夕焼けアンビバレンツ(完全版)
外清内ダク
夕焼けアンビバレンツ
女の子に泣かれたんだ、目の前で。健全な男子高校生としてはアタフタするしかないじゃないか。学校の最寄り駅は古くカサついた高架上にあり、ホームに立てば、眼下に広がる住宅街の遥か向こうに焼けつくような夕陽がよく見える。でもその赤々としたビーム光を浴びながら同級生の女子が涙をこぼしてたら、僕なんか、心臓を破裂させるよりほか仕方ない。
夕焼けに燃える下り線ホームに、待ち客は僕と君の二人だけ。別に付き合いがある相手じゃない。学校でたまにすれ違うかな? お互い苗字くらいは知ってるかな? 君、
「あのォッ!」
僕のうわずった声は思いのほかの絶叫になってしまい、君は目を丸くしてこちらを見る。僕は慌てて言いつくろった。
「あっ、いや……きれいだよね、夕焼け」
「大っ嫌いだ」
「えっ、ごめん」
「君じゃない。夕陽」
君は拳で涙をぬぐい、眉間にシワを寄せて再び夕陽を睨む。
「一日の終わり。太陽ごときが勝手に終わらせるなって」
「好きだよ」
なんとなくポツリと呟いたことで、君が妙に熱い視線をくれて、僕は再び血液を沸騰させる。ものすごい量の汗が顔面から噴き出して玉を作った。だめなんだ。緊張すると顔に汗かくタチで。でも、ここでひるむわけにはいかない。正体不明の衝動に駆られて僕は無闇に両腕を振り回し、ほぼ見ず知らずの君を相手になぜか熱弁をふるいはじめた。
「あっ、いや、つまり、そりゃ終わるけど、夕陽が沈んだらまた昇るし。昇ったら次の夕陽もあるし。単純にきれいだし。つまり……僕は好きだなって」
「夕陽がね」
「えっ? うん……あっ」
君はそれっきり、僕には見向きもせずにホームの奥へ行き、ちょうど到着した電車に乗り込んでしまった。僕は呆然とその一挙一動を見送り、雪山のように鋭い君の横顔を遠目に見つめ、そのまま列車のドアが閉まるところまでしっかりきっちり見守った。
いや、見守ってどうすんだよ! この電車に乗るんだろ!
列車は僕を置き去りにしたままモーターを唸らせ走り去っていく。あーあ。なにやってんだろ……なにやってたんだ? やっと落ち着きだした脳ミソで自問すれば、答えはとっくに明白だ。すでに気づき始めてたんだ。僕が口走った「好きだよ」の一言、それについての君の勘違いが、だんだん勘違いじゃなくなりだしてるっていう事実に。
*
「此岸くん。今日は乗る?」
翌日の夕方、またしても同じ駅の同じホームで、今度は君から僕に声をかけてきてくれた。今日は二人きりってわけじゃない。周りには高校の先輩後輩も数人いるし、仕事帰りの勤め人らしきおじさんもいる。なのに君は、電車待ちする僕のすぐ左側に寄ってきて、僕にしか聞こえない声でそんなことを問う。僕は酸素不足の金魚のように口をパクパクさせながら、ようやく喘ぎ半分に訊き返す。
「乗るって?」
「電車。また見送るつもり?」
「あっ、いや」
「変な子だね。昨日なんで乗らなかったの?」
「いやあ……」
言えるか? 君がきれいすぎて見惚れてました、とか? 言えるわけないでしょう。女の子と喋ってるだけで心臓バクバクの僕だよ。なのに君は僕の緊張には全然かまわず、さらに半歩、間合いを詰めてくる。
「どこまで乗るの?」
「
「私、一個手前だ。
「へえ?」
「一緒に帰ろう」
「へぁっ!?」
脳天から突き抜けるような僕の
四つの駅を通り過ぎ、桜町でドアが開くと、君は僕の横をそっとすりぬけながら囁いた。
「また明日」
長い髪の先端が、僕の手の甲をくすぐり去っていく。
閉まるドアが君を僕から隔離したって、もう僕らの日常は戻ってこない。列車の中に残された僕は、一人にもかかわらず独りじゃなかった。高鳴る胸の鼓動の中に、君の声は確かに混ざり、残ってた。
明日。また明日。今日という日は夕陽も沈み、蒼蒼とした夜に飲み込まれてしまったけれど。
それから毎日、僕らは一緒の電車で帰った。はじめのうちは会話も無かったけど、日を追うごとに警戒心も溶け、僕らはポツポツしゃべりはじめた。たいした話じゃないよ。ごくつまらない、なんでもないこと。宿題のこととか。中間テストとか。学校のクソつまらん先生の愚痴とか。そういう、学生なら絶対ハズさない共通の話題だね。そうして話しているうちに、君の存在が、だんだん僕の当たり前になっていく。宿題を忘れて叱られた日も、テストの結果がボロボロだった日も、帰りには君と一緒だって思うと不思議と心が軽くなる。
