第18話

 僕という、空っぽの器を引きずりながら、気がつけば学校の教室にいた。


 いつからここに座っているのか、どうやってここまで来たのか、その記憶は曖昧だった。深夜に校舎へ足を向けたこと、誰もいない廊下を歩いたこと、そして自分の席に腰を下ろしたこと。それらの行動は、まるで別の誰かが操縦する人形のように、僕の意思とは関係なく行われていた。


 西に傾いた太陽が、窓ガラスを通してオレンジ色の光線を床に長く伸ばしている。その光の中を、目に見えないほど細かな埃が無数に、そしてゆっくりと舞っていた。それはまるで、時間の流れそのものが可視化されたかのようだった。


 僕は席に座ったまま、その光景をただぼんやりと見つめていた。


 罪悪感という感情は、かつて確かに僕の中に存在した。三人目の犠牲者が出たあの日、僕の肩に触れたというだけで不可解な死を遂げたあの一年生のことを知った時、僕の心は罪の意識に押し潰されそうになった。僕が歩く災害であるという事実は、僕の精神を根元から揺さぶった。


 絶望という感情も、確かに僕を支配していた。桜木セイラの正体を知り、僕が掴んだはずの希望が、最も残酷な偽りであったと悟った時、僕の世界は音を立てて崩れ落ちた。あの時の、足元から奈落の底まで落ちていくような感覚は、今でも体のどこかに記憶の残滓としてこびりついている。


 しかし、それらの感情も、あまりにも長く、あまりにも濃密な地獄の日々の中で、徐々にその輪郭をすり減らしていった。毎日繰り返される家族の険悪な空気。僕の存在が引き金となって起こる学校での陰湿ないじめ。僕に向けられた善意が、悪意に転化していく瞬間。それらの光景を、僕は僕が下した決断に従って、ただ黙って見つめ続けた。


 最初は、心が焼け付くように痛んだ。自分の無力さに吐き気を催した。だが、同じ痛みを何度も何度も繰り返し体験するうちに、僕の心は自己防衛のために、その感覚を麻痺させていったのかもしれない。熱い鉄に触れ続ければ、やがてその部分の皮膚は感覚を失う。それと同じように、僕の心もまた、度重なる灼熱地獄の中で、感情を感じるという機能を完全に喪失してしまったのだ。


 今、僕の内側にあるのは、ただの無だ。


 何もない。


 何の色も、何の音も、何の温度もない、完全な空虚。


 僕はただの器になった。かつては穢れを溜め込むための器だったが、今ではその穢れさえもが僕という存在そのものと一体化し、もはや区別がつかない。僕は、僕という形をした、空っぽの容れ物。ただ呼吸をし、ただ心臓を動かし、ただそこに在るだけの、生命の抜け殻。


 机の表面の木目を、僕は目でなぞった。誰かが付けた傷、インクの染み、落書きの跡。それらはかつて、僕にとって意味のある記号だった。しかし今は、ただの模様にしか見えない。その傷がいつ付けられたのか、誰が書いた落書きなのか、そんなことはもうどうでもよかった。全ての物事から、意味というものが剥奪されてしまった世界。それが僕の生きる現実だった。


 窓の外では、運動部が活動を終えてグラウンドを整備している。彼らの掛け声が、風に乗って微かにここまで届いてくる。それは、僕のいるこの静寂の世界とは全く別の、生命力に満ち溢れた世界の音だった。僕はその音を聞いても、羨ましいとも、疎ましいとも思わなかった。ただ、遠い国の祭り囃子を聞くように、現実感のない背景音として認識しているだけだった。


 どれくらいの時間、そうしていたのだろう。


 オレンジ色だった光線は、やがて赤みを増し、教室の床に投げかける長方形をさらに長く伸ばしていった。世界の終わりが近づいているかのような、荘厳で、そしてどこか物悲しい光。


