静寂のフォルテッシモ
☆ほしい
第1話
しん、と静まり返っている、というのは正確な表現ではない。
放課後の図書室は、いつだって微かな音で満ちている。誰かがそっとページをめくる乾いた音。規則正しく空気を吐き出すエアコンの低い唸り。遠くの廊下から微かに漏れ聞こえる、賑やかな声の残響。
それらの音は、すべて俺、月島瑞希(つきしまみずき)の世界では、くぐもった水彩絵の具のように滲んで混ざり合い、やがて輪郭を失っていく。
「――しまくん、月島くん」
不意に肩を叩かれ、びくりと体が跳ねた。慌てて振り返ると、同じ図書委員の女子が困ったように笑っている。
「ごめん、呼んだんだけど聞こえなかったみたいで。この返却本、棚に戻しておいてもらえる?」
「あ……うん、ごめん。わかった」
差し出された数冊の本を受け取りながら、心臓が小さく軋むのを感じる。まただ。また、誰かの声を聴き逃した。補聴器はつけている。けれど、最近はこの小さな機械も、俺の世界からこぼれ落ちていく音をすべて拾ってはくれない。
彼女に悪気がないのはわかっている。それでも、背後から声をかけられるのが少しだけ怖い。気づけなかった自分を突きつけられるようで、胸の奥が冷たくなる。
だから、俺はこの図書室が好きだった。
ここでは、誰もが大声で話したりしない。静寂がルールであり、美徳とされる場所。俺が少しばかり音に疎くても、誰にも気づかれないし、咎められることもない。本の背表紙を指でなぞり、決められた分類番号の棚へと収めていく作業は、心を無にできる貴重な時間だ。
世界から音が消えていく。そのどうしようもない事実を、この場所だけは優しく覆い隠してくれる気がした。
最後の本を棚に収めた時、ふと窓の外に視線をやった。夕陽が校庭を茜色に染め上げ、運動部員たちの影を長く引き伸ばしている。活気のある掛け声やボールが弾む音も、今の俺には厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように、ぼんやりとしか届かない。
その中に、ひときわ目を引く影があった。
藤堂海斗(とうどうかいと)。
この碧陽学園の生徒会長であり、誰もが認める『完璧』な存在。長い手足に、整いすぎたと言ってもいいほどの顔立ち。成績は常にトップで、運動神経も抜群。誰に対しても物腰は柔らかく、その完璧な笑顔ひとつで、どんな面倒事も丸く収めてしまう。
今日も彼は、数人の女子生徒に囲まれていた。その会話の内容まではわからないが、時折聞こえる楽しそうな笑い声が、彼がどれだけ人気者であるかを物語っている。
住む世界が違う。
まさに、その言葉がしっくりきた。彼は光が降り注ぐ世界の中心で、俺は静寂が支配する世界の片隅。交わることなど、未来永劫ありえない。そんな当たり前のことを、夕陽に照らされた彼の完璧な横顔を見ながら、ぼんやりと考えていた。
閉館時刻を知らせるチャイムが鳴る。その音さえ、俺の耳にはどこか遠く、頼りない。最後の利用者が退出し、俺は一人、カウンターで日誌を書き始めた。
すべての業務を終え、図書室の鍵を閉めた頃には、校舎はすっかり静けさに包まれていた。運動部も練習を終えたのだろう。あれほど賑やかだった校庭も、今はただ沈黙している。
本当の静寂だ。俺が求めていた、何も聞こえない世界。
なのに、どうしてだろう。心臓のあたりが、がらんどうになったように心許ない。
自分の足音だけがやけに大きく響く廊下を、昇降口に向かって歩く。その時だった。
――トクン。
微かな、しかし確かな振動が、革靴の底から足の裏へと伝わってきた。
なんだ?
一瞬、立ち止まる。地震かと思ったが、視界は揺れていない。
まただ。トクン、トクン、と。まるで巨大な心臓の鼓動のような、低く、規則的な振動。それは音ではない。耳で聴いているのではない。俺の体そのものが、直接感じ取っている。
好奇心、と呼ぶにはあまりにもささやかな感情に突き動かされ、俺は足音を忍ばせて振動の源を探し始めた。
昇降口とは逆方向。普段はほとんど使われていない、旧校舎へと続く渡り廊下。振動は、進むにつれて徐々に強くなっていく。床が、壁が、そして窓ガラスまでもが、かすかに震えているのがわかった。
それは、恐怖よりもむしろ、不思議な高揚感を俺に与えた。
音が支配する世界から取り残された俺に、音がなくても感じられる『何か』が、すぐそこにある。
たどり着いたのは、第三音楽室の分厚い扉の前だった。
もう何年も使われていないはずの部屋。扉には「使用禁止」の札まで下がっている。しかし、振動は間違いなくこの中から響いてきていた。
俺はごくりと唾を飲み込み、埃っぽい扉の小窓にそっと目を近づけた。
息を、呑んだ。
そこにいたのは、藤堂海斗だった。
夕陽の最後の光が差し込む薄暗い部屋の中、彼はグランドピアノの前に座っていた。
いつも完璧に整えられている制服のネクタイは緩められ、シャツの第一ボタンが外されている。額には汗が滲み、普段は理知的な光を宿している瞳は、見たこともないような激情に燃えていた。
そして、彼の指が鍵盤の上を嵐のように舞っていた。
それは、俺が知っている藤堂海斗ではなかった。生徒たちの憧れの的である、あの完璧な生徒会長ではなかった。
彼の肩は大きく揺れ、時折、苦しげに顔を歪める。鍵盤を叩きつける指の動きは、まるで何かに抗うような、あるいは何かを必死に訴えかけるような、悲痛なほどの激しさだった。
音は、聴こえない。
どんなメロディが奏でられているのか、俺にはわからない。
けれど、わかった。
これは、彼の魂の叫びだ。
完璧という仮面の下に押し殺した、本当の感情の奔流だ。
俺は無意識のうちに、冷たい扉に手のひらを押し当てていた。指先に、ビリビリと鮮烈な振動が伝わってくる。低い音の重厚な響き、高い音の鋭い震え。それは悲しみであり、怒りであり、そしてどうしようもないほどの孤独の色をしていた。
音楽は、耳で聴くものだと思っていた。
でも、違った。
音楽は、心で、体で、魂で感じるものだったんだ。
俺は生まれて初めて、音楽を「感じて」いた。失われた聴覚の代わりに、全身の細胞が彼の奏でる激情のフォルテッシモに共鳴していた。
どれくらいの時間が経っただろう。
夢中でその光景に見入っていた俺は、不意にその振動が、音楽が、ぷつりと途絶えたことに気づいた。
鍵盤の上に投げ出されるように置かれた指。大きく上下する肩。荒い呼吸だけが、部屋の沈黙をかき乱している。
やがて、うなだれていた藤堂の頭が、ゆっくりと持ち上がった。
汗で濡れた前髪の隙間から現れた瞳が、まっすぐに、小窓の向こうの俺を捉えた。
その瞳には、いつもの完璧な笑顔の欠片もなかった。あったのは、秘密の楽園を侵された者の、剥き出しの驚愕と、絶望的なほどに脆い、戸惑いの色。
時が、止まった。
彼の世界と俺の世界が、音のない静寂の中で、確かに交わってしまった瞬間だった。
静寂のフォルテッシモ ☆ほしい @patvessel
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