後編

 警察が来たのは夜も遅くなった時間だった。奨真くんと弦真くんは不満そうな声を漏らしていたが、お母さんに寝かしつけられるとあっさり眠った。きっと昼間遊び回って疲れたのだろう。起こった事件の凄惨さと子供の健やかな寝顔というギャップが僕の臓腑を掻き乱したが、しかし第一発見者としてやることは多かった。僕が呼んだ警察官はかなりテキパキと仕事をこなし、現場の保全、それから聞き込みなど、手早く初動捜査を行った。

「口咲女……ですかね」

 事情聴取の途中、メモを取る警官に僕がそうつぶやくと、しかし警官は「はぁ、口裂け女?」と返してきた。まぁ、平安時代からあるような風習じゃ、知らない人も多いか、と僕は一人納得した。

「えらい目に遭ったな」

 僕の聴取が終わり、園山先輩の奥さんが警官のいる部屋に行った頃になって。

 宿泊所の、自動販売機が固まって置かれているエリアで、二人で缶コーヒーを口にしながら雑談した。先輩は微糖のコーヒーを飲んでから口を開いた。

「彼岸花だっけ? あれを口に咥えて死んでたのってやっぱり何か意味あるの?」

 僕はブルーマウンテンのコーヒー缶を揺すりながら答えた。

「口咲女、という伝承がこの地にはあるそうです」

 僕は説明した。

「精神疾患の女を殺害するために毒のある彼岸花を咥えさせる。口に花が咲くから口咲女」

 園山先輩はそう繰り返しながら天を仰いだ。

「日本って歴史をひもとくとなかなかエグいことやってるよな」

「いやぁ、世界各地割とどこでもこの手の話はありますよ」

「そういうもんなのか」

「ええ。けどそれを再現しての殺人、っていうのはなかなか……」

 園山先輩はコーヒーを一口飲んでから続けた。

「被害者の女性、この辺では有名人らしいな」

「そうなんですか?」

 僕は首を傾げた。少なくとも僕に見覚えのある人間ではなかったからだ。それは必然園山先輩にも、と思ったのだが、どうやらそうでもないらしい。

「うん。聴取してくれた警官が『小原さんちの変わりもんやで』なんてつぶやいてたからな。少なくとも顔で名前が割れる程度には知られた人なんだろ」

「小原さん」

 僕は昼間に行ったフィールドワークについて先輩に話した。すると園山先輩は、「うお」と興奮した様子でこう返してきた。

「絶対関係者じゃん」

「まぁ、おそらくは」

「娘さん? とかになるのか」

「多分……」

 と、僕は考え込んだ。小原。まぁ、地方の有力者だ。分家もあるだろう。そうじゃなくても人の名前にあやかることなんて昔じゃザラだ。同じ姓の人間なんてゴロゴロいるに違いない。でも、この奇妙な符合は……。

「……おい」

 唐突に、先輩が声をかけてきた。僕は先輩の顔に目をやった。

「何です」

「首突っ込む気だろ」

 ずばり図星を突かれたので僕は笑うしかなかった。

「……先輩には、敵いませんね」

常陰つねかげ深月みづきちゃんがよく言ってたからな」

 ――深月先輩。

 僕の、初恋の女性。僕が高校で出会った、憧れの人。

 ……そういえば、深月先輩と園山先輩、同じクラスだったっけ。二人はもしかしたら、僕を介在して友情を結んだこともあったのかもしれない。

「深月ちゃん、『飯田くんは興味津々で罠に飛び込む子だから』なんて、昔言ってたぞ」

「それは……」僕は苦笑いする。

「そうかもしれませんね」

「……今も想ってるのか」

 先輩の質問に、僕は沈黙で答える。

「そうか」

 静かな夜だった。自販機の発する、不気味な重低音だけがまるで虫の声のように響いていた。



 翌朝、宿泊所の周りにはパトカーが四台待機しており、働く車が大好きな弦真くんは大喜びしていた。「パトカー! ねえ! パトカー!」僕はと言えば昨晩の光景が……あの、口から彼岸花を咲かせた女の顔が頭から離れず、朝食に出てきたソーセージとスクランブルエッグを箸で突いて、たまに食べていた。

「夫が何か吹き込んだでしょう」

 奥さんが、そう僕に微笑みかけてきた。

「人のこと駆り立てるのは得意なくせに、責任取らないんだから」

「いえ、本件は……この岐阜旅行は僕が興味を持ったことですし」

 そうだ。最初から、責任の所在は僕にある。

「むしろ巻き込んでしまって申し訳ありません」

 なんて、雑談をしている時だった。

「おい、飯田、いいもん見つけたぞ」

 そう、食堂のドアを開けてやってきたのは浴衣を着崩した園山先輩だった。手には雑誌が握られている。

「ちょっと外れた休憩スペースみたいなところに、『小原おはら小幸こゆき特集』なんて書かれたポストカードあってさ。そこにこの雑誌があってよ。中見てみたら、昨日の……」

