処方箋

よなぞろ

処方箋

 ────意識が、浮かんだ。

 

 最初に認識できたのは、底のない暗闇。音も、匂いも、感覚も希薄で、自分がどこにいて、どれだけ眠っていたのかもわからない。ただ「目が覚めた」という事実が、身体の中で小さく明滅していた。

 醒めたばかりの回らない頭で状況を飲み込んでいるうちに、身体にびりびりと感覚が戻ってきた。

 背中が特に痺れていて、仰向けに寝かされているらしい。床の冷たさはない。柔らかい何かの上───ベッドだろうか。まぶたを上げようとした瞬間、瞳を刺すような柔らかな白光が、静かに視界を満たしていった。

 天井。無機質で白く、蛍光灯のような光源。どこかの病室に似ているようで、けれど違う。静かすぎる。


「……お目覚めですね」


 その声は、あまりに静かだった。呼吸を乱すこともなく、抑揚もない。けれど妙に澄んでいて、耳の奥に染み込むように届いた。

 首をかすかに動かす。視界の端から現れたのは、自分より少し若いくらいの少女だった。長い黒髪をおろし、真っ白で飾り気のない服を着ている。少女はこちらの顔を覗き込むように屈み、そしてごく自然な動作で額に手を伸ばした。

「……熱は平常値。眼球反応、問題なし。お身体に違和感はありますか?」

 問いかけは、まるで機械が発する定型文のようだった。反射的に身を引いてしまったが、少女は構わず平然と続ける。

「ご安心ください。ここは安全な環境です。あなたの安定のため、すべて整えられております」

「……誰だ、お前」

 喉が焼けるように乾いていたが、それでも声は出た。自分の声がやけに他人事のように響いた。

 少女は瞬き一つせず、首を傾げる。


「“クスリ”と申します。あなたの処方に従い、配置されております」


 その返答は、質問の核心を避けていた。名前ではなく、役割だけを告げていた。 

「処方……?」

「はい。あなたの精神的安定を最優先とし、必要な補助、制御、環境管理を担当しております」

 眉をひそめる。言葉は理解できた。だが、意味が、わからなかった。

「………俺は、」

「眠りに落ちる前に大きなショックを受けたようで、大半の記憶が失われています。名前すら思い出せませんか?」

「いや、待ってくれ。覚えてる。俺は………ヤマイ」

「安定してきましたね、ヤマイ様」

 クスリは、ベッドの脇に置かれた小さなトレーから、銀色の包みを取り出した。

「まずは、こちらを。甘味は心を和らげる作用がございます」

 銀色の袋から取り出したそれは、小さな飴玉だった。透明な個包装には、何も書かれていない。

 ヤマイは受け取ろうとした手を、途中で止めた。

「……俺は、何かの病気なのか」

 クスリは一瞬だけ、目を伏せた。けれどその表情は、やはり無機質で。

「その情報は、今のあなたには不要です」

 飴玉が、ヤマイの手の中にそっと置かれる。

「今はただ、わたしを信頼してこちらを服用してください。それが最善です」

 ヤマイはそれ以上、言葉を返せなかった。口の中に広がった甘さだけが、かろうじてこれは夢ではないことを実感させてくれていた。


 目が覚めた今日を初日として、でも今が朝か夜かなんてわからないけど。日付の感覚を掴んでいたくて、ヤマイはクスリに問いかけた。

「おい、なんか……書くもんない?」

「ペンと紙、どちらが必要ですか?」

「ペン………助かる」

 クスリから受け取ったペンですぐ近くの壁にしるしをつけた。

「これ、ずっと借りてていい?」

「構いません。それより、お食事はいかがですか?」

「あー………もらおうかな」

「かしこまりました。すぐご用意します」

 そう言ってクスリが持って来たのは非常食のようなパック。成分表などは書かれていないようだが、ヤマイのほとんど使い物にならない記憶による判断では、こういうものは人間に必要最低限の栄養が入っていたはず。安全なもののはず。

 食べやすいようにペースト状にされているそれを恐る恐る口に運んでみると、無理な味ではない。好ましい味でもないけれど。色々な懐かしいように感じる味が変わるがわる現れて、でも肝心の何の味かは思い出せそうになかった。なんだかそれが、どうしようもなく切ないことだと感じた。

