吐きながら一くんが上げかけた腰を再び椅子に下ろした。
「友達作りとか」
「もっといらないな」
ばっさりと切り捨てた一くんに、八代さんはじとりとした視線を向ける。
「その先輩、実は良い人説ない? あまりにも陰キャなイッケイを心配して友達作りの機会をくれたとか」
「そんなわけないだろ。俺をイジりたいだけに決まってる」
「なんで決めつけんの?」
真っ直ぐにそう聞かれて、一くんが言葉に詰まった。八代さんのストレートな物言いに苛立っているのか、一くんは彼女に言い負かされるごとにどんどん眉間の皺を深くしていった。
「もういい。帰るからどけ」
「さっきから逃げることしか考えてないじゃん。髪とか服とか変えてみたらちょっとは行く気になるかもしれないのに。てか合コン明日なのにまだ断ってないってことは行く気あるじゃん」
「ああもう、うるさいな! 別に彼女が欲しいとか友達が欲しいとか一言も言ってないだろ。俺をだしにして楽しみたいだけだろお前。これだから女なんて嫌なんだ。お節介で世話焼きな自分に酔ってるだけだろ。何が我慢だ。受験で楽をしたかったやつが集まってるような場所で夢がどうとか偉そうに。楽してばっかのやつはのうのうと生きれていいよな。真面目なやつがバカみたいだ」
大きな声で早口に捲し立てると、一くんは息を整えるようにすっと黙った。周囲のざわめきも同時に止んだような気がして、まずいと思いながらも、私はどう口を挟んだらいいかがわからず二人の様子を静観しているしかできなかった。
「いい加減にしろよ。さっきから自分は被害者ですみたいな顔で他人を悪者扱いしてるけど、勝手な妄想と決めつけで他人を傷つけてるのはお前の方! 今お前と話してんのはウチ! 女とか楽してるやつとか、そんなでっかい主語でまとめんな! お前が今までどんな人と関わってきたかなんて知らないけど、ウチのことを知らないお前が勝手にウチのことを決めつけんな!」
ほとんど叫ぶようにそう言った八代さんが肩で息をする。自分よりも数倍激しい勢いで言い返されて圧倒されたようで、一くんは眼鏡の奥の目を見開いて固まっていた。私もカナちゃんも、張り詰めた空気を前に声を上げることができなかった。
八代さんの瞳に張った涙が零れるより先に、低い声がその場の空気の膜を破った。
「他のお客様の迷惑です。お話は静かにお願いします」
おそるおそる顔を上げ、すみませんと謝る。マスターはそれ以上は何も言わず、また業務に戻って行った。こちらを遠巻きに窺っている他のお客さんにも謝罪の意を込めて頭を下げると、思いの外すぐに視線は他へと移って行った。
「ごめんなさい。大きな声出して」
掌の厚いところで目元を拭いながら八代さんが謝る。一くんは気まずそうに肩を窄めて小さくなっていた。マスターによって張り詰めた感じは無くなったが、次にやってきた重たい空気は私がどうにかしなければならない。何か気の利いたことの一つや二つ言わなければと頭を動かすが、思い浮かぶ言葉はどれもこの場では空回ってしまいそうな空虚なものばかりだった。
「あはは」
突然、この場の雰囲気にはあまりにも不釣り合いな笑い声がした。驚いて横を見れば、カナちゃんが口元を抑えてクスクスと笑っていた。この状況で一体何がおかしいのだろうか。まるでカナちゃんだけが別の場所にいるみたいだった。
「良かったね、一くん」
「……え?」
一くんが戸惑ったように顔を上げた。零れ落ちた声は掠れて、終始穏やかに流れていくジャズの音色に搔き消されてしまいそうなほどに小さかった。
「勝手に決めつけたり、自分の正しさとか考えを一方的に押し付けたりする人は、四十過ぎたおじさんでもいたから。二十歳で気付けて良かったね。そういう人って大抵すごく嫌われてるから」
一くんの瞳が揺らいだ。眼鏡の奥で、水の中に落としたガラス玉のようにその輪郭が歪んで、ほろりと溢れた。
「一くん……」
咄嗟に彼の名前を呼んだが、言葉が後に続かない。気にしないで良いとか、大丈夫とか、そんな耳触りの良い言葉をかけるのは一くんのためにならない。でも、このままだとただ傷つけられて終わってしまう。自分を嫌いになって終わってしまう。それだけは絶対にダメだと思った。なのに、言葉がでてこない。救われなかった私が邪魔で、目の前の彼を救う言葉が見えない。
「俺、正しさを押し付けてたんですね」
ぽつりと一くんが呟く。眼鏡を外して、細い指先が乱暴に目元を拭った。
「正しくないことが嫌いなんです。でも、俺が……。自分が間違ってるなんて、思いたくなかったのに……」
目元を抑えたまま、一くんは言葉を切って、それきり黙ってしまった。表情は見えないが、ひどくショックを受けているということが痛いほどに伝わってきた。
「なんで、正しくないとダメなの?」
少し濡れたハスキーな声が真っ直ぐに一くんへと投げられた。八代さんだった。目元の化粧が少し崩れていたが、もう泣いてはいなかった。一度傷つけられた相手だというのに、八代さんはまだ近づくことを諦めていない。どうしてそんなに強いのだろう。十代の方が痛みに鈍感なわけじゃない。むしろ傷つきやすいだろう。それなのに、どうして怖さを乗り越えて真っ直ぐに走ることができるのだろう。
「正しくなくて当たり前じゃん。一回も間違えない人なんているわけないじゃん。人を殺したわけでもないのに、一回二回の間違いで人は死んだりしない。ウチは失恋したけど、別に二度と恋愛できなくなったわけじゃない。子供の頃とかバカみたいなこといっぱいしたけど、怒られた分許された。恥ずかしい黒歴史もあるけど、正しくないからって死にはしない」
八代さんの言葉に込められたエネルギーの眩さに、私は思わず目を細めた。
「……はぁ……」
一くんが、浅く長い溜息を吐いた。震えを押し殺すように全て吐ききると、空になった肺を満たすように、今度は長く息を吸い込んだ。
「……八代」
「なに」
「……悪かった」
囁くような小さな謝罪に、八代さんは目を見開いた。それから、ゆるりと口角を上げた。
「許す」
八代さんはそう言うと、フォークを手に取り、半分ほど残っていたナポリタンを頬張り始めた。美味しそうに食べる彼女の隣で、一くんは安心したようにすとんと肩の力を抜いた。
私が何も口を出さなくても、なんとか丸く収まった。大人なのに何もできなかった。しかし、不甲斐なさが薄れるほどに、私は八代さんの言葉に強い衝撃を受けていた。まるで雷に打たれたかのような感じがした。彼女の言葉は私がこれまで積み重ねてきた負の感情を、一撃で叩き崩していった。
取り返しのつかない間違いを犯した。その事実は変わらない。過去を振り返れば間違った道ばかり選んで、矛盾だらけの人生だった。自分自身の手で選択肢を狭めて、どんどん価値を削ぎ落していったと思っていた。もう死ぬ以外の選択肢は存在していないんじゃないかとすら思っていた。
でも、私はまだ生きていた。
「よかった」
「……?」
ぽつりと隣から小さな声がした。ちらと横を見ると、カナちゃんがぼんやりとした目で一くんを見ていた。この場が丸く収まったことに対する言葉なのだろう。それ以外に意味を見出すことができない。なのに、カナちゃんの横顔から言いようのない不安を感じてしまった。この不安が一体なんなのか、私にはわからない。それが猶更、不安を煽った。
「合コン、行こうと思います」
八代さんがナポリタンを食べ終えると、一くんが徐にそう言った。
「先輩がなんで俺を誘ったのか、ちゃんと本人に理由を聞きたいので」
勝手な決め付けを止めようとしている彼は、さっきより少し大人びたように見えた。その成長の速さが眩しかった。カナちゃんは十代と二十代の溝は深いと言ったけど、そんなことはない。二十歳になったって、大人になったって、本人が望む限り成長していける。そんな気がした。
その夜、一くんの部屋で散髪の儀が行われた。
合コンに行くと心を決めた一くんに、その伸び放題の髪は清潔感が無いと八代さんが指摘したのだ。合コンをする店は栄にあるとのことだったから、時間より前に行って栄の美容室に入るという計画を当初は立てていた。しかし一くん本人が行ったことのない美容室に怯んでいたため、いろいろ話し合った末、八代さんが切ることになった。
