すずらんの音色
sui
すずらんの音色
夜の風がそっと森を撫でるころ、リネアはひとり、静かな道を歩いていた。
彼女は生まれつき耳が聞こえなかった。
世界は無音。
風が木々を揺らす音も、小鳥がさえずる声も、彼女には届かない。
だけどリネアは、音というものを信じていた。
木の葉の揺れるリズムや、川の流れのきらめきに、目には見えない「音の気配」を感じることができた。
ある日、村を囲む北の森へ迷い込んだリネアは、不思議な光に導かれ、誰も知らない小さな花畑を見つけた。
月の光に照らされて咲く、無数の白いすずらんたち。
風が吹くと、その花たちは、まるで鈴のように小さく揺れた。
その瞬間だった。
リネアの心に——初めての「音」が響いた。
それは言葉ではない、説明もできない感覚だった。
けれど確かに「何か」が胸の奥を震わせた。
柔らかい風の音。
遠くで流れる川のせせらぎ。
葉が擦れる優しいざわめき。
そして——どこか懐かしい、子守唄のような旋律。
「リネア……」
ふいに声が聞こえた。
振り返ると、そこに立っていたのは、やさしい光をまとったすずらんの精霊だった。
「あなたの心が、花に触れました。今宵だけ、音を贈りましょう。けれど、朝になればすべては夢のように消えてしまいます。それでも……聴きたい?」
リネアは迷わず、首を縦に振った。
その夜、世界は変わった。
リネアのまわりすべてが、音であふれていた。
足もとに転がる小石がコロリと鳴る音。
木の上の鳥たちが、眠りながらさえずる声。
虫たちが奏でる小さな小さな合奏。
そして、夢の中で——亡き母が現れた。
「リネア、おかえり。」
母の声は、記憶よりずっとやさしく、美しい旋律だった。
ふたりは手を取り、月明かりの森で踊った。
笑った。泣いた。何度も何度も名前を呼び合った。
その音のひとつひとつが、リネアの胸に深く刻まれていく。
やがて夜が明け、光が森に満ち始めたとき、リネアは静かに目を開けた。
すずらんの花は、もう音を奏でていなかった。
風も、鳥も、すべては再び静寂に戻っていた。
けれど——リネアの心は、なぜか満たされていた。
音は消えたのに、忘れていなかった。
それは耳ではなく、心が覚えた音だった。
あの夜、母と踊ったあの音色は、ずっと胸の奥で響いていた。
それから毎年、同じ夜になると、リネアは静かに森を訪れ、すずらんの花にそっと手をのせて、微笑むのだった。
「ありがとう。私は、ちゃんと聴こえているよ。」
すずらんの音色 sui @uni003
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