第2章 書の庭へ

一.

 静覚「はっはっは…これはこれは和光わこう、見事な坊主頭ですな。」

すっきりと丸められた頭、「和光」のしかめっ面は、語らずともその不満と不機嫌を十分な程に伝えている。

慧信えしん「やはり出家したての小僧の剃髪は、気持ちいいものですねー。」

 この僧は、筆僧の一人だが剃髪が得意らしく、いつもこうして新しく出家してきた僧に腕を振るっているそうだ。

静覚「ええ。私もこの小さな坊主頭を見るのが、たまらなく好きで…。忠清ただきよ殿もお力添えありがとうございます。」

忠清「くくっ……いやあ皆さんすみません、愚息がお手をわずらわせてしまって。こうでもせんと大人しくしませんからなぁ」

 どうやらみなとは抵抗虚しくも、連れてこられた際の縄でもう一度父に縛られてしまったようである。

湊「おいおやじ、さっきの条件忘れなよ。俺はここで武芸も習うからな!」

忠清「ああ、存分に励むといい。なんたってお前は武士の…!………っくくくくく。」

 剃髪が始まった瞬間から忠清はずっとこの調子で、吹き出しそうになっては何度も顔を逸らしてこらえている。

湊「ちっくしょーくそおやじめ!」

 湊は武芸も学んでいいならという条件の下で、しぶしぶ出家を受け入れたようだ。

慧信「ははははは…! さて、あらためて歓迎しますよ、和光君。さっそく境内を案内いたしましょう。まずは大師様へのご挨拶からですな。」

忠清「静覚様、それでしたら折角なので、私もご一緒させて頂いてもよろしいですか?」

静覚「もちろんですとも。ささっこちらですよ。」

湊「だいしさま?それ誰…?(そんなすごい人なのか?)」

慧信「おや、和光君。弘法大師こうぼうだいし空海くうかい様ですよ。この寺で一番大切にされているお方です。」

 空海——高野山こうやさんにて悟りを開いた真言密教しんごんみっきょうの開祖にして、筆の道をも極めし大師。その坐像は、根来寺ねごろじにおける信仰の象徴である。

静覚「もうすぐです。境内の奥に、大師様がおられます。」

慧信「足元に気をつけてくださいね。和光君、頭が風に当たると涼しくて気持ちいいでしょう?」

湊「……うるせーよ、風通し良すぎて、むしろちょっと寒いっつーの」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、湊の目は少しずつ開かれていく。木々の木漏れ日から射す光は金色の粒子となって舞い、枝葉の影が風に揺れるたびに、静寂にさざ波のような気配を運んでいた。

忠清「ふむ…こうして並んで歩くのも、今のうちだけじゃろうな。……いずれ、お前はこの寺の名を背負うことになる。」

湊「そんな大層な器じゃねーよ……」

 思わず口を突いて出たその言葉に、静覚は歩みを止め、振り返った。

静覚「器は、与えられるものではなく、自らで削るものですよ。筆もまた、そうして穂先が整う。」

湊「……!」

慧信「おや、和光君。住職の言葉にも、少し耳を傾けるようになってきましたね」

湊「聞いてねぇって、うるせぇな……」

 気まずそうに視線を逸らしながら、湊はつい先ほどまで縛られていた縄の痕を、そっと手で擦った。

 やがて、一行は一つの堂の前で足を止めた。

静覚「さあ、着きました。こちらが……根来の大師堂です。」

 扉が開く。中は薄暗いが、正面奥に鎮座する巨像の存在感が、空気そのものを引き締める。——弘法大師坐像。堂内に差し込む一筋の光が、まるで導くかのように湊の足元を照らしていた。

湊「……………………!」

 一同は目を閉じ黙祷して祈りを捧げるが、湊は口を半開きにしてただその姿をじっとみつめていた。

慧信「いかがですかな、和光君。大師様の智慧と慈悲に満ち……」

湊「……これ!……これ、彫りの線……木の目が……ちゃんと残ってて……仏様の目が……こっち見てる……いや、見透かされてる……すげぇ……!」

静覚「…………。忠清殿、これは?」

忠清「申し訳ありません…………。こいつ、浮世離れした物に目がなく、誰に似たのやら……。」

 居た堪れないとでも言うように、または頭痛でも催したかのように、手で額を覆い隠して息子の非礼を陳謝する父親。

静覚「はっはっはっは! なんとも面白いお子さんではないですか! 将来が楽しみですよ。」

 書生となる者はこうして弘法大師にお参りするのが通例である。しかし湊はまだ知らなかった。この日が、彼が“書”という道に導かれる一歩目であったことを——。


二.

