25:エピローグ 香りの記憶

銘板の前に立つ二人を、夕暮れの光が包んでいた。

壁画の金の粒子は淡く輝き、まるで街そのものが呼吸しているようだった。


ミラは、しばらく沈黙したまま銘板を見つめていた。

「いろんな家族を見ました。いろんな形があって……全部が羨ましくて、少しだけ怖くて」


ソーレンは黙って聞いていた。

その視線には、慰めでも同情でもなく、ただ静かな理解が宿っている。


「でも、誰かと家族になるなら……俺は君がいい」


低い声が、穏やかに響いた。

ミラの指先がわずかに震えた。

その瞬間、ソーレンはそっと彼女の手に触れた。

手は繋がない。ただ、確かに“触れる”ことで、互いの鼓動が伝わる。


その温もりが、ミラの胸の奥の不安を、静かに溶かしていった。





外に出ると、陽はすでに落ちていた。

空は群青に染まり、遠くを走る電車の音が夜の始まりを告げている。

街灯がぽつり、ぽつりと灯り、石畳に柔らかな光を落としていた。


「……暗くなってきたな」

「そうですね。でも、ちょっとだけ、歩いて帰りましょうか」


ミラが微笑み、今度は自分からソーレンの手を取った。

細い指先が、ためらいもなく彼の掌に絡む。


「……さっきの家族の話。私も、似てるかもしれません。

失うのが怖くて、誰かを大切に思うこと自体、避けてた気がします」


その言葉に、ソーレンは何も言わず彼女を見つめた。

ミラは、繋いだ手を少しだけ強く握る。


「でも、こうして一緒に歩いてると……怖さより、あたたかい方が大きくなる気がして」


風がふたりの髪を揺らした。

街の灯が、ゆるやかに滲んで見える。


「ミラ……」

ソーレンの名を呼ぶように唇が動いた瞬間、ミラは小さく背伸びをして、彼の唇に触れた。

ほんの一瞬の口づけ。すぐに離れ、頬を染めてうつむく。


「私も……誰かと家族になるなら、あなたと一緒がいいです」


その一言に、ソーレンは息を呑み、思わずミラを抱きしめた。

「本当に? いいのか?」

「ええ、本当に」


その答えを確かめるように、ソーレンは彼女の頬を包み、深く口づけた。

唇が離れても、額を重ねたまま、しばらくの間、ふたりは何も言わなかった。


「……俺はしつこい方だから、もう離してやれないけど」

「ふふ、あの二人みたいな夫婦になれたらいいですね」

「……! 君ってやつは……」


ソーレンは呆れたように笑い、もう一度、強くミラを抱きしめた。




「一緒に帰りましょ」

「ああ……帰ろう」


しっかりと手を繋いだまま、ふたりは歩き出した。

街の灯りが優しく二人の影を重ね、静かな夜風がその背中を押していく。



その香りは、もう恐れではなかった。

懐かしく、確かで、そして未来へと続く――“記憶の香り”だった。

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Scent of Memory 〜過去の香りを追え〜 白見未墨 @shiromi_egg

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