「回り続ける影と世界」

人一

8月10日、とある日の出来事

「めぐるさーん、朝ですよ。そろそろ起きてくださ~い。」

溌剌とした妻の声に起こされる。

目を開けると、朝の日差しが部屋を照らしていた。

トーストのよく焼けたいい匂いが鼻を刺激する。

私はベッドから立ち上がり、まだ寝ている我が子を横目にリビングへ向かった。

今日は、202‪✕‬年8月10日。

暑さが厳しいなんでもない1日だ。


「おはよう。」

「おはよう。

そうだ、めぐるさん今日は遅くなるの?」

私はトーストにかぶりつきながら、少し間を開けて答えた。

「……いや、今日は早く帰れそうなんだ。何か買って帰ろうか?」

「そうね、じゃあショートケーキを3つお願い。あの子の誕生日が近づいてきてるし、ちょっと早いけど誕生日パーティーをするのはどうかしら?めぐるさんの予定が空いてる内に3人で祝えた方が、あの子も嬉しいでしょうし。」

「確かにそうだな。わかった、忘れないようにケーキを買って帰るよ。」

そう言ってコーヒーを飲み干して立ち上がる。

軽く身支度をして玄関へと向かう。

「じゃあ、いってきます。」

「はい。いってらっしゃい。」

私はそのまま、夏の日差しが照りつける街へ歩き出した。


「はぁ、早めに帰れるはずだったのに思ったより遅くなってしまったな……」

すっかり日が傾き、夜の足音が聞こえだしている街を、私は早足で歩いていた。

「ショートケーキも3つ買えたし、あの子へのプレゼントも早いけど買えた。

……早く帰らないと。」

汗を拭うことすら後回しにして、家へと急ぐ。

慌てていてなかなか鍵が開かなかったが、何とか開けて家へ入る。

「ただいま~。遅くなってごめんな~」

「おかえりなさい。ふふ、そんなに汗だくになってしまって……でも大丈夫ですよ。

あの子も『パパと一緒に誕生日パーティーできるんならいい子にしてる!』と言って、我慢してくれてましたから。」

「パパおかえり!帰ってくるの遅いよ!」

私は、ぷりぷりと怒る我が子を抱き上げながら言った。

「はは、ごめんね。これでもパパ、大急ぎで帰ってきたんだぞ。」

それからは3人でささやかだけど、楽しい誕生日パーティーの時間を過ごした。

私は、夜がふけるよりも前に我が子に誘われるまま皆で眠りについた。



「めぐるさーん、朝ですよ。そろそろ起きてくださ~い。」

溌剌とした妻の声に起こされる。

目を開けると、朝の日差しが部屋を照らしていた。

トーストのよく焼けたいい匂いが鼻を刺激する。

私はベッドから立ち上がり、まだ寝ている我が子を横目にリビングへ向かった。

今日は8月10日。

暑さが厳しいなんでもない1日だ。


……?8月10日?見間違いだろうか。

スマホを見ると、やはり8月10日を表示していた。

「おはよう。なぁ、今日の日付って11日だよな?」

「おはよう。どうしたの?今日は10日よ。」

「えっ?……昨日、みんなで誕生日パーティーをしたじゃないか。写真もたくさん撮って……あれ?」

カメラロールの写真を証拠として出そうとするも、そこには”昨日”の写真は無かった。

「まだ寝ぼけちゃってるの?それより、あの子の誕生日パーティーをしたいと思ってたのどうして分かったの?」

「あ、あぁ。そろそろあの子の誕生日が近づいて来てるだろ?