 境内の一角にある堂舎どうしゃ。ここは、僧たちが執務を行ったり、夜は寝床にしたりする場所である。だが昼間のある一室では、小僧たちに筆を持たせ、手習いが施されている。

 その出入り口、障子しょうじの外には、すでに旅支度を整えた父と子が立ち尽くしている。風もないのに、湊の着物の裾がふと揺れた。そっと結ばれた親子の縁が、今、静かに解けようとしているようにも見えた。

忠清「では静覚じょうかくさま。私はこれにて。息子をどうかよろしくお願いします。」

静覚「えぇ、謹んで承ります。──ほれ、和光。お父上がお帰りに。」

忠清「じゃあな湊。しっかりやるんだぞ。」

湊「................。」

 湊は少し離れた場所で、そっぽを向いて唇をかすかにとがらせていた。その拗ねたような態度には、理由がある。少し前のこと——

忠清「それとな湊、ここでは決して“高坂”を名乗ってはならん。お前はこれより、和光として生きるのだ。」

湊「............え?」

 突然の言葉に、声にならない声を漏らす。目を見開いた湊に、父は視線を外さず静かに告げた。

静覚「これは掟なのです、和光。この根来には、士農工商、さまざまな出自の僧がいます。ですが、仏のもとでは皆、等しき者。身分や家名は、この寺の中では意味を持ちません。」

湊「...........。」

 ——どれほど理屈を並べられても、“高坂”を禁じられた事実は、湊の胸に小さな棘のように残った。出家と重ねられるようで、なおさら重たく感じられた。

湊「............くそおやじ......。」

 皮肉をつぶやき強がって見せたものの、まだ八つの子供である。胸の奥では別れの寂しさを、懸命に噛み殺していた。

忠清「...............ったく。それでは皆さん、お元気で。」

 忠清はそう言って少し笑みを浮かべたが、振り返っては足取りそのままに寺を後にしていった。

湊「............................。」

静覚「さて、和光よ。書生の皆をご紹介します。ついてきなさい。」

 返事はない。だが仕方がないことを悟ったのか、それともどこかで諦めがついたのか、湊はゆっくりと歩みを進めた。それは和光としての初めての自覚が、静かに胸に芽生えた瞬間であった。

 一同は教室へと足を運ぶ。

慧信「静覚さまは、高野で弘法大師こうぼうだいし薫陶くんとうを受けられ、京の門跡寺院もんぜきじいんでは筆僧座主ひっそうざすも務められたお方です。その評判を聞きつけて、今や根来にはかつてないほど多くの書生が集まっているのです」

湊「ふーん。(よくわかんねぇけど、そんなすげぇんだ........)」

静覚「おかげ様で、私も毎日退屈せずに済んでますよ。和光、あなたもこれからきっと楽しくなりますよ。いい意味でも、悪い意味でもね。」

 教室に足を踏み入れた瞬間、湊の鼻をくすぐったのは、墨と古紙こしのまじった乾いたにおいだった。開け放たれた障子の隙間からは昼過ぎの陽光が差し込み、畳の上に斜めの格子影こうしかげを落としている。ごりごりと墨を摺る音や、ちゃぱちゃぱと筆を洗う水の音が、妙に教室の静けさを際立たせていた。

 ざっと二十数人、年はさまざまなようだが、湊よりさして変わらない。皆それぞれに筆を持ち、黙々と紙と向き合っているが、視線だけは明らかに湊に集まっていた。

静覚「皆さん、新しい仲間です。ほれ、自己紹介を。」

湊「……和光です。よろしく。」

静覚「皆、仲良くしてやってください。」

 相変わらず無愛想だが、緊張もしていない。だが生徒たちは興味津々といった様子で、じっと湊を見つめる者や隣の者同士でひそひそと喋りあう者もいる。畳に筆を置く音、墨を摺る音も絶え間なく続いていた。

静覚「では和光、奥に座っている彼、源敬げんけいの横に座りなさい。まずは一筆書いてもらいましょう。」

 言われるがまま、席に座る湊。用意されたものは、ごわついた紙と、毛先の利きが怪しい、使い古された筆だった。

湊「墨がねーんだけど。」

静覚「すまんが、書生も増えすぎてしまっての。隣の者同士で共用としてくれ。」

 筆、紙、すずり、墨――いわゆる文房四宝ぶんぼうしほうは、この時代では貴重なものであった。戦乱の世ともなれば、その流通は一気に途絶える。たとえ書の名門・根来といえど、すべての書生に十分行き届くとは限らなかった。

源敬「ごめんね、和光君。硯、左に置いてあげるから、どうぞ使って。」

湊「……! お、おう。……悪ぃ。」

 そのとき、湊の肩がぴくりと動いた。寺に入ってから、同世代の少年に声をかけられたのはこれが初めてだった。ほんの一瞬、胸の奥がふっと和らぐ――そんな感覚があったのかもしれない。

 だが、それも束の間のことだった。


三.