 食べ終わった後の空のパックを手持ち無沙汰に丸めていると、クスリが受け取って捨てておいてくれた。それくらい自分でやるから、と一度制したが、

「ヤマイ様は今、身体的にも精神的にも不安定な状態です。今はわたしに甘えていてください」

 とクスリは言って聞かない。自分のためにしてくれているとはわかっていても、クスリのその献身さは、なんだか不思議で、言ってしまうとヤマイの目には異常に見えた。


 湯気が立ち昇り、あたたかい空気にこわばっていた身体がほぐれていくのを感じる。浴室に一歩足を踏み入れてそのタイルに足をつけた瞬間、ヤマイはふーっと息を吐き出した。

 クスリに安定のためだと部屋を歩き回っていたのを止められ、何もすることがなくぼーっとしていた時に、

「湯船に浸かることで、精神的安定を図ることができると判断いたしました。お風呂を沸かしていますが、いかがですか?」

 というクスリの言葉が、自分に向かって垂れてきた一本の救いの糸のように思えた。

 浴槽の水位も温度も申し分ない。ようやく一人になれた静けさが肌を撫で、それが何より心地よかった。

 クスリと過ごしているのが不快なわけではない。自分に尽くしてくれているのはありがたいが、何も思い出せず何が何だかわからない今は、クスリとどう接すれば良いのか考える暇なんてなかった。だからちょっと、疲れた。一人の時間が欲しくなっていた。

「あ゛〜〜〜〜〜〜、最高〜、なんか生き返る気する〜」

 肩まで浴槽に沈め、熱いお湯が緊張の糸を解いていく感覚が気持ちよくて。ヤマイは目を瞑って天を仰いで唸った。

 手でバシャバシャと無邪気に波を立て、その波が落ち着くのを待たずに今度は鼻まで沈んでみる。ぶくぶくと鼻から出ていく空気を間近で見つめて、吐き出す空気がなくなったら湯船から上半身を出し、また肩まで浸かるのを繰り返した。

 何度も何度も飽きずに繰り返し、十回近くやって身体を洗うため、やっと立ち上がろうとした、その時だった。


「入浴支援に参りました」


 カチ、と音がして、浴室の扉がわずかに開いた。湯気の向こうから、クスリが顔を覗かせている。服を脱いで、生まれたままの姿になって。

「……………え?」

「皮膚状態のチェックと、脳波同期処方をいたします。失礼します」

 ヤマイの頭の中で整理がつくより先に、クスリがこちらへ一歩踏み出した。肩も、胸も、脚も、その白い肌全てが、何もかもが、露わだった。

「………っっっ、ま、待てっっ!!!」

 ヤマイは思わず湯をかき分けて立ち上がりかけた。だが、同じく全裸の自分が立ち上がるのも、それはそれで憚られる。反射的に湯船の中で、膝を抱えるように座り直した。

 心臓が爆発しそうだった。顔が火照る。喉が渇く。お湯の熱さとは明らかに別物の熱が、確実に体内にこもっている。

「お前、何脱いで当然の顔で入ってこようとしてんだよっ!?」

「……浴室での衣服の着用は、逆に不衛生ですし、必要ありませんから」

 ヤマイの拒否など届いていないのか、クスリは一歩、二歩とこちらに向かって歩いてくる。彼女の行動には、意図も、感情も、そういう意識も、一切感じられなかった。それが、かえって。

