第2話 『帰るということ』

 ケンはいつかぶりの清々しい朝を迎えた。窓から差し込む光は鬱陶しくなく、気持ちがいい。床で寝ていたから体が痛くなるものかと思いきや、熟睡後の爽快感が勝り、絶好調。隣で寝ていたはずのマキは、跡形もない。平日だし、仕事に出かけたのだろう。マキとは繁華街で出会ったものだから夜職をしているかと思いきや、昼職している。マキの一日はほとんど仕事で終わるのだ。


 テーブルには朝食と『食べたら帰りな  マキ』と置き手紙がある。マキの字は丸かった。


 ケンは顔を洗い、洗濯してもらったみすぼらしい服をとりこんだ。そして着ていたマキのパジャマを握った。シミが目立つけど、丁寧に着られていたようで、ほつれはない。ケンはまだ着替えないことにして、朝食に手を出す。卵焼きと白ご飯。この家の卵焼きは甘いのかしょっぱいのかどちらだろうか。ちなみにケンの家はしょっぱいの。それは今は食べたくない。

 卵焼きを頬張ると、口いっぱいに甘味が広がって――温かい水が頬を伝った。


「帰りたく、ないなぁ……。ずっとここにいたい」


 決して世間的には良い環境じゃない。でも、ここは気張らなくて楽だ。

 それに家に帰って、ケンがうまくやれるビジョンが浮かばない。母親はどうしているのだろうか。考えると体が震える。今まで逆らったことなんてなかった。大きくなったから、逆らえるものだと思っていた。でも、違った。心と体に刻まれた愛と言う名の恐怖は、深くなるばかり。ケンには一切あの母親に打ち勝つビジョンがなかった。なのに挑んだ。当然の結果なのかもしれない。しかし少しでも一矢報いたような気もしなくもない。ちょっと傷ついてた。あのブサイクな悲鳴が、今となっては勝利への雄叫びなのかもしれないと考えよう。


「はあ……」


 ケンはマキが使っていた座布団に顔を埋めた。かび臭いけど、ほんのりマキの香水の香りがする。

 ケンはもう少しだけこの家にいることを決めた。

 といってもすることもないので、泊めてもらったお礼に掃除をすることにした。適当に戸棚を開けていくと、きちんと掃除用具はあった。どれも古そうだが、使えなくはない。

 風呂、トイレ、リビング――と次々と掃除していく。もとがとんでもなく汚かったのもあって、綺麗になっていくのは爽快だ。

 しかしこの家はなんだか臭いままだ。換気をしているのに。カビが繁殖しているのだろうか。


 さて、お次はキッチンだ。きっとキッチンの排水口に虫が湧いているのが臭い原因かもしれない。朝食の皿を洗うついでに、既に水切りにあった皿も洗うことにする。中にはホコリまみれの食器もある。マキはどれだけ片付けと掃除が苦手なんだろうか。それにしても、食器の数が多い。しかも茶碗や箸が二セットずつあった。


「――もしかして、『ママ』のなのかも」


 昨夜マキは母親について言っていた。『だいきらい、だった』と。なんだか気まずくなってしまって踏み込まなかったが。マキがケンと似ているのは、境遇が似ているからなのかもしれない。


「――喉、乾いたな」


 ケンはうっかり自宅だと思って、冷蔵庫を開いた。


「っ!くっさ!」


 強烈なアンモニア臭と腐卵臭が襲ってくる。理科の実験で嗅いだ何倍もの濃度だ。この家が臭かったのは、冷蔵庫に腐った食材を入れていたからかもしれない。ケンは鼻をつまみながら冷蔵庫の中身を確認した。卵やら牛乳やら味噌やら怪しいものは無さそうだが――

 しかしチルドケースを開けると、とんでもないものが入っていた。ラップに包まれた茶色っぽいもの。


 これは――耳!?