湊「だめだー!書なんてやっぱ俺には無理だー!」

静寂を引き裂くような嘆きの声。びくりと肩をすくめる者、くすくす笑う者、にやにやと口元を緩める者。やがて教室は、何事もなかったように静けさを取り戻した。

 慧信えしんに一通りの所作を教えてもらった後、手本を片手に人生初の一筆に挑んだ湊。しかし、その出来に自ら失望する。

慧信「苦戦しているようですね。和光。」

湊「……ちぇ。」

 顔を伏せたまま、ぎゅっと筆を握りしめる。むくりと上体を起こして、今一度、自分の書を眺めて肘をつく。

湊「あーあ、つまんねぇの。」

慧信「ふふ、初めてならそんなものですよ。」

不貞腐れる湊を、慧信は柔らかく励ました。

 湊が一筆目に書いたのは「山」。線の輪郭は凸凹と脈打ち、収筆の形も団子になっており、今にも“山崩れ”しそうなバランスの字体だ。

静覚「あなたはまず、姿勢を正すべきですね、和光。」

 湊がしぶしぶと次の一字に挑もうとしたとき、教室の前方から静覚が声をかけた。

湊「姿勢?」

静覚「そうです。刀だってそうでしょう。しっかりと構えなくては、刀を強く振ることはできません。書も同じく、筆を持つ際の姿勢が大事なのです。」

 教室全体に届かせるように、静覚は静かに説く。その声に、周囲の小僧たちも一斉に背筋を伸ばした。ざわめきが収まり、しんとした空気が満ちる。

湊「姿勢って言われても、わかんねえよ……」

 もぞもぞと体勢を整え直すも、どうにもしっくりこない。

慧信「ほれ和光、隣を御覧なさい。ちょうど良いお手本がありますよ。」

湊「……?」

ふと隣に向けた視線の先にいたのは、先ほど硯を差し出してくれた小僧、源敬だった。

 ——しかし、その姿は先ほどとは別人のようだった。背筋をまっすぐに伸ばし、ひとつ息を整えると、迷いのない動きで紙に筆を置く。

 すう、と細い墨の線が流れる。垂直に立てられた筆から繰り出される「払い」も、「止め」も、なめらかで淀みがない。静淑な動きとは対照的に、顔と眼には気迫にも似た真剣さがにじんでいた。

「………………。」

湊の口は終始、半開きだった。

 源敬は顔を上げず、穂先を整え、さらりと次の一画を運ぶ。その様はまるで、この場所にいる誰とも違う生き物のように見えた。同じ年頃、同じ小僧なのに、どうしてこんなにも——そんなことを思った自分に、湊は小さく眉をしかめた。

「すご……」「流石だな……」

気づけば湊の前二列ほどの席の書生たちも、息をひそめて源敬を見つめていた。その静かなざわめきだけが、教室の空気をわずかに揺らしていた。

 源敬が書き上げたのは「天地玄黄てんちげんこう」の四字。高雅清爽こうがせいそうたるその字は、この日初めて筆を執った湊にさえ、自ずと美しいと思わせるに充分であった。

湊「すげー!大人みてぇな字書くんだな。お前!」

源敬「僕かい?まあ、この中では長い方だからね。経験の違いだよ。」

 そう謙遜しつつも、その「傑作」の残った空白に、淡々とはらいやはねの練習を続ける源敬。

慧信「和光、あなたはまず、その『山川』からですよ。」

湊「わかってるって。書こうとしても書けねーよ、こんなん。それより刀の稽古は?」

慧信「まずは私が良いというまで、ひたすら『山川』ですよ。」

湊「うえぇ、かったりーなぁ。」

 慣れない正座を組み直し、筆を持ち直す。出家したての小僧にとっては、まさしく修行の時間が続く——

「ぱんっぱん!」

 手を打ち鳴らす音が響く。

静覚「はーい、皆さん。体も固まってきた頃でしょうし、少し休憩しましょう。」

湊「がああぁああ!! 足がしびれるううう!!」

静覚のその一言で、各々脚を伸ばし、息をつき、緊張を解いた。

 窓の外では小鳥が二羽、木の枝を行き来している。それを横目に、教室の空気もようやく柔らいでいった。

源敬「君って武士の子?」

休憩中にもかかわらず、源敬は黙々と筆を走らせながら湊に話しかけた。

湊「……?お前、えーっと」

源敬「源敬だよ。そういえば自己紹介がまだだったね。よろしく。」

湊「おう、よろしく。げんけいな……おぉ!そうだよ、武士!あれ……?言ったっけか?」

源敬「だってさっき刀の稽古って。」

湊「あぁ……!……確かに言ったわ。お前、やるなぁ。」

 同年代とは思えぬ洞察の深さ。湊にとっては、やたら書の上手い風変わりな一坊主。しかしその素顔は、細い切れ目に、薄い唇。肌白い品のある顔立ちをしていた。その坊主が筆を置き、体を湊に向ける。