たまたま僕だけ早くホームについてしまったときは、待合室に座って君が来るのを待っていた。君は息を切らして駆けてきた。僕の顔を見ると、君は頬を紅潮させて、荒く息を吐きながら嬉しそうに笑った。
「よかった。間に合わないかと思った」
背筋に電流が走り、でくのぼうみたいな僕の体を震わせる。僕は反射的に、また声を裏返してしまう。
「大丈夫っ! 待ってたから」
その日だよ。
電車の中で、たまたま席が空き、二人並んで腰を下ろして。お互いの膝と膝の間、他の誰も見ることのない二人の秘密の空間で、はじめて君が、僕の手を握ってきてくれたのは。
僕は――握り返した。痛くないように、力を籠めすぎないように、それでも僕の気持ちが伝わるように、強く、強く――
僕は君を直視することもできず、なんだかひどく怖い顔をして窓の外の夕陽ばかりを睨んでた。大手橋。長津。列車は進む。長津図書館前。浦崎新田。ちくしょう、どんどん近づいてくる、僕らの『今日』の終わる時が。
嫌だよ。終わるな。終わらせたくない!
意を決して、僕は口を開いた。
「ねえっ! あの、今度の日曜、あー、空いてる? いや、見たい映画があってー、興味あるかな、ハリポタのやつなんだけど、ハリポタじゃなくて、ハリポタの過去の話、みたいなやつで、三作目でストップしてたシリーズの
「スピンオフ」
「そうスピンオフ! それで、よかったら、その……行かない? 一緒に」
『次はー、桜町ー、桜町ー。お出口は右側です。桜町を出ますと、次は江楽町に止まります……』
僕が発した精一杯の勇気は、車内アナウンスに呑まれて消えた。減速による慣性力が君の肩を僕の腕に密着させ、僕は口が乾いてパサつき始めるのを感じる。窓の向こうに列車待ちの人の列が見えだした。ああ、もうすぐ止まる。止まってしまう。
と、不意に君が吐き捨てるように言った。
「大っ嫌い」
僕が驚き、目をうるませると、君は悪戯っぽく舌を出す。
「夕陽のことはね」
*
とにもかくにも落ち着くことだ。それが何より一番大事だ。なんたって僕は汗っかき。変に緊張したら、また顔面からものすごい汗が吹き出てしまう。三時間かけて選んだ服も汗で湿っちゃ台無しだ。僕はデートの前日から百万回も深呼吸し、あらゆるパターンを想定してイメージ・トレーニングを繰り返した。デート! 女の子とデート! ……デートだよね? そう思ってるのは僕の方だけ? いや、そんな疑念は置いておけ。名前や形式なんか問題じゃない。焦るな。落ち着け。気を静めろ。一緒に映画見て、甘いもの食べながらコーヒーとか飲んで、君に「楽しい」って感じてもらうこと。必要なのは、ただそれだけ。お金OK。靴OK。清潔なハンカチ、散髪、歯磨き、全部OK。
ところが、万全の心構えで臨んだはずの待ち合わせに、君が青アザ作ってあらわれたものだから、僕はまた動揺の奈落に突き落とされた。君の左の目尻あたりが、痛々しい内出血に染まっている。
「大丈夫!?」
とオタつく僕から、君は冷たく目をそらす。
「なんでもない」
「なんでもなくは……」
「なんでもないっ」
まるで自分に言い聞かせるかのように叫び、君は一人で列車に滑り込んだ。慌てて僕も後を追い、君の隣に座ったけれど、僕らの間には気まずい緊張が横たわるのみだ。もともと君は口数の多い方じゃないが、今日の寡黙さは際立っている。一言もしゃべらない。出会ったばかりの頃みたい。僕は一人で話題を振りまくり、その全てを君は黙殺し続けた。
電車を降りた。映画を見た。あれほど楽しみにしていたシリーズ最新作なのに、君のことが気になってストーリーを楽しむどころじゃなかった。上映中に一度だけ、僕は、かすかなすすり泣きの声を聞いた。聞いたと思う。確かに聞いた。何かの聞き間違いであってくれればどんなにいいか。
それなのに、スタッフロールが流れ尽くして、白い照明が観客を日常の世界へ引き戻したときには、君は普段どおりの君に戻っていた。
「んんーっ、面白かったぁー! ね、面白かったね、ね!」
「あっ、うん、だね」