 ケンは腰を抜かし、耳を放り投げた。


(まさか…母さんの?いや、そんなわけない)


 ケンは恐る恐るラップを剥がす。断面は少し固まっていて、標本みたいだけど――それは間違いなく人間の耳で、絶句するしかない。

 おぞましすぎて、冷蔵庫の奥深くに仕舞い込んだ。


「なんで、人の耳が。誰のものなんだ?」


 ケンは手のひらを見た。血痕が――あの時と同じだ。ケンは急いで手を引っ掻き回すように洗い流した。あの日雨で流したように。

 気が済むまで、洗い流すと、信じられない現実が襲ってくる。人間の耳が冷蔵庫に入っていた。なんでそんなものが――。なにより耳の主は誰なんだろうか。

 冷蔵庫は無機質に佇む。

 ケンは思い切って開けてみることにした。まだ何か眠っているかもしれない。怖いけど、マキを信頼するために、知るためには、やらなくてはならない気がした。


 野菜室には、スーパーで買ったであろうこま切れ肉が入っていた。パッケージが開いているので、ケンが昨夜食べたのはこれだと信じたい。そう思わないと、ケンは今すぐにでも吐きそうだった。既に口の中が少し酸っぱい。

 引き出しを開けても、悪くなった野菜が少々あるだけ。

 となるともう冷蔵室しか残っていない。

 静かに引き出そうとするもとても重い。間違いなく、入っている。鼻をつまんでいた左手も駆使して開けると、ビニールシートに包まれたブツがあった。ぺらっとめくってみると――


「っ――!!」


 窶れたおばさんの生首が出てきた。ちゃんと左耳が削ぎ落とされている。おばさんはマキとどことなく似ていて、安らかに眠っていた。可哀想とも悲しいとも思わない。歴史資料館で人骨に出くわしたときのような感覚。おばさんの頬に触れてみると、ガチガチで、冷たかった。

 もしかしたら、うまくいったら、ケンの母親もこうなっていたかも――というのは出来すぎた話だ。

 ケンはマキがこの人を殺したんだろうなあとは考えたが、ただ冷凍庫を締めた。警察に連絡することもなく、逃げることもなく。このままだと逮捕されそうではあったが、それもまたいいのかもしれない。

 ケンはただ事実を噛みしめるのみ。


 死体を見てからも、ケンのマキに対する想いは変わらなかった。たとえ犯罪者だとしても、マキはマキだ。ケンは自分に似ているから、という薄っぺらい理由でマキを悪者にはできなかった。


 それからケンはマキの置いていったタバコを吸ってみた。マキとのほんの少しの思い出が、それだけケンに刺さったいたのだ。あの晩、ケンはマキに近づけた気がした。だが、帰れと言われた。

 タバコは相変わらず不味いし、咳が出るし、嫌なことも忘れられない。でも、隣にマキがいる気がしてやめられなかった。世の中の大人は、こんなやるせなさをかかえてタバコを嗜むのかと思うと、大人の階段を登ったようだ。

 いつの間にか喉の渇きは気にならなくなり、夕日が差し込んできた。光に飲まれて頬が赤く染まる。ついでに、夕方のよいこの鐘が鳴った。


「――もう、そんな時間か。――帰らないと」


 地獄のような家に戻るよりも、よく分からない死体がある家にいたほうがましなはずはないのに…ケンはどこからも力が湧いてこない。

 あの死体を見てから、一気に現実に戻ってきた気がする。ケンにとって昨夜の出来事は夢のようだった。温かいお風呂、清潔な服、美味しいご飯に――優しい家族。マキは一見無愛想だったが、姉のようにケンに接してくれた。あの温かさが忘れられないケンは、また室外機にもたれてタバコに火をつけた。吸わずに、ただ煙を眺める。半分ほど眺めて、灰皿に擦り付けた。灰皿は、とても年季が入っていた。


 ◇◇◇


 ケンが夕日を通り越して、月を見上げていると――背後からドタドタと音がなった。

 マキが帰ってきたのだ。

 マキは玄関にあったケンのサンダルが無くなっていないことに気づくと、とあることを確認しに行った。

 冷凍庫に挟んでおいた紙切れが、床に落ちている。マキは瞬時に悟って力を抜いた。

(ケン――あれを見たんだ。どうしてるの?もしかして通報してくれた?良かった――やっと終われる)


「おかえりなさい」


 すると、嬉しそうな声がした。ケンだ。

 ケンは振り返って微笑んだ。マキは肩で息をしながら、ケンを掴んだ。


「――なんで、なんで、そんな風に接してくるの?冷凍庫、見たんでしょ!……なんで、逃げなかったの!そもそもなんで帰ってないの!昨日言ったよね?それに――私は人殺しだよ!危ないよ私は!あの中に入っていた人――ママを殺したんだよ!」