私は今日、早目に帰れるからケーキを買ってパーティーをするのにちょうどいいかと思ってな。」

「あら、そうなの?じゃあショートケーキを3つお願いしますね。」

私は、不思議な違和感を朝食と共に飲み込んだ。

「……いってきます。」

「はい、いってらっしゃい。」

笑顔の妻に見送られて、釈然としないまま私は歩き出した。


今日の夕方は"昨日"と違って遅くなることは無かった。

はっきりとは言えないが、何故か"昨日"とまるきり同じだったからだ。

そして、宣言通り早目に家に帰った私は、家族と2度目の誕生日パーティーを過ごした。

それからまた私は、妻と娘と一緒に眠りついた。



ぱちり、と目が覚めた。

スマホに目をやると日付けは8月10日を表示していた。

なぜ、また8月10日なんだ?……いや、最近スマホの調子悪かったしとうとう壊れたんだろう。

考えにまとまりがつかないまま、ベッドでゴロゴロとしていた。すると、

「めぐるさーん、朝ですよ。そろそろ起きてくださ~い。」

妻の声が聞こえてくるなり、起き上がり急ぎ足でリビングへ向かった。


「なぁ!今日は8月11日か?いや12日だったか?」

「おはよう……どうしたの?まだ寝ぼけちゃってるの?今日は8月10日よ。」

……そんなはずは無い。

だって、私にとっては3回目の8月10日なのだから。

スマホのカメラロールを確認するも、やはり誕生日パーティーの写真はそこには無かった。

「……信じてくれないかもだけど、私は今日8月10日を繰り返してるんだ……」

「……?なにか変な夢でも見たの?

それよりも、今日あの子の誕生日パーティーをしようと思ってるの。だから――」

「ショートケーキを3つ、仕事終わりに買って帰るよ……」

「あら、先取りされちゃったわ。まあ、ケーキよろしくね。」

私は、喉を通らない朝食を無理やり押し込み仕事へと向かった。


私は、遅れることなく帰宅して淡々と3度目の誕生日パーティーの時間を過ごした。

そして、今日も3人で眠りについた。

……明日こそは11日になってると信じて。



ガバッと起き上がる。

妻も娘もまだ横で寝ている。

外はほんのり明るくなり始めていた。

急いでスマホを手に取り、日付けを確認する。

……8月10日だ。

自分が本当に現実にいるのか、甚だ信じられなくなる。

きっと昨日妻に言われたように"変な夢"を見てるのだろう。

そう信じ込んでスマホを放り投げ、また眠りについた。

だが、日が昇ると妻に起こされ朝食を食べ仕事へ向かう。

そして、ケーキを買い帰宅したら娘の誕生日パーティーをして、3人で眠りにつく。

そんな”昨日”と同じ1日を過ごすばかりだった。

……

……

……

……

もう何度目の"8月10日"だろうか。

私は、この8月10日から抜け出せないでいる。

理由は考えたが分からない。心当たりも無い。

だが、今日から抜け出せない。

行動を変えてみても、寝て起きたらまた8月10日だった。

妻の声を無視して寝続けても、仕事をサボっても、家族に横柄な態度をとってもだ。

……1度寝ることが悪いと思い、徹夜したがそれでも0時を回ると8月10日に戻ったし、朝まで起きていても時間が正しく進むことは無かった。

いつになったら、今日から、8月10日から抜け出せるんだろうか……

……

……

……

……

……

どうしても今日から、8月10日から抜け出せない。

私は、もうここ数回の8月10日は、誰に何を言われてもただベッドに横たわっているだけだった。

もう、何をしても変わらない現実に打ちのめされて、頭を動かす気にもならない。

ふと、私はある考えを思いつく。

何かを変えるには、もう、これしかない。

それが本当に正しいのか、もうどうでもよかった。

そして、何日ぶりかにベッドから起き上がると、キッチンへ向かった。

妻も娘もいつの間にか出かけていて、家はもぬけの殻だ。

……ちょうどいい、と包丁を取り出す。

そして、それを――喉に深く、ずぶり、ずぶり、と何度も突き立てた。

目の前の景色がぼやける。

どうしようもないくらいの痛みと、激しい寒気に襲われながら、すっかり赤く染まった床に倒れ伏した。

潰した喉では何も言うことはできず、薄れていく意識の中、今日が終わることを願った。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



目が覚める。

……?なぜ目が覚める?