「やっぱりさあ、魔法生物がいいんだよ。なんかホントに生きてる感じがする。ねえ、どれが好きだった? 私はぁー、イズナっていう子がぁー……」
映画が始まるまでの重苦しさは何だったんだ、っていうくらいの勢いで君は喋り倒した。今まで一度も聞いたことない早口。映画が良かったせい? それもあるんだろうけど。
二人並んで街を歩き、駅前のタリーズで一番奥の席についたが、君はホカホカにヒーティングされたハニー・ウォルナッツ・ドーナツに口を付けようともしない。そのくせおしゃべりだけは洪水のように溢れ続け、僕に口を挟む余地さえ与えないんだ。
「あのさ」
一時間以上も君の言葉に耳を傾け、話し疲れた君が完全に冷めたコーヒーに口を付けたところで、僕は慎重に切り出した。
「聞かせて……くれる?」
「嫌だ」
「『なんでもない』って嘘でしょ?」
「ふーん」
「何か、あったんでしょ?」
「あったよ」
「いつもの君と違いすぎる。無理して明るくふるまって。それは、今日こうやって二人で……その、デート……だと僕は思ってるんだけど、この時間を大事にしてくれてるんだなって分かる。だから……聞かせてほしい。僕で力になれるかは……」
「なれないよ」
「なれなくたって聞きたいよ」
「私だって甘えたいよ!」
君は椅子を蹴って立ち上がり、店内を突っ走って飛び出て行った。僕は慌てて追おうとし、椅子に足をもつれさせてスッ転び、おでこを思いっきり床に打ち付け悶絶しながら立ち上がり、再び駆けだそうとして「あっ」とテーブルの上のトレイと皿を片付けてないことを思い出し、
「あ、いいですよ~そのままで!」
なんて、とっさに気を利かせてくれた店員さんの厚意に甘えて君を追う。
店から走り出たちょうどその時、ロータリーの向こうの駅の階段口に飛び込む君の背中が見えた。人ごみ掻き分け君を追う。ホームへ続く急階段を二段飛ばしに駆けのぼる。息が切れる。運動は苦手だ。でもゼエゼエ言いつつ見上げれば、君も同じように階段の途中で手すりにすがりついている。似た者同士かなあ、僕たち。苦笑しながら君に近づき、気づいた君にまた逃げられて、それでも追えば、そこは行き止まりのいつものホーム。
午後の太陽は住宅街の屋根の向こうへ早くも傾きだしていて、赤みがかった寂しげな輝きを僕らの横顔に浴びせかけてる。電車が来た。君が乗る。僕も乗る。車内はガラガラ。僕らは慣れないマラソンのせいで息も絶え絶え、顔も首も汗みずく。そのまま崩れるように二人並んでシートにお尻を沈め、顔を見合わせ、耐えきれなくて、二人一緒に笑ってしまう。
「何やってんの! ふふふふ」
「へへへへ……バカみたいだねえ」
「バカなんじゃない?」
「否めないっすねえ」
そして二人でバカ笑い。向こうのほうで大人の集団が嫌そうな顔をしてるが知ったことじゃない。
息を整えてる間に駅は一つ過ぎ、二つ過ぎ、三つ目の駅を越えたあたりで、君はポツリとこう漏らした。
「大っ嫌いだ」
君の見つめる先にあるのは、あの日と同じ、焼けつくような夕陽の赤。
君があの光の中に一体何を見てるのか、それが分からないのが切なくて、僕はあまりの眩さに目を細めた。
「夕陽が、だよね?」
「別れよう」
「どうして」
「引っ越す。もう会えない。お忙しいんだってさ、国家公務員様は」
「話が見えない。悪い癖だよ、ちゃんと説明してくれないと」
「転勤ってこと。中央省庁も東京だけで仕事はしていられない。地方に出向して色々やらなきゃ」
「つまり……親が?」
「父親がね。私が幼稚園児の頃からずーっとそうだよ。一つの土地に住むのはせいぜい二年が限界でさ。もう次で十二回目なんだよ、転校。『もういい加減にしろ、私はここで独り暮らしする!』って言ってもダメで。『じゃあお前だけ単身赴任しろ!』って食ってかかったら、逆に、コレ」
君が青アザを指さす。僕は背中の毛がぞっと逆立つのを感じた。許せない、と直感的な怒りが僕の内臓を掻き乱す。何が許せないのか、なぜ許せないのか、その衝動の源流を僕は認識できないけれど。
これは愛着とも言えるけど、たぶん独占欲や所有欲や支配欲の表れでもある。そういうのは良くないって倫理観を僕ら世代は叩き込まれてる。でも、それがなんだってんだ。僕は拳を握りしめ、君へ食らいつくように詰め寄った。たぶん男として……というのはつまりジェンダーとかそういう後天的で文化的・社会的なアレではなく、単純に生き物として、どうにもできない情熱に駆られていたんだ。