「まあ、美容師の専門だもんな」
八代さんがハサミや櫛など、必要なものを腰に準備している間、ごみ袋に開けた穴の部分から頭を出して椅子に座っている一くんはどこか暢気な調子でそう言った。床には大家さんから譲ってもらった古新聞を敷いている。
さすがに二人きりというのも心配でついてきた私は、そわそわしながら壁際に立っていた。
カナちゃんは少し疲れたからと言って先に部屋に戻っている。止まり木での様子も少しいつもと違ったから心配だ。ただの体調不良ならよほどのことがない限りは治る。でも心は違う。彼女の不調が心の不調ではないことを、今はただ願っていた。
「……始めます」
「いや、手術か」
準備を終えて一くんの後ろに立った八代さんはガチガチに緊張していた。窓ガラスに反射した彼女の顔を見て、一くんはぎょっとした顔で振り向いた。
「緊張しすぎだろ。初めて切るわけでもあるまいし」
「…………」
「待て、初めてなのか?」
一くんが絶句する。専門生なら実際の人の髪も切ったことがあるだろうという決めつけが働いていたようだった。
「よし。切ろっか」
くるっと一くんの頭を強引に前に向けて、八代さんが彼の黒髪に霧吹きで水を吹きかける。
「待て待て。話が違うって! 怖いってさすがに!」
「私を信じて!」
「どっから出てくるんだその自信は!」
ぎゃーぎゃー言っている間に一くんの髪はすっかり湿り、重力に従って真っ直ぐに下を向いていた。そうすると完全に目元を覆ってしまった前髪を、八代さんが櫛で後ろに流した。ぱっと現れた彼のおでこは白く、突然開けた視界に見開かれた目は、眼鏡越しではないからか、きらりと輝いた気がした。
「自信なんかじゃないよ。でも、失敗したら責任とる。覚悟きめたら、なんかできる気がする」
八代さんの声が力強く響く。ガチガチに強張っていた彼女の雰囲気も、次第にいつもの調子を取り戻しているように見えた。
「未来のカリスマ美容師のお客さん第一号になるんだから、そっちの方が自信持ちなよ」
八代さんがそう言うと、一くんはハッとした顔をした後、呆れたように小さく笑った。
「ほら、切るよ」
ハサミを構えて、八代さんが一くんの前髪を一房手に取る。よく切れそうなハサミの刃が開いた。サク、サク、という音と共に、少しずつ濡れた髪が床に落ちていく。
「……我慢がどうって話、したじゃん」
無言の中で、ふと八代さんが口を開いた。一くんは無言で話の先を促しているようだった。
「ネイルは確かに我慢してるけど、その分髪は誤魔化す方法考えて好きにしてる。我慢したりしなかったり、それって自分の軸がどこにあるかにもよるんだと思う。譲れないものは何? そのために何を我慢できる?」
「何、急に」
「応援。明日はバイトで応援行けないから、今のうちにフレ―フレ―って」
茶化すようにそう言った八代さんが、一くんの横髪を両手で掬い、左右差を見る。その仕草はプロの美容師のようで、小柄な背中が頼もしく見えた。
「ありがとう」
一くんが照れくさそうに視線を落とす。ぶっきらぼうな態度でも嬉しいのか、八代さんは嬉しそうに笑った。
「まあね。だって、にのまえさんは初めてのお客さんだし」
八代さんが再び彼の前髪を手に取った。ハサミを入れて、指先が動こうとしたその時、一くんがふっと笑った。
「違和感すごいな。八代、人の名前覚えられたんだ」
「はあ!?」
余計な一言を口にした一くんを睨みつけて叫んだ八代さんの手元で、サクっと小気味いい音がやけに大きく響いた。
「あ」
三人の声が重なった。床には、一際長い髪の束が落ちていた。
栄駅にほど近い、鶏皮が美味しい居酒屋で、私はマスターと向かい合って座っていた。
「とりあえず何か頼みみましょうか」
「あ、はい」
マスターはテーブルに置いてあったQRコードをスマホで読み取り、メニューを表示してから私にも見やすいように画面をこちらに向けてくれた。
「私はウーロン茶で」
「食べ物は?」
「マスターにお任せします」
「それじゃあ適当に頼んじゃいますね」
「お願いします」
マスターはいつも止まり木で見るカフェ店員スタイルではなく、黒のタートルネックのセーターにジーンズというラフな格好だった。止まり木の中は穏やかな空気が流れているからそこまで気にならなかったが、栄のがやがやとした雑踏の中では彼の容姿はかなり目立った。すれ違った大学生らしき女子グループの囁き声、ひっきりなしにかけられるキャッチの声、マスター自身は全く気にせず目的地まで突き進んできたが、半歩後ろを歩いていた私は極限まで自分の影を薄めることに全力を注いでいた。カナちゃんと二人で水族館に行ったとき以上のいたたまれなさだった。
「梅原さんの体調はどうですか?」
一通り注文が済んだのか、マスターがスマホをテーブルに置いた。
「はい。熱はもう下がっているので」
「よかった」
「今日は突然すみませんでした。急にこんなことを頼んでしまって」
こんなこと、というのは一くんの合コンを見守ることだった。
昨日の作戦会議の時点で、私とカナちゃんがお店に先に入って合コンの様子を見守ることが決まっていたのだが、一くんの散髪が終わって部屋に戻ってみると、カナちゃんはダイニングテーブルに突っ伏してぐったりとしていた。熱を測ってみるとかなり高く、病院に行くことも考えたのだが、本人が行きたがらないため一晩様子を見ることになった。今朝方もう一度測り直したときはだいぶ落ち着いていたから、ただの風邪だろうということで、私もカナちゃんも病院には行かなくても問題ないと結論付けた。しかしそうなると私が一人で一くんを見守らなければならないのだが、当然栄の飲み屋に一人で入る勇気なんて私には無い。そこで白羽の矢が立ったのがマスターだった。彼ならある程度の事情は知っているし、私も長い付き合いのため一緒に行動がしやすい。一人で栄に行くよりははるかにマシだと奮い立ち、マスターに同行をお願いしに行くと、彼は二つ返事で了承してくれた。そうして今に至る。
「久々に外で飲みたいなと思っていたところだったので、気にしないで」
止まり木の外でも、マスターの穏やかな雰囲気は変わらない。まだ開店したばかりで人もまばらな飲み屋は静かで、店内に流れる流行のポップスが喧しく聞こえた。
「あ、あのグループかな」
ドリンクとつまみでテーブルが賑やかになってきた頃、マスターが入口の方を見て声を潜めた。大人数の足音と共に、店内がにわかに騒がしくなった。私たちが座っているテーブル席よりも入口側の席に通されたらしく、彼らの姿は私からは見えない。
「席、逆の方が良かったですね」
「いえ。マスターから一くんは見えますか?」
「……たぶんですが、彼、髪切りました?」
歯切れの悪いマスターの言葉に頷く。昨日の夜、八代さんが誤って切り落としてしまった前髪をなんとか誤魔化そうと、あちこちの髪の長さを調整していった結果、一くんの髪はかなり短くなってしまった。本人としては今まであったものが無くなってしまった違和感が強かったみたいだが、八代さん的にはかなり満足のいく出来だったらしい。「超イケメンじゃん!」と自分の腕を褒め称えながら後片付けをしていた。
「イメージだいぶ変わりましたね」
「本当に」
本人はあまり頓着していないが、髪を切ったことによって明らかになった涼やかな顔立ちと、そのスタイルの良さをいかせばモデルにでもなれたのではないだろうか。整った容姿に気付いてしまうと、以前はそこまで気にならなかったフレームの細いシンプルな眼鏡が気になってくる。八代さんも同じことを感じたようで、コンタクトにしないかとしつこく勧めて一くんに鬱陶しがられていた。
「とりあえず食べましょうか。一くんのことは僕が見ておくので」
「そうですね」
マスターが掲げたグラスに自分のグラスを控えめにぶつけ、ウーロン茶で乾いた喉を潤す。背後から聞こえてくるざわめきは一くんたちのテーブルだろうか。今はまだ飲み物を頼んでいる段階なのか、会話というには声が小かった。
「このポテトサラダ美味いですね」
「和風の味付けでいいですよね」
「なるほど。日本酒なんかにも合いそうだ」
「マスターはお酒もお好きなんですか?」