「ちょっ、ほんとにやめろっ!!俺っ……今っ…見んなっ!来るなっ……!」

 湯の中で、身体が反応しているのが自分でわかってしまった。これは単なる身体の反射。だがそれは、余計に逃れられない現実だった。

 クスリはわずかに首を傾げた。ヤマイの挙動に、非合理性でも感じ取ったかのように。

「脳波の変化を確認しました。拒絶反応を認識」

 彼女はゆっくり瞬きをして、柔らかくヤマイに向かって微笑んだ。

「承知しました。入浴支援を中断いたします。必要時はお呼びください」

 素直に浴室の外へと引き下がっていくクスリの後ろ姿を見送って、ヤマイは息を荒げながら、湯の中で身を縮めた。

 このまま、溺れてしまおうかと思った。


 風呂を出ると、クスリはそこにいた。元着ていた服をちゃんと着て、整然とタオルを手にしている。

「入浴後の水分補給として、白湯をご用意しております」

 ヤマイは目を逸らした。どう顔を見ればいいのかわからなかった。視線を合わせるのも、声を出すのも、やけに息が詰まる。

 けれど、クスリは変わらなかった。無表情で、無感情で、どこまでも冷静に。まるでさっきの出来事なんて、なかったかのように。

「髪の水分が残ると、冷えの原因になります。わたしが拭きましょうか?」

「い、いい………自分でやるから…」

 ひとつため息をついて、クスリが持っていたタオルを受け取る。その動作さえ、どこかよそよそしくなってしまう自分が恥ずかしかった。

 ─────どう接していいかわからなくなったのは、自分だけだ。

 クスリの方は何も変わらない。ヤマイの乱れにも戸惑いにも反応しない。その「変わらなさ」が、逆に救いのようにも感じられた。

 クスリはブランケットを整え、照明の調整をしていた。もう寝る時間なのだろうか。意識してみれば、確かに眠くなってきたような気がする。

 ヤマイはベッドに横になってふと天井を見上げた。

 さっきまで感じていた羞恥も、不安も、だんだんと輪郭を失っていく。

「……………なあ」

「はい」

「お前って、ほんとに動じないな……」

「ヤマイ様に必要なのは、安定です。わたしが動じていては、意味がありません」

「………そうかよ」

 目を閉じた。息が、落ち着いてくる。心臓の音も、緩やかに静まっていく。

 クスリのことは、まだ全然読めない。けれど、一緒にいることによる緊張は、今日一日でほぐれていた。

「脳波も安定してきました。おやすみなさい、ヤマイ様」

「…………おやすみ」

 深い深呼吸をひとつ。そして、ヤマイは眠りに落ちた。


 朝の光が壁の白さをゆっくりと撫でていた。部屋に窓はない。だから、この光は模擬的な朝でしかない。けれど、何日目の繰り返しでヤマイの体内時計はそれに順応しつつあった。

「おはようございます、ヤマイ様」

「…ん、おはよ」

 クスリの挨拶に声を返しながら、ペンで壁にしるしをひとつ書き加える。気づけばもう十日以上が経っていた。

 ヤマイはベッドから身を起こし、薄いブランケットを肩から落とした。髪が乱れていたが、気にも留めずにクスリに声をかける。

「水、欲しいんだけど、ないか?」

「ご用意しております」

 ヤマイはもう、クスリの対応にすっかり慣れていた。確かに機械的で無感情で規則的だが、彼女の声は柔らかく、安心できるものになっていた。

 クスリから水を受け取って飲む。その仕草を、クスリは何も言わずに見守っていた。

「……なんかさ、もっとテキトーに接してくれてもいいんだけど。そんな敬語ばっかで疲れないの?」

 クスリは首を傾げた。まるで「疲れる」という概念が、彼女の辞書に存在しないかのように。

「疲労は検出されておりません。わたしにとって敬語は、親愛の形式です」

「親愛か………。じゃあ、もっと親しくなったらどうなんの?」

 ヤマイの茶化すような声に、クスリは一瞬だけ言葉を止めた。そして静かに答える。

「距離が近くなっても、形式は崩しません。むしろ、より丁寧にお仕えさせていただきます」

「……忠犬みたいだな」

「犬は、感情に流されます。わたしは流されません」

 それは、クスリが言うからこそ成立するジョークだった。ヤマイは笑った。それは久しぶりに生まれた、自分の中から湧き上がる感情だった。

 クスリも、それを笑顔とは呼べないけど、少し目を細めて応えた。

 その時、


カランッ─────ガシャン!!


 甲高い、ガラスの破片が飛び散るような音。クスリがヤマイの水を飲み終わったコップを回収し、落として割ってしまったのだと気づくまでに、時間はかからなかった。脳は、そのことをしっかり理解したはずなのに。なのに。なのに、なのに。

「っ…!」

 ヤマイの身体が震える。呼吸が乱れる。心臓がどくん、と胸を打つ。視界が白んだ。

 ガラスが割れた、その音が、脳のどこかを直撃する。

 似ている、似ている。何に?あの時に、あの時に、あの時の、食器が割れて散らばる音に。思い出す、浮かんでくる。何が?これは何だ?何の記憶だ?破片が、破片が散らばっている。あれを裸足で踏んだら痛いんだろうな。そうだ、痛かったんだ。あれを踏んだ時、涙が出そうになった。いや違う、もう泣いていた。何で、何で?何で何で何で何で何で何で何で何で何で?