「ひどすぎる。君を殴るなんて」
「まあ、それはもういいんだ。
……いいんだってば! でも、ありがとうね。怒ってくれて。
本当は分かってるんだ。私は子供だ。大人に養われてる身。大人の稼いできた金がなきゃ生きていけない。だから従うしかない。社会ってそういう力関係じゃない?」
「そうではあっても」
「母さんが言うんだ。『お父さんは頑張って働いてるのよ。それをそばで支えるのが、私たちの役割なのよ』ってさ。
……まあ、そうかもね。でもさ。自分で選んだアンタはいいよ。私の役目を、勝手に決めんな」
「どうにも……」
「ならない」
「ならないかあ……」
僕たちはまた一駅ぶん、寄り添いながら無言で過ごした。夕陽が、恐るべき勢いで地平に吸い込まれていく。やめろ。やめろ。沈むなよ。がんばれ。がんばれ。もう少し、あと少しだけ空にいてくれ。お前が沈めば、僕らの時間が終わってしまう。そんなの理不尽すぎるじゃないか。昔は手心を加えてくれたんだろう? なんかそんな話があったよね? 平安時代とか、そのへんの時代。海に沈もうとする夕陽を扇であおいだら、ほんの少しだけ太陽が止まってくれたって。
どうすることもできないのか?
君の手のひらが、僕の膝のそばで、独り寂しげに震えてる……
『次はー、桜町ー、桜町ー……』
降りるべき駅。
夕焼けの終わり。
僕らの終わり。
僕は……
僕は――
僕は、
――僕は!
君の手を握る。思いっきり握る! 電車が止まる。ドアが開く。反射的に腰を浮かせた君を握って僕は絶対放さない。行かせないよ。ここにいろ! 夕焼けが終わりだと誰が決めた? 日が沈むごとに繰り返される太陽の輪廻、自然ごときの現象に、なんで僕らの生き方が規定されなきゃいけないんだ! 降りなくていい! 次の駅へ向かっていい! 降りるべきだと、戻るべきだと、僕らを縛るルールと事情と習い性、その深すぎる泥沼の中へ沈み込んでいこうとする君を僕が掴んで連れていく! ほら見ろ、ドアが閉まってく。電車が再び走り出す。僕らを乗せたメタル・グレーの四両編成は、桜町どころか江楽町さえ通り過ぎ、さらに向こうへ走ってく。線路は緩やかにカーブして、茜に燃える太陽は、今や僕らの真正面。
『次はー、江楽町西。江楽町西。お出口左側です……』
ざまあみろ! ぜんぜん知らない駅に来てやったぞ!
「このまま行こう!」
僕が提案すると、君は僕の手へ絡めた指へ、キュッと切なく力をこめた。
「どこまで?」
「さあ?」
いつのまにか君が、涙をボロボロこぼして顔を美しく濡らしてたから、僕は持参のハンカチでぬぐった。備えあれば憂いなし。持っててよかった、清潔なハンカチ。
「行けるとこまで。っていうのはどうかな」
君の泣き濡れた顔に浮かんだ笑顔は信じられないほど魅力的だった。
*
結論から言えば、僕らの逃避行は、たった三駅で終わってしまった。
電子マネーのチャージ額が足りないことに気づき、とりあえず見知らぬ駅で降り、そこから、なんとなく好奇心に駆られて初めての街をブラつきだした。目的なんか何もないけど。道も全然分からないけど。奇妙な曲線を描く建物。日の暮れた街にまたたくライトアップ。その中を手を繋いで歩く僕たち。夕陽が沈んだ、その先の世界。歩けば歩くほど気分が高揚していき、気がつけば深夜の0時過ぎ。
ここで僕らは警邏中のパトカーに見とがめられ、あっさりお縄とあいなった。僕の親と君の親、それぞれが捜索願を出してたらしく、警察は恐るべき手際の良さで僕らを処理した。というのはつまり、パトカーの後部座席に押し込め、ほんの十五分で最寄の警察署まで連行し、待ち構えていた保護者たちに僕らを引き渡したんだ。
大人たちは……何も言わなかった。
警察署から出た僕は、母に背中を小突かれながら駐車場の車へ歩いていった。ふと、七メートル先を同じように歩かされてる君の背中を盗み見る。車に向けてキーレスキーのボタンを押しこむスーツ姿の男。あれが噂の国家公務員か。冷え切った冬山のように険しい横顔は、やっぱり君によく似てる。親子なんだと、それは分かる。
