[短篇]玄武門の変――「貞観の治」へと続く、血にまみれた幕開け

アレクシオス˙コムネノス

盛世の幕開け

武徳ぶとく九年六月初四・庚申こうしん日(西暦626年7月2日)


 玄武門げんぶもん内――


秦王しんおう殿下、伏兵はすべて設置完了いたしました。」


程知節てい ちせつが急ぎ足で進み、低い声で奏報した。

慎重さとわずかな高揚がその語気に混じっていた。


「引っ込め。」


李世民り せいみんは城門の影に佇み、宮殿へと続く石畳の道をじっと見つめて いた。腰の剣を握る手には、知らず知らずのうちに力がこもり、指の節が白く浮かんでいる。


建成けんせい元吉げんきつ……もうすぐ来るだろう。」


 道は、息を呑むような静けさに包まれていた。

 夜が白みはじめ、霧がゆるやかに這うように漂っている。

 李世民り せいみんの視線はその白靄の向こう、かつては最も近しかったはずの、今は遠い兄弟の影を探していた。


 静まり返った玄武門げんぶもんに、武器のぶつかるわずかな音が響く。

 その一音一音が、李世民り せいみんの胸に響く鼓動と重なっていた。


 数日前、ある密報が李世民り せいみんの胸に警鐘を鳴らした。

 皇太子・李建成り けんせい斉王せいおう李元吉り げんきつが、どうやら彼――秦王しんおうを葬る算段を進めているというのだ。


「殿下はすでに、皇太子殿下と斉王せいおう殿下の後宮における不義を、陛下にご奏上なさいました。――となれば、次は……」


長孫無忌ちょうそん むき――お前の腹の内は、どうなのだ?」


 李世民り せいみんの声音には、微かに探るような響きがあった。

 心には既に覚悟を決めていながらも、なおこの謀臣の口から、その意思をはっきりと聞き出したかった。

 血に手を染める覚悟が、本当にあるのかを――。

「かつて申し上げた通りにございます、殿下。時は――参りました。」


「…………」


「迷われてはなりませぬ。」


 長孫無忌ちょうそん むきの声は、深く沈んでいた。だがその冷たさは、まるで鞘から抜かれた刃のように鋭かった。


「今日という日は、殿下が討たれ一門が滅びるか、

それとも彼らの血筋が絶たれるか、そのいずれかです。」


「――承知している。」


 李世民り せいみんの瞳には、もはや一片の迷いもなかった。

 血のつながりは既に燃え尽き、灰となって風に舞い、

 今やその眼に映るは、野望と理想――ただそれだけだった。


「計画通りに動け。建成けんせい元吉げんきつも、必ずや宮中に現れ、自らの弁を試みよう。

 ……どうすべきか――もはや、迷いはない。」


 その言葉は、一つの釘が心の奥深くに打ち込まれたかのようであった。


 思い出す――あの夜のことを。


 秦王府しんおうふの灯は、夜が明けるまで燃え尽きることなく灯り続けた。

 長孫無忌ちょうそん むき房玄齡ぼう げんれい杜如晦と じょかいと共に、彼は沙盤の上で幾度となく推演を重ねた。


 兄弟が血を交えるという最悪の結末すらも、あらゆる変数を想定し、予め演じてみせた。


 それは作戦ではあったが、同時に彼自身の運命を試す儀式でもあった。


 とうの建国以来、三人の皇子のあいだで燻り続けていたのは、皇太子の座を巡る火種だった。

 それは、いずれ炎となって噴き出す運命にあった。

 秦王府しんおうふの灯は決して消えることなく夜を照らし続け、

 いま、すべてがついに終局の時を迎えようとしている。

 勝つのは誰か――すべては、この一瞬に懸かっている。


建成けんせい元吉げんきつも、きっと来る――

 皇太子たる建成けんせいが、父上の御前で自らの弁を述べずに済むはずがない。

 私が奏上したあの女の件について、世間の人々はもちろん、士大夫したいふたちの非難は避けられまい。

 ましてや、名指しされた元吉げんきつが兄を見捨てて宮中に姿を見せぬなど、考えられぬ……)