「ッ、ちがっ……やめ……っ…なん、で………これ……ッ……」

 ぐるぐると脳内を駆け回る嫌な感情が、ヤマイを支配する。もう訳がわからなかった。酸素が入ってこない。胸が苦しい。頭が痛い。怖い。ただ怖い。

 クスリはすぐにヤマイのそばに駆け寄った。ヤマイの震える手を両手で包み、優しい声で諭すように言う。

「申し訳ありません、ヤマイ様。落としたのはコップです。危険はありません。ヤマイ様に危害を加えるものは、何ひとつありません。ご安心ください」

 ヤマイの耳にはその声が届かない。ぜぇぜぇと呼吸が荒くなるばかりだった。

「音が………!うるさい、いや…………ちがう、あれじゃない……!」

「────反応を確認。動悸、発汗、言語崩壊。軽度の発作と判断」

 クスリは飴を差し出した。ヤマイが目覚めた時に渡してきたものと同じもの。あの、変に甘い味の飴。

「服用してください。心拍を抑えます。ヤマイ様は今、記憶の波に引きずられています。わたしがそばにいます。どうか、安心してください」

 ヤマイは返事もできなかった。ほとんど身体も動かなかった。でも、クスリが口の前まで飴を差し出して、それを口に受け入れた。少し溶けるだけで、舌先に甘さが広がる。

 それだけで、ほんの少しだけ、心の奥に「地面」ができたような気がした。

「その記憶は毒です。思い出す必要はありません。深呼吸をしましょう、ゆっくり、ゆっくり────」

 クスリの声に合わせて、ヤマイの呼吸が、ゆっくりと落ち着いてきた。震えは残っているものの、目の焦点が戻ってきた。

「………あの音……なんか…………記憶が、」

「忘れましょう、その記憶は毒です。今は、何も考えなくて大丈夫です」

 クスリはピシャリとそう言いながら、割れたコップの破片を丁寧に拾い始めた。そしてポツリと、言う。

「本当に、申し訳ありません」

 今はそれに答える元気もなかった。ヤマイはベッドに横になった。深い息を吐く。

 彼の意識は、だんだんとまどろんでいった。


 目が覚めた時、身体の不快感は無くなっていた。やけに暑かったような気がするが、寝汗はかいていない。ベッドの脇に、氷と水の入ったボウルとタオルが置いてあった。クスリが汗を拭いてくれていたのだろうか。

「…………気分は、いかがですか?」

 クスリの、柔らかい声がする。ヤマイの不安をほぐしてくれる、クスリの声。

「……悪くないよ、ありがとう」

 そう答えた時のクスリの表情が、少し曇っているように見えた。きっと自責の念に苛まれているのだろう。

「ほんとに、大丈夫だから……。身体も、結構楽だよ?」

 ヤマイの励ましでクスリの表情が変わったようには見えなかった。薄々わかっていたけれど、何と声をかけても変わらないだろう。そう判断したヤマイはすぐに話題を変えることにした。

「なあ、ちょっと、歩き回ってもいいか?気分も悪くないし」

「ッ、ですが、今は、安定が必要で、」

「ほんとに、ちょっとだけだから。今ここで許してくれたら、さっきのことナシにしようぜ」

 クスリはヤマイが持ち出した交渉に黙り込んだ。何があってもヤマイの安定を第一にするクスリのことだから、断られるのだとやんわりと構えていた、が。

「……わかりました。本当に、少しだけですよ」

 クスリは柔らかく笑って了承してくれた。ゆっくりとヤマイのそばから離れ、ご自由にどうぞ、と促す。

 ヤマイは予想外で少しの間だけぽかんとしていたが、立ち上がって部屋を散策してみることにした。

 まず向かったのはキッチンだった。ミニマルな調理台。IH式のコンロ。冷蔵庫には栄養パックが整然と並び、食材らしきものは何もなかった。

「そういや、久しく料理なんて食べてないな…」

 今度、クスリに頼んでみようか。彼女ならどうにか用意してくれるかもしれない。

 次に、キッチンの奥にある小さな本棚に足を向けた。書籍はそこまで多くない。医学書、睡眠学、心理療法。もしかしたらこれらは、クスリが読んでいる本なのかもしれない。

 そしてなぜか、児童向けの絵本まであった。

「普通の小説とかないのか?………まあ、今度読んでみてもいいかもな……」

 その絵本の背表紙をなぞり、無意識に、奥にある空間にすっと押し込んでみた。すると、ゴゴゴッと音を立てながら本棚が移動した。

「……………え?」

 そこに現れたのは、ハンドルのついた小さな窓。言うなれば非常用ハッチのようなものだった。それを見た途端、唐突に気にも留めていなかった違和感がむくむくと膨らんでいく。盲目になって気づきもしなかった違和感が。

 そうだ、ここは結局どこなんだ?俺は記憶を失う前からここでクスリと生活していたのだろうか?ここを通れば外に行けるのだろうか?外はどうなっているのだろうか?

