鹽夜亮

 沈黙している。世界はただ、沈黙する。何ものをも否定しない。肯定もしない。ただ、沈黙する。…


 川の音さえ、静まり返っている。風が木の葉を揺らす音もない。ただ揺れている。ゆっくりと、ゆっくりと。投げ出された体、投げ出された魂、それに何かを返すわけでもなく、世界は沈黙する。ただあるべきものがあるべき形に変えることを、知っているから。

 時さえ進むことをやめたかのように、静寂は全てを包み込んでいる。ここに秒針はない。揺らぐ風と沈黙は、時を教えない。永遠の刹那をゆっくりと進み続けている。救済など、どこにもない。


 救済など、すでに成されている。


 静かにゆっくり、世界は沈黙する。何事もなかったかのように営みを続ける。そこに非難はない。そこに拒絶はない。そこに焦燥はない。そこに矛盾はない。ただ、理不尽と受容だけがある。土に還る魂たちは、全てあるがままに受け入れられる。ただそれだけに過ぎない。そこに価値比較はない。矮小な一つの命に過ぎない。一つの、確かな命に過ぎない。そこに矛盾はない。世界は矛盾を持たない。あるのは、統合だけだ。

 融解し、また生まれる。在り方が変わる、形が変わる、しかし一つの命に何も変わりはない。ゆっくりと進む輪廻の中で、あらゆる物事はあるべきものとして飲み込まれる。完結された輪廻、永遠の約束された刹那、告解の必要ない赦し、罰のない罪、矛盾さえ統合され、何もかもは包み込まれている。

 溶け落ちるように身を任せる。体が、存在が沈んでゆく。ゆっくりと、じんわりと、染み込むように溶けてゆく。あらゆる錘を置き去りにして、圧倒的な理不尽と受容の海へ飲み込まれてゆく。肉体という一つの形すら、大した意味を持たない。それは解れるように、優しく、緩やかに解体されてゆく。苦痛はない。後悔もない。ただあるのは、認識だけだ。緩やかに溶ける、温かいこの抱擁への認識。ただそれだけだ。

 生の記憶を手放しながら、融解する。あるべき場所にあるべきものが還る、その安住を知る。矛盾、苦痛、苦悩、快楽、絶望、希望、何もかも。全ては混淆され、統合される。名づけ得ない感情は、もはや感情の枠組みを超えて、存在となる。矛盾の消えた人間は、存在することはできない。ただあるべき場所に還る、そのためだけに矛盾は解消される。世界にしか、赦されない。世界は、存在を赦し続ける。

 些細な全ても、残さず統合される。全てが一つになる。そこに大小も善悪も関係はない。ただ、全てが、混淆する。肯定も否定も、善も悪も、何もない。あるのは統合と受容、ただそれだけ。溶けてゆく、解れてゆく、戻ってゆく。あるべきものへ、還るべき場所へ。理不尽の極地、その偉大なる優しさの極地へ。


 あらゆることを忘れながら、全てを記憶したままで、何もかもが昔のまま、新しく統合される。


 ゆっくり、ゆっくり。


 ゆっくり、進んでゆく。柔らかな日差し、風、沈黙。その只中で、何もかもを投げ出して、ゆっくりと。何も感じないという全能を、全てを覚えているという白痴を、存在の喪失という存在肯定を、理不尽は受容する。世界は統合する。世界は、沈黙のままで、何一つ変わらずに飲み込んで、受け入れる。全てが過去になり、全てが今になる。未来は存在しない。永遠の今を巡り続ける。


 私は、赦される。


 世界は沈黙している。ここに秒針はない。全ては統合されている。何一つこぼれ落ちることはなく、何もかもが飲み込まれてゆく。何一つ否定されることはなく、肯定されることもなく、ただ受容される。

 感覚など、とうに失せた。感情は溶けた。肉体は土に還った。何も残っていない。得たものは全て還元される。だからこそ、全てが残っている。輪廻は回収される。一つの終わりは一つの始まりになる。あらゆる存在の矛盾から解放される。理不尽な、この世界の圧倒的な沈黙の中に。

 何が必要だったというのだろう?何が不足していたというのだろう?…何もわからない。全て溶けてしまった。何も感じないのではない。全てを感じている。世界そのものへ、私は同化する。あの理不尽の、沈黙の、受容の世界へ、私は同化する。

 何一つ不足などしていなかった。あるべきものは、あるべき場所にあり続けた。未完成は、既に完成されていた。何もかもがどうでもいいのは、既にあるべきものはあるべき場所にあったからだ。ただ、見つけることが難しかった、それだけで。全部、何もかも持っていたじゃないか。何を持ち忘れたというのだろう?何を掴みそびれたというのだろう?何もかも、この手の中にあったじゃないか。何もかも、何もかも。

 沈黙が支配する。肯定も否定もない。それでいい。それでこそ、あるべきものがあるべき場所へ、ただ還ることができるのだから。



 肯定などいらなかった。否定などどうでもよかった。

 価値など欲しくなかった。評価などどうでもよかった。

 生きてなどいたくなかった。死にたくなどなかった。

 苦悩などどうでもよかった。快楽などどうでもよかった。

 幸せなどどうでもよかった。不幸などどうでもよかった。

 自分などどうでもよかった。他人などどうでもよかった。

 成功などどうでもよかった。失敗などどうでもよかった。

 人生などどうでもよかった。




 ただ、愛していた。全て、どうでもよかったから。


 溶けてゆく。溶解してゆく。受け入れられてゆく。


 私が私ではなくなる。



 私は、私になる。





 私は、やっと、赦される。この沈黙に。…

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鹽夜亮 @yuu1201

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