母の調味料

ラーさん

母の三回忌を終えて

 母の三回忌を終えて帰宅した後、お茶を飲もうと冷蔵庫を開いて、そこで母が生前使っていた調味料類が置きっぱなしになっていることに気付いた。

 缶や瓶入りの調味料は中身を捨てるのが面倒でずっとそのままになっていた。「ズボラの息子でごめんよ」と思いながら、何気なく調味料の瓶を手に取ってみる。豆板醤トウバンジャン甜麺醤テンメンジャン、コチジャン、クレイジーソルト、中華ペースト、柚子胡椒、カレーパウダー、グローブ、セージ、タイム、オレガノ、サフラン、バジル……料理が趣味の母は俺には使い方がよくわからないこうした調味料を使っていろんな料理を作っていた。

 おふくろの味というものを思い出す。レストランで食べる料理のような本格的な味付けで、いつも美味しかったという記憶しかない。父が早く亡くなったので俺の家は母子家庭だったが、母は家計を節約しながらも食べるものの味にはこだわりを持ち続けた人だった。いつだか「なんでそんなにこだわるの?」と訊いたら、「だって食べるものが美味しいと、嫌なことがあっても楽しさで忘れられるじゃない」と答えてくれた。母と俺の人生を豊かにしてくれていたあの味は、この調味料たちの組み合わせから生まれていたと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。


「賞味期限は……ダメか」


 母が亡くなってすぐの頃なら、この調味料たちを使って母が作っていた料理に挑戦することもできただろう。けれど一人になった後の生活は日々の忙しさに追われて、冷凍食品や外食中心の食事になっていた。それに今さら風味の落ちた賞味期限切れの調味料を使って、母の作っていた料理を再現しようという気持ちは起きない。もう三回忌だ。母のいない生活が二年。時間は流れ過ぎていた。

 もうあの味は再現できない。

 開きっぱなしの冷蔵庫がピーピーと鳴った。


「よっくん、さっきから冷蔵庫開けてなにしてんの?」


 リビングから声がした。今月から同棲を始めた彼女――サキさんの声。三回忌に使った母の位牌や遺影の片付けをしていた彼女がこちらの様子を見にやって来る。


「いや……おふくろの使ってた調味料、いい加減に片付けなきゃなって――」


 そう答えながらサキさんに顔をむけると、俺を見る彼女の目が丸くなった。


「よっくん、泣いてる」

「え、あ……」


 言われて気づく。目元に触れると指が涙に濡れた。


「ごめん、ちょっと急に来た」


 感傷だ。

 もう二度と使われない調味料たちが呼び起こした感傷。

 日々の忙しさに追われて忘れられていた感傷だ。

 だからたいしたことじゃない。

 ただちょっと悲しくなっただけだ。

 人生を豊かにしてくれていたあの味がなくなっても、生きて進んでいく時間への感傷に、ほんの少しだけ悲しくなっただけだ。


「――その調味料、片付けるの?」


 サキさんが俺の目を見て問い掛ける。母が亡くなった後、仕事関係で知り合って付き合うようになった彼女。母を知らない彼女。


「――ああ」

「じゃあ手伝うよ」


 そのまま二人して喪服のままで調味料を片付け出す。ペースト状の瓶の中身をスプーンですくって三角コーナーのビニールに捨てていく。入り混じった調味料の混沌とした刺激臭がキッチンを満たしていき、俺は思い出したように換気扇を回しに行く。


「お母さん、料理上手だったんだ」


 換気扇のスイッチを入れる俺の背中にサキさんが訊く。


「食べるものが美味しいと、嫌なことがあっても楽しさで忘れられるって言ってたよ」

「ふーん」


 そう答えてシンクに戻った俺が空になった瓶を洗う作業を始めると、サキさんが瓶のラベルを見つめながらぽつりと呟くように言った。


「わたしもちょっと始めてみようかな、料理」


 その言葉に振り向いた俺とサキさんの目が合う。

 料理ができるとは聞いたことのないサキさんの突然な発言に驚いた俺は、まじまじと彼女の顔を見てしまう。

 恥ずかし気な上目遣いでこちらを窺い見るサキさん。

 自分の顔がほころぶのを感じた。


「いいんじゃないか? サキさんの料理、食べてみたい」

「初心者だから美味しくないかもよ?」

「美味しくなるまで作ればいいさ」


 そう言うと、サキさんは「ふーん」と言いながらスマホを取り出して、瓶に書かれた調味料の品名をメモし出した。


「美味しくなるまで付き合ってよ?」

「もちろん」


 いずれ冷蔵庫に彼女の買った調味料が並ぶだろう。

 それが俺と彼女の人生を豊かにしてくれればいいなと思いながら、洗った調味料の瓶を水きりに置いた。

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母の調味料 ラーさん @rasan02783643

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