ポテトサラダ、鶏皮、チーズと様々なつまみを食べながらハイボールを飲む様子はかなり飲み慣れているように見えた。
「ええ。普段はあまり飲みませんが」
「やっぱり特別な日とかに飲むんですか?」
「特別……、そうですね、特別な日にはよく飲みます」
マスターにとっての特別な日とは、一体どんな日のことを指すのだろう。クリスマスとか、誕生日とか、記念日とか……。
「あの、本当に今更なんですけど、もし交際されている方がいたらごめんなさい」
マスターが独身なのは前に聞いて知っていたが、だからといって交際中の恋人がいないとは限らない。もしもそういう相手がいたとしたら、私のような野暮ったい人間といえど女は女、何か誤解をされてしまうかもしれない。今の今までそこに思い至らなかった自分の浅はかさが憎かった。
「そんなに畏まらないでください。そういう相手もいないので」
「そうでしたか」
ほっと胸を撫でおろす。修羅場を覚悟していたため負荷のかかった心臓を落ち着けるためにウーロン茶を飲み干す。
「飲み物頼みます?」
「すみません。ウーロン茶でお願いします」
そう言うと、マスターは微笑を浮かべ、スマホを操作した。普段はアナログな方法で注文を取る彼がそうやっている姿を見るのはなんだか変な感じがした。
「便利ですよね、これ」
「はい。注文するのが楽ですよね」
「桜井さん、なかなか注文できなかったもんね」
「止まり木はこういうの導入しないんですか?」
クスクスと笑いながら揶揄ってくるのを無視して聞くと、マスターは悩まし気に腕を組んだ。アルコールが入っているからか、今日のマスターは止まり木で見るよりも少し子供っぽく見えた。
「あれば楽なんでしょうけどね」
「紙だと管理とかも大変じゃないですか?」
「それは本当に大変」
「時間的にも余裕ができるんじゃないですか?」
「……桜井さん、自分が注文苦手だからって僕を誘導してる?」
「お待たせしましたー」
タイミングよく店員のお姉さんがやってきて、テーブルにウーロン茶の入ったグラスを置く。代わりに空いたグラスを持って去って行ったのを見送って、私は来たばかりのウーロン茶に口をつけた。
「でもそっか、時間か。導入してみようかな」
突然意見を変えたマスターに驚いていると、そんな私を見て彼は悪戯を計画している子供のような顔をした。
「実は、夜も店を出したいと思ってるんです」
「夜も?」
「ええ。カフェバーって言うんですか。ただ、モーニングから始めて深夜までとなると、さすがに僕と今いるバイトの子だけでは回らないので、まだ考えている途中です」
止まり木のことを話すマスターは楽し気で、解決し難い問題を抱えているのにも関わらず、マイナスの感情は感じられなかった。いつもはマスターと客として接していたから気付かなかったが、一人で喫茶店を経営するのは簡単なことではなくて、きっといつも穏やかな彼にだって困難がある。それを乗り越えてきたことを悟らせずに、あんなに穏やかな空間を作り出せるマスターはすごいと思った。
「あの……」
「あ、始まりそうですね」
私の背後を見ながらマスターが声を潜めた。私はハッとして耳を澄ます。普通に会話を楽しんでいたが、今回の目的は一くんの合コンを見守ることだった。
「それじゃ、テーブルの上が整ったところで乾杯しましょー」
幹事らしき男性の声に続いて、賑やかな乾杯の声が上がる。少しうるさいが、全く聞こえないよりはマシだと我慢する。
「じゃあ自己紹介いきましょー。ここはレディファーストで女性陣から!」
「えー!」
「嘘でーす。男性陣からいきまーす」
そこでどっと笑いが起こる。幹事の子は場を盛り上げるのが上手いらしい。おそらく一くんが嫌っていたあの先輩だろう。
「じゃあ俺からいきます。滝口慎也、好きに呼んでいいけどしんちゃんはやめてねー。工学部物理工学科でいろいろ研究してまーす。好きな映画はアイアンマン! よろしくね。じゃあ次どうぞ」
滝口くんの自己紹介が終わり、パチパチと拍手が起こる。続いて二人分の自己紹介が終わり、ふとその場が静かになった。
「に、一、京です。よろしくお願いします」
他の子とは明らかにテンションが違う、小さな声だった。私に聞こえていたのだからきっと他の子にも聞こえているはずだが、いまいち前の三人ほど盛り上がらない拍手がちらほらと起こっただけだった。
「イッチくんそれだけ!?」
不意に滝口くんの大きな声が響いた。
「にの……」
「えー滝口くんなんでイッチくんて呼んだの?」
クスクスと笑う女子の声が一くんの声を遮った。その声を皮切りに、男女のクスクス笑う声が大きくなった。あまり聞いていて気持ちのいい笑い声ではなかった。
「こいつの名前、漢字の一って書いてにのまえって読むの。すごくない!? 間違えると絶対訂正入るから皆ちゃんと覚えろよ~」
「えーすご! 初見殺しじゃん」
「もうイッチくんでいいじゃん。可愛いし」
「いやいや。こいつクソ真面目だから。滝口とかうざいほど訂正されてっから」
「なにそれヤダ~」
きゃっきゃと女子の高い声が響く。それに合わせて男子が低い声で笑う。
突然、がたりと誰かが立ち上がる音がした。思わず振り返ると、一くんが立って周りの子たちを見下ろしていた。
「にのまえです」
はっきりとそう訂正した一くんは、端に座る黒髪の男子をじろりと睨んだ。
「やっぱりあんたは俺を笑いものにしたいだけだったんですね。バカみたいだ」
それだけ言うと、一くんはそのまま皆に背を向けて店から出て行ってしまった。まずいと思って席を立とうとしたそのとき、不満そうな声が聞こえてきて体が固まった。
「なにあれ。態度悪すぎん?」
その言葉に同調する声がちらほらと上がる。どの口が言っているのかと眉を顰める。先に人を馬鹿にした態度をとっていたのはどっちだと。
「先に態度悪かったのはそっちだろ?」
「……え、滝口くん?」
「俺も悪いけどさ」
「ちょ、どこ行くん?」
「一のとこ」
そう言うと、滝口くんは周りの止める声を無視して店の外へと走り出してしまった。
「桜井さんも行ってくれば?」
「え?」
「心配なら、どうぞ」
こんな状況でもどこか余裕の感じられるマスターの言葉に、固まっていた体が動き出す。
「ありがとうございます」
私は席を立ち、二人の後を追って店の外に出た。
心配だったのは本当だ。でも、滝口くんの言葉と行動を見て、今はむしろ大丈夫な気がしていた。それでも後を追いかけたのは、彼らの関係をきちんと見届けたいと思ったからだった。
人混みを避けながら滝口くんの後を追う。横断歩道を渡って駅前に出ると、丁度改札前の広場で滝口くんが一くんを引き留めたところだった。二言三言交わした後、二人は改札を通る人を避けながらこちらへ近づいてきた。慌てて自販機の影に隠れると、二人の会話が聞こえてきた。
「悪かった」
「それは何に対しての謝罪ですか?」
「名前のこと」
「……」
「俺がわざと間違えて、それをお前が訂正すれば、皆そのうち覚えてくれるかと思ってたんだけど、上手くいかなかった」
「そんな理由で……。そりゃ皆思うでしょうね。俺の名前はイジっていいんだって」
「本当に、ごめん」
滝口くんの声はとても誠実で、嘘や揶揄いは感じられなかった。一くんに対する純粋な申し訳なさで彼はここまで走ってきたのだろう。
「なんで俺なんか合コンに誘ったんですか? いつもいつも俺に構うのはなんでですか?俺があんたのこと嫌ってるの、気付いてますよね?」
一くんが今日ここに来た一番の目的が、滝口くんに向けてぶつけられた。
ここまでの滝口くんの言動から、ただ一くんを揶揄いたいわけではないということは明らかだった。しかしだからと言って必ずしも味方とは限らない。悪意の代わりに善意や好意があるわけじゃない。でも、そこに何があるのかを他人が一方的に決めつけることはできない。
決めつけることができないものを知るために、一くんは滝口くんへと一歩踏み込んだのだ。
「笑わないから」
「……は?」
「ずっと一人でいるし、仏頂面だし、影でいろいろ言われてるし。でも真面目で、悪いやつではなさそうだったから、もったいないと思ってさ。俺、お前のこと笑わせてみたかったんだよ」
