第16話 エピローグ
きーらーきーらーひーかーるー
おーそーらーのーほーしーよー……
図書館の一室に、のどかな歌声が響いている。
夏の盛りを前に、先走った太陽がじりじりと照りつける中、日差しに照らされた室内には、小さな子供たちが席を並べていた。
子供たちの歌声を導いてるのは、アップライトピアノの軽やかな音色だ。
ステージもない、スポットライトもない、ただピアノが置かれただけの場所で、ひとりの女性がピアノを弾いている。
——白峯あかり。
裁判を終えて執行猶予付きで戻ってきた彼女は、やめたはずのピアノと、また向き合っていた。
——俺は静かに、部屋の隅でその光景を見守っていた。
彼女は微笑んでいた。
無邪気な歌声に囲まれ、自分もまたメロディを口ずさみながら、穏やかな表情で指を踊らせていた。
その表情は、あの冬のホテルで起きた事件の時とは別物だ。
あれから過ぎた日々の数だけ、彼女は少しずつ、自分の罪や傷を繕い合わせてきたのだろう。
——最後の一音が鳴り、曲は途切れる。
白峯は短い余韻に浸ると、ゆっくりと席を立ち、子供たちと向かい合った。
「演奏会はここまでです。聴いてくれてありがとうございました」
優しい声と微笑みが幕を引く。礼をする彼女に、子供たちは「ありがとうございました!」と
感謝を返す。その何気なくもあたたかなやりとりに、俺の頬は自然と緩んでいく。
「しらみねせんせい、さようなら!」
——別れの言葉を残し、子供たちがぞろぞろと部屋を出ていく。
緩やかに手を振り、最後まで見送りを終えた彼女は、部屋に残っていた俺にようやく目を向けた。
「……お久しぶりです、南雲さん」
声をかけられ、俺は会釈する。汗ばんで脱いだスーツのジャケットを肩にかけ、ネクタイを緩ませたラフな姿で、俺は彼女に歩み寄る。
「突然お邪魔してすみません。驚かせましたかね」
「はい……少し。どうしてここにいらっしゃったんですか?」
「いやね、とある捜査の関係でこの前、白峯さんが以前働いていた図書館に行ってきたんですよ。そこで白峯さんが今度ピアノを弾くって聞いたんで、ちょっとばかし顔を出してみようかと思いまして」
ご迷惑でしたかね?と伺えば、白峯は首を横に振る。
「とんでもないです。むしろお忙しい中、わざわざ来てくれてありがとうございます」
「完全に場違いでしたけどね。おっさんひとりで来てたせいで、子供たちの目は完全に不審者扱いでしたよ」
「……それで離れたところにいらっしゃったんですか?」
「さすがに子供の輪には混ざれませんからね」
肩をすくめると、白峯がくすりと笑い声をこぼした。その明るさに、俺は小さな安堵を覚える。
「でも、良い演奏でしたよ。俺としては小難しい曲ばっかりだったホテルのコンサートよりも、今日のきらきら星の方がずっとわかりやすかった」
「ありがとうございます。……たしかにあの時の選曲は、少し背伸びしてたかもしれないです。南雲さんもきらきら星、小さい頃に習いましたか?」
「やりましたよ。俺の小学生時代にも音楽の教科書に載ってましたからね。世代を超えて、みんな一度は触れてるでしょう」
「やっぱりそうですよね。きらきら星はどんな人にもわかってもらえるから……それだけで、聴いてくれた人と繋がれる気がします。本当に良い曲ですよね」
柔らかに微笑み、実感を込めて言葉を紡ぐ。
だがその直後——ふと、その表情が静まった。
「南雲さん……あの、事件のこと、本当にありがとうございました」
ためらいがちに切り出しながらも、揺るがぬ瞳で俺を見つめ。
白峯は、深々と頭を下げる。
「弁護士さんが教えてくださいました。開示された資料に、私側の事情がしっかりと書かれてあったって……それって、南雲さんたちが書いてくださったんですよね?」
「あー……送致書のことでしたら、書いたのは夏目ですよ。俺はポンって判子押すだけの気楽な立場なんで」
「そうなんですか?でも、夏目さんが書いたものを、南雲さんが認めてくださったのは間違いないんですよね」
「それはまぁ……そうなりますね」
夏目とは違うまっすぐさに照れくさくなって、俺はポリポリと頭を掻いた。
ウチの班のヤツらなら、即ダメ出ししてくるのにな。若い女性相手ってのはどうにもやりづらい。返す言葉に困る。
俺は決まりの悪さから、逃げるようにピアノへと視線を移した。
コンサートで弾いていた立派なグランドピアノとは違い、図書室のアップライトピアノは控えめで、なんだかこぢんまりとしている。
