苔の神

二ノ前はじめ@ninomaehajime

苔の神

 墨入れが施された金剛杖の先が止まる。旅の路傍ろぼうにその光景があった。

わらべ、何をしておる」

 菅笠を被った墨染すみぞめの僧は親指で顔を覗かせ、地面に胡坐あぐらをかいた少年に話しかけた。その目と鼻の先には、苔むした輪郭が直立しており、どことなく人の形を思わせた。傍らには水を汲んだ木桶があって、濡らした布切れを当てている。少し離れると森があり、草木が生い茂っている。

「お地蔵さまを綺麗にしてんだ」

 旅の僧を見上げ、歯の欠けた笑顔を向けた。少年は若草色の着物を着ており、ぎが目立つ。擦り剥いた膝小僧を露わにし、手先が苔色に染まっていた。地面には緑がかった残骸が散らばっている。

 笠の下で薄い眼差しを黄緑色の物体に移す。おそらくは道祖神だろうか。座りこんだ少年と同じ程度の背丈で、深い苔に覆われている。言われなければ、少し変わった形の岩だと思ったかもしれない。

 彼は思案げに無精ぶしょうひげを生やした顎を撫でる。

「そうか、感心なことだな。ところで童よ、この先に村はあるか」

「あるぞ。おいらが住んでいる村だ」

 手を休めず、少年は言った。僧は尋ねた。

「泊まれる宿はあるか」

「小さな村だから宿はねえ。おいらの家に来るといい。爺さまに話をしてくるからよ」

 僧が何か言ういとまを与えず、少年は立ち上がって木桶の持ち手を握った。水をこぼしながら、若草色の背中が駆けていく。金剛杖を握った旅の僧と、苔にまみれた物体だけが残された。

 森の木々が風にそよぐ。

「何とまあ、底抜けに人の良いことだ」

 菅笠の陰で苔のかたまりを見下ろす。

「だから、御身おんみをされるがままにしているのか」

 苔の顔が片目を開いた。その眠たげなみどりの瞳に僧形そうぎょうを映した。



「あのお地蔵さまは、少し目にしないうちに分厚い苔に覆われてたんだ。だから、おいらが綺麗にしてやろうと思ったんだよ」

 そこは村というより、数十戸ほどの小さな集落だった。藁葺わらぶきの家々が建ち並び、主に畑を耕して暮らしているのだろう。住人が収穫した野菜をざるで運んでいる。山野さんやが近く、山菜採りや猟師が鳥獣ちょうじゅうを狩って生計たつきを立てているのかもしれない。

 故郷を思い、懐かしさに目を細めた。

「あの苔はそう簡単には剥がれまいよ。どうして身をきよめようと?」

 旅の僧が集落に到着し、好奇の目がそそがれた。路傍で出会った少年がすぐに駆けつけ、自分の家へと案内した。裏手には刈ったすげが縄で束ねられて干されており、渋柿の独特な匂いがした。戸口をくぐると、小柄な老人が笠を編んでいた。竹で組んだ笠骨に、スゲサシという道具で細かくした菅を巻きつけている。しわが刻まれた手が巧みに笠の表面を編んでいくさまは、まさに職人の仕事だった。