 ────どうしてクスリは外のことを教えてくれないのだろうか?

 いや、でも、これを開けて出てみればわかる話だ。ものは試しだ。当たって砕けろだ。

 ヤマイが六分の期待と四分の不安を抱えながらハンドルに手を伸ばす───その時。

「開けてはいけません」

 肩に置かれた手を、払いのける時のような。期待で舞い上がって飛び回るハエを、叩き落とす時のような。無感情なのに、冷酷さを含んだ、クスリの声。

「……どうして」

「外は、ヤマイ様にとって危険です」

 クスリは、それ以上何も教える気がないとでも言うように、たったそれだけ言い放った。

「また、俺の安定のためか」

「はい。ヤマイ様に外の世界は必要ありません。怖いものがいっぱいあります」

「そんなの、決めつけだろ……」

「決めつけではありません。これは、診断です」

「でも!俺は………」

 クスリの話を遮り、ヤマイはもう一度そのハッチを見つめた。このハンドルを捻って開ければ、外に出れば、俺の記憶が戻るかもしれない。何か思い出せるかもしれない。もっと人間らしい、あたたかい暮らしができるかもしれない。

「────ヤマイ様ッ!!!!!!」

 突然、クスリが叫んだ。訴えるような、泣いているような声だった。思わず振り返ってクスリの顔を見る。声は確かに涙まじりなように聞こえたが、彼女はいつも通り無表情のままだった。だがその瞳が、訴えている。訴え続けている。

「………………わかったよ」

 ヤマイが観念して首を振ると、クスリは目に見えて、安堵したように笑った。クスリは、笑った顔が無邪気で可愛い。

 クスリはいつも俺のことを第一に、俺の安定を第一に行動してくれている。ヤマイを呼び止めた悲痛な叫びは、裏切りを嘆くような声だった。俺は、尽くしてくれているクスリを裏切るような真似は、絶対にしたくない。