 マキは必死でケンを揺らした。ケンは微笑んだままで、むしろマキの真髄に触れた気がして得意げになっている。

 ケンはマキを抱きしめた。皮と骨で出来ているようだ。折れてしまいそうだ。頼りない。


「離して!」


「いやだ」


「っ離せよ!!」


 マキはとうとうケンを突き飛ばした。転倒したケンはタンスに頭をぶつける。しかしマキにケンを心配する余裕なんてない。


「私は人殺しだよ。そして、どうしようもないクズだ。本当は、自首する勇気がないから、通報してほしくて、ケンを家に上げたんだよ。でも、あんたみたいなやつに通報させるのも酷だと思って、帰れって言った――はずだったのにね。いつも人に頼ってばっかでだから私はいつまでもクズのままなんだよ。本当に、ママの言う通りだった。どんくさくて、ブスで、バカで、アホで、自分が可愛くて、可哀想で仕方ない」


 マキは顔を握りしめ、爪を立てた。


「それでも、マキさんはオレに優しくしてくれた」


 ケンはマキに触れようとした。しかし振り払われる。


「そんなの自己満足だよ!あんたを弟のように可愛がって、心を癒そうとしてただけ。あんたがちょうど良かっただけ。ただ利用しただけなんだよ」


「マキさんの卵焼き、美味しかったよ」


「そういうのいいから!」


 それからマキは後退りして、壁に倒れ込んだ。そして顔をひっかきながら、声を殺して泣いた。小さい頃からの慣習。泣き声がうるさいと、また殴られるから。


「――ごめん」


 やがて、マキはぽつんとそういった。涙の最後の一滴のようだった。

 ケンはマキと向き合った。出会って一日も経っていないのに、すべてを知ったような気になっていたのが馬鹿らしい。マキにはまだまだこんな一面がいくつもある。ケンはそれを、知りたいし、自分のことも知ってもらいたい。


「八つ当たりだった。本当にごめん」


「大丈夫ですよ」


 ケンはマキの隣に座り込んだ。


「―――よかったら、私の話、聞いてくれませんか?」


 マキはまるで告白のように言った。

 そう、ずっとマキは心の底からの言葉を聞いてくれる、共感してくれる人が欲しかった。いつかいたかもしれないその人と、ケンを申し訳なく重ねてしまう。


「もちろん。いいよ」


 思わず敬語が外れたが、気にもならない。むしろ友好的で、すっきりする。

 マキはケンの方を向くのが怖くて、月に向かって口を開き始めた。


「どこから話せばいいんだろ……。そうだな、まずはなんで私がママを殺したか、言っちゃおうかな。――私はずっと誰かに聞いてほしかったんだろうなぁ。ごめんね、こんなこと聞かせて」


「別に気にしないし、続けていいよ」


 マキはケンにもタバコを渡し、火をつけた。もちろん吸わずにただ煙を眺めるだけ。


「ありがとう。――ママは、どうしようもない人だったよ。自分で浮気しておきながら、パパが浮気したらブチギレてさ。なのに浮気相手に捨てられたら、パパにすがってさ。パパが出てったときはざまあみろって思ったよ。でもね、ママはそれからもっと狂い始めた。きっと何かにすがってないとだめな人だったんだよ。でも私はママの拠り所になんてなれなかった。弟だって無理だった。だってママって気難しいんだよ。ほしい言葉をくれないやつは敵なんだってさ。よく結婚できたよね。それに、酒もタバコもギャンブルも大好物。負けたら子供に八つ当たりするんだよ。まあ、勝っても負けても、むしゃくしゃしたら暴力って人だった。毎日殴る蹴るの繰り返し。私の首元の火傷は、全部ママがやったんだよ。昨日肉を焼いたヘアアイロンでね。痛かったなあ。実はね、仕返しがしたくてさ、昨日ママの死体をヘアアイロンで焼いてみたんだよ。でも、スッキリしなかった。食べても、だめだった。あの後さ、トイレで吐いたんだよね。不味すぎて」


 マキは涙を落とさないように上を向いた。


「ごめんね。聞いてくれてありがとう。こんなの聞いてても、しんどいだけだよね―――」


「大丈夫。オレもおんなじようなことをマキさんに話したい。オレも誰かに打ち明けたいって思ってたから」


「おんなじようなこと?」


 マキはケンの頭を撫でた。ネコっ毛で気持ちがいい。


「聞いてくれますか?」


「うん」


「実は、オレは母さんを殺そうとしました。でも、いざってときになってビビって外しました。傷つけられたのは、たったの耳一つでした。いざ対峙すると、足が竦んで無理だったんです。このクソ野郎に一矢報いてやろうって意気込んでたのに。オレはチキン野郎でした。でも、マキさんはすごいです。やってのけたんだから」


