第50話


 文遠が三公山に上ったことで講和がなり、妙才は早馬を飛ばした。

 その後正式に命が下り、軍は久しぶりに許に戻った。

 が、どうも文遠の様子がおかしい。機嫌が悪いというわけではなく、何か考え込んでいるような感じである。

 物事を引きずらない男にしては珍しく、何か気鬱の種があるのでは、と子賁は思っていたがそれが何かわからなかった。

 それから数日後、文遠は個人的に早々に呼ばれた。曹操の私室に呼ばれたということなので、よほどの内容なのか、と子賁は思っていた。

 数刻後、文遠は府内の私室に帰ってきた。が、様子がおかしい。

 しょげている?

「おかえり」

「…叱られた」

「は?」

 一瞬意味が分からず、子賁はぽかんと口を開けた。

「個人で挨拶に行くのはやりすぎだと」

 それで分かった。三公山に登って昌豨の家族に挨拶したことをとがめられたのだろう。降伏が成立したとはいえ変心する可能性は十分ある。将軍職のやることではないのは確かだし、少々脇が甘いとは子賁も感じていた。まして昌豨本人ではなく昌豨の家族に挨拶するのは明らかに蛇足だ。

「まぁ、将軍が単身下ったばかりの一族の元に行くのはやりすぎだったと俺も思う」

「…昌豨ですらあの程度の器だ。一族の中で気骨のあるものはいないだろうという考えを、隙と言われたらそうだったと思う」

 が、それだけではなかったらしい。

「『文がいてもいなくても困るような場は作るべきではない』と」

「?」

「お前を連れていないと俺の安全に不安が残る。だからといってお前がいれば余計な要求をされるきっかけになりかねん。いずれにせよやめろという話だった」

「よくお分かりで…と思うが、俺一人差し出して成立する和平なら下らん一方で安い買い物と思うけどね」

「おい」

 文遠が低く唸る。

「接待の一環に副官一人をけちけちするなよ。昌豨なんざ大人しくしていられるタマじゃない。遅かれ早かれまた叛意を起こして討伐されるのがおちだ。それを殿もわかっているがこそ余計なことをするなって話だろ。ただ気分よくおとなしくしてもらうのに飴銜えさせるつもりならそれもありだ」

 どうして割り切れないんだろうか、と心底不思議に思いながら軽く子賁が言うと、文遠はきっと目を吊り上げた。が、すぐにその目が下がり、悲しい色を浮かべた。

 不意に見せられたその目にたじろぐ。

 その色を子賁は知っていた。太原で別れるときに見せた目と同じだった。

 文遠がふっと息を吐いた。子賁と並んで牀に腰を掛ける。一瞬唇だけ動かし、何を言おうか迷っているようだったが、意を決したように口を開く。

「…楊氏からお前が敦煌で暴行を加えられかけた話を聞いた」

 それに子賁は息を飲む。敦煌近くの宿で、まだ十歳のころに複数の男に穢行を加えられたのは忘れたことはない。

 確かに太原でも同じようなことがあったが、その際はすでに16になっていた。大人の欲というものを垣間見て学んでいる年齢である。

 だが、敦煌の一件はまだ十歳である。

 文遠は子供への穢行を異常に嫌うところがあるゆえに、言ったところで仕方のない話でも心を痛めるだろうというのもわかっていた。

 だからこそ一番聞かせたくなかった。

 どうしてそれを文遠に教えたのか。

 膝の上で握った手が震える。

 思わず楊異を責めたくなったが、文遠はそれを察したのだろう。

「…毒矢に当たった時、牀を一緒にした後何度かうなされていた。数日たっておさまったが、あまりにひどいときに一度起こしたことがあった。その時にお前が酷く俺を怖がってな。翌日様子をうかがっていたがお前に記憶がない様子だったから、心当たりがないか楊氏に聞いてみた」

 そういうことだったか。だとすれば自分の失態である。子賁は唇をかんだ。

 文遠がとつとつと続ける。

「後で振り返ると、だが…単に文化の違いだけならお前は柔軟性が高いし度胸もある。だが…牀を一緒にすることをあまりに渋ったのが後になって引っかかった。しかもお前はその自覚がない」

 そして様子を見ていて、疑念が増したという。

「徐公明が来た時も異常に緊張していた。今も俺と貌利以外の身体の大きな男に対しては本当に微かにだが距離を置く癖がある。気づきにくい、本当にわずかなものだが…。そのくせ相手から踏み込まれると一切拒否しない。好意的と思われて見過ごされがちだが、どちらかと言えば自分に拒否する権利がないと言わんばかりの態度だ。不自然すぎる」

 子賁はため息をついた。さすがに自らも優れた将であり、子賁をよく知っているだけはある。ごまかしは効かなかったということか。

「十六のあれは、…お前をさらに深く傷つける出来事だった。そうだな」

 襟に手をかけられ、帯を抜かれ身体をいじられたことを思い出すだけで震えが止まらなくなる。それを情けなく思いながら、子賁はうつむき呻くように言った。

「…未遂だったしあきらめもつけたと思っていたが。今も思い出すだけでこれだ」

 息が浅くなるのを、文遠は子賁の背をなでてなだめる。

「お前、その自分を雑に扱う癖…おそらく自分はそういう存在だ、と思うことで仕方ないことと受け入れようとした結果だろう。殿もその態度には違和感を持っている」

 曹操も非常に鋭い観察眼を持っている。いくら子賁が陪臣でも許にいるときはしばしば押しかけられたりお忍びに引っ張り出されたりと、曹操と顔を合わせることも多かった。軍旅の中でも巡察のたびにこっそり子賁のところに遊びにくる事もある。その中で気づかれたのだろう。