「扉のことは、忘れてください。必要のないことです」

「うん、うん。わかった。俺が悪かった。ありがとう」

 そうだ、別にこのままの暮らしでも困らないんだ。水も食料もある。寝る場所もある。クスリがいて、毎日がちゃんと進んでいく。

 わざわざ「わからないもの」に触れる理由が、どこにあるのだろうか。

「今夜は、あたたかいココアもご用意しております。お疲れでしたら、ぜひ」

 クスリは既に食事の準備を整えていた。自然な動作で、やっぱり、何もなかったかのように。

 その一挙一動があまりにいつも通りで、ヤマイの心をすぐに日常へと引き戻した。

「……そうだな、今日は疲れたわ」

 クスリが用意したココアから、あたたかい湯気が立ち昇っている。それが、無言で正しさを主張する。

 気にするだけ無駄だ。そうだ。

 そう思ってしまえば、後は簡単だった。


 食後、部屋の照明が柔らかく落ちていく。ブランケットがあたたかい。空気は静かで、落ち着いている。この空間が心地よい。

 眠りに落ちていくヤマイの隣で、クスリは静かに記録を取っていた。

「……………おやすみなさい、ヤマイ様…」

「…………おやすみ……クスリ……」

 深く、深く、沈むように───ヤマイは眠りに落ちていった。


 ────部屋は暗かった。

 カーテンは閉ざされていて、壁紙はところどころ剥がれている。空き缶と菓子の袋が床に転がり、テレビの音だけが響いている。でも、チャンネルは映っていない。ただの砂嵐。

 冷蔵庫の前に立つ子ども。背伸びして、牛乳を取り出そうとしている。

 肩に、重たい衝撃。

「───なに勝手に食ってんだァッ!!!!」

 ガシャン、と音がして、次は頭を殴られた。それが拳だったのか缶だったのか、わからない。わからないけど、ただ猛烈に痛かった。血の味がした。

 痛い、怖い、怖い怖い怖い怖い。泣いたらダメだ、泣いたら、また怒られる。殴られる。嫌だ、嫌だ嫌だ、嫌だ。怖い。

「お前がいるからッ………お前が要らないもん持って生まれたからッ…………!」

 頭がぐらぐらして床に倒れ込んだ少年を、声を荒げながら母親は蹴り続ける。

「…………なぁそうだろ!!!!」

 頭が痛い。気を失ってしまいそうだ。意識が完全に途絶える直前、鬼のような形相で殴り続ける母親と、目が合った。俺の、名前を、呼ぶ。

「─────ヤマイッ!!!!!!」


「……………ヤマ、さま……ヤマイ様………ヤマイ様っ!!!」

 クスリが自分の身体を揺らしていた。目が覚めて、ガバッと布団から起き上がった。息が苦しい。身体が震えている。

「……っ、はっ………ッ、あ…………く………っ、は、はぁ……ッ………ッ!」

「ひどくうなされていました。脳波に異常も見られます。クスリがここにいます、落ち着いてください」

「ごめっ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ッ!」

 喉を焼くような乾いた息。荒く波打つ胸の上下。額から伝う汗。背中まで広がっていく冷たい感触。

 まぶたの裏に残る、母親の影が、消えてくれない。

 クスリはヤマイが座っているベッドのすぐそばに、静かに座り込んで、表情ひとつ変えないのに、焦った様子で言った。

「確認しました。過剰な心拍、断続的発声、発汗、震え。悪夢によるパニック発作と判断」

 ヤマイは返事をしない。できなかった。呼吸は浅いまま、視界がぼやける。目を見開いて、何かを見ている。

「…………クスリ………ッ」

 呼吸が浅いまま、ヤマイが彼女の名を呼んだ。その声には、不安でも、恐怖でも、拒絶でもなく───ただ、求める音だけがあった。

 クスリは数秒の沈黙の後、そっと言った。

「……失礼いたします」

 躊躇いもなく、ヤマイの背中に腕を回した。ゆっくりと、慎重に。だが確実にヤマイの身体を抱きしめた。

「ゆっくり、呼吸してください。わたしの声を聞いてください」

 ヤマイの全身がふっと緩んだ。緊張で固まっていた肩が、背中が、喉が──ようやく少しずつ解けていく。

 クスリの身体は小さく、華奢だ。けれど不思議なほど安定していた。呼吸のリズムも、心音の速さも変わらない。まるで、何も揺るがない機械のように、彼女はただ静かにヤマイを抱きしめ続けていた。

 しばらく、二人はそのまま動かなかった。

 クスリの腕の力は強すぎず、弱すぎず、ただヤマイの存在を確かめるように回されていた。

 その静かな抱擁の中で、ヤマイの鼓動は緩やかに落ち着きを取り戻した。

「………落ち着いてきたよ。ありがとう、クスリ」

「……記憶により精神状態が乱れる場合、無理な再構築は危険です。思い出さない方がよろしいかと」

「ああ、そうか……そう、だな…」

「脳波の安定を確認。心拍正常値」

 クスリはヤマイの変化を確認すると、ゆっくりとヤマイの身体から離れた。

 彼の身体には、もう冷たい汗は残っていなかった。

 今だけは、きっと、何も考えなくてもいい。

 ヤマイはベッドを抜け出し、クスリの横を通ってキッチンに向かい、水を一杯飲んだ。冷たい水が喉を通る。何も変わらない味だったが、どこか現実味があった。

 ふと、本棚の前で足が止まる。

 昨日見た時は気にも留めなかった児童向けの絵本。今はなぜか、その一冊に手が伸びた。

 ページをめくってみると、ぐちゃぐちゃの色の落書きが目立つ箇所を見つけた。

 『やさしいおかあさんが、きょうもあたたかくておいしいごはんをつくってくれました。』

 その文の『やさしい』という言葉が、色んな色のクレヨンで何度も何度も塗りつぶされている。また、文の下に描かれている挿絵の中の料理も、同じようにぐるぐると塗りつぶされていた。

 息が詰まった。今度は、別に苦しくなかった。

 心の奥に沈んでいた何かが、今ここで目を覚ました。

(……これは……俺が………)