 彼は遠くを見据えていた。

 自ら張り巡らせたこの局、その最たる誘いは――

 皇太子と齊王せいおう尹徳妃いん とくひ張婕妤ちょう しょうよと不義を重ねていると奏上し、

 二人を宮中に引き入れ、死地へと追い込むための一手だった。


 東宮とうぐうからの密報によれば――

 今朝、皇太子と斉王せいおうはそろって宮中に入り、潔白を訴えるという。


 絶好の機会だった。

 彼は尉遲敬德うっち けいとく程知節てい ちせつといった腹心を率いて、

 二人が宮中へ至る唯一の道――玄武門げんぶもんに伏兵を忍ばせた。

 刃を交えるその瞬間を、静かに待ち受けるために。


「……ふぅ……」


 李世民り せいみんは深く息を吐き、静かに目を閉じた。


 ほんの一瞬、時が巻き戻る。

 まだ兄弟三人が幼かった頃――あの無邪気な日々が、脳裏にふっと蘇る。


「おい、世民せいみん! 弓はそうやって引くんじゃないぞ!」


「え? 父上はこんなふうに引いてたけど?」


「父上はもう年配だし、僕らよりずっと腕力があるからそれでいいけど、

 今の僕たちには向いてないよ!」


「うーん……でも僕、それしか知らないし……」


「しっかり立てって! 僕が手本見せてやる!

 ……ほら、ちゃんと集中して……体はぶらさずに安定させて……

 力は腕じゃなくて、背中から引くんだぞ……よーく見とけよ……!」


「せいやっ! ――ほら、真ん中にバッチリ命中だ!」


「さあ、次はお前の番だ!」


 李世民せいみん建成けんせいの動きをそのまま真似し、見事に的の中心を射抜いてみせた。


「兄さん、なんでそんな引き方わかるの?」


「父上のやり方を見てさ、自分に合うようにちょっと工夫しただけ。

 観察するって、すごく大事なんだぞ、世民せいみん!」


 李世民り せいみんはにこっと微笑んで、兄の顔を見つめた。

 建成けんせいは、物事をよく観察し、頭の回転が早くて、弟たちをいつも気にかけてくれる――まさに本物のリーダーだった。


 そのときだった。


 李建成り けんせいはふと、陰に潜んでこちらをじっと見ていた、もうひとりの弟に気づいた。


元吉げんきつ! そこに突っ立って、何してるんだ? なんでずっと影に隠れてる?」


 李元吉り げんきつは兄の呼びかけに、柱の陰からおずおずと姿を現した。


「え、えっと……兄上……」


「何だよその態度。元吉げんきつ、お前も弓を引いてみたいのか?」


「……うん……」


「なら、素直に言えばいいじゃないか。

 俺が教えてやるよ。いつだってな。」


 李建成り けんせいは穏やかに微笑むと、弟の肩を軽く叩いた。


「……でも、僕は庶子だから……なんか、その……」


「何言ってるんだよ。庶子だとか関係ない。

 お前は、俺の大事な弟だろ?」


 突然、強い風が吹き荒れ、旗が大きくはためいた。

 その音が、李世民り せいみんを過去の回想から現実へと引き戻す。


(……私はまだ、昔の癖を引きずってるな……)