 その、僕の目の前の空席に。


 何の予兆も、何の気配もなく、彼女はそこに座っていた。


 僕は驚かなかった。もはや僕の心には、驚きという感情を生成する機能さえも残されてはいなかったからだ。僕はただ、目の前に現れたその現象を、机の木目を認識するのと同じように、ただの事実として受け止めた。


 桜木セイラ。


 純白のセーラー服は、夕暮れの赤い光を吸い込んで、まるでそれ自体が淡い桜色に発光しているかのようだった。長い黒髪は、風もないのに、その肩のあたりでさらりと揺れている。陶器のように滑らかな肌、大きな切れ長の瞳。その人間離れした美しさは、以前と何ら変わりはなかった。


 彼女は、僕の正面の席に、ごく自然に腰を下ろしていた。まるで、最初からそこにいたクラスメイトの一人のように。しかし、彼女の放つ空気は、この教室にいるどの人間とも異質だった。彼女の周りだけ、温度と湿度が違う。清涼で、そしてどこまでも非人間的な空気が、彼女という存在を中心に形成されている。


 僕は、彼女の方を見なかった。視線は、相変わらず窓の外の、赤く染まった空に向けられたままだ。彼女がここに現れた理由を考えることもしない。考えるための思考力が、僕にはもう備わっていなかった。


 静寂が、僕たちの間に横たわっていた。それは、ただ音がしないというだけの静けさではなかった。僕という空虚と、彼女という超越的な存在が対峙することで生まれる、世界の均衡が極限まで張り詰めたような、絶対的な静寂。


 やがて、その静寂を破ったのは、彼女の方だった。


「予想していた通りの結果になりましたね」


 鈴が鳴るような、美しい声だった。しかしその音色には、何の抑揚も、何の温かみも含まれていない。精巧に作られた自動音声が、プログラムされた文章をただ読み上げているかのような、無機質な声。


 彼女は、す、と音もなく立ち上がった。そして、僕の机の横まで歩み寄ると、僕の顔を覗き込むようにして、その無感情な瞳を僕に向けた。


「あなたの選択は、結果として、土地の汚染を最大限まで拡大させました」


 その言葉は、僕の鼓膜を揺らし、脳へと伝達された。しかし、その意味を僕の心が理解することはなかった。言葉は、僕の意識の表面を、まるでガラスの上を滑る水滴のように、何一つ痕跡を残さずに通り過ぎていった。


 彼女は、そんな僕の反応を意に介する様子もなく、淡々と続けた。


「あなたは、罪から目をそらさないと言った。自らが破壊していく日常の中心に留まり続けると。それは一見、最も過酷な道を選んだ勇敢な行為に見えるかもしれません。」


 彼女の視線が、窓の外に向けられる。その視線の先にあるのは、この学校、そしてこの町そのものだろう。


「しかし、結果として、それは土地の汚染を最大限に拡大させてしまった。もはや、あなたの器から漏れ出すのではなく、あなた自身が呪いの発生源そのものと化している」


 彼女は、再び僕に視線を戻した。その瞳の奥は、どこまでも深く、そして冷たい。


「あなたの存在そのものが、この土地の秩序を乱す、最大の災厄です」


 災厄。汚染源。


 彼女の口から紡ぎ出される言葉は、淡々と事実を羅列していく。

 僕は、それでも何の反応も示さなかった。彼女の言葉に反論する気力もなければ、その言葉に傷つく感情さえも、僕にはもう残されていなかった。僕はただ、夕日で赤く染まった教室の壁の一点を、虚ろな目で見つめ続けているだけだった。


 僕のその無反応さが、彼女にとっての最後の確認となったのかもしれない。


「浄化は不可能です。これ以上の汚染拡大を防ぐためには、汚染源そのものを、この世界から完全に排除するしかありません」


 それは、宣告だった。

 僕という存在に対する、死刑宣言。


 しかしその言葉でさえ、僕の心を揺り動かすことはなかった。死。それは僕にとって、もはや恐怖の対象ではなかった。生き続けることが地獄であるならば、死は、あるいは救済なのかもしれない。そんな思考さえ、僕の頭には浮かばなかった。ただ、そうか、と。一つの事実として、その宣告を受け止めただけだった。


