倭国の記述のみ抜粋した中国史書⑤~⑧(琉球を含)
⑤南斉書『蛮夷伝』卷五十八/列傳第三十九 改訂版
参考:南齊書卷五十八/列傳第三十九
https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/071_nanseijo.html
倭国
倭国は、帯方郡の東南の大海中の島にあり、漢の末期以来、女王を立てていました。その土俗は以前の歴史書に記載されています。建元元年(479年)、新しく任命された使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王武を、さらに鎮東大将軍の称号に進めました。
⑥『梁書』卷五十四/列傳第四十八 改訂版
『梁書』卷五十四/列傳第四十八
参考:梁書卷五十四/列傳第四十八
https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/081_ryojo.html
5年(524年)、隆が死んだ。詔によってその子の明(めい)を、「持節、督百済諸軍事、綏東将軍(すいとうしょうぐん)、百済王」に任命した。その治める城を固麻(こま)と呼び、邑(ゆう)を檐魯(えんろ)と呼んだ。これは中国の言葉で郡や県にあたるものである。
その国には二十二の檐魯があり、皆子弟や宗族を分けてそこに配置した。その人々の体は長身で、衣服は清潔であった。その国は倭国に近く、入れ墨をする者も多かった。今の言葉や衣服は、ほぼ高句麗と同じだが、歩くときに両腕を広げないこと、拝むときに足を伸ばさないことは異なっていた。帽子を「冠」、上着を「複衫(ふくさん)」、ズボンを「褌(こん)」と呼んだ。その言葉には諸夏(中国)の要素が混じっており、これも秦や韓の遺風であるという。
倭国
倭は、自らを太伯(たいはく)の子孫と称した。その風習は皆入れ墨をしていた。帯方郡から一万二千里余り離れており、大体は会稽(かいけい)の東にあり、非常に遠く隔たっていた。
帯方から倭へは、海水に沿って進み、韓国を経由し、東に行ったり南に行ったりしながら、七千里進んで初めて一つの海を渡った。海は千余里の広さで、瀚海(かんかい)と呼ばれ、一支国(いきこく)に到達した。
さらに一つの海を千余里渡ると、未盧国(みろこく)に着いた。さらに東南へ陸路を五百里進むと、伊都国(いとこく)に着いた。さらに東南へ百里進むと、奴国(なこく)に着いた。さらに東へ百里進むと、不弥国(ふみこく)に着いた。さらに南へ水路を二十日進むと、投馬国(とうまこく)に着いた。さらに南へ水路を十日、陸路を一月進むと、邪馬臺国(やまたいこく)に着いた。ここが倭王の住む場所である。
その官職には、伊支馬(いきま)があり、その次は弥馬獲支(みまかくし)、その次は奴往鞮(どおうてい)といった。民は稲、紵麻(ちょま)を植え、蚕を飼い、機織りを行った。生姜、桂(肉桂)、橘(たちばな)、椒(はじかみ)、蘇(しそ)があった。黒い雉、真珠、青い玉を産出した。
牛のような獣がおり、山鼠(さんそ)と呼ばれた。また、この獣を丸呑みする大きな蛇もいた。その蛇の皮は硬くて切ることができず、その上には孔があり、開いたり閉じたりして、時々光を放った。矢を射てその孔に当てると、蛇は死んだ。物産はほぼ儋耳(たんじ)や朱崖(しゅがい)と同じであった。
土地は温暖で、風俗は淫乱ではなかった。男女は皆髻(もとどり)を露わにしていた。裕福な者は錦織りやさまざまな色の布で帽子を作り、それは中国の胡公頭(ここうとう)に似ていた。飲食物は籩豆(へんとう)(高脚の器)を使った。
その葬儀は、棺はあっても槨はなく、土を盛って塚とした。人々は皆酒を好んだ。暦を知らず、長寿な者が多く、八、九十歳、あるいは百歳に達する者もいた。その風習では女が多く男が少なかった。身分が高い者は四、五人の妻を持ち、低い者でも二、三人を持った。婦人には嫉妬の心がなかった。盗みをする者がなく、争いも少なかった。もし法を犯した場合、軽い罪ではその妻子を没収し、重い罪ではその一族を滅ぼした。
漢の霊帝の光和年間(178年-184年)、倭国で乱が起こり、互いに攻め合い数年が経った。そこで皆で一人の女子、卑弥呼(ひみこ)を王として立てた。卑弥呼には夫がおらず、鬼道(きどう)を操り、人々を惑わすことができたため、国人は彼女を王とした。男弟がいて、国政を補佐した。彼女が王となってからは、会う者は少なく、千人の婢に仕えさせ、ただ一人の男が出入りして命令を伝えた。その住居である宮室は、常に兵士に守られていた。
