マンホール
蒼一朗
マンホール
路地裏を歩くたび、私は必ずあの鉄の円蓋を踏んでしまう。
踏むたび、足裏に微かな振動が伝わる。何かが下で蠢いているような、乾いた呻きのような音が、靴底から這い上がってくる。
幼い頃からこの町に住んでいるが、あのマンホールの下に何があるのか、私は知らない。
工事の人が開けているところも見たことがない。
蓋はいつも濡れている。雨が降っていなくても、夜になると必ず濡れている。
その水は、ぬるりとした粘り気があった。
幼いころ、母に手を引かれて歩いた帰り道。
母は、決まってあの蓋を避けて歩いた。
理由を尋ねても、「濡れているから滑るのよ」と笑っただけだった。
けれど、母の目は笑っていなかった。
ある晩、私はふと立ち止まった。
蓋の上に、見覚えのない小さな靴跡がいくつも重なっている。
まるで、誰かが何度もそこを往復したように。
私は思い出す。
幼いころの自分が、母の手を振りほどいて、蓋の上で跳ね回った日のことを。
その日の夜、私は夢を見た。
暗闇の中、何度も同じ路地を歩いている。
必ず、あのマンホールの上を歩いてしまう。
足元のマンホールが、少しずつ膨らんでいく。
蓋の隙間から、黒い指のようなものが這い出してくる。
私は声を上げようとするが、喉が凍りついて動かない。
その指が、私の足首に絡みつく。
冷たい。
目が覚めると、足首に何かにつかまれたような跡が残っていた。
それ以来、あの路地を避けるようになった。
だが、どうしても避けられない夜がある。
仕事帰り、終電を逃し、人気のない路地を歩く。
あのマンホールの前で、足が止まる。
蓋の上に、誰かの足跡が濡れて光っている。
私のものではない。
誰のものだろう。
耳を澄ますと、地下から微かな声が聞こえる。
「おいで」
誰かが呼んでいる。
いや、違う。
誰か、ではない。
何か、だ。
呼吸が苦しくなる。
心臓が、内側から爪で引っ掻かれるように痛む。
私は立ち尽くす。
逃げ出したいのに、足が動かない。
マンホールの蓋が、ゆっくりと回転し始める。
鉄の擦れる音が、骨の奥まで染み込んでくる。
蓋が、少しだけ開いた。
闇の底から、じっと私を見つめる何かの目。
その目に、私は見覚えがあった。
鏡で見たことのある、自分の目だ。
私は、私自身に呼ばれているのだ。
蓋の隙間から、黒い指のようなものが這い出してくる。
足首に、ぬくもりと冷たさを感じた。
それは、生きているものの熱と冷気だった。
その瞬間、私は目を覚ました。
私は、病院のベッドにいた。
どうやら、私はマンホールの上で倒れていたらしい。
その後、私は仕事を変え、あの街から引っ越した。
あのマンホールがいまどうなっているか。
私には分からない。
マンホール 蒼一朗 @soichiro_novel
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