分かるけど。
僕は両親を振り切り、君たち家族の方へ駆け寄った。
「あの!」
君の父親が、暗い目を僕に向けた。恐ろしく深く、静かだが激しい怒りを含んだ目だ。この視線だけで僕はひるんでしまいそうになる。
でも負けない。
負けてられない。
「勝手に決めないでください。話し合ってください。アカネさんと」
君の父親は僕を睨み下ろし、寒風を浴びせかけるかのように白い息を吐きだした。
「君は、ウチの事情を……」
「知ってるかどうかの問題ですか?」
「だが知るまい」
「それはそうです」
「……なら君も、勝手に決めるな」
君の父親が運転席に乗り込む。涙目の君が、母親の手で後部座席に押し込まれる。エンジンがかかる。僕はポツリと、答えを出す。
「……はい」
それで、その夜は、全てが終わり。
*
翌朝になれば、何もかもが夢だったかのようにいつもの日常がかえってくる。
月曜だから学校に行く。老荘思想と分詞構文、リュードベリ定数の扱いに、溶解度積の差を利用したややこしい滴定の手法と計算。あれやこれやを頭に叩き込むだけ叩き込み、フニャフニャに疲れてコンニャクになった脳ミソを抱えて帰路につく。いつものように夕暮れのホームで君と合流。いつものように二人並んでシートに座る。いつもよりも僕らの距離は五センチ近い。
「あのっ」
今日、この電車で何を言おうか、僕はとっくに決めていた。
「聞いてくれる? 真剣な話」
「ん……いいよ。言って」
「君が好きだ」
君はとたんに笑い出した。腹を抱えて、きゃたきゃたとかわいい声をあげる君の目尻には、大きなガーゼが貼られている。内出血の切れ端がガーゼの横から見えなくもないが、家族がちゃんと手当をしてくれたんだっていう事実が僕を少し安心させる。
でもさあ。
「なんで笑うの?」
口とがらせる僕を、君は涙目で見つめてきた。
「だってさあ。今さら!」
「ええー」
「私、もう、とっくに付き合ってる気でいたんだけど?」
「えー!?」
「六月くらいのとき、教えてくれたよね。『公園のとこのアジサイが咲いたんだよ』って」
「えっ?」
「『真っ赤なアジサイ、珍しいんだよ』ってさ」
「赤は酸性土壌だからね。でも、あー、うん、えーっと」
「覚えてないんでしょ」
「ごめん」
「いいんだ。そのほうが嬉しい。覚えるまでもないような、ちっちゃなちっちゃな感動を、真っ先に共有したいって思う相手が私だった……それが嬉しかったんだ。
だから、ありがとう。私も好きだよ。あの時から」
わ、わ、わあ……
「ウワーッ!」
「うるさ」
「すごいことになっちゃった!」
「そう?」
「あのさ、昨日の夜から考えてたんだけど」
「うん」
「お父さんの転勤、どこへ引っ越すの?」
「広島」
「じゃあ大丈夫! 新幹線通ってるよ。片道……一万? いや二万円か。たぶん四万あれば会いに行ける」
「泊まるところどうするの?」
「あっ、そうか。いや、ネカフェでいい! 最悪日帰りでもいいし。全然会えないなんてことない。会いに行くよ。迷惑でなければ」
「あのさ」
「うん」
「もうすぐ受験生なわけだしさ。恋愛どころじゃなくない?」
「ええーっ」
「だから、大学生なら、一人暮らししても変じゃないよね」
「そっか。近所の大学に行けばいいんだ」
「なんなら同じ大学とか」
「そうだよ! 志望どこ?」
「ぜんぜん決めてなーい」
「んじゃ連絡先教えて」
「言うのが遅い。ずっと聞いてほしかったのに、ぜんぜん言わないんだからさあ……ほい」
「おけ……DM届いた?」
「きたきた。あとで相談しよ……あっ、もう沈んじゃう」
君が沈みゆく夕陽に目を向ける。その横顔は初めて話したあの日と同じ、いや、それ以上に美しく冴えていて、僕はいつまでも、あの日と同じ高揚に身を浸していられる。
「沈んだら、また昇るし。離れていたって、見ている夕陽は一緒だし」
君は目を丸くして、僕に微笑む。
「へえ。ロマンティックだ」
はじめてのキスは、覚悟を決める暇もないほど不意打ちだった。
THE END.
夕焼けアンビバレンツ(完全版) 外清内ダク @darkcrowshin
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