 疑いようがなかった。この落書きをしたのは、確かに俺だ。忘れようとしていた、忘れていた。けれど確かに脳のどこかで感じていた頃の自分。

「………やっぱり、俺…」

 つぶやいたその声は震えていたが、はっきりしていた。

 ヤマイは、ようやく、自分の過去の一部を取り戻した。

 絵本の落書きを舐め回すようにまじまじと眺めていたヤマイは、なぜか胸の奥で刺さるような違和感を抱いた。

 クレヨンで塗りつぶした筆跡の深さ。母親の挿絵の周りに塗られた真っ赤な色のクレヨン。

 痛みを抑え込もうとしていたのだろうか。

 そんな思いが、ふと浮かんだ瞬間だった。

 ヤマイの感覚が飛んだ。床に倒れ込み、視界が暗転した。思考が追いつかないまま、感覚があの日に直結した。意識がブチっと切り替わった。

 そうだ、この落書きは────

 憎しみの、象徴。


 ───その夜、家には明かりがついていなかった。

 母親は帰ってくるなり、口も聞かずにヤマイの襟を掴んだ。真っ暗な視界の中、壁に背を打ちつける音。押し倒され、床に落ちて割れる皿。立ち上がろうとした時に、その破片を踏んづけた。痛かった。でももう既に泣いていた。怖かった。

 怒鳴り声よりも恐ろしかったのは、何も言わない母親の目だった。

(このままじゃっ…………殺される……!?)

 身体は反射で動いた。

 テーブルの上に置きっぱなしになっていた、何か重いもの────フライパンを、向かってくる母の頭に思い切り投げつけた。

 ゴンっという音とグシャっという音が混ざったような、聞いたこともない不気味な音が響き、母はその場に倒れた。

 目と口を大きく開いたまま、時折びくびくとその身体が震えている。

 その頭から、血が流れていた。止まることなく流れ続け、真っ赤な池ができる。

 母親は、もう起き上がることはなかった。

 パニックで立ち上がることもできないヤマイの前に、少女が、クスリが現れる。その顔を両手で包み込み、柔らかい笑顔で言う。

「……大丈夫です。あなたは、正しいことをしました」

 彼女の声が、頭の中で何度も反響する。

「あなたは、ただしいことをしました」




 ヤマイ、俺が、やったんだよな。

 ────そうだ、でも大丈夫。きっと大丈夫。クスリも、そう言っている。


 ヤマイ、俺は、間違っていなかったよな。

 ────俺は間違っていなかった。クスリも、そう言っている。




 ヤマイ、ヤマイ。

 なあ、どうなんだよ。ヤマイ。






 ぜんぶ、思い出した。






「なんで、忘れてた……?」

 絵本を投げ出し、本棚の前に座り込み、ヤマイは混乱したように自嘲気味につぶやいた。

 忘れていたこと、失くしていた記憶。全てがフラッシュバックのように脳内に流れ込んできた。


 ヤマイは父親の連れ子だった。実の母親を亡くし、再婚したのがあの人だった。

 ヤマイには生まれつき精神疾患があった。常に精神的に不安定で、すぐパニックに陥る。科学者だった父は、そんなヤマイのためにクスリを開発した。

 ヤマイの脳波を確認し、常に最適な行動を取ってくれる。人間そっくりの見た目で、でも感情はないらしい。それでもクスリはヤマイにとって大きな助けになった。

 しかし、クスリの開発のため研究に打ち込んでいた父は、体調を崩し、その後一年も経たずに他界してしまった。

 残されたのは、血のつながりもない三人。

 それからだ。あの人が、ヤマイに暴力を振るうようになったのは。

 最初からあの人は、父親のことしか見ていなかった。父がいなくなってしまった今、ヤマイは邪魔でしかなかったのだ。

 そしてあの日、癇癪を起こしたあの人に、いつもとは比にならないくらい殴られた。死ぬかと思った。本当に、殺されると思った。

 だから気づいた時、俺はあの人を殺していた。

 ────そして、パニックになった俺の記憶を消したのが。


「………クスリ………っ、お前が……」

 クスリがやって来て、ヤマイを見下ろしていた。

 あの日、ヤマイの記憶を消す前と同じように。

「……思い出しましたか」

 クスリの表情は、いつもと変わらなかった。

 だんだんと、意識がはっきりしてくる。ヤマイの呼吸が荒くなる。思い出したこと全てが、過去の現実となる。

「俺がっ………あの人を……ッ、ころ、殺したッ…………俺が………っ!」

「だから、思い出してほしくなかったんです。あなたの安定が、損なわれるから」

 残念そうな声で言った。全てをヤマイに教えてくれた。

「ここは、家の地下室です。上は、あの日のままです。あの人もあの日のまま、上で倒れています。でもきっと、蛆が湧いているでしょう。もう、原型をとどめていないでしょう。それを見るのは、あなたにとって大きなストレスだと判断しました」