だがその質素な佇まいこそ、白峯にはよく似合っている。
……そう思うのは、今ここで額に汗を滲ませ、日差しに照らされた彼女が、コンサートの舞台に立っていた姿よりも力強く見えるからかもしれない。
「裁判の後、執行猶予付きで戻ってきて、何か生活は変わりましたか?」
「……はい。勤めていた図書館は自主退職して、今は近所のドラッグストアでバイトをしています」
「そうですか。てっきりピアノで食べてるのかと思ってたんですけど、そうじゃないんですね」
「今日のはただのボランティアです。図書館の館長にはお世話になったので、お願いされたら断れなくて。……でも少し、悩みもしました」
声を顰め、迷いを滲ませて。
未だ片付かない彼女の胸の内が、そっと開かれる。
「……私は、ピアノを弾いていて……いいのかなって」
——やめるはずだったピアノ。
石黒を殺める遠因となった“それ”を、今もその手で弾いていることに、彼女は胸を痛めているのだろう。
救いを求めるように。
途方に暮れた瞳が、俺に答えを乞う。
「私は……許されて、いいんでしょうか」
傷害致死罪。
求刑、懲役3年、執行猶予5年。
情状酌量の余地を認められ、収監されることもなく日常を送っていることに負い目を感じ、彼女はそれを、許しだと捉えているのだろう。
——だが、違う。
それは、大きな間違いだ。
「……たしかに、あなたは収容されずに社会に戻ってきた。それを許しと感じるかもしれない」
俺はそんな彼女に——現実を突きつける。
「でもね、白峯さん。それは許しじゃないんですよ。執行猶予がついたとはいえ、あなたには前科がついている。世間から見たら、あなたは犯罪者の烙印を押されているんです」
断罪に、彼女は唇を噛む。
俺は刑事として無情に、けれど慈悲を潜め、言葉を続ける。
「これからの生活で、もっと苦労することが出てくるかもしれません。偏見や差別に晒されるかもしれない。それをあなたは背負っていかなきゃいけないんです。そしてなにより——」
一瞬、言葉が喉に詰まった。
その飲み込みかけた過酷な事実を——覚悟を持って、突き刺した。
「……あなたが、あなたを許さないでしょう」
それは、白峯に向けた刃だった。
しかし同時に——自分に突きつけた刃でもあった。
縫い合わせたはずの心の傷から、見えない血が流れ、溢れ出るのを感じる。
忘れていたもの。
——忘れようとしていたもの。
その罪を思い出し——俺は、苦さに眉を歪める。
「……俺には、妹がいましてね」
白峯の横を通り過ぎ、俺は、アップライトピアノの前へと腰を下ろす。
そして俺は、閉ざしていた思い出を、罪を背負う同士へと差し出した。
「マジメで優等生で、俺にすぐ口うるさくする妹でね。特別仲良くもなければ、特別悪かったわけでもなく、まぁ普通に兄妹してたんですよ」
いくつも並ぶ白と黒の鍵盤。
そのひとつに人差し指を乗せながらも、俺は音を奏でることに躊躇する。
「でも——妹は……妹と義弟は亡くなりました。幼い子供を残して、俺のせいで死んだんです」
指を沈める。
——ポロン。
後悔を乗せた一音が、鳴る。
「若い頃、警察に入ってからイキってた時代がありましてね。当時の俺は犯罪者を心の底から軽蔑していて、容赦もなく当たり散らしてたんですよ」
——それは遠い昔のこと。
理想と正義を燃やし、刑事という仕事に強い誇りを抱いていた青い時代のことだった。
「……当たり散らしてたってのは、ちょっとマイルドな言い方なんですけどね。若かったせいか独善的で、血気盛んで、どうしようもない愚か者でした。自分のやっていることこそが正義なのだと思い込んで、犯罪者は虐げられて当然とまで思ってました」
白峯は、黙ったまま俺の告白に耳を傾けている。
俺は変わらない調子で、先を続ける。
「そういうやり方だったんで、当然捕まえた人間から恨みをわんさか買ってまして。俺からすれば犯罪を犯す方が悪いと思っていたし、全部逆恨みだと思っていたんですけどね」
そこまで言って——ふと、天井を仰ぐ。
「でも、俺のやり方は間違いだったんですよ」
鮮明に浮かぶ。
——あの、夏の雨の夜の匂いがする。
「……ある時、俺が捕まえた事件の犯人が、出所を終えてシャバに出てきたんです。傷害致死の事件の犯人で、反省も何もない反抗的な態度だったもんで……俺のやり方も、随分と荒くなって。それをずっと根に持っていたんでしょうね。……その犯人は、出所後に、俺にお礼参りをしようと企んだんです。あ、お礼参りってわかりますかね?つまるところ、復讐みたいなものなんですけど」
