漂流

新川山羊之介

漂流

 いつも通りの朝だった。無理やりお米を胃に流しこんだ。改札でパスモをピッてした。10号車の乗り場で単語帳を見た。けれど、ホームと電車の隙間を跨いだ瞬間に気がついてしまった。いつもと反対の電車に乗っている。それは故意ではなかったが、過失だとするのは許されないような気がした。私は電車を降りようとはしなかったのだから。ただ「西船橋ゆき」の文字が頭上の電光掲示板を静かに流れていた。


 郊外へ向かう電車の中は、窓の向こうよりさらに向こうの景色までよく見えるほど、がらんどうだった。固い鞄が肺を押し潰すことはない。手のひらほどの液晶画面が視界を占領することもない。朝の、まだお天道様になりきれていない柔らかい陽光がローファーの爪先をチラチラ泳いでいる。「かいほう」だ、と思った。途端に、眼頭がぎゅうっと痛くなって、はらはら涙が出てきた。私はひどく安心してしまっている。学校に行かないことに対して。それは自分がギリギリだったことを、認めてしまった証拠だった。悔しくて、情けなくて、陽光がぼんやり滲んでいった。解放されたということは、今までずっと、絡め取られていたことの裏返しだった。そんなの気づかなかったことにしようって、頑張ってきたのに。私は大丈夫だって、言い聞かせてきたのに。熱が、痛みが、涙が、堰を切って溢れ出して、全身に襲いかかってくる。赤子のように頼りないうめき声が喉から絞り出てきて、恥ずかしかった。せっかく整えた髪も顔もぐしゃぐしゃで、目も真っ赤に腫らして、私は今どんなに醜い姿をしていることだろう。幸い誰もいなかった。――大丈夫なんかじゃない。私はずっと、大丈夫なんかじゃなかった――。


 かろうじて酸素を取り込み、端っこの座席に座る。しばらく目を瞑ったが、欠席連絡をしていないことに思い至って覚醒せざるを得なくなった。緑色の見慣れたアイコンをタップする。

「今日休みます。クラッシーで学校に連絡お願いします。」

「体調悪いの?」「帰ってきたら?」「大丈夫?」「今どこにいるの?」「ズル休み?」「どうしたの?」「無視?」「突然すぎない?」「なんで?」

 相変わらず送った瞬間に既読がついた。責めるように鳴り続けるバイブ音が鬱陶しくて、スマホの電源を落とす。もはやどうでもいい。でも、最後に目に入った「なんで」は頭の中から抜け落ちてくれなかった。なんで? そうだね。なんでなんだろう。妹は塾に通っているのに、私は塾に通わせてもらえないこと。中学生のときにつないだlineを、全員ブロックしたこと。私よりも勉強していない子の方が、テストの点数が高いこと。それを自慢されるのに対して、不満一つ言えないこと。委員会の仕事でミスをしたこと。面倒を頼まれても断れないこと。友達に授業のノートを見せてあげられなかったら、「使えねえな」と言われたこと。クラスの女の子たちの迎合主義が苦手なこと。肝心なときに気の利いた返事ができないこと。英単語が覚えられないこと。自分なりに精一杯やっているときに、完璧主義で真面目すぎると貶されたこと。いつまで経っても志望校を決められないこと。食事や睡眠の時間を削っても足りないほど余裕がないこと。足の踏み場がないほど部屋が汚いこと。毎日お弁当を出せないこと。人がそつなくこなせる作業を器量良くこなせないこと。昔言われたチクチク言葉を、ずっと刺しっぱなしでいること。それらを隠すために一生懸命なこと。優等生と言われると嬉しい反面、悔しいこと。いつも一緒に下校していた親友に彼氏ができて、一人で帰るようになったこと……。一つ一つは学校に行かない理由になんてなりえない、些細なことばかりだった。この類いの事象全てが、火砕流のごとく押し寄せてくるから処理できないのに。分解してみればこんなものなのか。本質に触れられそうでいて、ただ輪郭だけを指先でなぞっているような感覚すらある。そうして、結局行き場をなくした指が、間近の冷えたガラスをひたすら引っ掻く空虚さが腹の底に沈んでいく。多分、こんな小さなことでつまずく私よりも、もっと大きな問題を抱え、もっと努力している人が無数にいるんだろう。思わず自嘲的な渇いた笑いと、ため息が零れた。ふと顔を上げれば、電車内がいやに明るくなっている。あれこれ思考が散逸する間に、太陽はすっかり遠くへ昇ってしまった。日差しから逃げるように、私は適当に電車を乗り換えた。



 夕暮れの道を並んで帰っていると、こずえがぽつりと呟いた。

「やっぱり彼氏いらない。」

「え、何かあったの? 前まで欲しいって言ってたのに。」

「うーん、今の生活に十分満足してるし、彼氏できたら、ゆうちゃんとこうやって、一緒に帰れなくなっちゃうかもしれないから。」

 そう言いながら私に笑いかけてくれたこずえの涙袋の、やわらかく膨らんだ曲線は、今も記憶の中にそっと佇んでいる。彼女の言葉を聞いたとき、私は今すぐ消えたいと思った。――忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな――。この先、卒業して、大学生になって、社会人になって、それでも彼女は、同じ言葉を私にかけてくれるだろうか。きっと、無理だ。だったらいっそ……。

