Epilogue-3

 ――わたしはプリントの山を抱えながら、廊下を歩いている。

 明日家庭の都合でお休みだという三葉先生から、教室に持って行っておいてほしいと頼まれたものだ。

(三葉先生、バスケ部の活動に間に合ったかな……)

(弥歌ちゃんを待たせちゃって、申し訳なかったな……)

(もう、クラスの皆は帰っちゃったかな……)

 プリントの山の隙間から見える手のひらの絆創膏と目を合わせながら、ぼんやりと取り留めもないことを考える。ふと、今日の体育の授業中に弥歌ちゃんに傷を舐められたことを思い出し、何故だか顔が熱くなった。熱の理由もわからないまま歩いていると、ようやく目的の教室が見えてくる。

 教室に入ると、そこには自分の机に突っ伏して眠っている弥歌ちゃんだけがいた。わたしは教卓にプリントを置くと、弥歌ちゃんの方へ歩いていく。弥歌ちゃんの身体を揺すって動かそうかと思ったところで、透明なスマホケースに入っている弥歌ちゃんのスマホの画面の明かりが点いた。成花ちゃんからの、〈てかクレープ食べ行きたくね?〉というメッセージの通知が表示される。


 ――待ち受け画面には、弥歌ちゃんのご両親と弥歌ちゃんの写真が設定されていた。


 黄、青、水色、白――色とりどりの花々が咲き溢れる花畑で、笑顔の弥歌ちゃんが、弥歌ちゃんのお父さんと弥歌ちゃんのお母さんに挟まれて、手を繋いでいる写真だった。わたしはその幸せそうな光景に思わず顔を綻ばせて、


(…………あれ)

(もっと、違う待ち受けだったような……)


 そんな疑問に、ちくりと心を刺された。

「その通りだよ」

 いつの間にか弥歌ちゃんは起きていて、脚を組みながら頬杖をついて、黒板の方を見つめていた。

「ここは私の望んだ、虚構の世界だから」

「え……?」

 弥歌ちゃんが何を言っているのか、わからなかった。

 そんなわたしに、弥歌ちゃんの言葉が再び降り注ぐ。

「ののも貰ったでしょ? 芸術品だったとき。力を」

「…………あ」

 わたしは、くずおれた。だらだらと汗をかきながら、弥歌ちゃんの方を見る。弥歌ちゃんは人間の形をしていた。一年生だということを示す、橙色のリボンが付いたセーラー服を身に纏って、自身の長い黒髪を手で梳いている。

 そうだった。

 弥歌ちゃんの待ち受けは、幸せな家族写真じゃなくて、

 ……弥歌ちゃんが憧れていた、真っ赤な血だった。

 わたしは呆然と、弥歌ちゃんの前にある席を見る。椅子に付いた小さな傷には、見覚えがあった。紛うことなく、わたしが一年生の頃に座っていた椅子だった。それだけではなくて、チョークの粉がほんのりと残った黒板も、窓に備え付けられたカーテンの柔らかな曲線も、少しばかり歪んだ配置の机も、瑞々しい観葉植物が上に置かれたロッカーも――その全てが、わたしと弥歌ちゃんがかつて長い時間を過ごした、一年四組のままだった。