「余計なお世話です。俺があんたに助けを求めたわけでもないのに、勝手に助けようとしないでください。無理に笑わせようともしないでください。俺は自分が笑いたいときに笑うので」
「でも、人間関係って鏡みたいなもんじゃん? 自分が笑ってれば相手も笑ってくれる。だから一にも笑っていてほしい。少なくともあの研究室にいるときぐらいはさ。じゃないとお前だけ楽しめてないみたいで空気悪いしさ」
「それは結局自分のためでしょう? 先輩が安心したいからって俺の感情を操ろうとしないでください。あと、笑ってない人間が皆不機嫌だとでも思ってるんですか? そんなわけないでしょう」
一くんが黙ると、暫く二人の間には沈黙が下りた。アスファルトを踏みしめる靴音と、信号の音、改札を通る音が夜の闇に沁み込んで、都会らしい賑わいを見せる。今、二人は喧嘩をしている。しかしこんなに賑やかで明るい夜の喧嘩は、きっと後に引きずることのない爽やかさを抱えていた。
「……それは、確かにそう」
沈黙を破った声は、思っていたよりも軽やかだった。今にも笑い出しそうな明るい声だった。
「一はどういうときが楽しい? 俺、それが知りたい」
「最初から聞けばいいのに」
「だってお前、俺のこと警戒してただろ」
「……。怖かったので。なんか人間らしくなくて」
「え!? 俺そんなふうに思われてたの?」
滝口くんの声の向こうから、一くんの押し殺したような笑い声が見え隠れした。
「今夜の先輩は、なんか人間っぽいです」
「よかった。じゃあちょっとは心開いてくれた?」
「それは全く」
「冷てー」
クツクツと、今度は二人の笑い声が重なる。
「それじゃあ、俺帰ります」
「え、合コンは?」
「もともと興味ないです。言いたかったことは言えたので、目的は達成しましたし」
「そっか。……合コンが嫌ならこのあとサシ飲みとかは?」
「帰ります。髪切ったから寒いんですよ」
「あっはは! 確かに、そんだけ短くなったらいろんなとこすーすーしそう」
そこまで聞いて、私はそっとその場を離れた。一くんはこのまま家に帰るだろうし、滝口くんも自分のしたいようにするだろう。二人の関係がこれから悪くなることは、きっとないだろう。
居酒屋に戻ると、テーブルの上の状況は私が店を出たときとそこまで変わっていなかった。時間を確認すれば、あれからまだ三十分ほどしか経っていないみたいだった。
「おかえりなさい」
「すみません、一人にしてしまって」
「いいえ。温かいものでも頼みましょうか?」
「あ、じゃあお茶を」
マスターがスマホを操作している間に、私は席に座って呼吸を落ち着ける。目的は無事に果たされたから、あとは適度にお腹が満たされたタイミングで店を出て帰路につくだけだった。
「どうでした?」
「はい。きっと大丈夫です」
「そうみたいですね」
意味ありげな言葉に首を傾げる。マスターはそんな私を見て優しい笑みを浮かべた。
「桜井さん、とても優しい顔をしていたから」
「そう、ですか」
そっと自分の頬に触れる。あまり顔には出ない方だと思っていたが、無意識に緩んでいたのかもしれない。暗い顔を指摘されることはよくあったが、こうしてポジティブな変化に気付かれたのは久しぶりのことだった。
変わってきている。少しずつ、私自身にも変化が訪れている。きっかけをくれたのは間違いなくカナちゃんだ。でも、彼女がもたらしたのはあくまできっかけだ。本当に何かを変える気があるのなら、ここから先は私自身がどうにかしていかなければならない。手を引いてもらうばかりではだめだ。自分の足で、動き出さなければ。
「私も、お酒いいですか?」
マスターからスマホの画面を見せてもらうと、真っ先に目についたのはハイボールだった。カナちゃんが好きなものだ。でも、私にはもう少し甘い方がいい。
注文したピーチサワーは、喉の奥でしゅわしゅわと弾けた。
後ろのテーブルで続いていた合コンは、一くんがいなくてもそれなりに盛り上がっていた。滝口くんがその中に戻ってくることは無かった。
朝、何気なく着けたテレビからは愛知のローカルニュースが流れていた。天気や交通情報の間に、事件の情報も流れていた。
名古屋市郊外で乗り捨てられていた車の爆発事故と、もう一つは行方不明者についてだった。
中川区の路地裏から血痕らしきものが見つかり、DNA鑑定や周辺住民の目撃情報、警察に届いていた行方不明者の届け出から、相澤憲二という男性が関与している可能性が出てきたらしい。さすがにテレビのニュースだけではそこまで詳しくは話していなかったが、SNSやネットニュースに出ている情報をまとめると、凡そそういうことらしかった。爆発事故とも何か関連があるのではないかというのが警察の見解のようだ。
「カナちゃん、具合どう?」
一日寝てもまだ少し怠さが残っているらしいカナちゃんに市販薬と水を渡す。咳や鼻づまりは酷くないようだし、インフルエンザではなさそうだ。
「まだちょっと怠い感じがするけど、ずっと寝てたせいかもしれない」
「そっか」
心配をかけないようにしているのか、努めて明るく振る舞ってはいるけれど、やはりいつもより表情が暗い。体調のせいだけではないようにも感じたが、私から聞き出すのは躊躇われた。
「静さん、ニュース見てる?」
「ううん。消す?」
「うん」
もともと大した理由もなく着けていたものだったからテレビを消すこと自体は問題ないのだが、消す理由も特に思いつかなかった。音が大きくて頭に響いていたのだろうか。
「私、買い物行ってくるね。何か欲しいものとかある?」
「ううん。いってらっしゃい」
コートを羽織って、財布とエコバッグの入ったカバンを持ち、靴を履いた時にふと不安が頭を過ぎった。これまでもカナちゃんに留守を任せたことは何度かあった。それなのに、なぜ今更。
ニュースの内容とカナちゃんの事情が、頭の中の近いところを泳いでいた。二つが結びつかないように、私は急いで家を出た。
買い物の前に昨日のお礼をと思い喫茶止まり木に寄ると、ちょうどモーニングとランチの間の時間だったからか、お客さんはまばらだった。カウンター席に座りコーヒーを注文し、待っている間にスマホを見る。溜まったメールをチェックしていると、企業から面接の案内が来ていた。先週あたりに転職サイトを通して応募した企業だった。とにかく早く社会復帰しなければという思いがあるだけで、特別その企業でやりたいことがあるわけではない。そもそもきちんと業務内容を把握せず、待遇面だけを見て選んでいたので、慌てて企業ホームページを確認する。どうやら人材派遣やITなど幅広く展開している企業のようだが、理念や概要を見ていってもいまいちピンと来なかった。
「お待たせしました」
カウンター越しにコーヒーが差し出される。ほとんど音も立てずに目の前に置かれたカップからは芳醇な香りの湯気が立っている。手元に寄せると、こっくりと深いコーヒーの色の中に浮かない顔をした私が映っていた。
「どうかしました?」
「あ、昨日のお礼を言いに。ありがとうございました」
「ああ、どういたしまして。それもそうですけど、なんだか浮かない顔をしていたので、どうしたのかなと思って」
「あ、そういう」
見当違いな返答をしてしまったことを恥じ入りながら、私は一緒に出されたミルクと砂糖をコーヒーに入れてマドラーで混ぜる。
「金曜日に面接が決まって。それで、緊張してしまっただけです」
「なるほど。確かに、準備とか大変ですし、緊張もしますよね」
共感するように何度も頷くマスターの様子に、ふと彼の経歴が気になった。私がこの喫茶店を見つけたのは五年前だったが、そのときには既に常連と呼べるお客さんが付いていたし、今ほど賑やかではなかったが植物や人形のような装飾も置かれていた。
「あの、参考までにお聞きしたいんですけど、マスターはいつからこの喫茶店を?」
「そうですねぇ。僕が脱サラしたのが二十七のときなので、もうかれこれ七年になりますか」
「どうして、脱サラしてまで喫茶店を始めたんですか?」
聞いてから、少し失礼な聞き方をしてしまったかもしれないと思った。私の中で脱サラという言葉に抵抗があるからだろうか。それはつまり、社会一般という名のレールから外れることのように思えた。
