夏の蜃気楼

sui

夏の蜃気楼

真夏の昼下がり、海辺の小さな村で暮らす少年ユウトは、不思議な噂を耳にした。

「潮風の裏に、光る階段が現れる日があるんだ」と。


誰も本気にしていなかったが、ユウトだけは信じていた。だからその日、誰もいない海岸に一人で向かった。

空は青く、水平線は揺れて見えた。


しばらく歩いていると、波打ち際にうっすらと光の帯が浮かび上がった。

それはやがて階段の形になり、空へと伸びていた。


胸が高鳴るまま、一段、また一段と上がる。

風の音が止み、時間の流れさえ消えたかのようだった。


どこまで登った頃だろう。振り返ると村は蜃気楼のように歪み、空と海の境さえ曖昧だった。

前を見ると、淡く輝く扉がひとつ。

けれど、その前でユウトは立ち止まった。


扉の向こうが、“帰れない場所”のように感じたからだ。


不意に涙が頬を伝った。

理由は分からない。ただ、心の奥で何かが囁いていた。

「この扉を開けたら、今が終わってしまう」と。


──その扉の向こうにあったのは、「もうひとつの夏」だった。

時間の止まった世界。

過去でしか会えなくなった大切な誰かと、永遠に続く夏の中で過ごせる場所。

けれど、それは今を置き去りにすることでもあった。


選ぶことはできなかった。

扉に手をかけることもなく、ユウトはゆっくりと光の階段を下りた。

波打ち際に戻った時には、光る階段は消えていた。


あれから何度も海に行ったが、二度と現れなかった。

でも、あの夏の日の潮風だけは今も、あの場所に流れている。


──そして夏が来るたびにユウトは思い出す。

本当は、あの扉を開けたかったのかもしれないと。

もし今、もう一度あの階段が現れたなら、きっと──


自分でも答えは分からないままだ。

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夏の蜃気楼 sui @uni003

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