 だから、窓の向こうにある空に浮かぶ雲は静止しているのが、怖かった。

 静かに微笑んでいる弥歌ちゃんと、目を合わせる。

 震えてしまう声で、問う。

「この教室が、弥歌ちゃんの望んだ場所なの……?」

 弥歌ちゃんは、そっと頷いた。

「うん。私ね、二年生になんてなりたくなかったんだ。ずっと、一年生のままがよかった。時間なんて止まっちゃえばいいのにと思っていた」


『……きっと、大人になってしまえばもう、変われないんだよ』


 桜の木の下で聞いた、弥歌ちゃんの小さな声を思い出す。

 雲はもう、動こうとしない。

 わたしは思わず、泣き出してしまいそうになった。

 手のひらに爪を突き立ててどうにか堪えながら、もう一つ尋ねる。

「……弥歌ちゃんの、力は。わたしを元に戻すだけじゃ、なかったの……?」

 ああ、と弥歌ちゃんは相槌を打つ。

「あいつ、私のことを気に入っているからさ。もう一つ力をあげてもいいって言うから、貰っておいたんだ。君が夢を見ているときだけ、君に会いに行ける力」

 弥歌ちゃんは口角を上げて笑う。その笑顔が、どうしようもなく懐かしく感じられた。

 その懐かしさが、壊れた硝子の破片のように心に刺さって、……痛かった。

 わたしは、口元を歪めながら言う。

「……どうして、わたしのために、芸術品なんかに」

 堪え切れなかった涙が、一筋滑り落ちる。弱い自分が嫌になる。わたしなんかが生きているより、弥歌ちゃんが生きてくれる方がずっといいのに。そのはずなのに――

「嫌だった?」

 寂しそうに笑う弥歌ちゃんに、わたしはすぐに首を横に振った。

「そういうことじゃない! 勿論嬉しいよ、嬉しいけれどさ、すごく、……悲しいの」

「そうだよね。ごめんね、のの」

 真っ直ぐな眼差しで、弥歌ちゃんに謝られる。

 わたしは鼻をすすってから、いいよ、と言った。

 すぐに許してしまうことは、愚かだろうか。でも、許したくなってしまった。大好きな人の優しさを受け入れないことは、許すことよりも、もっと愚かなような気もした。

 歯を噛み締めるわたしの側で、弥歌ちゃんがどこか悪戯っぽい声音で話し始める。

「……というか、のの」

「な、何……?」

「聞いたよ。私のこと、好きだったんだね」

「え!?」

 わたしは驚きの余り立ち上がった。弥歌ちゃんは、にやにやとした表情でわたしのことを見つめている。顔がどんどん熱くなっている気がする。

「ののってすぐ顔赤くなるよね。可愛いなあ」

「だっ、誰のせいだと、思って――」

「私も好きだよ」


 ――わたしの時間までもが、止まってしまったかのように思った。


 弥歌ちゃんの美しい深遠な瞳が、わたしのことを映し出していた。

「…………好き、って、」

「そのまんまの意味。私ね、ののに恋していたんだ」

「え、嘘、そんな、」

「もう言ってもいいかなって。ようやく、誰にも暴力を振るうことのできない存在になれたから。……綺麗に、なれたから」

 弥歌ちゃんは儚げに微笑んで、椅子から立ち上がる。

 にっと笑って、両手を背中の後ろで組んだ。

「両思いだね、私たち」

「……いや、でも、釣り合わないよ……だって弥歌ちゃんは、わたしを救ってくれた人で。わたしにとって、神様みたいな存在でもあって……」

「忘れちゃったの? ののも、私を救ってくれたじゃん」

「あんなの、救えたうちに入らないよ……!」

「口答え?」


 ――唇に、柔らかな感触が触れた。


 弥歌ちゃんに唇を塞がれたのだと、少しして理解した。わたしの両肩には、弥歌ちゃんの手が触れていた。一瞬とも永遠とも思えるような時間の後で、わたしたちの唇が離れる。弥歌ちゃんは少し照れたように笑いながら、そっと首を傾げた。

「嫌だった?」

「……そんなこと、ない」

「それならよかった」

「……弥歌ちゃん、」

「何?」

「……もっと、して」

 弥歌ちゃんは驚いたように目を見開いてから、あははっと笑った。

「な、何で笑うの……!」

「ののが可愛すぎるからだよ」

「えっ……」

 弥歌ちゃんはわたしと両手を繋ぐと、またキスをする。何度も。浅いものも、深いものも。わたしは心が焼け焦げてしまうほどの幸せを、愛おしさを噛み締める。



 ――ここが、虚構の世界だとしても。

 最愛の人の唇の感触だけは、真実であればいい。



 また一筋零れたわたしの涙を、弥歌ちゃんは舐め取ってくれる。

 しょっぱい、という弥歌ちゃんの声が、耳元で聞こえた。



(完)

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臓物の私から、歯車の君へ 汐海有真(白木犀) @tea_olive

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