マスターは私の不躾な問いを気にしたふうもなく、食洗器から取り出した皿やカップを丁寧に拭いている。照明を受けてきらりと光った食器を、マスターはどこか遠くを見るような目で見つめていた。
「人を待っているんです。そいつは家族もいないし、ホテル暮らしだから決まった家もない。音楽をやりながら世界中を飛び回っていて、たまにふらっと日本に帰ってくるような男です。僕は彼が自由に空を飛び回って、音楽を奏でる姿を想像するのが好きなんです。だから、ずっと飛んでいられるように、疲れたら休めるような場所を作りたいと思って、この店を出すことにしました。改めて人に話すと、少し照れくさいな」
照れくささを誤魔化すように笑うと、マスターはレジへと向かった。ちょうど、テーブル席にいたお客さんが伝票を持って席を立ったところだった。
マスターの話を胸の中で反芻しながら、少し冷めすぎてしまったコーヒーを飲む。このコーヒーを入れる技術も、店の経営も、マスターはたった一人の友人のために一から学んできたのだろうか。なんの苦労もなく七年も続けられるほど、喫茶店の経営は甘いものではないはずだ。脱サラせずに元の会社を続けていれば、マスターのように人当たりが良く仕事が丁寧な人なら順調に昇進していけただろう。マスターは、後悔をすることはないのだろうか。
「そうだ。昨日、夜も開けてカフェバーにしたいっていう話をしたと思うんですけど、覚えていますか?」
「はい」
レジから帰ってきたマスターが突然そう切り出してきた。昨日は結局ピーチサワーを一杯飲んだだけだったので、記憶がはっきりと残っていた。
「その件で一つ相談があるんですが、いいですか?」
「相談……?」
「桜井さん、この店で正社員として働きませんか?」
「……え?」
思いもよらない相談内容に、一瞬何かの聞き間違いかと思った。
「僕がモーニングから深夜帯まで常にこの店にいるのはやっぱり厳しくて。かといってバイトに店を任せるのも不安なので、いっそ社員を一人雇ってしまおうかと思いまして」
「でも、なんで私? ちゃんと募集をかけた方がいいのでは……」
「そこに労力をかけていたら本末転倒なので。まずはスカウトから入ろうかと」
「なるほど……」
「桜井さんが安定した企業に勤めたいという意志を持っているのなら、それを尊重します。面接の話もあるみたいですし、一旦保留にしていただいても構いません」
「……」
あくまで相談であり、強制ではない。そのことをマスターはしっかりと伝えてくれた。私は、突然目の前に現れたもう一つの道に戸惑っていた。一本しかないと思っていた道が、一瞬にして二つに分かれた。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「……普通から外れることは、怖くはないですか?」
普通ではなくなること、皆が良しとする人生の大筋から外れること、それはとても怖いことだと思った。大多数の人が歩んでいる道に、早く合流しなければと焦っていた。でも、私が勝手にそう思っているだけだったとしたら? 他の人がどう思って生きているかなんて、全く知らない。だから知りたいと思った。
「普通の定義にもよると思いますけどね。……自分の話をするなら、僕はかなり恵まれていたので、選べる選択肢はたくさんありました。キャリアを積むことだって、彼と一緒に日本を出ることだってできた。その中で、僕はこの店で待つことを選びました。一般的なキャリアからは外れたかもしれないし、収入が安定しているとも言えません。でも、店宛てにこういうセンスの無い土産が届いたりすると、この道を選んでよかったと思いますよ」
カウンターの隅に置かれたマトリョーシカのような人形の頭をつんとつつくマスターは、楽しそうだった。彼は迷いなく、進みたい道を突き進んでいるのだ。
「あとはそうですね……。普通の人生、のように大きく考えずに、一度範囲を自分だけに狭めてみるのはどうでしょう。今、桜井さんは何がしたいのか、何になりたいのか。それを軸にしてみるのも一つの手だと思いますよ」
コーヒーを飲み終え、お会計を済ませて店を出る。少し長居しすぎたのか、もうすぐお昼の時間だった。空を見上げると、冬の空はどこまでも高く、透明感のある水色が優しく世界を覆っていた。
私が何をしたいか。何になりたいか。それを軸に考えるということは、必然的に周囲の目というものを後回しにするということになる。他人の目を意識せずに自分のやりたいことにだけ集中して考えるというのは難しい。普通という大河の流れを外れることを想像するとどうしても怖い。
でも、その大河に戻れたら、私は満足するのだろうか。幸せになれるのだろうか。一般的な暮らしや幸せが、私にとっての幸福につながるのだろうか。本当に?
ピコンとスマホの通知が鳴る。ハッとしてメッセージアプリを開くと、カナちゃんからだった。買い物からなかなか帰ってこないことを心配しているようだった。止まり木に寄っていて少し話しこんでしまったことを伝えて、私は足早にスーパーへ向かった。今はとにかく、金曜日の面接に備えなければならなかった。
金曜日の朝、カナちゃんはこれ以上ないくらいに何度も応援の言葉をかけてくれた。
「静さんなら大丈夫。絶対。困ったときは笑顔で誤魔化してね。なんでもかんでも正直に話さなくてもいいからね。あとは、えーっと、なんかあったかな」
「大丈夫。心配しないで」
私よりも落ち着きのないカナちゃんを見ていたせいか、いつもより緊張が薄い。そういえば最後に面接を受けたのはカナちゃんと出会う前だった。ひどい圧迫面接を受けて死のうとしていたのが遠い昔のように感じられる。
「いってきます」
「いってらっしゃい。頑張れ!」
カナちゃんの応援を背に部屋を出る。面接を受ける場所は名古屋市内で、無料の駐車スペースが無いため電車で行くことになっている。駅までの道を歩きながら、私は面接のことよりもカナちゃんのことを考えていた。
風邪を引いてから今日まで、カナちゃんは毎晩魘されていた。いつも縋るように抱いているからか、シャチの抱き枕は買った頃よりも綿の位置がずれて不格好な形になっていた。カナちゃんが魘されているのに気付いたら、私はお菓子を作るようにしていた。甘いものを食べるとカナちゃんは笑顔になってくれるから。悪夢に魘される数よりもたくさん、私は彼女を笑顔にしたかった。
指定されたビルの中に入り、インターホンを鳴らすと、すぐに女性の声が聞こえた。少しするとドアが開き、オフィスカジュアルに身を包んだ若い女性に中を案内された。仕切りによって隔離されたフロアの一角に辿り着くと、女性は担当者を呼んでくると言って去って行った。
二続きになったテーブルに、椅子が四脚。勝手に座るわけにも行かず壁に掛かっている時計を眺めていると、すぐに担当らしき男性が現れた。
「おはようございます、本日はよろしくお願いいたします」
先に快活な挨拶をされてしまい、私は慌てて深くお辞儀をした。
「おはようございます。こちらこそ、本日はお忙しいところお時間いただきありがとうございます。よろしくお願いいたします」
一息にそう言い切ってから、少し早口だったかと焦る。初手で上手くいかないとその後に響くということは、何度も面接を受けていく中で、既に自分の弱点として認識していた。
「では、お掛けください」
面接官が椅子を手で指しながら言う。人当たりの良さそうな笑みを浮かべてはいるが、それだけでは隠しきれていない圧を感じた。途端に、それまで感じていなかった緊張が全身を走った。
「本日面接を担当します、河野です。まずは、簡単な自己紹介と職歴からお願いします」
「はい」
名前、学歴、職歴。私がたどってきた道を簡潔に、嘘偽りや誤魔化しなく伝える。どの面接でも必ず聞かれるからすっかり言い慣れてしまった。ついつい俯いてしまいそうになるのを堪えて、なるべく相手の目を見る。河野さんの目は理知的で、私の経歴に点在する矛盾なんて簡単に見抜けてしまうように感じた。
「ありがとうございます。では、いくつか質問していきます。桜井さんは長く不動産の営業としてご活躍されていたとのことですが、今回事務職に応募された理由を伺ってもいいですか?」