源敬「やっぱりそうなんだ……!お侍さんかぁ……いいなぁ!かっこいいじゃん!」

 目を輝かせたその顔は、それまでの冷静さが嘘のように幼く見えた。

湊「お、おぉ、そうか?ま、まぁ筆はこの通りだけどよ、刀ならこの中でもかなりいい線行くんじゃないかな~!」

源敬「…………あれ?それは?」

 鼻を伸ばし自慢げに豪語する湊をよそに、源敬はふと一枚の紙に目をとめた。それは湊が反故ほごにした、くしゃくしゃの紙だった。

湊「?……あ、やべ!ちゃんと隠さないと。」

源敬「いや、ちょっと見せて。」

湊「何だよ、見つかったら怒られるじゃん。」

 その一枚に書かれていたのは「和光」。湊が「山川」に飽きて、思い付きで手を出した二字だった。証拠隠滅を図ろうとした湊より先に、源敬がそれを奪った。

源敬「これって、君の名前だよね?ひょっとして静覚さまに書いてもらった字?」

源敬はしばらくそれを眺めると、湊に返した。湊は慌ててそれを丸める。

湊「そうだよ。俺の下手な字、お前に見られると恥ずかしいじゃんか!」

 その字は、これまでの「山川」と同じく初心者らしい拙い出来だった。しかし源敬の目には、ある一点が焼き付いていた。

源敬「いやごめん、ほら、和光ってこう書くんだと思って。(技術面は確かに初心者そのものだけど、始筆の位置はほとんど“正解”だった。それも一度見ただけの字を手本に……)」

湊「なんだ、名前覚えようとしてくれたのか?お前いいやつじゃん!あ、そうだ!刀に興味あるんなら俺が教えてやるよ!」

源敬「え…………あー、いや、それは結構。僕は筆の方が好きだし、親にも言われてるんだ。お前に刀は必要ないって。」

 そう言った源敬の横顔は、笑っているようで、どこか遠い場所を見ているようだった。

湊「…そうか?減るもんじゃないし、遠慮はすんなよな。」

源敬「ありがとう。嬉しいよ。でもやっぱり親には逆らえないからさ。君もそうでしょ?」

湊「いや、まぁ……んー。そうっちゃそうか。」

 少しばかりの沈黙のあと、源敬は悪戯を思いついたような笑みを浮かべる。

源敬「でもその代わり、お喋りにはいっぱい付き合ってもらおうかな!」

湊「お!それならお安い御用だぞ!よろしくな、げんけい!おれ、湊……あー、和光だ!」

源敬「ふふっ、もう覚えたよ!」

 そう言って二人はまぶしい笑顔で笑い合った。なんとも年相応の、微笑ましい光景だった。そしてその笑い声に呼応するかのように——

静覚「はいはい!それまで。休憩終わり!皆、席に着きなさい。」

 住職の今日一の声で、一斉に机に向かう書生たち。

湊「うげぇえええ。やっぱまだ続くのか~。結構疲れるんだな、書って。足も……しびれまくりだし。(でも刀とは違う疲れだな……なんなんだこれ……?)」

源敬「がんばろう。これが終わったら夕方まで自由時間だよ!」

 この日はおそらく湊にとって、人生で最も長く感じた一日であろう。それでも日は傾き、やがて暮れていく——


四.

湊が寺に来て一週間ほど経った頃のことだった。あれほど落ち着かなかった毎日も、次第に決まりきった規律の中で過ぎるようになってきた。湊は源敬と並んで縁側に座り、ぼんやりと庭を眺めている。