 囲炉いろがある板敷きの間には、みの草履ぞうりとともに完成した笠がつらなっていた。腰の低い態度で歓迎した老人は好々こうこうの笑みを浮かべ、言った。

「お坊さまの笠も随分といたんでいるご様子で。新しい物に変えられてはいかがですかな」

 その言葉に、僧は苦笑いをした。

「なら、一蓋ひとがいもらおうか」

 宿賃代わりに銭を渡した。おそらくは少年が旅の者を連れてきては、こうして笠を売っているのだろう。存外、したたかな者たちだと認識を改めた。

 自在鉤に吊るされた鍋の中で、きのこや野菜が煮えていた。お椀によそわれた汁物を頂きながら、あの苔に覆われたものについて少年と問答を交わした。

「だって、可哀想じゃないか。苔の中で息苦しそうだ。あれじゃあお天道さまだって拝めない」

 彼は屈託なく言った。音を立てて汁物をすする少年を、しわがれた手がいさめた。

「家の仕事をやれというに、暇を見つけてはあのお地蔵さまの元へ行きよるんです。叱るとともかかもおらんで、困ったもんですわ」

 僧は尋ねた。

「この子の親は……」

 少年は歯を見せて笑った。

「死んだ。おいらが餓鬼がきの頃だ。今は爺さまが親代わりだ」

「お前は今も餓鬼じゃ」

 笠職人の老人がその頭を叩く。少年は軽くむせた。

「母親はこの子が生まれたときに、父親は病にかかりましてな。年老いた親と子をのこして逝きよりました。全く、神も仏もありませんで」

 皺に埋もれた目を細めて、しみじみと語る。目の前の相手のことを思い出し、頭を下げた。

「こりゃすみませぬ。お坊さまの前で、ばちが当たりますな」

「構わぬよ。神仏しんぶつとはそういうものゆえ」

 鷹揚おうように答え、少年に目を向けた。

「童よ、あれは依代よりしろだ。この世の道理は、必ずしも人の理屈とはそぐわぬ。お前のやっていることはとうとい行いだが、報われるとは限らぬぞ」

 説法せっぽうじみた言葉だった。目をしばたたかせる少年に、僧は言った。

「お前が思うほど、神仏は脆くはない」



 一宿一飯の礼を述べて、僧はまた旅立った。墨染の僧形を見送り、自分たちの日常に戻った。売り物の笠をたずさえて遠く離れた町へ行き、その帰りで雨に降られた。草履で泥を弾きながら急いでいた少年は、雨晒しになった苔の地蔵に目を取られた。足を止め、売れ残った笠を被せた。老人は呆れた顔をしながら、何も言わなかった。

 家路を急ぐ少年の背中を、笠の下で翠の瞳が見送った。

 日を改めて、また地蔵の元へ行った。木桶に川の水を汲んで、古着の端切はぎれで黄緑色の表面を擦る。苔が剥がれて断面を覗かせた。

「今日こそ綺麗にしてやっからな」

 不思議なことに、いくら苔を落としても次の日には元に戻っていた。首を傾げながらも、元来物事を深く考える性質たちではない。懲りずに身を清めようと試みた。

 その熱心な様子を、苔にうずもれた瞳が静かに眺めていた。

 いくらこそぎ落としても効果がないため、流石さすがに少年は頭を働かせた。らちが明かないため、別の方法を試すことにした。祖父の笠作りの道具からサシビラを持ち出した。竹を割って板状にしたもので、笠骨に菅を編み上げていく際に用いる。この道具の先端を使って苔を削ぎ落としていくことにした。

 表面の分厚い苔にサシビラを差し入れた。そのまま剥がしていく。今までより手応えを感じた。指先を苔色にまみれさせながら、少年は逆手さかてに握った道具を一心に動かした。

 ちょうど地蔵の顔面あたりに先端を滑らせたときだった。被せたままの笠の下で苔が裂け、その隙間が広がった。奥から翠の色をした瞳が自分を見ていることに気づいて、少年は仰天ぎょうてんした。道具を手放し、後ずさる。木桶にぶつかり、川の水が着物の尻を濡らした。眼前で苔の輪郭がざわめき、人の片腕をかたどった。

 緑色の腕が静かに持ち上がる。少年はとっさに頭を抱えた。きっと自分は知らぬうちに無礼を働き、神仏の怒りに触れたのだ。天罰がくだされる瞬間を、固く目を閉じて待った。

 頭の上から何かが被せられる感覚があった。恐る恐る目を開けると、自分の頭に大きさが合わない笠が乗っていた。目をしばたたかせて、そのふちを両手で掴む。真正面に視線を向ければ、穏やかな翠の瞳が自分の顔を映していた。

 次の瞬間には、地蔵を覆っていた苔が一斉に落ちた。地面の上に落ち、確かな意思を持って向こうの森へと這いずっていく。ほとんど顔の凹凸おうとつが削がれた、古ぼけた地蔵が合掌していた。少年が呆然としていると、笠の上に水滴が落ちた。空を見上げると、いつの間にか曇って雨が降り出していた。

 その日の夜は寝つけなかった。布団の中に入り、天井のはりを見上げていた。祖父の寝息を聞きながら考える。自分がやったことは、仏さまにとって迷惑だっただろうか。善行が報われるとは限らない。僧の言葉の意味を知った気がした。

 風が強いのだろうか。草木が騒めいていた。眠れずにいた少年は布団を抜け出し、戸を開けて外に出た。雲夜くもよに裂け目が生まれ、月が顔を覗かせた。その月光が、巨大な輪郭を照らし出した。

 あの地蔵があった森だろうか。樹冠じゅかんを震わせながら、丸みを帯びた輪郭の巨人が音もなく立ち上がっていた。その足で大地を踏み締めても、地響きなどはしない。ただこちらを振り向き、見覚えのある翠の瞳が遠くに佇む少年を見下ろした。

 お前が思うほど、神仏は脆くはない。僧の言葉を思い出し、何だか彼は嬉しくなった。欠けた歯を見せ、大きく両手を振った。苔の巨人は目を細めて、また歩き出した。

 その大きな背中を、少年はいつまでも見送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

苔の神 二ノ前はじめ@ninomaehajime @ninomaehajime

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