「はい。あの、営業としてお取引相手の方との契約を結ぶ際に、事務の方に大変お世話になったので、今度は私が誰かを支える仕事ができたらと思ったので……事務職を志望いたしました」
あらかじめ考えていた答えをたどたどしく答える。発したそばから変な日本語になっていることがわかって、無理矢理に軌道修正を試みたが、あまりにも社会人としてお粗末な回答に恥ずかしさでいっぱいになった。河野さんは私が完全に口を閉ざすまで待ち、一拍間を置いてから頷いた。
「なるほど。では、事務の経験についてはどうですか?」
「はい。基本操作は可能です。関数は少し覚える必要があると思うのですが……」
「関数でいうとVLOOKUPなどは使えた方が良いかなというところですね。どうですか?」
「あ……あまり、使ったことがないです」
「そうですか」
徐々に息苦しさを感じ始め、私は意識して呼吸をした。壁と仕切りに囲まれているだけの部屋とも呼べないような空間なのに、閉塞感でいっぱいだった。
「弊社を志望した理由は、何かありますか?」
「はい。学生時代も現在も、就職活動の大変さを身に染みて味わってきました。同じ思いをしている人の力になりたいという思いから、人材派遣サービスも行っている御社を志望いたしました」
今度は上手く言えた。内心ほっとしている私を見透かしているかのように、河野さんは薄く笑みを浮かべながら頷いた。手元に用意した私の履歴書を見ながら、左手に持ったペンを人差し指でとんとんと叩いている。ペンを持つ左手の薬指にはシンプルな指輪がはめられていた。
「桜井さんにとって、今回の転職の軸はなんですか? 今後やりたいことや、長期的な目標があれば、それもお聞きしたいです」
「軸……」
転職の軸、と聞かれて、なぜだか頭の中が真っ白になった。そんなものは存在していなかったから。
とにかく、早く社会復帰しなければならない。それだけを考えて、あとは前職で嫌だったことがなるべく無いように、営業ではない、残業が少ない職場を手あたり次第に探していただけだった。それが軸と言えば軸なのかもしれない。でも、今この場で恥ずかし気もなく本当のことを言えるほど、私は図太くなかった。
「なんでもいいです。お金をたくさん稼ぎたいのであれば給与が軸になりますし、ワークライフバランスを目指したいのであれば年間休日の数や残業時間が軸になります。桜井さんはどうですか?」
「それなら、ワークライフバランスです。残業時間がなるべく少なくて、休日出勤の無い職場がいいです」
「そうですか。ワークライフバランス、大事ですよね」
河野さんの言葉に曖昧に笑って頷く。ワークライフバランスという言葉を使ったのは初めてだった。あまり口に馴染まない言葉だった。
「では、桜井さんは今後何かやってみたい仕事はありますか?」
「仕事ですか?」
「はい。今回は事務職で応募していただきましたが、それとは関係なく、何かやりたいことがあれば聞いてみたいと思ったので」
なんでもいいですよと言う河野さんの表情は相変わらず読めない。採用するか否かの判断材料として、この問いがどんな働きをするのかがわからなかった。
「やってみたい仕事は……」
長考による沈黙を誤魔化すように呟きながら、何かあるだろうかと考える。営業はやりたくない。それだけがまるで大きな魚の影のように常に思考を覆い隠していた。事務職は、自分のスキルが見合っていないかもしれない。接客や販売は営業とほとんど同じようなものだろう。他にはどんな仕事がある? わからない。自分にできることと、やりたいことと、社会が求めていること。全てがマッチしたものは何一つ思いつかない。
「あまり……」
そう答えてから、カナちゃんの言葉を思い出す。全部正直に答える必要はない。ここで嘘でも思いついたものを答えていれば良かったのかもしれない。それができない自分の下手さに嫌気がさした。
「なるほど。少し整理しましょうか」
河野さんがテーブルにペンを置き、履歴書を少し離れたところに移動させた。そして真っ直ぐに私を見た。
「まず、今の転職市場についてですが、桜井さんは年齢的にかなりギリギリのラインにいます。求人票で見かけたことがあるかもしれませんが、多くの企業は二十九歳以下の働き手を求めています。これを超えると、さらに転職は難しくなります。それから、企業が中途採用で求めているものが何か、わかりますか?」
「……即戦力、ですか?」
「その通りです。新卒であれば研修の機会も設けるでしょうが、中途採用でとった人材に対していちいち育てる時間をとる企業は少数です。すぐに働ける人材が欲しいから、中途採用で人を集めるわけです」
「……事務経験のない人間の採用は難しい、ということですね」
「そうなります」
遠慮もなければ悪意もない、淡々とした口調だった。それがかえって自分の現状を冷静に見つめ直すよう促した。これまでは不確かな道の先を見ようとしていたが、自分が立っている現在地をまずは整理してみなければならなかったことに初めて気付いた。
「これから言うことは少し厳しく感じられるかもしれませんが、桜井さんを傷つけようとしているわけではないということをまず念頭においてください」
「はい……」
「桜井さんがやってみたい仕事について何も答えられなかったのは、スキルが無いからですか? それとも、ただ自信が無くて逃げようとしているからですか? 今選びとれる選択肢は、いくつ思い浮かびますか?」
「……」
河野さんの言葉の一つ一つが胸にずしりと圧し掛かってくる。しかし萎縮してしまうようなことはなかった。傷つくこともなかった。ただただ、重みのある言葉がありがたかった。
「選択肢が全くないのと、あるのに選べないのとでは全然違います。前者であれば、それは今できること自体が無いという状況です。職業訓練に通ったり資格取得に向けて勉強をしたり、とりあえず何か挑戦してみてできることを増やしていかなければなりません。もしも選択肢があるのなら、なぜ今それを選べないのかについて自己分析するべきです。勇気が出ないのはなぜか。好き嫌い、ライフプラン、目標、何を軸に置くのか。それが決まらなければ、何を優先して何を切り捨てなければならないのか、生き方そのものがブレてしまう。一度じっくりと考えてみてください」
面接を終えてビルを出ると、温かな日差しがアスファルトをキラキラと照らしていた。時折吹く冷たい風が火照った頬を撫でていくと、高揚していた気持ちが少しずつ落ち着いていった。
きっと不採用になる。そんな予感がしていた。しかし、妙にすっきりとした気分だった。
駅の改札をくぐり、電車に乗り、椅子に座って目をつぶる。一眠りできるほど長い間乗っているわけではないが、自分を落ち着けるためにそうした。
最寄り駅を出てすぐのところにあるコンビニの前を通ると、冬季限定商品のフェアを宣伝するのぼりが立っていた。面接のご褒美に何か買っていこうかと店内に入ると、スイーツコーナーにはチョコレートを使ったスイーツが整然と並んでいた。
カナちゃんにも何か買っていこう。
「……」
シュークリームに伸ばしかけた手を止めて、私は何も取らずにそっと下ろした。カナちゃんの顔を思い浮かべたら、コンビニスイ―ツの気分ではなくなった。そうではなくて、もっと別の、誰もが買える特別ではなく、私にとっての特別をご褒美にしたくなったのだ。
コンビニを出ていつものスーパーへ向かう。冷蔵庫に何が残っていたかを思い出しながら、特別な日に食べたいものはなんだろうと考えた。
スーパーで買い出しをしてから帰ると、ちょうどお昼の時間だった。冷凍ご飯で簡単なオムライスを作ってカナちゃんと二人で食べてから、私はすぐに作業を始めた。ポテトグラタンに、ローストビーフ、クラムチャウダー、デザートにはイチゴのタルト。それが、スーパーで悩みに悩んだ末、今の私が思いつく限り最高に特別なディナーだった。
バターを室温に戻している間にタルト生地の材料を量り、ジャガイモをラップでくるんでレンジで温める。どんな手順でどの作業を同時に進めていくのがより効率的かを考えるのは、頭の中に設計図を描いていくみたいで面白い。