補足をして、軽く聞かせて。
罪の辿り着く先へと——進んでいく。
「……そいつは、俺を殺そうと思って、実家にあった俺の車に細工をしました。だけどその車に乗ったのは妹と義弟で……結果、事故に遭って、ふたりとも亡くなりました」
息を飲む音がする。
俺は彼女の顔を見ることはせず、静かに目を閉じた。
——土砂降りの雨。
車の少ない夜の国道。
——グシャグシャになった車体。
消せない痣のような記憶が、鮮明な痛みをもたらす。
俺の胸を、爪立てて、握りしめる。
「……犯人は捕まりました。だけど、俺がもし犯人の恨みを買うような真似をしていなければ、妹と義弟は死ぬことはなかった。だから俺は……ふたりが死んだのは、俺のせいだと思ってます」
それは、初めて口にした懺悔だった。
誰にも打ち明けて来なかった胸の内を、今——俺は、同じく罪を抱える者の前で曝け出している。
「……俺は、罪に問われない。裁かれもしない」
だからこそ——それが、苦しい。
「だけど俺は、俺を一生責め続けるでしょう。それはきっと、なにより重い十字架です。終わりのない自責に、俺もあなたも、この先ずっと苦しめられていく」
ただひとり残された、まだ幼い姪。
突然子供を失った俺の両親と、義弟の両親。
その事故ひとつで、たくさんのことが変わった。そのすべては、決して幸せな変化じゃなかった。
——妹と義弟の死から、もう何年も経った。
長い年月は、俺の罪と傷を紛らわせた。
だけどそれは、ただ紛れただけ。ほんの一時、触れずにいられる時間が生まれただけ。
罪は消えない。
起きたことは無かったことにはならず——純然たる俺の過ちとして、いつも心のどこかで俺を責め続けている。
「……白峯さん」
終わらない苦しみは続く。
だが、そんな先駆者である俺にこそ——言える言葉がある。
「どうか、ピアノを弾いてください。あなたのピアノで誰かが笑顔になり、心が動いたなら……それもまた、あなたの贖罪です。あなたは、あなたの出来ることで、罪を償っていけばいい」
「……南雲さん…………」
涙に震える声が、俺を呼ぶ。
俺はふっと微笑み、前を向く。
「俺も償い続けますよ。刑事を続けながら、事件を解決して。今度は——罪を憎んで、人を憎まずにね」
ポーン、と。
人差し指でもう一度叩いた鍵盤が、高らかに決意を叫ぶ。
行先の表明は力強く、弦を震わせ。
——胸の鼓動と、共振する。
「……南雲さん」
もう一度名前を呼ばれる。
今度は震える声じゃなく、たしかな響きを持った声色だった。
「私は……南雲さんのように、強くはなれないかもしれません。でも……私には今、そばで見てくれている人がいます。許すとも言わず、責めることもなく、ただ……私のそばにいてくれる人が」
それはきっと——白峯が救った、ひとりの男のことだろう。
「私は、彼のおかげで今、ここに立っていられるんです。……きっと、ひとりでは、罪の重さに潰されていました」
——結城晴真。
彼の存在が、今の白峯を支えている。
彼女はもうひとりじゃない。
それもまた、ひとつの救いだ。
俺たちは、人との繋がりに罪を生み出した。
けれどその救いもまた、人との間に生まれる。
俺は、引き寄せられるように彼女へと顔を向けた。
そこに待っていたのは——
日差しに包まれた、優しい、優しい笑みだった。
「……よかったら——ピアノ、弾いてみませんか?」
予想もしていなかったその誘いに、俺は驚いて大きく瞬いた。
だが、彼女は本気だった。
引き下がることはなく、けれど押し付けず、その絶妙な温度感に俺はかえって困ってしまう。
「……俺は、音感ゼロの人間なんですけどね」
そう言いながらも、俺は両手を差し出し、鍵盤に十の指先を置いた。
格好だけの不器用な俺に、彼女は歩み寄る。
「上手く弾けなくたっていいんですよ。ピアノは、音を鳴らすだけで楽しいんですから」
——そして、白峯あかりは、俺の隣に座る。
導かれた指が、鍵盤を叩いた。
……小さな音が鳴った。
赦しあう、たったひとつの音が鳴った。
その音は、俺たち罪人を——罪と罪を繋げ。
命萌える季節へと、たしかな調べを残していった。
スノードームの祈り 天継 理恵 @chrono_trick
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