自分の首に手を当てると、なんの傷もない滑らかな肌触りだった。

というより、自分の手の感覚や肌触りがおかしい。

目の前に手を掲げると、そこには明らかに別人の手があった。

「なんだこれは!!」

驚きのあまり大声をあげてしまうが、その声も知らない。

もう一度喉に手を当てるも、やはり傷はない。

だが、喉の奥にあのぞわりとした感覚が残っている気がした。

「どういうことだ……確かに死んだはずなのに、なんで知らない誰かになってるんだ……」

あれこれと思いを巡らせたが、やはり何一つとして答えはでなかった。

「……!いや、体のことなんて今はどうでもいい、まずは今日が何月何日かだ!」

知らない誰かのスマホを、勝手に触るのは気が引けた。

……が、そんなこと気にしている場合ではない。

恐る恐る日付けを確認する。

画面に映る数字を、何度も見返す。

「202‪✕‬年……8月10日」

――また今日だ。

日付が"今日"から動いていなかった。

私は、その事実を受け止めることができず、膝から崩れ落ちた。


涙も出ないまま、ただ呆然としていると……

「朝から何騒いでんの!さっさと朝ごはん食べて、学校行っちゃいなさい!」

知らない女性から大声で呼びかけられる。

この体の本来の持ち主の母親だろうか。

私は、ゆっくりと起き上がると若干の罪悪感を覚えながら、床に丁寧に畳まれた制服に着替える。

そして、知らない味の朝食をただ無言で飲み込んで、外へと向かった。

道も分からぬまま学校へと向かう途中「私の元の体はどうなっているのか」とふと思い至った。

だが、この子の住んでいる場所は、かつて自分が住んでいた場所からずいぶんと離れているようだった。

加えて、この体の持ち主の財力では戻ることすら難しいようだ。

あれこれと考えてる内に、同じ制服を着た子を見つけ何とか学校に辿り着けた。

そして、校内でまるで不審者のような動きを繰り返しながら、何とか"自分の席"らしき席を見つけることができた。


あっという間に時間は流れ、気がつけばもう放課後だった。

下校中はどこに寄るでもなく、一直線にこの子の住む家へ帰った。

家に帰るなり私は自室に引きこもった。

激変した生活環境に慣れることがまだできず、強い疲労感に襲われていた。

制服を脱ぐこともせず、そのままベッドに横たわり眠気に身を任せる。

目を覚ましたら、8月11日になってますように――

そう、心の中で願いながら私は眠りに落ちた。


目が覚めるやいなや、私はスマホの日付を確認した。

だが、表示されていたのは8月10日だった。

「体が変わっても、何も変わらないのか……」

変化しない現実を前に、もうすでに私の頭に暗い考えがよぎっていた。

私はもう、とっくに壊れていたのかもしれない。

体が違っても、同じ朝が続くなら、選ぶ道は変わらない――そう、分かっていた。

眠たくもないのに目を擦りながら、しわだらけの制服のまま外へ出る。

後ろから母親の怒声が聞こえるが、気にすることはない。

しばらく歩いてまだ人の気配もまばらな学校に着く。

するすると校内を進み、誰もいない屋上へとたどり着く。

朝日が眩しく見知らぬ街を照らしていた。

かすかに震える足でフェンスを乗り越えて、向こう側に立つ。

眼下には真っ白な校庭が広々と広がっていた。

迷いはなかった。いや、感じる余裕すらなかった。

ただ、これで進めるなら、それでいい。

一息吸って、私は一歩を踏み出した。

肌をきる風は夏とは思えないほどに、涼しく爽やかだった。

――グシャリ、と鈍い音が響く。

身動きもできないまま、ほどなくして私は意識を手放した。



――ジリリリリ……

耳をつんざくような音に起こされる。

目を開けて目覚めてしまった事実に打ちのめされる。

となりで鳴り続ける目覚まし時計を乱暴に止めて起き上がる。

部屋の様子や今度の体を見た感じ、元の体でも前回の体でもないようだった。

見知らぬ部屋に埋もれるように置いてあったスマホを拾い上げる。

「……頼む。11日であってくれ。」

そんな願いも空しく、スマホはこれまでと同じ日付を表示していた。

202×年8月10日……すっかり擦り切れた心ではもう怒りも沸いてこない。

「やっぱり変わらないのか……いや、でもこの体だったら明日に進めるかもしれない。体が違えば、何かが変わるかもしれない。そんな淡い期待が、ほんの少しだけ心を支えていた。