魏の景初3年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑弥呼は初めて使者を派遣して朝貢した。魏は彼女を「親魏王」とし、金印と紫綬(しじゅ)を与えた。
正始年間(240年-249年)に卑弥呼が死ぬと、別の男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合った。そこで再び卑弥呼の宗女、臺与(とよ)を王として立てた。その後、再び男王を立て、ともに中国から爵位と官位を受けた。
晋の安帝の時、倭王の賛(さん)がいた。賛が死ぬと、弟の彌(み)が即位した。彌が死ぬと、子の済(せい)が即位した。済が死ぬと、子の興(こう)が即位した。興が死ぬと、弟の武(ぶ)が即位した。
斉の建元年間(479年-482年)に武は、「持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍」に任じられた。高祖が即位すると、武は征東大将軍の称号に進められた。
その南には侏儒国(しゅじゅこく)があり、人の身長は三、四尺であった。さらに南には黒歯国(こくしこく)と裸国(らこく)があり、倭から四千里余り離れており、船で行けば一年で到着した。また西南に万里離れたところには海人(かいじん)がおり、体は黒く目は白く、裸で醜かった。その肉は美味しく、旅人が射て食べることがあった。
文身国(ぶんしんこく)は、倭国の東北七千里余りにあった。人の体に入れ墨があり、獣のようであった。その額には三つの文があり、文がまっすぐな者が貴く、文が小さい者が賤しかった。風俗は楽しく、物が豊富で安く、旅人は食糧を持参しなかった。家屋はあったが、城郭はなかった。その王の住居は、金銀や珍しい宝物で飾られていた。家の周りには一丈の幅の堀があり、水銀で満たされていた。雨が降ると水銀の上を流れた。市場では珍しい宝物を貨幣として用いた。
軽い罪を犯した者は鞭打ち、重い罪を犯した者は猛獣の餌食とした。もし冤罪であれば、猛獣は避けて食べず、一晩経てばその罪は許された。
大漢国(だいかんこく)は、文身国の東五千里余りにあった。武器や矛がなく、戦争をしなかった。風俗は文身国と同じだが、言葉が異なっていた。
扶桑国は、斉の永元元年(499年)、その国から沙門の慧深(えしん)が荊州(けいしゅう)にやって来て、次のように語った。「扶桑は大漢国の東二万里余りにあり、その土地は中国の東に位置する。その土壌には扶桑の木が多く、それゆえ国名とした。扶桑の葉は桐に似ており、初生は筍のようである。国人はこれを食べ、実は梨のように赤く、その皮を紡いで布を作り、衣服とした。またこれを綿としても用いた。板で家を建て、城郭はなかった。文字があり、扶桑の皮を紙とした。武器や甲冑がなく、戦争をしなかった。
その国の法律には、南獄と北獄があった。軽い罪を犯した者は南獄に入り、重い罪は北獄に入った。恩赦があれば南獄は赦免されるが、北獄は赦されなかった。北獄にいる者は、男女が夫婦となり、男の子は八歳で奴隷、女の子は九歳で婢となった。罪を犯した本人は、死ぬまで出獄することはなかった。
貴人に罪があった場合、国は大いに集会を開き、罪人を穴の中に座らせ、その対面で宴会を開き、別れの儀式は死別のように行われた。灰でその周りを囲み、一層囲めばその者自身が追放され、二層囲めば子孫にまで及び、三層囲めば七世にまで及んだ。
国王を乙祁(おつこ)と呼んだ。貴人の第一位を大対盧、第二位を小対盧、第三位を納咄沙(なっとさ)と呼んだ。国王が行くときには、鼓や角が伴い、従者がいた。その衣服の色は年によって改められ、甲乙の年は青、丙丁の年は赤、戊己の年は黄、庚辛の年は白、壬癸の年は黒であった。
牛の角が非常に長く、その角で物を運び、二十斛(こく)もの重さを積むことができた。車には馬車、牛車、鹿車があった。国人は中国が牛を飼うように鹿を飼い、その乳でチーズを作った。桑梨(そうり)があり、一年経っても腐らなかった。ブドウが多かった。その土地には鉄がなく、銅はあったが、金や銀は貴重ではなかった。市場に税金や評価はなかった。