 そう、手渡された地元の情報誌らしき雑誌の中に、それはあった。

〈日本学士院賞受賞 小原小幸さん 独占インタビュー〉

 そう、あった。

 写真を見る。

 それはまさしく、昨夜口から彼岸花を咲かせていたあの女性だった。

〈『フランス史の始まり -花の都は如何にして生まれたか-』という研究論文で日本学士院賞を最年少受賞された小原小幸さん。彼女はこの岐阜県大垣市の出身で、幼い頃はこの奥養老で子供キャンプの経験もあるお方なのだとか――〉

 子供キャンプ。

 ちょうど今、僕たちと一緒にここに泊まっている子たちのような。

〈小原さん:上石津町って、自然豊かじゃないですか。ほら、女殺しの猿の話だったり、母を求めて夜泣きする石の伝承があったり、とにかく緑が豊富。そんな中で好奇心を大切に生きてきたから、私は学問の道に進んだのかなって……〉

〈編集者:小原さんは大垣市初の、女性で学士院賞を受賞、しかも最年少受賞者とのことで、女性活躍の先駆け的存在として、『清流の国ぎふ女性の活躍推進会議』でも取り上げられたとのことですが……〉

〈小原さん:はい。私自身、古い家の出なので『女のくせに』なんて言われる機会の多い人間でした。家族でその話題が出るたびに『なにくそ』って思いながら毎日勉強して……〉