「静さん、急にどうしたの?」
忙しなく動いている私を見て、カナちゃんは驚いたようにキッチンに広がる食材と調理器具を見回した。
「面接上手くいった?」
「全く。たぶん不採用だと思う」
「……その割に機嫌良いね」
不思議そうに私の顔を覗き込むカナちゃんに、私は思わず笑みをこぼした。
「なんか、すごくすっきりした気分なの。ずっと一人で煮詰まってたから、一旦全部忘れて、今一番したいことをしようと思って」
「そっか。手伝えることあったら言ってね」
そう言うと、カナちゃんはベッドに座り、読みかけだった本の続きを読み始めた。これまでゆっくり本を読む時間もなかったという彼女に、部屋にあるものなら好きに読んでいいと言って以来、カナちゃんは黙々と読書をするようになった。私が持っている本は基本的にレシピ本か、食べ物に関する小説や漫画しかない。それでもカナちゃんは楽しめているようで、たまに本に出てきた食べ物をリクエストすることもあった。
彼女は気付くだろうか。今私が作っているものが、全部小説の中に出てきた食べ物であることに。
長い時間をかけて丁寧に作り上げた料理がダイニングテーブルに並ぶ。品数のせいか、いつもは使わない洒落た食器を使っているからか、テーブルがとても狭く感じた。
「すごい……!」
「ふふ。今日はこれもあるよ」
「ワイン!」
あまり詳しくはないから美味しいものを選べたかどうかはよくわからないけれど、スーパーでひたすらおすすめワインについて検索してから選んだものだ。それなりに値も張ったからきっと美味しいはず。
コルクを開けてワイングラスにワインを注ぐと、一気に特別感が増した。
「ディナーって感じがする」
わくわくしたようなカナちゃんの声に頷く。お昼からずっと立ち通しだったにも関わらず、少しも疲れた感じがしなかった。テーブルに並ぶ料理から立ち昇る香りと、それを共有できる相手の存在に、なぜだか少し泣きそうになった。
「食べようか」
そう声をかけて椅子に座る。向かいに座ったカナちゃんと二人で、ワイングラスを掲げ、乾杯の言葉と共にカチリとふちをぶつけ合う。誕生日でもクリスマスでもない、本当になんでもない普通の夜が、私の手で特別な夜になった。それはとてもすごいことなのかもしれないと、ワインで酔った私は思った。
「やっぱりお店出せるよ。美味しい」
「じゃあカナちゃんには看板娘になってもらおうかな」
「え……」
「賄は好きなの作るよ」
「……やった。ミートボールのスパゲッティがいいなぁ。あ、でもナポリタンも好きだなぁ」
「ふふ。じゃあパスタは切らさないようにしないと」
クスクスと笑いながら、ワインを飲みながら、私たちはもしもの話を続けた。叶うか叶わないかなんてどうでもよくて、ただ二人で同じ空想を繰り広げるのが楽しかったのだ。
それはとても特別で、幸せな夜だった。
ふと真夜中に目が覚めた。寝起き特有のぼんやりとした感覚はなく、胸がざわざわとするような嫌な感じがした。部屋の中はやけに静かで、私の呼吸音だけが鼓膜を揺らしている。
「……カナちゃん?」
ハッとして隣を見る。ダブルベッドの片側にいるのはシャチの抱き枕だけで、そこにカナちゃんはいなかった。彼女が寝ていた場所に触れてみると、まだ少しだけ温もりが残っていた。トイレに起きただけかもしれない。そう思うのに、心は依然落ち着かなかった。
乾燥で喉が渇いていた。水を飲もうと思いベッドから這い出ると、ローテーブルに躓いた。
「いたっ」
足の小指をぶつけ、痛みに蹲る。キッチンまでなら明かりがなくても問題ないだろうと横着したのがいけなかった。痛みが引くのをじっと待っていると、テーブルの上に何かが置いてあることに気付いた。
「手紙……?」
歪に膨らんだ封筒を開けてみると、中から出てきたのは三枚の便箋とカメのストラップだった。
急いで部屋の明かりをつけ、クローゼットの方を見る。カナちゃんの旅行用バッグがなくなっていた。脱衣所に駆け込みラックを見ても、そこにカナちゃんがいつも使っていた美容グッズは跡形もなくなっていた。
「っ……」
私は椅子に掛けていたカーディガンを羽織り、部屋の鍵だけ持って外に出た。鍵にはカメのストラップがついていた。封筒に入っていたものと同じ、カナちゃんとおそろいのストラップだ。手紙があるということはカナちゃんは自分の意志で出て行ったのだ。探しに行ったところで迷惑かもしれない。そう思う冷静な自分も確かにいる。だけどそれ以上に、こんな寒い夜中でも思わず走り出してしまうくらい、カナちゃんが心配でたまらない私がいた。
探す宛てなんて無い。だから知っている場所に向かった。駐車場、喫茶止まり木、スーパー、駅。普段走ることなんてないから、脚はすぐに重たくなった。肺に届く空気が冷たくて激しく咳き込んだ。心臓がバクバクと、これ以上ないほど速く脈打っていた。そういえば持久走、苦手だったな。遠い学生時代を思い出しながら、それでも走るのをやめようとは思わなかった。
最後に向かったのは歩道橋だった。私がカナちゃんと出会った場所だ。すっかり棒のようになってしまった脚で階段を上ると、ちょうど雲間から月が現れた。
あの日も確か、月の明るい夜だった。私は歩道橋の真ん中から車道を見下ろしていて、それを階段を上り切ったところにいたカナちゃんに止められた。
今は、あのときとは立場が逆になっていた。
「カナちゃん」
声をかけると、歩道橋から身を乗り出すようにしていたカナちゃんがびくりと首を竦めた。そのままゆっくりとこちらを振り向いた彼女は、ひどい顔をしていた。
「静さん、なんで……」
「とりあえず、危ないからこっちに来て」
カナちゃんを刺激しないように声をかけながら一歩彼女に近づく。私が近づいてもカナちゃんが正気を失うことはなかったから、大人しくその場に立って俯いている彼女との距離を、私は少しずつ詰めていった。
「帰ろう」
そう言ってカナちゃんの腕をつかむ。すっかり冷えた手は感覚がなく、必要以上に強い力で掴んでしまった。その手をカナちゃんは振り払って、私から数歩距離を取った。
「なんで止めるの」
「なんでって……」
カナちゃんのことが大切だから。そう言えたらいい。でも、言えない。一か月弱一緒に過ごしただけの他人がそんなことを言ったところで、今まさに死のうとしている相手を引き留めるだけの重みなんかあるはずがない。なら、今の私が彼女に伝えられる言葉はなんだろう。
彼女は、出会ったばかりの私をどうやってこの世に繋ぎとめてくれたっけ。
「困るの。カナちゃんがいなくなったら、私が困る」
そうだ。最初はそうだった。カナちゃんが私にそう言ったのだ。死にたいと言った私に、彼女は困ると言ったのだ。それは利己的な言葉であったかもしれない。でも、私にはそれが救いだった。
「なんで……」
カナちゃんの声がぐにゃりと歪んだ。月明りに照らされた彼女の瞳がゆらゆらと揺れて、ついにはらりと大粒の涙が零れ落ちた。
「私にそんな資格ないのに……!」
そう言って、カナちゃんは顔を覆って泣き出した。これまで堰き止めていたものが一気にあふれ出したかのように激しく嗚咽を洩らしながら、カナちゃんは泣いた。
「カナちゃん、帰ろう」
背中を擦ってあげながらそう言うと、カナちゃんは首を横に振った。
「どうして? 風邪ぶり返しちゃうから、ね?」
それでも、カナちゃんは聞き分けのない子供のように何度も首を横に振った。
「もう、静さんに迷惑かけられない」
「迷惑?」
一方的に住み着かれていたならまだしも、家賃も光熱費も食費も出してくれたのだから、カナちゃんとの生活は立派なルームシェアだったはずだ。迷惑なんて、本当におかしな話だけど、一度も思わなかった。
顔を覆っていた両手がそっと下りた。そうしてカナちゃんは、また私から遠ざかった。
「私、人殺しなの」
「……え」
突然私たちの間に転がり込んだ現実味のない単語に戸惑った。人殺しだなんて、カナちゃんには縁のない言葉に思えた。