源敬「少しは寺の生活にも慣れてきたかい?」

湊「ぜんぜん。この頭にはようやく慣れてきたとこだよ。」

 そう言って湊は掌で頭をさすり、チクチクとした感触を確かめる。

湊「そういやお前、ここでも結構長いって言ってたよな? 楽しいのか? こんな生活。」

源敬「ん-、まぁ僕自身、静覚さまに憧れてる部分もあるからね。書を学べるだけで充分楽しいよ。」

湊「そうかー。俺も刀の稽古だけできりゃあなー。」

源敬「ははっ。ここは寺だから流石にね。」

源敬はこのように湊の愚痴相手になるのが日課になりつつあった。

 そこへ通りから骨ばった体つきの男が歩いてきた。浅黒い肌に短く刈った髪、気さくな笑みを浮かべるその男は、寺内でもいまだ数少ない湊の知人である。

湊「えと……千蔵せんぞう、さん?」

千蔵「おお、覚えてたか。」

 千蔵は湊の額を軽くはたいた。

千蔵「お前、サボるのが早いな。まだ一週間だろ。」

湊「別にサボってねぇよ。たまにこうして休んでるだけだ。」

千蔵「はは、口だけは立派だな。」

 千蔵は横目に源敬を見やり、「そっちの坊主にも手伝わせたいところだが…」と肩を竦める。

千蔵「今日は寺内町に用事があってな。宥珍ゆうちんさまと一緒に鋳造場や鍛造場を回って、鉄砲や火薬の帳簿を記録しに行くんだ。いい機会だし連れてってやるよ。」

湊「俺が?」

千蔵「おう。どうせ暇だろう。」

湊「暇じゃねーって、しばらくしたら庭掃除が…」

源敬「大丈夫だよ、慧信えしんさまにはよろしくお伝えするから頑張っておいで!」

千蔵「おっ、いいね源敬。ナイスアシスト!」

湊「……はぁ。」

 湊は一瞬眉をしかめるも、ゆっくりと立ち上がる。

 千蔵は湊の顔をしげしげと眺めた後、ふと目を細めた。

千蔵「お前のそういうところ、宗実むねざね殿とは正反対だな。あの人はいつも真面目で誠実な御仁だったぞ。」

 湊は肩をすくめてそっぽを向いた。

湊「……そういうの、もう聞き飽きたって。」

宗実は高坂家の嫡男ちゃくなんで、少し年の離れた湊の実兄である。出家はしていないが、読み書きを学ぶために寺に一年ほど下宿していたという。

 寺に来てからこうして兄の話を引き合いに出されるのは、もう何度目になるだろうか。兄を褒められること自体は嬉しくもあるが、自分が何もできない子供のような気がして、少し胸がざわつきを覚え始めていた。

 千蔵の後に湊は渋々とついていく——

 

 一行が町に出ると、そこには寺とは別の光景が広がっていた。瓦屋根が並ぶ通りには、米や青物を商う市塲がいくつも立ち並び、威勢のいい掛け声が飛び交う。

 荷車を引く商人、籠を担いだ行商の女、よろず屋の軒先で小物を吟味する旅人たち。その間を行き交うのは、紙や綿を商う者、鋳物師、薬種屋、果ては南蛮渡りの珍品を扱う者まで混ざり合っていた。

 境内の厳かな静けさとは対照的に、ここではあらゆる営みが渦巻いていた。

 千蔵はひょいひょいと人を避けながら進む。それに置いて行かれまいと、湊は必死になってついていった。

湊「最初に来た時も思ったけど……これ、全部寺のもんか?」

千蔵「ああ、寺内町と言ってな。寺を城に見立てりゃ、さながら城下町ってところさ。でも京や堺はこれの比じゃないからな。」

湊「へえ……。」

 湊は人ごみに目を奪われる。目新しい光景に、少し少年らしい顔に戻りつつあった。

千蔵「さあ、この一帯が近頃、鍛冶町と呼ばれている一画だぞ。」

湊「…?」

 湊は首を伸ばし町の様子を窺うも、その空気の変化を目よりも先に鼻が感じ取った。

 火薬と鉄の匂い——そこは火縄銃の生産体制が集積する町であった。軒先で鉄砲の銃床を削る職人、鋳型から真新しい鋼を外す男たち、粉塵にむせて咳き込む旅人。——根来は戦国時代、堺、雑賀と並ぶ鉄砲の一大生産地であったが、永禄元年といえばまだその基盤が整って間もない頃であった。湊は思わず足を止め、目を輝かせた。この町の熱と匂いは、どこか刀に通じるものがあるように思えた。

 千蔵が不意に立ち止まり、顎をしゃくった。

千蔵「和光、あれ見てみな。南蛮人だ。堺の商人と一緒に技術指導に来てんだぜ、きっと。」

湊「なんばんじん……?」

湊は反射的に声を漏らした。

 通りの向こうを、長い脚をひと振りずつ運ぶ青黒い肌の異国人が歩いていく。胸元まである髭、頭に被った馬鹿でかい帽子、裾の長い深い藍色の衣――。煤と鉄粉が混じる鍛冶町の喧噪の中で、その姿だけがべらぼうに浮いていた。