その結婚は、婿が娘の家の門の外に小屋を建て、朝晩に掃き清めること一年が経ち、娘が喜ばなければ追い払われ、喜べば結婚が成立した。婚礼の儀式は、大体中国と同じであった。親の喪では七日間食事をせず、祖父母の喪では五日間食事をせず、兄弟、伯父、叔父、叔母、姉妹の喪では三日間食事をしなかった。霊を祀って神像を置き、朝晩拝礼したが、喪服はつけなかった。跡継ぎの王が即位すると、三年間は国政を顧みなかった。
その風習はもともと仏法がなかったが、宋の大明2年(458年)、罽賓国(けいひんこく)から五人の比丘(びく)(僧)が遊行してその国にたどり着き、仏法や経典、仏像を広め、出家を教え導いたところ、風俗はついに改まった。」
慧深はまた言った。「扶桑の東千里余りには女国があり、容貌は端正で肌の色は非常に白く、体には毛があり、髪は地につくほど長かった。二、三月になると、競って水に入ると妊娠し、六、七月に子を産んだ。女人の胸には乳がなく、首の後ろに毛が生えており、その根元は白く、毛の中に汁があり、それで子を養った。百日で歩けるようになり、三、四年で成人した。人を見ると驚いて避け、特に男を恐れた。禽獣のように鹹草(かんそう)を食べた。鹹草の葉は邪蒿(じゃこう)に似ており、香りは塩辛かった。」
天監6年(507年)、晋安(しんあん)の人が海を渡り、風に流されてある島にたどり着いた。岸に上がると、人が住んでいた。女は中国と同じだが、言葉が通じなかった。男は人の体だが犬の頭で、その声は吠えるようであった。その食べ物には小豆があり、衣服は布のようであった。土を築いて壁とし、その形は丸く、その戸は穴のようであったという。
⑦『隋書』卷八十一/列傳第四十六 改訂版
『隋書』卷八十一/列傳第四十六
参考:隋書卷八十一/列傳第四十六
https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/086_zuisho.html
記述なし
⑧『南史』、『北史』 改訂版
『南史』
参考:
南史卷七十九/列傳第六十九
https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/091_nanshi.html
梁の天監元年(502年)、大号の征東将軍に進められた。間もなく高句麗に破られ、何年も衰弱し、南韓の地に遷居した。普通二年(521年)、王の餘隆(よりゅう)が初めて使者を送って表文を奉り、累代にわたり高句麗を破って今初めて友好関係を築いたので、百済は再び強国になったと称した。その年、梁の武帝は餘隆を使持節都督百済諸軍事寧東大将軍百済王に任命した。五年(524年)、餘隆が死ぬと、詔によりその子の明(めい)を再び持節督百済諸軍事綏東将軍百済王に任命した。
都城を固麻(こま)と号し、邑を檐魯(えんろ)と称した。これは中国の郡県に当たる言葉である。その国土には二十二の檐魯があり、すべて子弟や王族を分けてこれに拠らせた。その人々は背が高く、衣服は清潔であった。その国は倭に近く、体に刺青を施す者も少なからずいた。言語や服装は高句麗とほぼ同じであり、帽子を冠(かん)、上着を複衫(ふくさん)、ズボンを褌(こん)と呼んだ。その言葉には諸夏(中国)の言葉が交じっており、秦や韓の遺風であったという。
倭国
倭国、その先祖の由来や所在地については、『北史』に詳しく記されている。その官には伊支馬(いきま)、次いで弥馬獲支(みまかくし)、次いで奴往鞮(なわてい)があった。人々は稲、紵麻(ちょま)を植え、蚕を飼い、織物をしていた。生姜、桂皮、橘、山椒、蘇(そ)を産出した。黒い雉、真珠、青玉を産出した。牛のような獣がおり、これを山鼠(さんそ)と名付けた。また大きな蛇がこの獣を飲み込んだ。蛇の皮は堅くて切ることができなかったが、その上に穴があり、開いたり閉じたりして、時々光を放ち、それに当たれば蛇は死んだ。物産はほぼ儋耳(たんじ)や朱崖(しゅがい)と同じであった。
土地の気候は温暖で、風俗は淫らではなかった。男女は皆体を露出し、富貴な者は錦や様々な色の絹で帽子を作り、中国の胡公頭に似ていた。飲食物には籩豆(へんとう)(高坏)を用いた。死者には棺はあったが、椁はなかった。土を盛って塚とした。人々は皆酒を好み、正月の数え方を知らなかった。長寿の者が多く、八、九十歳、あるいは百歳に達する者もいた。その風俗では女が多く男が少なかったため、貴人は四、五人の妻を持ち、賤しい者でも二、三人の妻を持っていた。婦人は淫らな嫉妬の心がなく、盗難も少なく、争いも少なかった。もし法律を犯せば、軽い罪は妻子を没収され、重い罪は宗族を滅ぼされた。
