真花

 失敗して来た全てのことを小さくまとめて捨てられればいいのに。例えば、誤って冷たくしてしまって、そのまま関係が凍ってしまった同僚のこととか。例えば、親切で声をかけたら恐れられて逃げられて、ボーリングのピンのように取り残されたこととか。例えば、俺が運転している横でスマホしか見ない女、イッコを選んでしまったこととか。

 イッコの顔がスマホの光で削られている。削った分だけスマホを見る顔になっていく。ときどきしか進まない車の外はすさぶ雨で、ワイパーだけがメトロノームのように忙しい。ちょっとだけ前に行って止まるとイッコがため息をつく。毎回つく。俺はイッコのため息で窒息してしまいそうだ。どうにかしてくれ。俺はお前のため息を吸着するために存在している空気清浄機ではない。では何かと自問して、恋人だと即答出来ない。恋人ではあるのだが、腐った恋人とか、処刑台の上の二人とか、そう言う終わりの予感を孕んだカップルであることを表明しなくてはならない気がする。そっちの方が正確だし、正しく意味を伝える。誰に言う訳でもないが、胸の中でだからこそ誤魔化さない方がいい。その考えが塊になって胸の中心を圧迫する。どうしてこんなものに耐えながらここにいなくてはいけないんだ。今すぐに車とイッコを棄てて雨の路上に飛び出して走り去りたい。遠くに行って未練がましく振り向いて雨のカーテンで覆われて目視出来ない車とイッコに少女のようにさよならと手を振るんだ。だがそれをしてはいけない、車を駐車場に戻さないといけない。イッコを送らなくてはいけない。だから耐えなくてはいけない。せめて息がしたい。

 俺は運転席の窓を全開にする。密閉が破れて運河が渡るように空間が広がる。息が出来る、これなら俺はここにいることが出来る。ごう、と風が吹いて雨が鋭角に吹き込む。俺の右側がそこだけ染料に漬けたみたいに濡れて黒くなる。これくらいの代償なら余裕で受け入れられる。俺の顔が右側から日蝕が進むみたいに晴れて行く。

「ねえ、何で窓開けてんの? 濡れるんだけど」

 イッコは画面に視線を釘で固定されたみたいに動かさないまま苛立ちを隠さない声を車内に放った。声は余すことなく俺の左耳に侵入して、左脳から順に俺の頭蓋内を暴れる。お前を乗せているからだといっそ言ってやろうか。車を前に動かしながら、それは言ってはいけない、と自分に大きな蓋を大きな手でするように言い聞かせて、言い訳を考える。すぐには出て来ない。だから黙する。

「早く閉めてよ」

 うるせぇ。俺は頭を抱えて左右に振る。雨水は吹き込み続けている。だが息は出来る。窓から漏れ出たため息がどこに沈むのか知らない。世界の底があって、そこに湖のようにため息が溜まっているのだろうか。それとも、バラバラに散って空気の成分になるのだろうか。廃業した行きつけの喫茶店の空っぽになった店舗を急に思い出す。そう言うところにため息は溜まるのかも知れない。そこにイッコも一緒に突っ込んでやりたい。

「閉めて。濡れるの」

 俺はイッコの顔を見る。スマホしか見ていないで、確かに濡れている。そんなにスマホがいいなら俺と一緒にいる必要なんてないだろ。イッコこそ車から出て行けばいい。そうしたら窓を開ける必要もなくなる。俺は馴染んだベッドに転がるみたいにくつろいで、音楽でもかけてゆったりと遅々とした進行を受け止める。だが出て行けと言えない。雨だからではない。デートの責任でもない。何かもう少し深い碇のようなものが胸に刺さっている。それがあることで俺はイッコを放逐出来ない。俺も逃げられない。それはイッコとの歴史かも知れないし、残っている感情かも知れないが、今の俺には正体が見えない。そのくせに存在感はあって俺の行動を制限している。

「閉めて」

 従ってやるよ。他に選択肢もないし。窓を閉める、半分で止める。雨が風に乗って入って来る。俺の右側は水に落ちた犬のように濡れていて、これ以上水浸しにはならない。

「まだ濡れる。全部閉めて」

 棋士が駒を指すような声。それは王手ではなく詰みを知らせる声だった。俺は窓を閉める、ほとんど閉める。糸くらいの隙間を残して。雨は入って来ない。その隙間から俺は辛うじて息を保つ。窓が閉まってもイッコは何も言わない。当然が遂行されただけのようにスマホを見ている。何なんだ? 車が流れ出した。これでこの空間が終わるまでが少し近くなった。ちょっとだけホッとして、終わりが近付くことにこんな気持ちになることに、イッコを見る。イッコはスマホを見ている。だろうと思ったよ。イッコの方はもうずっと前に終わっているのかも知れない。白く光る顔がそこにあるが、これはもうイッコではない。

 俺は最後の息をしながら車を走らせる。駐車場に到達したとき、俺は窓を完全に閉めた。


(了)

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