静謡(しずうた)シリーズ『芋粥を炊く』

山城純奈

第1話「芋粥を炊く」

こんなにも陰鬱な朝があるのだろうか。

色や匂いは何一つ無く、ただただ不安という影法師が、私に抱き着いて離れない。

身重の身体を、より一層重くする。


腹を庇いながら履物を履き、門の外で背を向け、私を待つあの人の所へ向かう。

日はもう高く上がりきった様だ。生け垣の下には添える様な短い影が落ちている。

この牛歩の様な数歩をなんとか歩いて、あの人の後ろに立つ。

横に控えていた使用人の茂吉が十重様、と火打石を渡してきた。

それを受け取り構えるが、打つ前に思わず手が固まってしまう。

一寸諦めて手を下ろし、そして目をきつく瞑りながら、額をその背に預ける。


主人は優しい人であった。

そしてその優しさが故に、この果たし合いに臨むのだ。亡き父君の敵討ちに向かう、旧友の加勢として。

幼き日より二人が育んできた友誼と、故人より与えられた、まるで兄弟を育むかの様な愛情への恩義。

この二つが、主人をこの果たし合いから逃さなかったのだ。


なに、あの馬場はそう遠くない。夕餉前には戻れるだろう。


小さく小首を傾けて、いつものあの優しい声色で呟く。それに続けて、十重頼む、とも。


震える手の中で、火打石がそれを揶揄うように踊る。覚悟を決めて、祈る様に手を上げる。


何度やっても上手く出来ずに焦りを覚えるも、それと同時にこのまま永遠に点かなければ良いのにとも思った。


火花が僅かに小さく咲く。

するとやおらと振り向き直しては、微かに震える私の肩を抱きしめて、また呟いた。


そうだな。今日の夕餉は芋粥にしよう。茂吉に用意して貰え。お前と腹の子にも、きっと優しい。


この人は今から果たし合いに行くというのに、まだ私達の事を案じているのか。


そう一言だけ言い終えるとまた振り返り、すぐに走り出していった。足元に小さな砂埃だけを残して。


走りゆく背中が辻の角を曲がったのをとうに見送ったのに、私は茂吉に促されるまでずっと其処に立っていた。


主の出て行った後の居間に入りふと目をやると、座布団が仕舞われぬままであった。

それはさも当たり前の様に其処に在る。

まるでまだ誰かが座っているかの様に。


暫く座布団を見つめ続けていた私に、茂吉が片付けます、と声を掛けながら障子を開ける。


すると外は、七十五石のこの小さな家を煌びやかせていた。

晩夏の残滓を微かに残しながらも、既に涼やかな風が草木の匂いを運び込んでいる。

庭と広縁は陽光に優しく包まれる様に濡れていて、菜園の方では今年最後であろう胡瓜が風で揺れた。


今日はこんなにも穏やかな日だったのだ。

あの人を見送った時には気づきもしなかった。


顔色を伺う茂吉の昼餉はどうなさいますか、と言う問いに私は簡単に、と答える。

私の感情は最早昼餉など到底要らぬ物と吐き捨てたが、私の意思がその声を封殺する。


食むのだ。例えこの身がそれを拒んでも、食まねばならぬ理由がある。


この身以上に大事な者が、この身の中に居る。


やや子や。お前はお家の宝だ。必ず母がお前を産んでみせる。


茂吉が土間で膳の用意をする気配がし始めた。ぱち、と竈に火が灯る。そしてそれを追う様に、炊き直す飯の香りが立つ。

送り出してまだ何刻とも経っていないのに、

目が勝手にふと、生け垣の前の背中を探す。当然有る筈も無く、少し伸びた影だけが落ちていた。

あの人はもう馬場に着く頃だろうか。考えてみても取り留めのない事ばかり考えてしまう。

目を瞑って思案ばかりが巡る瞼の裏に、走りゆく背中が浮かぶ。


不意にした茂吉のお召し上がり下さい、の一声で急に我に帰った。


目を遣ると、膳がもう用意されている。

香の物と梅粥と汁。茂吉の何も言わずに框に腰掛ける後ろ姿に、気遣いの色が滲んでいる。献立の組み方にさえも。

有り難い。しかし食べる気は一向にしない。


一息吐き、意を決する為に腹をさする。

私が食むのではない。この子が食むのだ。


大事なお家を守らずして、それが如何に武家の妻か。