 李世民り せいみんは苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと宮廷の方角に視線を移した。


 思いは、父・李淵り えん大興城だいこうじょうに入城し、大唐を建てたあの時代へと遡っていく――


「……世民けんせい、お前の凱旋を祝う。」


 李世民り せいみんが宮殿に足を踏み入れたのは、王世充おう せいじゅう竇建德とう けんとくを討ち果たした直後のことだった。


 河北かほくを制した軍閥・竇建德とう けんとく唐軍とうぐんとの戦いで捕らえられ、その首は李世民り せいみんの武名を天下に轟かせる証となった。


 だが、兄・李建成り けんせいの目には、明らかな警戒と防備の色が宿っていた。

 皇太子としての自身の威信が、秦王・李世民り せいみんに完全に圧倒されていることが、彼の顔に影を落としていた。

 皇太子という立場にとって、これは決して好ましい状況ではなかった。


 李世民り せいみんは場の空気を和らげようと何か言おうとしたが、先に李建成り けんせいが口を開いた。


王世充おう せいじゅう竇建德とう けんとく……いずれも一筋縄ではいかぬ相手だった。弓もまともに引けなかったお前が、まさか十万を率いる大将軍になろうとは……兄としては、お前の成長を喜ぶべきか、それとも己を憂うべきか。」

 李建成り けんせいの表情は複雑で、その隣に立つ李元吉り げんきつは一言も発しなかった。


 彼もまた、かつてのような怯えた少年ではなかった。

 斉王せいおうとして戦場に身を置き、幾度もの軍功を重ねてきた将である。


 三人は皆、変わってしまった。

 時の流れが、すべてを変えてしまったのだ。


「兄上……前線からの密報です。

 竇建德とう けんとくの旧部である劉黒闥りゅう こくたつが反乱を企てているようです……

 おそらく父上は、兄上を派遣されるかと。ならば、私もご一緒に――」


世民せいみん、お前はつい先ほど大戦を終えたばかりだ。

 今は体を休めることだ……次は私の番だ。元吉 げんきつ、行くぞ。」


 李建成り けんせいは、弟の提案をきっぱりと退けた。

 皇太子である彼にとって、秦王しんおうにこれ以上の武功を立てさせることは、避けるべき事だった。


「皇太子殿下……秦王しんおうはいまや羽を広げ、天を仰ぐばかりの勢いにございます。

 御決断は、あまりに遅れてはなりませぬ――

 国の行く末に、私情を差し挟むべきではございませんぞ。」


 ――重臣たちが日々囁く進言が、李建成り けんせいの脳裏を反響のように駆け巡っていた。


 一歩、二歩……そしてふと足を止め、李世民り せいみんの方を振り返る。

 彼は一度だけ深く息を吸い、まぶたを閉じると、弟の肩をかすめるようにしてその場を離れた。


 李元吉り げんきつは無言で李世民り せいみんに一瞥をくれ、その背を追って歩を進める。


 残された李世民り せいみんは、二人の視線に宿る――言葉では語り尽くせぬ感情の濁流を、確かに感じ取っていた。


 権力の座を巡る道に、もはや情や絆の居場所などない。

 そこにあるのはただ、勝者と敗者――それだけだ。

 大唐の帝座は、万人の志を焚き上げる焰であり、すべての絆を焼き尽くす火でもある。

「九五の尊」と称されるその玉座に座す者は、すなわち孤にして全――


(玉座を継ぐ血に生まれたことは、果たして栄光か、それとも呪いか……

 天に君臨する者にも、孤独という病は、決して癒えぬのかもしれぬ……)