晋の安帝の時、倭王の讚(さん)が使者を派遣して朝貢した。宋の武帝の永初二年(421年)、詔で「倭の讚は遠方からの誠意をはっきり示すにふさわしい。官職を与えよ」と述べた。文帝の元嘉二年(425年)、讚は再び司馬の曹達(そうたつ)を派遣して表文を奉り、特産物を献上した。讚が死ぬと、弟の珍(ちん)が即位した。使者を送って朝貢し、自ら使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称し、正式な任命を求める表文を送った。詔により安東将軍倭国王に任命された。珍はまた、倭洧(わい)ら十三人を平西、征虜、冠軍、輔国将軍などの号に任命するよう求めた(校勘:倭洧は『宋書』では倭隋とある)。詔によりすべて許可された。二十年(443年)、倭国王の済(せい)が使者を送って特産物を献上し、再び安東将軍倭国王とされた。二十八年(451年)、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事を加えられ、安東将軍は元のままであった。また、彼が上奏した二十三人の職務も除授された。
済が死ぬと、世子の興(こう)が使者を送って朝貢した。孝武帝の大明六年(462年)、詔により興に安東将軍倭国王を授けた。興が死ぬと、弟の武(ぶ)が即位した。自ら使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称した。順帝の昇明二年(478年)、使者を送って上表文を奉り、「昔から私の祖父や父は、自ら甲冑を身につけ、山川を跋渉し、安寧を得る暇がありませんでした。東に毛人五十五国を征し、西に多くの夷人六十六国を服属させ、海北の九十五国を平定しました。王道は広がり、領土は遠くまで広がり、代々朝貢を欠かすことはありませんでした。百済を経由する際には、船を飾りつけますが、高句麗が無道にも私を呑み込もうと企みました。私の亡き父済は、まさに大挙して戦おうとした時、父や兄を相次いで亡くし、完成間近の功績が一朝にして成し遂げられませんでした。今、兵を訓練して父兄の志を継ごうと欲し、ひそかに開府儀同三司を自称し、その他の者にもそれぞれ官職を仮授して忠節を励ましています」と述べた。詔により武を使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事(校勘:加羅は『南斉書』から補う)、安東大将軍、倭王に任命した。斉の建元年間(479年~482年)には、武を持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事鎮東大将軍に任命した。梁の武帝が即位すると、武は大号の征東大将軍に進められた。
その南には侏儒国(しゅじゅこく)があり、人は身長四尺であった。また南には黒歯国(こくしこく)、裸国(らこく)があり、倭から四千里余り離れており、船で約一年かかって到着した。また西南万里には海人(かいじん)がおり、体は黒く目は白く、裸で醜かったが、その肉は美味であったため、旅人は時々射殺して食べた。
文身国(もんしんこく)は倭の東北七千里余りにあり、人々の体には獣のような文様があった。その額に三つの文様があり、文様がまっすぐな者は貴く、文様が小さい者は賤しかった。土地の風俗は楽しく、物が豊かで安く、旅人は食糧を持っていかなくてもよかった。家屋はあったが、城郭はなかった。国王の居所は金銀や珍しいもので飾られ、家の周りに幅一丈の堀があり、水銀が満たされており、雨が降ると水銀の上を流れた。市場では珍宝が用いられた。軽い罪を犯した者は鞭打ち、死罪を犯した者は猛獣のいる場所に置かれ、食わせられた。もし無実であれば、獣は避けて食べず、一晩経てば赦された。
『北史』
参考:
北史卷九十四/列傳第八十二
https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/101_hokushi.html
記述なし。
倭国を記述した中国史書(『漢書』から『新唐書』まで十巻) 🌸モンテ✿クリスト🌸 @Sri_Lanka
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