白い停止線(ショートショート)

雨光

アスファルトの染み

アスファルトに引かれた白い縞模様が、夕暮れの雨に濡れ、鈍く光っていた。


信号のない、ただの横断歩道。私の疾走を妨げるためだけに存在する、忌々しい染みだ。


私は、革張りのシートに深く身を沈め、苛立ちと共に舌打ちをした。


道の向こう側で、黒い傘を差した老婆が、渡ろうか渡るまいかと、躊躇している。


その姿は、まるでアスファルトから生えた、黒く、のろまな菌類のようであった。


止まってやるものか。私の時間は、この上もなく貴重なのだ。


あの菌類が、その萎びた足を踏み出す前に、鉄の塊である私が、その鼻先をかすめて通り過ぎてやれば、それで済む話。


私は、アクセルに置いた足に、そっと力を込めた。


その時だ。


老婆の、その僅か横に、もう一人、立っているのに気づいたのは。


白いワンピースを着た、若い女。


傘も差さずに、ただ、雨の中に佇んでいる。長い黒髪が、雨水を含んで、頬に、首筋に、じっとりと張り付いていた。


女は、俯き加減で、表情は窺えぬ。


しかし、その視線だけは、フロントガラスを突き抜け、私の眉間を、正確に射抜いているように感じられた。


その目に宿る、粘つくような執着の色に、私は、思わずアクセルから力を抜いた。


老婆は、白い女の存在など意にも介さぬ様子で、ついに、一歩を踏み出した。


私の車の前を、亀の歩みで横切り始める。


ちっ。私は、苛立ちを隠さずに、ブレーキペダルの上で足を弄んだ。ワイパーが、気怠げに雨を拭う音だけが、やけに大きく響く。


その間も、白い女は、動かない。ただ、私を、見ている。


やがて、老婆は渡りきった。


さあ、行ける。私は、今度こそアクセルを踏み込んだ。

エンジンが、獣のように低く唸る。


その、瞬間だった。


今まで石のように動かなかった白い女が、ふわり、と。


まるで、そこに重力などないかのように、私の車の真正面に、一歩、踏み出したのだ。


キーッという、鼓膜を裂くような音がして、車は女の鼻先で停止した。私は、心臓が口から飛び出すかと思った。


女が、ゆっくりと、顔を上げる。


その顔には、何もなかった。


目も、鼻も、口も、あるべき場所に、ない。


つるりとした、卵のような、のっぺらぼう。

しかし、私には、その顔が、見えた。


今まで私が、クラクションを鳴らし、罵り、無視してきた、すべての歩行者たちの顔が、そこに、あった。老婆の顔、子供の顔、学生の顔。それらが、まるで粘土のように、ぐちゃぐちゃに混じり合って、溶けて、一つの、巨大な無表情を、形作っていた。


女の「顔」が、フロントガラスに、じっとりと張り付いてくる。


ガラスが、内側に、みしり、と軋む音がした。


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白い停止線(ショートショート) 雨光 @yuko718

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