 それを直接でないにせよ子賁にも知らせるために文遠を叱責したのだろう。曹操は下邳の交渉で何が起きたかを知っている。

 だとしても、それはきれいごとだ、と子賁は思った。

 人の命に勝るものはない。そのために求められるものがそれ以下のものであるなら、吝しむべきではない。人民のために死ね、というのは寸土を持たない王であってもそうであるべしという亀茲王としての矜持でもある。

 まして身体程度を吝しむつもりはない。

「…過去の傷のおかげであれこれ惜しまなくて済むようになったって考えてくれよ。そうじゃないとあの出来事はただの俺個人の心の傷で終わっちまう。…俺はそれでいいと思っているよ。だから」

「子賁」

 強く名を呼ばれ、子賁は口を閉じた。

 それに文遠は肩を抱いて、自分にもたせ掛ける。

「仕方ないと思わなければ心の傷から自分を守れなかったのだろう。そして一人で生きていくならその心構えは必要だったかもしれない。…だが、お前は俺のところに戻ってきた。俺はお前にもうそんな目には絶対遭わせない。そう決めた」

 瞠目する。

「乱世だから、何が起きてもおかしくないのは事実だ。だが、それを看過せねばならんという理屈もない。…武人にあるまじき甘さと言われてもいい。お前自身のためが無理なら、お前を想う人たちのために自分を大事にしてくれ」

 娘子に言うようなセリフじゃないか、という言葉は胸の中で消えていった。

 その子賁にかすかに悲し気な笑みを浮かべ、文遠が子賁の手を握った。

「…下邳の時、俺は辛かった」

 さらに思わぬことを言われ、子賁は顔を上げた。

「…使者としては確かにあれでよかった。お前らしいとあの時は思おうとした。が、家族としては…助けを求めてほしかった」

 子賁は息をのんだ。

「お前をつらい目に遭わせたくないのは本心だ。が…わが手にかけることを何とも思わないわけがないだろう」

 一瞬時が止まった。

 その通りだった。文遠のためにそうあるべき、と思い込んでいた。自分を手にかけ文遠も後を追ってくる、ということに全く疑問を持っていなかった。

 いくら武人であれ、情をかけている人間に手にかけてほしいと願われることは、あまりに残酷であろう。

「声に出さなくても、目でだけでもいい。悲しいと叫んで抗ってほしかった。…頼む。全部一人で抱えて、逝かないでくれ」

 子賁は思わず自分の手を握る文遠の手を逆に取り、両手で額に押し当てた。

 文遠がどれほど自分を大切に思ってくれているのかはわかっているつもりだった。実際に大の男に対して過保護というほどに大事にしてくれている。うっとうしいとさえ思う程の手厚さの真意は、子賁にこれ以上傷ついてほしくないという願いだった。

 改めて聞かされ、文遠の想いの強さを突き付けられたように感じた。

 なのに。

 これほどまで自分の幸せを願ってくれている文遠に、自分は何をした。

 それを一顧したとたん視界がゆがむ。涙がどっと溢れた。

 最悪の結果になった場合、下邳のことはお互い死ぬ前のほんの四半刻程度の話だったかもしれない。が、自分の心の傷を無視していたために、文遠を死ぬ最後の瞬間、悲嘆と絶望の淵に突き落とすところだったことに気付いた。

 剣を奪って共に斬り死にでも、少なくとも子賁を手にかけないで済む分文遠は笑って死ねただろう。

「ごめんなさい…!」

 文遠にかじりつき、子供のように子賁は泣いた。

 ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返ししゃくりあげる子賁の肩を、やさしく文遠は右腕で抱え、左手で頭を撫でながら宥めた。

「こんな交渉は俺ももうしない。お前を調略の道具のように見られるのはたくさんだ…。戦をおだやかに納めることに固執しすぎた俺も迂闊だった。すまない」

 子賁は激しくかぶりを振った。文遠は何も間違ったことをしていない。人を殺さないために交渉と調略は必要な手段である。将として取った首の数を数えるより落さずに済む首の数を数えるのは、いかにも文遠らしい優しさだ。

 ただし文遠はもう交渉をしないといっている。となると交渉事は人に任せ、自らの手でなすのは剣戟で敵を殲滅するという苛烈な選択になるだろう。

 子賁は自分のために文遠が名将としての徳を大きく損じたように感じた。が、自分と関わる中でそれはいつか起きる事であったのだろうか。

 膝の上に子賁を座らせ、あやすように文遠は軽く抱えた腕を揺らす。

「もう泣くな。お前を供して得る功など何の意味もない。お前は我らにとっては宝でも、相手にとっての価値はお前ひとり分でしかない。その程度で物事の判断を左右する愚か者の降伏を許すなということよ。殿もそれをよくご存じだからこそ俺を叱責されたのだ」

 

 

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白文記 — Dipso — 鼎 史生 @Iceager1729

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