 女だてらに、という言葉は、この時代にはふさわしくないか。

 だがまぁ、小原小幸さんが男社会の風習に立ち向かっていく女性だということは分かった。

 そして、彼女が殺された理由も……漠然と、見えてきた。

「先輩」

「ん?」

 気づけば先輩は、寝不足な奥さんに代わって弦真くんにご飯を食べさせていた。箸の先で弦真くんの小さなお口を捲りながら、先輩は僕の顔を見た。

「何だ?」

「支度が終わったら、ちょっと役所に行ってきます。帰りの時間までには間に合わせる予定です」

「……おい、おい、ちょっと待った!」

 弦真くんの前に箸を置いた園山先輩は僕の傍にやってくるなりこう宣言した。

「俺も行く」

「いや……」

 僕は止めようとした。これでも、取材先で変な出来事に巻き込まれるのは日常茶飯事だ。いつも出くわすあれらの現象に比べれば、こんな事件の一つや二つ……。

「思い詰めた顔してるぞ」

 僕の知っている先輩は、いつでも直球勝負、そして人の心臓を掴むのが上手かった。

 ここでも、僕は鷲掴みにされていた。

「後輩の気持ちを無碍にするような先輩じゃねぇんだ、俺は」

 ニカッと、先輩は笑う。と、すぐに奨真くんがテーブルをバシバシ叩きながら叫んだ。

「せんぱいじゃねぇんだ! おれは!」

「奨真静かに」

 それから先輩は笑った。

「俺が運転する」



 先輩の転がす車に乗った僕は大垣市役所時支所に来ていた。

 訊きたいことは一つ。小原小幸さんについてだった。

「小原さんの講演会か何か、企画はありませんでしたか?」

 僕の質問に市役所職員の担当者の女性は答えた。

「大垣城ホールでの講演と、打上公民館での講演と二つ開催予定でした」

「日時は?」

「今日の昼からの開催やったのですけど、こんなことがあったもんで、中止にしようと今決まりました」

「小原さんの宿泊所は?」

 僕のこの質問は、どうやらこの職員の嫌なところに触れたらしい。

 彼女はちょっと言いにくそうに口を窄めると、それから「小原さんちは親子の仲が悪かったで、心配しとったのですけれど」と話し始めた。

 それが終わると、僕と園山先輩は、顔を見合わせた。



 警察が来る前に、という思惑は、あるにはあった。

 そうでもしないとなかなか聴けない。逮捕される前の、殺人犯のリアルな声というのは。

 僕と園山先輩は、あの巨大な日本屋敷の前に来ていた。門前。インターホンを鳴らす。

〈はい〉

 出たのは女性の声だった。僕は名乗った。

〈すみません、旦那さんはお約束のない方とはお会いにならせんのやけれど〉

「小幸さんの件で話がある、と伝えてください」

 僕は静かにそう告げた。

「返事があるまでここで待っています」

 少しすると、インターホンにまたあの女性が出た。

〈お会いするそうです〉



 立派なお庭だった。

 枯山水だった。石や地形の高低で水を表す。広さは……ちょっと目測しにくい。入り組んでいるからだ。だが広かった。まぁ、ドッジボールやビーチバレーくらいはできそう。

「またお会いしましたね」

 小原真陣さんは穏やかな顔をしていた。とても、そう、人を……娘を殺した後とは思えないくらいに。

「立派な活躍をしても恥だったのですね」

 僕は突然ではあったが本題を話した。遠回しなアプローチは苦手なのだ。そういう意味では、僕と園山先輩は似たところがあるのかもしれない。

「女性が女性らしくいないことは小原家にとって恥だった」

 真陣さんは微笑んだ。

「何を話してござるのか……」

「男勝りな性格は……いえ、男より活躍するだけの気風がある女性は精神障害者と同じですか」

「なぁんの話だか……」

「親子の確執ですね」

 僕は構わず話を続けた。僕が手にしていたのは、今朝、園山先輩が僕に見せてくれたあの地域情報誌だった。

「跳ねっ返りだったのは想像がつきます」

 ここで真陣さんは初めて黙った。

「こと日本において……そのさらに、地方において。男勝りの女性はややもすれば揶揄の対象です。恥ずかしいことだとする地域もあります。そしてここは文化のサラダボウル、中部地方だ。人々は色々な地域の文化を取り入れて生きている。それ故に、各地の『女性蔑視の文化』も凝縮される」

 園山先輩が背後で固くなっているのを感じた。彼は優しい先輩だ。これから目の前の男が襲いかかってくるようなことがあったら、僕の盾になって守ってくれるだろう。本当に、頼り甲斐のあるお方だ。

「口裂け女の伝承の一つに、精神疾患者の女性が座敷牢に入れられていて、脱走して騒ぎを起こした話がありましたね」

 僕は続けた。

「そして女性の精神疾患者は『口咲女』の風習で抹消する文化もあった」

 真陣さんは静かだった。彼の体も固くなっていた。

「精神疾患者を監禁する文化の根底にあるのは『恥の文化』です。家の中から障害者を出したとなっては家の名が穢れる。そうした考えは名家ほど強い」

 ギリリ。そんな音が聞こえた気がした。

「男勝りの女を『恥』と捉える。そして『恥』は抹消せねばならない。それが例え我が娘でも……きっと、あなたと小幸さんは人生の進み方について議論したのでしょう。いえ、本来ならこの衝突は起こらなかった。家に確執のある小幸さんは、きっと無理に家に帰ってくることなどなかった……だが宿泊所が満員だった。だから急遽実家に……この家に戻った。そこで父親であるあなたと口論し、燃え上がった怒りはやがて……」

「もうええ」

 真陣さんが、つぶやいた。

「もうええ」

「後悔はあるのですか」

 僕が訊くと、彼は寂しそうに笑った。

「彼岸花を咥えさせた時にのうしましたよ」

 真陣さんは乾いた笑いを見せた。

「まぁ、あの子にはふさわしいと思っとります」

「……では」

 僕は暇を告げた。振り返り、臨戦体勢の園山先輩に目配せをして歩き出す。

「まぁ、慌てんで」

 真陣さんがさっきとは打って変わって明るい声でそう発してきた。

「ゆっくりしていっとくれんさい」

「そうはいきません」

 僕も朗らかに答えた。

「帰らないと」

「帰れるとええねぇ」

 柔らかな、脅迫。

 だが僕も負けない。

「僕たちが帰ってこないと、自動で連絡がいきます……どこに、とは言いませんが」

 そう、僕たちとこの人とは決定的に違うのだ。

 女性への接し方が。

 女性への頼り方が。

 女性への信頼感が。

朱美あけみが心配しているかもしれねー」

 園山先輩が妻の名を口にした。囁き声で、決して真陣さんに聴かれないよう工夫していた。

「早く帰ってやらねーと」

「そうですね」

 僕は小さく頷いた。

「失礼します」

 振り返り、真陣さんに一礼する。

 こうしたやりとりがあったからか、屋敷からは素直に出られた。

 だが廊下の、曲がり角。

 あの巨大な猿が、鋭い歯を剥き出しにしてこちらを睨んでいた。



 その後、小原家がどうなったかは分からない。

 きっと中部地方の新聞にアンテナを張っていたら分かっていただろうが、もう興味を失くしていた。

 ただ、この小旅行の中で、僕の頭を支配している出来事がある。

 それは宿泊所を離れる時だった。いつの間に仲良くなっていたのだろう、奨真くんと弦真くんは子供キャンプに来ていたちびっ子たちと打ち解けていて、別れを惜しんでいた。

 じゃあね、と去った二人は僕の運転する車の後部座席に座った。ブレーキから足を退けて、タイヤが転がり出した頃、弦真くんが口を開いた。

「あ、おいさん!」

 舌が回らなかったのか、可愛らしい「おじさん!」が飛んできた。

「何だい」

 僕が応じると、男の子は窓の外を指差した。僕は運転中だったので真っ直ぐそこを見られなかったが、視界の端に何となく捉えた。

 そして、息を呑んだ。

「あの女の人が、『ありがとう』って言ってたよ!」

 弦真くんの示す先。

 車寄せの片隅、茂みの向こう。

 赤い服を着た女性が見えた気がした。女性は小さく手を振った後、茂みの向こうに、消えた。


 了

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口咲女 飯田太朗 @taroIda

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