「それって褒めてるの?まあ、殺さなくてよかったよ。私が言えたことじゃないけど」


「なんでですか?―――やっぱり、後悔してるんですね」


「分かっちゃうもんなんだね。私、後悔してるんだと思う。自分じゃよく分からないようだけど。あの人も、ちゃんと人間だったんだなって殺してから気づいた。ちゃんと苦しんでたし、悲しんでた。死に際にさ、なんて言ったと思う?」


「――――」


「『ありがとう』だったんだよ。まさかこんなときに感謝されるなんて思わなかった。ママを苦しみから救っちゃったんだよ。私は。バカなのかな?それに、ママからの苦行がなくなっても、私は楽にはならなかった。罪悪感がせり上がってきて死にそうなんだよ。でも死ねない。ママの死に際をみたら余計にね。なんか穏やかに死んだんだよ。あの人。自分はそんなふうに死ねる自信がないんだ」


 ケンは灰皿を取ってきて、マキに渡した。二人して煙を消した。


「このタバコも、吸ったらママのことが分かるんじゃないかってやってみたんだよ。でも、分かんなかった。私はずっとママのことが分かんなかった。知ろうともしなかった。私ってママに限らず、自分を守りたくて、誰とも一線を引いてた気がする。弟でさえもね」


「弟?」


「ああ、言ってなかったね。ちょうどケンくらいの歳のときに死んだんだよ。自殺でね。私が耐えられなくなって半年くらい家出してた時があって、帰ってきたら、死んじゃってた。弟のこと、なにも分かってやれなかったし、助けてやれなかった。どこか他人事だったし、自分が苦しまないのなら、兄弟だって売れるんだよ。私は。なんでもっと向き合おうとしなかったんだろう。たった一人の弟だったのにね。―――実はさ、ケンを招いたのも、弟に似てたからなんだ。そんなんで贖罪になるはずもないのにね。しかもさ、私の弟ケイって言うんだけど、あんたケンじゃん?運命感じちゃったよ。でもさ、あんたはケイじゃないし、ケイはあんたじゃない。失ったものは帰ってこないんだよ。ケイが死んだときに思い知ったはずなのに。また罪を重ねた。家族を失った。自分の手で。―――ケンは、そんなことしちゃだめだよ。こんなクズになってはいけない。こっちに来ちゃいけない」


「マキさんは、クズじゃないよ。今こうやって、後悔してるんだから」


「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいよ。こういう単純なところも、ママに似てるんだろうな」


 マキはロングヘアーを指に巻き付けた。


「実はさ、こうやって話すまで、オレ、まだ母さんのこと殺そうとしてた。冷凍庫の中みたら、更にね。不謹慎だけど、人ってちゃんと殺せるものなんだって実感した。でも今のマキさんを見たら、ちょっと思いとどまれる気がする――」


 ケンはパンツに入れていたナイフの感触を確かめた。


「そう、よかった、のかな……」


「よかったんだと思う。覚悟を持ちきれてない自分がしていいことじゃなかったのかも」


「そう……。母親と仲良くね、とは言わないけど、うまくやることね。辛くなったら、会いに来てくれてもいいけど。まあ、私は刑務所行きでしょうけど。そのほうが気楽な気がしてきた。自分のやってしまったことがあまりに大きくて、実感が持てなかった。だから逃げるように、自首してなかったけど――どうせいつかバレるしね」


「そうだ、マキさん。持っててほしいものがあるんだ」


 そう言うと、ケンは折りたたみナイフを取り出し、耳裏を傷つけた。


「ちょっとケン、何やってるの!?」


「覚悟が揺らがないように、戒めておこうと思って。母さんを殺そうとした時、外して、耳裏を傷つけたんだ。その、戒めとして、ね」


 ケンはマキに折りたたみナイフを手渡すと、今度はマキが耳裏を傷つけた。


「私も、三度も同じ過ちを繰り返さないように、つけておく。おそろいじゃん」


「マキさん―――ありがとう」


 ケンは闇夜に消えていった。マキの心に強烈な残り香を残しつつ。












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