冷蔵庫に宿る人生の断片

道端ノ椿

美佐が残していったもの

 僕は冷蔵庫という箱を見ると、ひどくかなしい気持ちになる。電気を流され、寝る間もなく、冷えきった体で働き続ける。目の前にごちそうがあっても、決して食べることは許されない。それは僕に強制労働を思わせるのだ。

 こんなことを言うと、多くの人は嫌悪感を覚えるだろう。しかし、美佐みさだけは、そんな僕の話をいつも笑顔で聞いてくれた。


 彼女は数分前までこのキッチンにいて、冷蔵庫から取り出した水を優しく飲んでいた。そしてその水をカバンに入れ、部屋を出ていった。美佐は最後まで笑顔だった。


 家の中は驚くほど静まり返っている。ついさっきまで――美佐が荷物をまとめて出ていくまで――彼女の柔らかい声が僕の耳に届いていたというのに。今聞こえるのは、この古い冷蔵庫のモーター音だけだ。

 一緒に買ったダブルベッドは、居心地悪そうに佇んでいる。僕は彼女のしなやかな体を鮮明に思い出せるが、その痕跡はもう残っていない。あるのは一つの枕と、一人分の布団だけだった。


 冷蔵庫には、百円ショップで買った小さなホワイトボードが貼られている。便利そうだと思って購入したが、ほとんど使う機会はなかった。途中からそのホワイトボードは、絵を描くのが好きな美佐の画材になっていた。彼女のイラストは、いつも僕を癒してくれた。そういう意味では、ホワイトボードは役に立っていたと言えるかもしれない。

 しかし、彼女のイラストの中で、一つだけ好きになれないものがあった。それは、とある猫の人気キャラクターである。画風はキャッチーで可愛らしいのだが、どうしても〈商業的に作られたもの〉と感じてしまうのだ。それは僕の感性が歪んでいるせいだろう。

 一度だけ、そのことを美佐の前で言ってしまったことがある。僕はその時、初めて彼女の苦笑いを見た。本気で時間を戻したいと思うほど後悔した。今思えば、僕たちがすれ違い始めたのはその頃からかもしれない。


 冷蔵庫のホワイトボードには、


『必要なものを確認してから、買い物に行くこと!!』と女性らしい字で書かれている。そのとなりには、あの〈作られた猫〉のイラスト。美佐は先ほど冷蔵庫から水を取った際、このホワイトボードに気づいたのではなかろうか? だとしたら、彼女はなぜこれを残していったのだろう? いや、僕が考えすぎているだけで、そこに深い意味はない。彼女にとって、この板はなのだ。


 冷蔵庫を開けてみると、中には二つのプリンが残っている。一ヶ月くらい前に、美佐が嬉しそうに買ってきたものである。僕は甘いものが好きではないし、その中でもプリンは特に苦手なのだ。

 扉を閉め、ホワイトボードを取り外す。捨てるかどうか迷ったが、結局は残しておくことにした。物に罪はない。


 僕は美佐が書いた文(必要なものを確認してから、買い物に行くこと!!)の後半とイラストを消して、


『必要なのは時間』と書き換えた。


 そして冷蔵庫からプリンを取り出し、試しに一口食べてみた。相変わらず甘ったるいが、思ったほど不味くはない。捨てるのはもったいないから、この二つくらいは食べてやろう。


 静かなキッチンでやたらと響く冷蔵庫の音にも、やがて慣れる日が来るだろうか――必要な時間が過ぎた頃には。







(終)




© 2025 道端ノ椿



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冷蔵庫に宿る人生の断片 道端ノ椿 @tsubaki-michibata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