大事な宝を守らずして、それが如何に母か。


この膳は、私の馬場だ。


母が必ずたらい上げてみせる。少し待ってておくれ。


腹を擦る左手が、箸を持つ伸びぬ右手を動かす。

こんなにも喉が詰まる食事は初めてだ。

味のせぬ香の物とは、こうも噛み辛い物なのか。

粥でさえ咀嚼しきれぬ飯とは、こうも飲み込み難い物なのか。

繰り返す。私がどれだけ辛かろうと、やや子が腹を満たすまで。


半刻を過ぎた頃にやっと食べ終わり、私はやっと息を吐いた。

急須に湯を注ぎ、何気なく膳の横に戻している茂吉に、私は幾つか芋と葉物を掘ってくるように頼んだ。

すべき事があと一つだけ残っている。

梅の色が滲んだ茶碗の底に、何とも言えぬ不安を感じていた。


井戸の水で芋を洗っている茂吉を待つ間、框に腰掛けてぼんやりと外を眺めていた。

もう日が翳り始めたのだろうか。

生け垣の影が、辻向かいまで飲み込まんとする程に伸びている。

まだか、という焦燥と、まさか、という不安。

時が経つ程に段々と積もり、膨らんで行くのを自覚する。

茂吉が芋と大根の葉を手に戻ってきた。

私が框に座り待っていた事に少し驚きながらご用意致しますから、と言ってくれたが、私はそれを断り、まな板と包丁を用意する。

襷を掛けながら、あの人は、茂吉の味より私の味の方が好きだからね、と笑うと茂吉は急に涙を堪えながら竈の火を覗き込んだ。

もう火は熾しているのに。


そうだ。悲観に暮れても仕方がない。

結局は、帰ってくる事を信じて待つしかないのだ。私も、この子も。


丁寧に洗われた芋の皮を剥く。

簡単に切り分けたら、煮立ち始めていた最後の飯が入った鍋へ移す。

大根の葉も短冊に切り、その上に乗せる。

温め直しが効くように余り火を通さずにおく。

昼餉と違い、今度は淀みなく出来た。

やはり私は食むよりも、食んで貰う方が得手であり好きなのだ。

夕餉の準備が終わると、そのまま体は自然と門の外へと向かって行った。


朝に見送った場所に立ち、あの人を待つ。

どうせ家の中に居ても落ち着きなどしないのだ。

それなら、あの人の帰ってくる姿を一番最初に見られるここがいい。

支度前に見た生け垣の影は、今ではとうに辻向かいに溶け込んでいて、赤い夕日が更にその影の輪郭を曖昧にしていた。

最早それは、少し夜の帳まで感じさせるような色合いだった。

茂吉も少し後ろに立ちながら、私の背中を見ている。

今日はもう良い、と言ったのに帰らない。

ありがとう。口には出さずに心の中で礼を言い、私は辻を見つめ続けていた。

私達が二人だけになっていたら、どれだけ心細かったであろうか。

焦燥と不安はとうに私の身体中に巡り、本当は顔を伏せて泣き、そのままここに座り込んでしまいたい様な気分になる。


しかし抱える腹の重たさが、私に顔を上げさせる。


やや子や。大丈夫。母は例え一人になっても、お前を守ってみせる。だからもう少しだけ、あと少しだけ、ここに一緒に居ておくれ。母はまだここで待っていたいのだ。


決意と願いと祈りが混ざった言葉を、自分の腹に掛ける。

すると帳が下りかけた辻󠄀の何処かから、不意に何か声がした。


その声が、とえ、とえ、と輪郭を持ち出したその時。


辻の角に、小さな砂埃が舞い上がった。


私は腹を抱えたまま、思わず顔を伏せる。

そしてそれに応じるかのように急に肩が震え出した。

一呼吸置いて、背中に茂吉の嗚咽が届き始める。


とえ、とえ、と呼び掛ける声が次第に明瞭になっていく。


砂埃よ。早く駆け戻って、私の肩を抱きしめておくれ。そうして貰わねば、私もこの子も震えが止まらぬ。


地面に次々と出来る小さな染みを眺めながら、私はそう願っていた。      


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静謡(しずうた)シリーズ『芋粥を炊く』 山城純奈 @junnayamashiro

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