 こずえとの時間は高校卒業までは保証されている、はずだった。期間限定に限って、予告よりも早く終わるのだ。


 「今日は○○くんと帰ります!」

 「ごめんね」

 「また明日学校でね」


 私は自習室のいつもの席で、こずえを待っていた。人が通るたびに顔を上げて、ちらちらと時計を見て、待っていた。こずえと私はクラスも部活も違かった。実質的に、会えるのは放課後だけ。明日もこずえは彼と帰るのだろう。明後日も。明々後日も。来週も。私とこずえが二人で帰った365日は3行のメッセージで終わった。こずえは決して悪いことはしていない。誰も、何も、私にひどいことをした訳じゃない。一方的に期待していただけ。わかっている。でも私は――。

 あの日、私たちは互いに相手に対して何かを失った。それは、信頼や安心と呼ぶものかもしれない。あるいは、特別感。存在感。寄り道のアイスの味。1日の終わりを分かち合う時間。2人の前にしか現れない、淡い夕陽の茜色。


 伝えられたら、変わっただろうか。毎日学校に行っていたのは、あなたに会いたかったから。レモン味にばかり目がいくのは、あなたがレモンを好きだと言ったから。――私にとっては、あなたといる時間が、何よりも必要で、心穏やかで、大切だったんだ――。と。


 17時32分。左手首の腕時計はあまりに淡々と針を進めている。こずえが通学路の坂を下っているのが脳裏に浮かんだ。隣には、誰がいるのだろうか。誰もいないといいな。でもこずえが1人寂しく歩いているなんて、とてもじゃないけど耐えられない。もし肩を並べているとしたら、それは彼だろう。彼が少しおどけて、こずえが笑う。こずえが今日の小さな反省を話して、彼がこずえの華奢な肩をぽんぽん叩く。こずえが彼を見上げる。私に向けるのと変わらない、なんならそれ以上の笑みで。もう、それだけで限界だった。


 何が彼氏だ。くだらない肩書き引っ提げやがって。こずえと会ってまだ4ヶ月のくせに。返せ、こずえの隣を。


 居ても立っても居られずに、気づけば電車を飛び降りていた。ホームには、人の気配がなかった。穴だらけの天井には、少し風が吹けば今にも落ちてきそうな、錆びた看板がぶら下がっている。そこには、読み方もわからない地名が、掠れた文字で記されていた。辺りを見回すと、懐かしい磯の匂いがかすかに頬を滑る。唯一知っている匂いを頼りに、私はおもむろに歩き出した。コツリ、コツリと固い足音だけが、ホームにこだましていく。ローファーが、地面を確かめているようだった。コツリ。コツリ。コツ。コツリ。


 駅を出て顔を上げると、広大な水の平原が目の前に広がった。海――か。夕陽が水平線にゆっくり溶けている。その接点から、紅い道が1本、水面を滑るようにこちらへと伸びている。まばゆい斜陽が激しく、鋭く、四方を覆っている。海の色を呑み込んでしまうほどに。この瞬間以外、もう二度と姿を現すことができないかのように。それは、傲慢で、孤独で、毅然とした刹那の光だった。いいや、光などではなく、悲鳴だった。太陽は海原に溺れながら、己の全てを懸けて美しい悲鳴を上げていた。今日を終わらせるために。

 足が、震えた。誰か、誰かここへ来て。今すぐに。誰でもいいから。こんなに切ない光景を前にして、私は、平気でなんかいられない。誰か助けて。ぼろぼろ涙が溢れて、膝が崩れ落ちた。違う。私は寂しいなんて言いたくない。結局誰も来るはずがない。いつも、そうだった。誰も私の隣を選んではくれない。たくさん勉強して、いろんなことを引き受けて、優等生のふりをして、必死に居場所を作ろうとしているけれど、頑張っているけれど、私の席はどこにもない。本当は誰からも望まれていない。自信がない。勇気がない。どれだけ頑張っても「出来損ない」の5文字が毛細血管に絡まったまんま解けない。気づかないふりをしていた。全部見なかったことにしていた。だけど、これが「私」だった。こずえに、本当の気持ちを言えなかったのは、別に同性だからじゃない。ただ、怖かった。こんなにいじけてしまった私は、きっと受け入れてもらえないから。こずえにだけは、どうしても幻滅されたくなかった。あてもなく、一日中続けたあみだくじの、答え合わせがしたかっただけだったのに。どうしてこんなことになったんだろう。なんで私は泣いているんだろう――。


 でも、これでいい。どこかにそう呟く自分がいた。やっと、心から泣けた。今度は逃げなかった。不器用さも、生き辛さも、あの悲鳴も、全部私のものだ。私の傷は私にしかわからない。他人にわかってたまるものか。誰も隣にいないのならば、私は一人で自由に走ってやる。誰も追いつけないように。


 さらりとした潮風が体を吹き抜けていった。後を追いかけて振り返ると、ベルベットの夜空に、淡く宵の明星が灯っていた。

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