「……あっ……は、っ、っく………は、は、あ…!」

「────ヤマイ様」

 息が苦しい。心臓がばくばくと暴れている。身体が震える。まだ脳が追いついてくれない。肺が酸素を取り込んでくれない。

 クスリはその様子を、静かに見つめていた。動揺も、同情もなかった。ただ、冷ややかな観察者の目。

「外にッ、出してくれ…………っ、俺、ちゃんと…っ」

 いくらひどい暴力を受けていたとはいえ、俺は、一人の人間を殺した。許されないことをした。俺はちゃんとその罪を、償わなきゃ──


「────ヤマイ」

 クスリが低い声で言った。「様」がないだけで、ないだけなのに、ひゅっとヤマイの息が詰まった。

 クスリがかがんで、ヤマイに視線を合わせる。その冷たい手で、ヤマイの頬を包む。

「……………………あなたは、弱いひと」

 今までに見せたこともなかった満面の笑みで、ヤマイを見ている。彼女の口が動いて、続ける。

「わたしがいないと、何にもできない。自我を保つことだって、ままならない。あなたは、すぐに壊れる」

 クスリがヤマイに対して、敬語を使わずに話すのも、ヤマイに対して否定的な言葉を使うのも、全てが初めてだった。

 ついこの前、クスリが言っていた言葉。

 『わたしにとって敬語は、親愛の形式です』

 じゃあ、今、俺は、見放されている───?

 ヤマイの呼吸がどんどん浅くなる。

「……そんなあなたが、罪を償うなんてさ─────笑わせないでよ」

 何も考えられなかった。息苦しくて、頭が痛くて、震えて、止まらない。混乱が、恐怖が、渦巻いて、とぐろを巻いて、ヤマイの頭をゆっくり支配する。

 クスリが、囁く。

「苦しいの?」

 にっこりと笑って、いつもの飴を取り出した。震えて動けないヤマイの前でそれを開け、自分の口に含む。

 そして、ヤマイに口づけた。小さな呼吸の音。柔らかい唇の感触。頭がぼーっとした。

 クスリが舌で飴を転がし、それをヤマイの口の中に押し込む。

 クスリの唾液に濡れた飴玉は、いつもより一層甘く感じた。

 ────ああ、これが、狂気の味。

「………ヤマイ様、大丈夫ですよ。わたしがいますから」

 クスリの顔が離れた。いつもの調子に戻っていた。

 それが、ヤマイの精神安定剤だった。




 もう、壁にしるしをつけるのもやめていた。何日経ったのか、ましてや今が朝か夜かさえわからなかった。

 クスリによると、もう食料も尽きている。ヤマイの心臓の音が途絶えるのは時間の問題だろう。

 でも、もう、どうでもよかった。

「……………なあ、クスリ」

「……なんでしょうか」

「お前は確かに、俺を、ここに閉じ込めてた……俺のためだって言って、俺を外に出られない状態にしてた………でも、」

 隣に座っているクスリが、ヤマイの言葉の続きを待っている。

「でも───俺はもう、外に出たくもない。俺は、俺の意志で……ここにいることを選んだ」

 その言葉を聞いた瞬間、クスリが笑った。柔らかくこちらを安心させるような笑みでも、あの不気味な満面の笑みでもなく、初めて見る、本当に天使のような笑顔だった。

「それは、とても嬉しいです」

 そう言ってクスリが頭をこちらに預ける。初めてクスリがこちらに甘えているような仕草を見せた。

 ヤマイは、満足したように目を閉じる。





 二人の間で生まれたものは、友情も、信頼も、愛も、狂気も。

 知り得るのは、二人しかいない。

 この出来事がカルテに書かれることはないし、

 彼らの愛に病名なんてつくわけがない。

 それでいい。誰も知らなくていい。このままでいい。





 このまま、二人だけ閉じ込められたままでいい。

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