苔の神
二ノ前はじめ@ninomaehajime
苔の神
墨入れが施された金剛杖の先が止まる。旅の
「
菅笠を被った
「お地蔵さまを綺麗にしてんだ」
旅の僧を見上げ、歯の欠けた笑顔を向けた。少年は若草色の着物を着ており、
笠の下で薄い眼差しを黄緑色の物体に移す。おそらくは道祖神だろうか。座りこんだ少年と同じ程度の背丈で、深い苔に覆われている。言われなければ、少し変わった形の岩だと思ったかもしれない。
彼は思案げに
「そうか、感心なことだな。ところで童よ、この先に村はあるか」
「あるぞ。おいらが住んでいる村だ」
手を休めず、少年は言った。僧は尋ねた。
「泊まれる宿はあるか」
「小さな村だから宿はねえ。おいらの家に来るといい。爺さまに話をしてくるからよ」
僧が何か言う
森の木々が風にそよぐ。
「何とまあ、底抜けに人の良いことだ」
菅笠の陰で苔の
「だから、
苔の顔が片目を開いた。その眠たげな
「あのお地蔵さまは、少し目にしないうちに分厚い苔に覆われてたんだ。だから、おいらが綺麗にしてやろうと思ったんだよ」
そこは村というより、数十戸ほどの小さな集落だった。
故郷を思い、懐かしさに目を細めた。
「あの苔はそう簡単には剥がれまいよ。どうして身を
旅の僧が集落に到着し、好奇の目が
「お坊さまの笠も随分と
その言葉に、僧は苦笑いをした。
「なら、
宿賃代わりに銭を渡した。おそらくは少年が旅の者を連れてきては、こうして笠を売っているのだろう。存外、
自在鉤に吊るされた鍋の中で、
「だって、可哀想じゃないか。苔の中で息苦しそうだ。あれじゃあお天道さまだって拝めない」
彼は屈託なく言った。音を立てて汁物を
「家の仕事をやれというに、暇を見つけてはあのお地蔵さまの元へ行きよるんです。叱るとともかかもおらんで、困ったもんですわ」
僧は尋ねた。
「この子の親は……」
少年は歯を見せて笑った。
「死んだ。おいらが
「お前は今も餓鬼じゃ」
笠職人の老人がその頭を叩く。少年は軽くむせた。
「母親はこの子が生まれたときに、父親は病に
皺に埋もれた目を細めて、しみじみと語る。目の前の相手のことを思い出し、頭を下げた。
「こりゃすみませぬ。お坊さまの前で、
「構わぬよ。
「童よ、あれは
「お前が思うほど、神仏は脆くはない」
一宿一飯の礼を述べて、僧はまた旅立った。墨染の僧形を見送り、自分たちの日常に戻った。売り物の笠を
家路を急ぐ少年の背中を、笠の下で翠の瞳が見送った。
日を改めて、また地蔵の元へ行った。木桶に川の水を汲んで、古着の
「今日こそ綺麗にしてやっからな」
不思議なことに、いくら苔を落としても次の日には元に戻っていた。首を傾げながらも、元来物事を深く考える
その熱心な様子を、苔に
いくらこそぎ落としても効果がないため、
表面の分厚い苔にサシビラを差し入れた。そのまま剥がしていく。今までより手応えを感じた。指先を苔色にまみれさせながら、少年は
ちょうど地蔵の顔面あたりに先端を滑らせたときだった。被せたままの笠の下で苔が裂け、その隙間が広がった。奥から翠の色をした瞳が自分を見ていることに気づいて、少年は
緑色の腕が静かに持ち上がる。少年はとっさに頭を抱えた。きっと自分は知らぬうちに無礼を働き、神仏の怒りに触れたのだ。天罰が
頭の上から何かが被せられる感覚があった。恐る恐る目を開けると、自分の頭に大きさが合わない笠が乗っていた。目をしばたたかせて、その
次の瞬間には、地蔵を覆っていた苔が一斉に落ちた。地面の上に落ち、確かな意思を持って向こうの森へと這いずっていく。
その日の夜は寝つけなかった。布団の中に入り、天井の
風が強いのだろうか。草木が騒めいていた。眠れずにいた少年は布団を抜け出し、戸を開けて外に出た。
あの地蔵があった森だろうか。
お前が思うほど、神仏は脆くはない。僧の言葉を思い出し、何だか彼は嬉しくなった。欠けた歯を見せ、大きく両手を振った。苔の巨人は目を細めて、また歩き出した。
その大きな背中を、少年はいつまでも見送った。
苔の神 二ノ前はじめ@ninomaehajime @ninomaehajime
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