「ストーカーに襲われたとき、咄嗟に石で殴った。その後、頭から血が止まらなくて、怖くて救急車とかも呼べなくて、そのまま、見殺しにした。こんなやつ、死んだ方が世の中のためなんだって自分のことを納得させようとした。死体は、車に積んで、人気のないところで爆発させた。正当防衛なんかじゃないよ。しっかり死体遺棄してる。ちゃんと、人殺し。なのに、水族館は楽しいし、ご飯は美味しいし、人にアドバイスなんてしてるし、最低すぎ。センちゃんが言ったとおり、一度や二度の間違いで人生がダメになることはない。でもこれは違う。人殺しは、これだけはもうどうやっても取り戻せない。ニュースであの男の名前が出たときに思った。ああ、ちゃんと行方不明の届け出を出してくれる人が周りにいたんだって。そういう人を殺しちゃったんだって」
カナちゃんの話と、いつか見たニュースの内容が結びつく。もしかしたら何かしらの関係があるのかもしれないと思いながら、あえて深く考えないようにしていた。考えたとしても、行方不明になった男はまだ生きていて、カナちゃんを執念深く追いかけているのだと思っていた。だから彼女は不安がっているのだと。
そうじゃなかった。もっと、残酷で取り返しのつかない現実が目の前に突き付けられていた。
「私、静さんを救わなきゃと思ってた。人殺しのくせに、目の前で死にそうな人は放っておけなかった。静さんが笑って生きられるようになるまでそばにいれたらいいなって思ってた。でも、もう静さんは一人でも死にたいとか言わなそうだから、これ以上私がそばいにたら、逆に迷惑になっちゃう。私はもういなくなった方がいいんだよ」
そう言ってカナちゃんは、再び歩道橋から身を乗り出した。
「待って!」
咄嗟にその華奢な背中にしがみつく。冷えた体温が重なって、そこからふわりと寂しさが香った。
なんで見ず知らずの怪しい子を部屋に住まわせているんだろうとか、なんでこの子に就活が上手くいかないことを話してるんだろうとか、なんで同じベッドで寝ることに慣れてるんだろうとか、ここ最近の私は変なことばかりだった。だってずっと異常だった。死にたいなんて、普通は思わない。思ってもこんなところに来て本当に死のうとするなんて普通じゃない。
なんでカナちゃんを部屋に入れたのか。なんで今まで一緒に暮らしていたのか。
「寂しかったの……!」
口をついて出た言葉はなんの脈絡もない。だけど私の思考の中では全てが繋がっていた。寂しかったのだ、私は。ずっと、他人から否定されているようで寂しかった。その実本当に私のことを否定していたのは私自身で、そんなんじゃ一生寂しいままだったことにすら気付けていなかった。
「そばにいてほしかったの。誰かに認めてほしかった。褒めてほしかった」
結局、他人から自信をもらうことも、依存して救われることもないのが人間だ。でも、寄り添われることで回復することはある。そうして私はカナちゃんに救われたのだから。
「私はカナちゃんに救われたよ。ちゃんと、カナちゃんは私を救ったんだよ! 私はカナちゃんに生きていてほしい。どんな罪を犯したとしても、私にとってあなたは命の恩人なの。間違いを消すことはできないかもしれない。決して軽い罪ではないかもしれない。でも、償うための制度はある。もしカナちゃんが自分で自分を許せないなら、社会のルールに全部任せたっていい。私はずっと、カナちゃんの味方としてここで待ってるから!」
ぎゅうっと彼女の背を抱きしめる。生きることを諦めないでほしい。それが私のエゴだとしても、先に私を救ったのはカナちゃんなのだから。この一か月の間、カナちゃんが私のために生きていてくれたのなら、もう一度私を生きる理由にしてほしいと思った。
カナちゃんの背中が震えた。嗚咽が体を通して伝わってきて、私まで少し涙が零れた。
「私、生きてていいのかなぁ」
「いいよ。生きていてほしい」
「ほんとに、待っててくれる?」
「うん。ずっと待ってる。パスタと、甘いお菓子も用意して、待ってるよ」
ひそひそと内緒話をするみたいに囁き合う。私からではカナちゃんの顔をは見えないけれど、たくさん泣いていればいいと思った。これまで我慢してきた分、たくさん泣いて、少しでも心が軽くなればいいと思った。
それから私たちは二人でアパートに帰った。手を繋いで、暗い夜道を歩いた。今夜はよく晴れていて、綺麗な満月が私たちの足元を煌々と照らし出していた。
「あれ、一くん?」
アパートに帰ると、ちょうど一くんが自分の部屋に入るところだった。こんな時間にどうかしたのだろうかと声をかけると、振り向いた彼の顔はひどくやつれていた。
「あ、桜井さん、こんばんは」
「こんばんは。どうしたの? すごくやつれてるけど」
「先輩に呼び出されて、さっきまでゴキブリ退治で大騒ぎしてました。お礼だとか言って飲み屋を連れまわされて、やっと今帰ってきたところです」
「そっか。ゆっくり休んで」
「おやすみなさい」
まるで幽霊のようなオーラを纏いながら部屋の中へと消えていった一くんを見送り、私はカナちゃんと顔を見合わせて笑った。
「先輩と上手くやってるみたいだね」
「うん。よかった」
くすくすと笑いながら、私たちは二人で外階段を上がっていった。
早朝四時。まだ朝日の昇らない外の世界には、私とカナちゃん以外の人気が無かった。人も草木も眠りについた静かな世界で、私たちはお別れを言うために向かい合った。
「それじゃあ、お世話になりました」
「うん」
「シャチの抱き枕と、カメのストラップは静さんに預かっててほしい」
「わかった」
「……寂しくなったら私だと思って抱きしめてね」
しんみりとした空気をうやむやにするように、カナちゃんはおどけて言った。私は少し呆れながら笑った。それから、どちらからともなくハグをした。他人に触れることが苦手だった一か月前が嘘のように、すっかりスキンシップに慣れてしまった。本当に、私は随分とカナちゃんに変えられてしまった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
カナちゃんはくるりと背を向け、階段を下りて行った。去り際に見えた彼女の目元は赤かったけれど、その瞳は確かに光を湛えていた。
カナちゃんの足音が完全に聞こえなくなってから部屋に入ると、ぽっかりと穴が開いたような喪失感を覚えた。部屋のレイアウトも、家具の数も、カナちゃんが来る前と後とで変わったところは特にない。強いて言うなら大きなシャチの抱き枕が増えただけ。それなのに、まるで旅行の後のような寂寥感がぐわっと私を飲み込んだ。
ベッドに倒れ込むと、途端に眠気に襲われた。夜中目を覚ましてからカナちゃんを探しに走り回って、それから今までずっと起きていたから、体力の限界を迎えたのだろう。瞬きのタイミングでふっと意識が途切れた。
次に目を覚ますと、カーテンの隙間から陽の光が溢れていた。ぼんやりとしながら横を向いて、そこに誰もいないことに気付く。一か月前までは一人で使っていてなんの支障もなかったダブルベッドがやけに広く感じた。
まだ夢の中で微睡んでいたい。そう思いながら彼女の代わりに寝そべっているシャチの抱き枕に顔をうずめる。微かにカナちゃんのヘアオイルの香りが染み付いていて、少しだけ寂しさが増した。
しばらくそうしてから、私は思い切って顔を上げた。そのままベッドから出て、部屋のカーテンを開けた。それまで暗かった部屋を朝日が照らし出し、あまりの眩しさに目の奥がチカチカした。
洗面所に行って顔を洗い、カナちゃんと一緒に選んだ化粧水と乳液を塗る。肌の調子は以前よりもずっと良くなっていた。
それから、キッチンでコンソメスープとピザトーストを作った。ダイニングテーブルに一人分の食事を並べ、椅子に座って両手を合わせる。向かいに座って美味しいと言ってくれる人がいないことに、また寂しさが襲ってくる。つんと痛くなった鼻には気付かないふりをして、私はトーストを一口齧った。
「美味しい」
小さく呟く。カナちゃんが褒めてくれたように、自分を褒める。そうして自信を育てていく。いつかカナちゃんが帰ってきたときに、笑っておかえりが言えるように。
夜に寄り添う 目良木五月 @satuki59
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます