第12話:一本の向こうにあるもの~わたしたちの柔道は、まだ始まったばかり~

柔道部を取り巻く空気は、依然として重かった。ひなたとましろの間にある溝は深く、冷たい。つばさは、その二人の不仲に心を痛め、ついに部活に顔を出さなくなっていた。柔道場に差し込む午後の光も、どこか寂しげに見える。畳は、静かに、ひなたたちの沈黙を吸い込んでいた。その静寂は、まるで柔道部の未来を暗示しているかのようだった。


ましろの「裏取引」が露見して以来、ひなたはましろの目をまともに見ることができなかった。信じていた親友に裏切られたという「痛点」が、ひなたの胸の奥で、じんじんと痛んでいた。一方で、ましろもまた、ひなたの怒りと、仲間を欺いたことへの罪悪感に苛まれていた。彼女の瞳の奥には、妹が不登校になった際、自分だけが“機能”していたことへの「罪悪感」が、再び影を落としていた。完璧であろうとしすぎた過去の“痛点”が、ましろを縛り付けていた。


そんなある日の練習中、山田先生が、五人の前に静かに立った。いつもの気だるげな表情の中に、微かな、しかし確かな厳しさが宿っている。その視線は、ひなたとましろの間を、静かに往復した。


「…柔道は、“投げる”だけじゃない」


山田先生の声が、柔道場に響き渡った。その声は、重く、しかしどこか、ひなたたちの心に直接語りかけるようだった。ひなたとましろは、互いに視線を合わせることなく、ただ畳に目を落としていた。リナとツムギ、はなも、息を詰めて先生の言葉に耳を傾ける。


「“受ける”のも、大事な技術だ。相手の技を受け止める。そして、そこから立ち上がる。それができなければ、技は成長しないし、何も得られない」


山田先生の言葉は、まるで柔道の真髄を突くかのようだった。その言葉が、ましろの胸に、鉛のように重く、そしてひんやりと突き刺さる。彼女は、ひなたの「裏切り」という怒りを、一方的に「受けて」しまっていた。そして、ひなたの心にも、ましろの言葉を受け止めきれずに、背を向けてしまった自分への、微かな後悔の念が芽生え始めた。ひなたの内部では、山田先生の言葉が、感情の「フィルタリング」を促していた。ましろへの怒りだけでなく、その裏にあったかもしれない「真意」を探ろうとする思考が、わずかに動き始めていた。山田先生の言葉は、二人の間に生まれた「感情の谷」を越えるための、一つの「意味のある光」のように、彼女たちの心に届いた。


山田先生は、それだけ言うと、静かに柔道場を後にした。残された五人は、ただ沈黙の中にいた。その沈黙は、重苦しいようで、それでいて、何か新しいものが生まれる予兆のようでもあった。畳の埃っぽい匂いが、普段より濃く感じられた。


放課後。柔道場には、ひなたとましろの二人だけが残っていた。窓の外は、すでに夕焼けに染まっている。オレンジ色の光が、畳の上を長く伸びていた。柔道着は、二人分だけが、まるで寂しげな塊のように隅に置かれている。


ひなたは、ましろの背中に、意を決して声をかけた。その声は、震えていた。


「ましろ…私たち、ちゃんと一本、決めようよ…」


ましろの背中が、ピクリと震えた。その体が、わずかに強張っているのが見て取れた。ましろの内部では、ひなたの言葉が、彼女の「感情の膨張」を促していた。怯えと、しかし、どこか救われたような安堵が混じり合う。


「…本音で」


ひなたの言葉に、ましろはゆっくりと振り返った。その瞳は、何かを覚悟したように、ひなたを真っ直ぐに見つめていた。その視線が、ひなたの心臓の奥底まで届く。ましろの表情は、どこか諦めているようでもあり、それでいて、微かな期待も滲ませているようだった。ましろの内部では、ひなたの言葉が、感情の「フィルタリング」を促していた。この瞬間、彼女たちの関係は、「沈殿型」のプロセスから、「フィルタリング型」の即時判別・対応へと、変化する兆しを見せていた。これは、感情の谷を越え、意味のある光へ至るための、明確な「助走」だった。


二人は、柔道着に着替えた。ぶかぶかだった柔道着も、少しだけ、体に馴染んできている気がする。帯を締める手つきは、まだぎこちないが、その表情は真剣だった。互いに向かい合い、畳の上に立つ。柔道着が擦れる音が、妙に大きく響く。互いの息遣いが、静かな道場に響く。


「お願いします」


ましろの声が、小さく、しかしはっきりと響いた。その声には、わずかな震えと、覚悟が混じっていた。ひなたも、「お願いします」と、力強く返した。


組み合う。互いの柔道着を掴む指先に、微かな熱が伝わる。柔道着の糊のきいた硬い感触が、汗ばむ肌に張り付く。ひなたは、ましろの柔道着を引く。ましろは、その力を受け止める。言葉はない。しかし、互いの体を通して、これまでの不信感、怒り、そして悲しみが、畳の上でぶつかり合っているのが分かった。まるで、二人の心が、柔道を通して、直接対話しているかのようだった。


ひなたは、教わったばかりの「一本背負い」を狙う。重心を低くし、ましろの懐に入り込む。ましろは、その動きを冷静に見切っているはずだ。だが、今日は、彼女はそれを防ごうとはしない。ましろは、ひなたの力を、すべて受け止めようとしている。その体は、ひなたの技を受け入れる「受身」の準備をしていた。


体が密着する。ましろの汗の匂い、柔道着の匂いが、ひなたの鼻腔をくすぐる。その匂いは、ただの汗の匂いではなく、ましろの努力と、柔道部を守ろうとした「決意」の匂いのようにひなたには感じられた。二人の呼吸が、荒くなる。ひなたの心臓が、ドクン、ドクンと激しく脈打つ。畳野幽が、ひなたの頭の上で、静かに、しかし熱い視線で見守っている。


「…はぁ…っ!」


ひなたは、渾身の力を込めて、体を回した。その動作は、まるでひなたの心の中で膨張しきった感情が、そのまま技となったかのようだった。


ましろの体が、宙に舞う。柔道着がヒラリと舞い、夕焼けに染まった道場の空気を切り裂く。その舞は、まるでましろの心が、ひなたの力によって、重い鎖から解き放たれる瞬間のようだった。


ドスン!


鈍い音が響き、ましろの体が畳に打ちつけられた。


一本。


公式な審判の声はない。しかし、畳の上に仰向けになったましろの目に、そして、そのましろを見下ろすひなたの目に、確かに「一本」という言葉が響き渡った。それは、単なる勝利ではない。ましろとの間にあった、重い壁を打ち破った証だった。それは、畳野幽が言うところの、「心技体の全てを乗せた一本」だった。


ひなたは、畳の上に倒れ込んだままのましろを見下ろした。その瞳から、熱い涙が溢れ落ちる。その涙は、悔しさの涙ではない。和解と、そして深い「理解」に満ちた、温かい涙だった。


「これが…私の答え」ひなたの声は、震えていた。柔道着越しに、ましろの体温が、じんわりと伝わってくる。その温かさが、ひなたの心を、ゆっくりと溶かしていく。


ましろは、ゆっくりと目を開け、ひなたを見上げた。その瞳には、涙が滲んでいた。しかし、その涙は、悔し涙ではなかった。安堵と、そして深い「理解」に満ちた、温かい涙だった。彼女の内部では、ひなたの「答え」が、ましろ自身の「フィルタリング型」の知性によって即座に判別され、受け入れられていた。


ましろは、小さく、しかし確かな声で、答えた。


「…ちゃんと、届いた」


その言葉に、ひなたの涙腺がさらに緩んだ。ましろの「裏取引」の真意をまだ完全に理解したわけではない。しかし、ましろがこの柔道部を、仲間を、心から守ろうとしていたことは、この乱取りで、ひなたの心に確かに伝わったのだ。


畳野幽が、ひなたの頭の上で、静かに、そして深く頷いている。彼の体から、柔道場の埃っぽい匂いではなく、清らかな、新しい畳の匂いがした。その匂いは、まるで柔道部が、新しい息吹を吹き込まれたかのように感じられた。


翌日、柔道場。


「おはよー!」


ひなたの明るい声が、柔道場に響き渡った。そして、その背後には、柔道着を抱えた、つばさの姿があった。その表情には、まだ微かな不安が残っているものの、柔道場に足を踏み入れたことに、確かな安堵が滲んでいた。


「つばさちゃん! 来てくれたんだね!」ひなたは満面の笑みで、つばさに駆け寄った。その笑顔は、太陽のように眩しかった。


つばさは、少し照れたように、はにかんだ。「うん…昨日、こっそり見てたの。ひなた先輩と、ましろ先輩の試合…」つばさの瞳に、憧れと、そして小さな希望の光が宿っていた。


その言葉に、ひなたとましろは、思わず顔を見合わせた。ましろの口元に、微かな微笑みが浮かんだ。


「…私も、もう一回やりたい。みんなと、柔道」つばさの瞳には、かつての恐怖の色は薄れ、柔道への、そして仲間への純粋な「意欲」が宿っていた。


リナが、クールな表情で、小さく微笑む。その瞳の奥には、つばさの成長を喜ぶ温かい感情が揺らめいていた。


「ようやく、本気になったわね」


ツムギが、目を輝かせて叫んだ。「マジで!? つばさ先輩も戻ってきた! また漫画みたいになってきたー! 次はどんな展開っすか!?」その声は、柔道場中に響き渡る。


はなは、瞳を潤ませながら、手を叩く。「泣ける展開ですぅ…! 部長とひなたさんの友情、最高ですぅ!」


柔道場が、また笑い声と、気合いの声で満ちていく。畳の上を、ひなた、ましろ、つばさ、リナ、ツムギ、はなの五人が、新しい柔道着の擦れる音を響かせながら、軽やかに駆け回る。


柔道部存続の朗報に、5人は涙を流して喜び合う。まだ関係はぎこちないが、柔道への情熱を再燃させ、改めて柔道着をまとい、畳の前に立つ。この中で、全員が級審査に合格し、白帯から色帯(黄色帯や緑帯など)に変わることで、努力が形になり、自信と絆が深まったことを象徴する。彼女たちの柔道着の帯は、それぞれの決意の色に染まっていた。


山田先生が、柔道場の入り口で、その光景を静かに見つめていた。その瞳の奥には、いつもの気だるげな色が消え、微かな、しかし確かな温かい光が宿っていた。彼の表情には、安堵と、そして柔道への、そして彼女たちへの、深い愛情が滲んでいるようだった。


5人が「次こそは勝つ!」「色帯になったんだから、次はもっと上を目指すぞ!」と誓い合い、互いの目を見て力強く頷いた。


夕暮れの柔道場。オレンジ色の光が、畳の上を長く伸びて、五人の少女たちの影を、柔らかな光で包み込む。畳の上に立つ少女たち。その柔道着の帯は、それぞれの色に輝いている。


「始めッ!」


山田先生の声とともに、まだ見ぬ戦いへ向けて──物語は続く。


【柔道部日誌:ひなた】

〇月□日

一本って、すぐ終わるけど、すごく重たい。

ましろが倒れた時、なんだか、ましろの全部を受け止めた気がした。ましろの気持ち、まだ全部は分からないけど、ましろが柔道部を大事に思ってるのは分かったよ。ぎゅーって抱き合ったら、なんだか全部許せたんだ。

畳の上なら何回でも転んでいいし、何回でも立ち上がれる。

ましろとまた柔道ができて、みんなと笑い合える。つばさちゃんも戻ってきてくれたし!

柔道って、ちょっといいかもって、やっと思えた。

そして、見て! この黄色い帯! 私、色帯になったんだよ! みんなで色帯になれて、すっごく嬉しいな!

畳野幽も、今日は嬉しそうに歌ってたよ!

さあ、次は大会。次こそ勝って、“意味のある一本”を決めたいな。

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柔道少女は恋も青春も一本背負い!~1年目・はじめての畳と涙~ 五平 @FiveFlat

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