狐火と花あかり
須藤淳
第1話
山のふもとに、ひとりの猟師が暮らしていた。
ここ数年、彼は奇妙な悪戯に悩まされていた。
獣道に仕掛けた罠は外され、猟銃の火薬は湿らされている。保存していた干し肉には泥が塗られ、倉庫の扉には鋭い爪痕が刻まれていた。ある晩などは、猟犬の餌に山椒の実が混ぜられ、犬が朝まで吠え続けた。
(まるで人を小馬鹿にしたような……悪意のある悪戯だ)
そんなある朝、不思議なことが起きた。目を覚ますと、家の軒先に果物の籠が置かれていたのだ。熟した柿、山桃、木苺、栗。最初は警戒していた猟師だったが、それが何度も続くうちに、少しずつ心のこわばりがほぐれていった。
果物を運んでいたのは、一匹の雌の狐だった。
彼女は知っていた。夫である雄の狐が、人間に対して悪戯を繰り返していることを。
それは単なる興味本位ではなかった。夫は人間の暮らしに憧れていた。火の灯る家、言葉を交わす姿、温かな食事。けれどそれに近づく術がわからず、悪戯という形でしか関われなかったのだ。
彼女はそんな夫を責めなかった。
その代わり、せめてもの償いにと、山で採った果実を毎晩そっと人間の家に届けていた。
それがどれほど重くても、どれほど遠くても、雪が降る夜であっても、子を宿してからも変わらなかった。
彼女の中にあったのは、ただ静かな祈りだった。
(どうか、夫の無邪気さが、人間の憎しみに触れませんように)
春の訪れとともに、彼女は小さな命を産んだ。
初めての子。愛おしい命。
けれどその夜も、彼女は果物をくわえて山を下りていった。
その時だった。
山道にいた猟師が、物音に気づき銃を構えた。木々の合間に現れた狐――それを、猟師は悪戯を繰り返してきた狐だと思い込んだ。
迷いはなかった。引き金が引かれた。
銃声が一発、山にこだました。
狐の体が倒れ、籠が転がり、果実が雪の上に散らばった。
近づいた猟師は、その澄んだ瞳と穏やかな顔に息を呑んだ。
(果物を持ってきていたのは……この狐だったのか)
男はその場に崩れ落ちた。
◆
山の奥、ひときわ大きな山桜の木の下に、小さな墓が作られた。
春になると、その桜は満開の花を咲かせ、夜の闇に淡く灯る。
猟師はその桜が咲くたび、毎年ひとりでその場所を訪れ、無言で手を合わせていた。
その姿を、遠くの岩陰から見つめる影があった。
それは雄の狐。冷ややかな目で、その光景を見つめていた。
彼の胸には、深く重い悔恨が渦巻いていた。
自分の戯れが、軽率な行動が、彼女の命を奪ったことを知った。
夜ごとに思い出すのは、果物を運ぶ彼女の背中。自分の代わりに、祈るように通い続けたあの姿だった。
そして、もうひとつの感情が彼の中に根を張っていた。
それは、ずっと憧れていたはずの人間への憎しみだった。
あの男の目には、自分と彼女の違いさえ映っていなかった。
いたずらをしたのは自分だったのに、撃たれたのは、無垢な彼女だった。
何も知らず、何も見ようともせず、引き金を引いた。
怒りが胸を焦がした。けれどその怒りをどこにもぶつけることはできず、彼は深く心を閉ざし、孤独の中に沈んでいった。
そして、まだ目も開かぬ子を残したまま、山の奥へと姿を消した。
◆
子狐は、母のぬくもりも、父のまなざしも知らずに育った。
けれど、山桜の下に行くと、不思議と心があたたかくなるのだった。
ある冬、大寒波が山を襲った。
飢えた子狐は衰弱し、最後の力をふりしぼって、桜の木のもとへとたどり着いた。
そこに現れたのは、父狐だった。
いつまでも向き合えずにいたその子に、そっと鼻先を伸ばす。
震える体、浅い息。彼女の忘れ形見――幼い命。
(この子を救えるのなら――)
父狐は、まるで悪魔に魂を差し出すような決意で、山を駆けた。
◆
人間の家の前に立った父狐は、じっと猟師を見つめた。
猟師はその視線に気づき、思わず立ち上がる。
狐はゆっくりと歩き出す。振り返り、また歩く。
男は銃を置き、その後を追った。
たどり着いたのは、あの山桜の下。
そこに、小さな体を丸めた子狐がいた。
男は黙って外套を脱ぎ、子狐を抱き上げた。
かつての後悔が、再び胸を締めつけた。
彼は子狐を連れ帰り、懸命に看病した。
命の灯が、少しずつ戻っていった。
◆
やがて、子狐が回復すると、父狐はふたたび猟師を桜の木へと導いた。
その夜、満開の桜が夜空の下で淡く輝いていた。
風がそよぎ、枝の先にふわりと淡い光が灯る。
夜の闇に浮かぶ、青白くゆらめくその灯りは、懐かしく、どこか温かな気配をまとっていた。
父狐は、少し離れた木の根元に腰を下ろし、光に包まれ、安らかな寝息を立てている子狐を、じっと見守っていた。
赦しを乞うでもなく、礼を言うでもなく、ただ静かに、深く、見つめていた。
猟師もまた、狐に言葉をかけることはなかった。
どのような言葉も、もはや無意味だと、彼自身がよく知っていた。
それでも――今ここに生きているこの命だけは守りたいと。
一匹と一人、それぞれの胸に、ひとつの決意が灯っていた。
ふいに、花の間を漂う光が、三つの影をやさしく照らした。
父狐は、まぶたを閉じた。
(……おまえ、ずっとそこにいたのか)
猟師は帽子を脱ぎ、胸の前で静かに手を合わせる。
赦されようとは思っていない。
救われることも、望んではいなかった。
ただ、亡き彼女の祈りに、ほんの少しでも応えるように――
この子に、あたたかな未来を残すために。
言葉にならない絆が、夜の山にそっと結ばれていた。
白い狐火と、やわらかな花あかりが、その絆を見守るように、春の夜をやさしく照らしていた。
《了》
狐火と花あかり 須藤淳 @nyotyutyotye
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