湊「……おお……。」

湊の目がじわじわと見開かれる。南蛮人が振り返りもしないうちに、湊は人垣を押しのけるように一歩踏み出した。

千蔵「……信じられるか? あの南蛮の連中、何か月も浪の上を揺られて来るんだとよ。いやはや、丸っきし御伽噺おとぎばなしみてぇだよな………てあれ、和光?」

湊「なんだ……あの妙な形の裾……あの布は絹か? いや、もっと……こう……光沢が……深海魚の鱗みてぇだ……。」

 ぶつぶつと独り言が止まらない。息を呑む間も惜しむように湊は言葉を吐き出す。

湊「色も……藍でもなく墨でもない……群青、まさに……異国の色ということか……。」

千蔵は眉を跳ね上げ、呆れ顔で小声を漏らした。

千蔵「……おい和光。何処で覚えたんだ、そんな言葉。」

湊「……浮世のものとは思えん……。」

千蔵「は?」

湊「……南蛮人め。何を食えば、そうなる……。あんな奇抜な成りをしおって……!」

 千蔵はしばらく呆れた顔で黙っていたが、やがて肩を揺らして笑った。

千蔵「はっはっはっは……変わってるな、お前。宗実殿とはまるで似とらん。」

宥珍「…千蔵、彼は私が見ておきますから、貴方は聴聞を進めて下さい。」

 一行が唖然とする中、その様子をみかねて宥珍が適切な対応をとる。千蔵は寺内町の見学のために湊を連れだしたようだが、この日の湊はというと結局皆の手を焼かせるだけに終わったという。

 

 ——帳簿を記録し終え、寺へ戻る途中のことだった。

湊「ありがとな、千蔵さん。おかげで面白いもんいっぱい見れたよ。」

千蔵「お、おぉ。喜んでもらえて何よりだ。」

千蔵「ひそひそ(和光ってこういうやつだったんですか?)」

宥珍「ひそひそ(前に大師様を見て一度。でも対象範囲はまだまだ広いようですね。私も不注意でした。)」

 何はともあれ、湊という人物像が寺内にて浸透しはじめたといえるのかもしれない。また湊にとってこの日は、十分社会見学にはなったようだ。

湊「でもさ、戦は刀や弓でやるもんだろ? 鉄砲? ってあんなに作ってどうするんだ?」

千蔵「そうか、まだお前、鉄砲撃ってるとこは見たことないんだな。」

湊「鉄砲を……撃つ?」

宥珍「お誂え向きに今度境内にて火縄試しが行われます。和光も是非見ておきなさい。」

千蔵「きっとぶったまげるぞ? あと十年かそこらで戦の主役は鉄砲になるともいわれてんだ。」

湊「へぇ…鉄砲…そんなすげぇのか。」

興味を覚えた湊だが、子供心だけに純粋な興味とは言い切れぬ違和感も覚えた

 そんな折、町の反対側からこれまた異様な空気を振りまく一行が、湊たちの眼前に出ようとしていた。

「おいそこ、道空けろ—」「きっと有力な武家の—」「やだ素敵—」

黄色き声も混じった人ごみを分け入って栗毛に跨った少年が、従者を引き連れ颯爽と通りの中央を行く。

 少年はまだ湊と同じくらいの年頃に見える。だが整った直垂ひたたれをまとい、背筋を伸ばしたまま馬を進めるその姿は、どうしようもなく大人びて見えた。またその瞳は色さえ遠目にわかるほど冴えていて、色めき立つ商人や町娘など最初から存在しないかのように澄んでいた。

湊「……なんだ、あいつ。」

千蔵「珍しいもんでもない。商用でここを訪れる家もあるさ。」

湊「…ふうん。」

口ではそう言いながら、胸の奥がざわざわと落ち着かない。視線が交わったわけでもないのに、見られているような気がして、湊は思わず息を飲んだ。

「……なんなんだ、あいつ。」

そう小さく呟いた時には、少年は既に過ぎ去り通りの奥へと消えていた。

 そのざわめきが只の思い過ごしではないことを、湊はこのすぐ後に知ることになる。


五.

 明くる日、小僧たち三十数名が境内にある道場に集められた。この日は湊が根来に来てから三度目の剣術稽古であった。しかも試合形式とあって、湊の気合は朝から隠しきれないほどだった。そしてその実力はやはり、小僧たちの中では頭一つ抜きんでている。

湊「てやーーーー!!」

その体捌きと気迫に押され、振り下ろされた湊の木刀が相手の額の上でふっと止まった。

千蔵「一本!」

次々と相手を切り伏せ、七人目を抜いたあたりで周囲がどよめきはじめる。

 湊は少しばかり天狗になり、木刀を肩に担いで振り向いた。

千蔵「やるもんだな、和光。」

湊「へへ。ざっとこんなもんよ!」

その瞬間、道場の入り口が静かに開いた。

宥珍「皆さん、新しい仲間を紹介します。ささ、こちらへ。」

 そこに現れたのは涼しげな顔をした袴姿の少年だった。腰には見慣れぬ木刀を帯び、背筋をまっすぐに伸ばしている。空気がさっと冷え、ざわざわと声が広がった。それもそのはず、仲間と謂われながら剃髪はせず、前髪を残して後ろでひとまとめに結っている。その身なりと物腰からして、ただ者ではないことは誰の目にも明らかだった。そして同時に湊も悟った。昨日、寺内町ですれ違った、あの男だ。