 李世民り せいみんはあたりを見渡した。

 すると、馬が突然、何かに怯えたように鼻を鳴らした。

 同時に、足音が一気に彼のもとへと駆け寄ってくる。


秦王しんおう殿下。房玄齢ぼう げんれい殿から、ご下問がございます——」


「どうした? 敬徳けいとく。」


東宮とうぐう斉王府せいおうふに、密かに兵を差し向けるべきか……と。」


 尉遲敬徳うっち けいとくはやや緊張を滲ませながらその意向を伝えた。


 だが李世民り せいみんの表情を一目見ただけで、すでにその答えを悟っていた。


「……やめておこう。たとえ兵を動かすにしても、

 それは時が満ちてからだ……皇太子と斉王せいおうは、どこまで来ている?」


「すでにかなり近づいております。あと数分で玄武門げんぶもんに到着するかと。」


「兵をしっかり配置しろ……あいつらが門をくぐったら、

 すぐに門を閉じろ……躊躇うな……」


「はっ!」


 尉遲敬徳うっち けいとくはすぐさま駆け去った。その腰に佩いた剣の鞘が、彼の急ぎ足に応じて音を立て、静寂の玄武門げんぶもん内に木霊した。


 その甲高い音の中、李世民り せいみんの意識はふたたび過去へと戻っていく。


「殿下……皇太子殿下と斉王せいおう殿下が、

 殿下には皇位を奪うおつもりがあると、陛下に申し立てておられます……

 尹徳妃いんとくひ張婕妤ちょうしょうよも、太子の命を受けて、同じく陛下に誣告を……」


「……ついに来たか、この時が。」


「……殿下?」


「いや、なんでもない……私が陛下に、直接申し上げよう。」


 その時、またしても急ぎ足の足音が、李世民の耳に届いた。


秦王しんおう殿下! 皇太子と斉王せいおう、ただいま玄武門の前に到着されました!」


 程知節てい ちせつが全速力で駆け込み、李世民り せいみんの前に膝をついて報告した。


「よし……開け!」


 李世民り せいみんの命が下ると、玄武門げんぶもんは重々しくも静かに開かれていった。


 やがて、皇太子・李建成り けんせい斉王せいおう李元吉り げんきつが馬を駆り、警戒の色をあらわにしながら、ゆるりと門をくぐる。


 李世民り せいみんの姿を見つけた二人は、なおも慎重に歩を進めていった。


「ガチャン」


 背後で宮門が轟然と閉じられ、その音が静寂を切り裂いた。


 その一瞬、李建成と李元吉は何かが狂っていることに気づいた——だが、すでに遅かった。


「やれ。」


 李世民り せいみんの冷厳な一声と共に、一本の冷たい矢が弓を離れ、鋭く李建成り けんせいの胸を目がけて放たれた。


 李建成り けんせいは咄嗟に身をかわして致命傷を避けたものの、矢はその肩を深々と貫いた。


 短く呻いた彼は、即座に馬首を返し、側門の方へ逃れようとした——


 その瞬間——


 李世民り せいみんは弓を引いた。かつて兄・李建成り けんせいに教わった、その懐かしき動作のままに。


「シュッ!」


「ぐっ……!」


 放たれた一矢は正確に李建成り けんせいの胸を貫き、そのまま彼を馬上から地に叩き落とした。


 李世民り せいみんの視線は、倒れ伏した兄の唇の動きに自然と引き寄せられていた。


「……見事な……矢さばき……やるな……世民せいみん……」


 一方、李元吉り げんきつは兄の死を目の当たりにし、皇宮へ逃れようと馬を走らせた。


 だが、それを許す暇もなく、駆けつけた尉遲敬徳うっち けいとくの剣に斬り伏せられた。


「殿下! 薛萬徹せつ ばんてつが兵を率いて城門を突破しようとしております! 一部の兵は秦王府しんおうふへの攻撃を準備しています!」


「……そうか……」


「殿下……?」


「あの二人の首を刎ねて晒せ。薛萬徹せつ ばんてつらも、すぐに退くだろう……それでいい。」


 李世民り せいみんは静かに周囲を見渡した。


 つい先ほどまで確かに胸の内にあった何かが、音もなく消えていた。

 それが人の心だったのか、それとも——

 だが、何であれ——すべては、終わったのだ。


 秦王しんおうは勝者として、自らの兄と弟の首級を携え、父・李淵り えんの前に現れた。


 この壮絶な場面において、李淵り えん秦王しんおうのすべての要求を受け入れた。

 まもなく、秦王しんおうを皇太子に立てるとの詔が下される。


 そして、新たな太子が発した最初の詔は——

 建成けんせい元吉げんきつの遺児を、すべて誅滅せよというものであった。


貞観じょうがん」と後に称される盛世の幕開けは、

 この血に塗れた政変の終焉とともに、静かに始まったのである。


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