 セイラは、その自らの性質に基づいて、最終的な決断を下したのだ。この土地の秩序を維持するため、浄化が不可能と判断した僕という存在を、完全に抹消するという決断を。


 彼女は、そっと僕の前に右手をかざした。

 白く、細く、まるで血が通っていないかのように透き通った指先。その手は、僕の体に触れることはなかった。僕の額から数センチ離れた場所で、その動きをぴたりと止める。


 その瞬間、僕は自分の身に何が起ころうとしているのかを、理屈ではなく、本能で理解した。


 僕は、消えるのだ。


 この世界から、僕という存在が、完全に消去されるのだ。


 不思議と、恐怖はなかった。抵抗しようという意思も湧き上がってこない。僕はただ、これから自分に訪れるであろうその運命を、静かに受け入れていた。それが、この長くて短い地獄の、唯一の出口なのだと、僕の魂の最も深い部分が、納得してしまっていたのかもしれない。


 彼女のかざした手のひらから、何か、目には見えない力が放たれた。それは熱でもなければ、光でもない。もっと根源的な、世界の法則を書き換えるような、絶対的な力。


 痛みは、全くなかった。

 熱も、冷たさも感じない。


 ただ、そこにあったはずの自分という存在が、世界から消えていくという事実だけが、僕の意識に流れ込んできた。


 僕は、自分が世界から消去されていくという、その壮絶なプロセスを、まるで特等席で鑑賞している観客のように、静かに見つめていた。


 逃げたいとも思わない。助けてくれと叫ぶこともない。僕の心は、完全な静寂と無の中にあった。

 僕は、自分が死ぬのだという実感さえ、もはや持っていなかった。これは死ではない。もっと別の何か。存在の完全な抹消。


 僕がこの世界にいたという記録そのものが、今、この瞬間、消去されようとしているのだ。


 まるで眠る前かのように、僕の意識が、完全に途切れる、その最後の瞬間。

 僕の空っぽだったはずの脳裏に、あるいは魂のスクリーンに、一つの光景が、まるで走馬灯のように、鮮やかに映し出された。


 それは、何も起きていなかった頃の、ごくありふれた、僕の日常の光景だった。


 朝、決まった時間に目を覚まし、代わり映えのしない制服に袖を通す。毎朝同じ通学路を、同じ歩幅で歩き、何も考えずに校門をくぐる。教室の自分の席に着けば、あとは時間が過ぎ去るのを待つだけだ。チャイムが鳴り教師が来て、教科書のページがめくられまたチャイムが鳴る。その繰り返し。


 友人と呼べる人間は、一人もいなかった。他者との関わりは面倒事を運んでくるだけだと信じ、誰にも干渉されず、誰にも期待されない孤立状態を、むしろ快適だと感じていた。

 世界は、退屈で、平坦で、どこまでも灰色の一本道のように感じられた。


 あの頃の僕は、その日常を、心から退屈だと感じていた。変化のない毎日に、うんざりしていた。

 しかし、今、この消えゆく最後の意識の中で、その灰色の光景は、僕にとって、かけがえのない、そして二度と手に入らない、失われた楽園のように、温かく、そして懐かしく照らし出されて見えた。


 ああ、そうか。


 僕が本当に帰りたかった場所は、あそこだったのかもしれないな。

 あの、何も起きない、退屈なだけの、灰色の日常に。

 その懐かしい感触に、僕には、もう存在しないはずの手を伸ばそうとした。


 だが、その温かい光景に僕がいることは、もはや永久になかった。


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白皙の少女 速水静香 @fdtwete45

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