??「生まれは尾張国、名を惣一そういちと申す。今日よりしばし、こちらへ預けられることとなった。以後よろしくお頼み致す。」

千蔵「おい、あれって昨日の……和光?」

湊「……………。」

惣一は無言のままずかずかと小僧の間を分け入って行く。

 最後の一人を強引に払い退けて、湊と真正面に向かい合った。

湊「……やっぱり、あの時のお前だな?」

惣一「………………。」

湊「………………。」

惣一「………………誰だ?」

どっと大勢の笑い声が沸き起こった。宥珍は目を瞑ったまま、口元だけを吊り上げる。千蔵も同じ顔をしていた。

千蔵「そりゃそうなるって……。」

 湊はしばらく下を向き、顔を真っ赤にしてぷるぷると震えていたが、ついに声を張り上げた。

湊「それがし、生まれは大和国、こうs………むぐっ!」

千蔵「ばかっ、待て待て!」

 湊が家名を名乗りかけた瞬間、千蔵が慌てて口を塞ぐ。

千蔵「ははっ……こ、こいつ、和光ってんだ!ちょっと変な奴だが、仲良くしてやってくれ!(家名は駄目だ!忠清殿にも言われてんだろう!?)」

湊「む……んぐ!」

 そう——この寺では、身を置く小僧に家名を名乗らせない決まりがある。寺に来た初日、忠清もその念を押していた。

惣一は湊を一瞥し、口元をわずかにゆがめた。

惣一「……その名乗り。お主も武士の子か?」

湊が言葉を詰まらせるのを見て、惣一は淡々と続ける。

惣一「なるほど。大体察しはついた。武家に生まれながらその歳で寺に放り込まれているあたり……大方、素行不良で勘当された半端者ってところか。」

湊「!」

 その瞬間、場が凍りついた。湊の両手はぎゅっと拳を握る。誰も息を呑む音さえ漏らさず、ただ蝉の声だけが遠くで鳴いていた。

惣一「おまけに、その直情的で品のない言動。家格も高が知れたものだ。」

千蔵「おい、言い過ぎだぞ!」

湊「……わかった。……千蔵さん、そいつと一本勝負、やらせてください。」

千蔵「和光っ……!」

 湊は小さく息を吐き、惣一を正面から睨み据えた。悔しくも、惣一の「察し」はほとんど的を射ていた。一つ目の挑発は堪えたが、家への侮辱は武士の血が許さなかった。その瞳は泣きそうに赤く滲みながらも、一歩も退く色を見せていない。

湊「この勝負、まさか逃げねぇよな?……惣一どの。」

啖呵を切った瞬間、惣一は無言で目を細め、そっと木刀に手を添えた。

 ごくり、と息を呑む周囲。一拍おいて――

「うおおおお!!」

「サムライ同士の真剣勝負だってよ!!」

「凄いことになったぞ!!」

小僧たちが歓声をあげる。

千蔵「ゆ、宥珍さん……これ、止めたほうがいいのでは?」

 宥珍は静かに目を細めて笑った。

宥珍「ふふ……子供の喧嘩に大人が口を挟むものではないですよ。それに、初めて会ったその日に剣を交えた者同士は、不思議と縁ができるものです。」

千蔵「えぇ……。」

千蔵の心配をよそに、宥珍はすっと前に出る。

宥珍「いいでしょう。私が審判を務めます。二人とも、準備をなさい。」


 ――「絶対和光が勝つって!」「いや、あの新入りだろ!」

周りはもはや賭けでも始めそうな勢いだ。しかし湊は気にも留めず、袴で手を拭ってから木刀を握り直す。深く息を吐いた。一方の惣一は涼しげな顔のまま、淡々と構えの確認をとる。道場内は緊張に包まれた。

 宥珍「額か胴かの一本勝負。両者、位置について……打太刀、和光。仕太刀、惣一。」

湊はひとつ目を閉じて呼吸を整えた。

宥珍「始め!」

湊「だああああああああああああ!!」

静寂を切り裂く声とともに一気に間合いを詰める湊。その瞬間、道場にいる全員の血が沸き上がった。

 ッカアアアアァンッ!

十字にぶつかる木刀が乾いた破裂音を立てる。湊が真上から振り下ろした剣を、惣一は額当ての上で正面から受け止めていた。

惣一「ほぉ。」

涼しげな顔は変わらない。だが本人だけは眉に力が入るのを感じていた。

 このまま斬り伏せんと力を込める湊に、惣一も擦り足で一歩踏み込む。次の瞬間、惣一が胴への一撃を仕掛けるような動きを見せる。湊もすぐに半歩退いて応じた。

ふう、と息を吐く二人と、見守る者たち。

惣一「……啖呵だけの男ではないか。」

惣一もまた半歩退いて構え直すと、笑みを浮かべて続けた。

惣一「おもしろい。こうでなくてはな。」

湊「お前もな。」

 間合いを探り合い、じりじりと視線が交錯する。千蔵をはじめ大人たちも、ただ固唾を飲んで見守るしかなかった。

千蔵「(和光の奴、これまでとも別人だ。だが惣一も同等に手強い。先の戦分の疲れもあるはずだ。長引かせるのは禁物だぞ……。)」

湊「……いくぞ!」


 ——それから十数合は打ち合っただろうか。互いの額には何筋もの汗が流れる。荒い息を吐きながら、視線を逸らさず間合いを測る二人。

宥珍「……この中には近隣の地侍の子も数名いるが、この二人は別格ですね……。さあ、次はどう出ますか?」

 三歩ほど間合いが開いたその瞬間、勝負に出たのは惣一だった。ふっと息を吐き、大きく刀を振りかぶる。それに合わせて湊が構えを固めた――だが、その動きはフェイント。振り上げた刀をさっと下げると、そのまま胸当てを目がけて突きを放つ。だが湊はそれを見切り、木刀の根元で切っ先を払う。さらに惣一の伸びきった右腕の外、死角に踏み込んだ。

湊「でやあああっ!!」

勝負あったか――。

 しかし終わらなかった。なんと惣一は身体を翻し、前宙で湊の一撃を躱したのだ。その瞬間、場にどよめきが起きるも、その後はすぐに勝敗が決した。

 湊は攻勢を緩めず、振った木刀を返し、逆方向へ振り抜く。まるで燕返しのように──湊自身、その動きを“技”と認識していたかは定かではない。惣一も一か八か、振り向きざまに一撃を繰り出した。

バシイイイィィン!!

湊は額を、惣一は胴を打った。

 一拍の静寂――。

宥珍「両者一本!引き分け!」

道場内に歓声が沸き起こった。

「すげー!名勝負じゃん!」「二人ともかっこいい!」

 がやがやとした道場の外から一人の影がそっと覗く。

宥珍「おや、見ていらしたのですね?」

源敬「ええ、宥珍さま。……あの二人、面白いですね。」

 その声は胸を躍らせているかのようにも、物思いに浸るようにも聞こえた。

宥珍「私も、同じことを考えていました。」

源敬「それにしても彼、子供らしからぬ冷たい目をしていますね。」

宥珍「ええ、それなりに背負っているものがあるのでしょう。負けられぬ宿命、とでもいいましょうか。地元でもかなりの名家だそうで。」

源敬「……左様でしたか。」

源敬はそう呟き、激闘を終えた二人を遠くに見つめる。さっきまで握っていた掌にはまだ朝方の涼しい風が吹いていた。

 その二人はというと、それぞれ座り込んで打ちどころをさすっていた。

湊「いてて……、くそー!」

惣一「…………っく。」

千蔵「いやー、お二人さん!よく戦ったなあ!ほら、互いの健闘を称え合おうじゃないか!」

千蔵はそういってふたりの手を引っ張り握手させようとするも、湊はすぐにその手を解いた。

湊「ふんっ。まあ?俺の一撃の方が一瞬だけ早かったことと、前座七試合分のハンデを大目に見れば、よくやった方だよお前!」

 あくまで、自分に分があったことを認めさせたい湊であった。それを聞いて惣一も、すぐに手を解く。

惣一「……ふん。せいぜい、いい気になってろ。」

千蔵「おーい、仲良くしろって、お前ら……」

湊「へん、負け惜しみかよ!」

千蔵「いや、引き分けだからな?」

千蔵の突っ込みにも動じず湊は鼻を膨らませる。

 しかし惣一は意にも介さず薄笑いを浮かべてこう返す。

惣一「和光といったな。剣の腕は認めてやるが、これだけは言わせてもらう。」

湊「?」

惣一「俺には、まだ抜いていない“刀”がある。いずれわかるさ。お前がどれだけ剣を振るおうとも、届かぬものがな。」

 元の涼しげな表情で襟元と帯を整え、惣一は道場の横の井戸へ向かっていった。湊はその言葉の意味をまだ知らず、彼の背をただただ見送るしかなかった。

──道場の床には、まだ湿った汗の飛沫が残り、木の香と打ち合いの残響が、静かに空気の奥に滲んでいた。


※カクヨムでの更新は不定期と致しております。

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【戦国×書】ふでざむらい 葉庵Yoan @yo_an

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