…………ダメだったらまた体を変えてしまえばいいだけだ。」

そして私は、この体の日常を始めた。

靴のサイズも、着慣れぬスーツも、違和感はある。

だが、誰も私を疑う様子はなかった。

とりあえず仕事に行き、訳も分からないまま怒られながら一日を過ごした。

家へ戻り疲れきった体では、何をする気にもならなかった。

ベッドに倒れこみ瞼が落ちるのに身を任せて、そのまま眠った。


目を覚ましてスマホを確認しても日付は変わらないままだった。

何も言わず、無感情のままこの体の日常をなぞる用意をする。

仕事に行くふりをして外へ出る。

駅に着くと、構内のアナウンスが“昨日”と同じ声で流れていた。

それを聞きながら、私は迷いもなくホームへ向かった。

そして、そのまま電車へとこの身を投げた。

撥ね飛ばされて意識を捨てるまでの刹那、次こそは正しく時間が進むことを願った。

~~~

~~~

目を覚ますと老人だった。

だが、何も変わらなかった。

~~~

目を覚ますと学生だった。

だが、何も変わらなかった。

~~~

目を覚ますと幼い子供だった。

だが、何も変わらなかった。

~~~

~~~

何度も、何度も、体を脱ぎ捨て着直す。

だが、何も変わらなかった。

~~~

~~~

~~~

何度知らない体で、“同じ朝”を迎えているのだろうか。

体を変えるために、もう幾度となく死んできた気がする。

死に方もいろいろだ。屋上、ナイフ、線路、崖。

どの肉体でも、8月10日は変わらなかった。


最初は恐怖もあった。痛みも感じた。

だが、それすら思い出せなくなってきた。

今となっては、目を覚ますことの方がよほど苦痛だ。


――何が悪いのだろうか。

私が……何をしたのだろうか。

遥かな昔にした、自問自答をあらためて思い出す。

体で生きる日常を諦めているからだろうか。

……いや、日常を送る努力に意味は無かった。

もはや意味が希薄になってきているにも関わらず、体を殺し続けているのが悪いのだろうか。

……いや、死んでも変わることはなかった。

目覚めると知らない部屋で、体で、8月10日が始まるだけだった。

私は、次の死に場所であるビルの屋上で煙草を吸っていた。

足元に広がる道路には、上にいる私なんて気づかないまま日常を送る人々の姿があった。

最後の一服を終わらせるまでの間、ぼんやりと人々を眺める。

気づいて欲しいわけじゃない。知って欲しいわけでもない。

とうに怒りも羨望も捨て去ったはずなのに、胸の奥で沸々と煮えたぎるものがある。

大きく息を吐き、火も消さぬまま煙草を放り捨てる。

煙草は落ちることもなく、風に攫われビルの影に消えていった。

「…………どうしてなんだ……」

――自分に何をしても変わらないなら……他人をどうにかすれば変わるのか?

ふと、耳の奥で誰かの声が聞こえた気がした。

『それだけはいけない』

……もはや欠片も残っていない、私の良心が必死に警告している気がする。

でもそんな自制心は、もうどうでもよかった。

私は、振り返ると扉に手をかけてゆっくりと階段を降りていった。


下界に降りてくると私は、そのまま足でホームセンターへと向かった。

この体の持ち主は随分と不摂生だったようで、膝が砕けそうな位に痛む。

やっとの思いでたどり着いた私は、棚に並ぶ何の変哲もないただの包丁を手に取る。

するとずっと忘れていた、それを、自分の喉に深く突き刺した記憶がフラッシュバックする。

――喉の奥がずきりと痛んだ気がした。

額を伝う汗を拭い、一息つく。

私は、その道具を買うと包装を雑に破り捨て街へ戻って行った。

日はまだまだ高く、これでもかと日差しを浴びせつけていた。

陽炎にぼやける昼の街は騒がしく、また人の往来は盛んだった。


……誰にしようか、誰に声をかけようか。

そんなことを考えているうちに、1人の女性とすれ違う。

振り向いて声を掛ける。

「すみません、ちょっと迷ってしまって……」

その“親切な”女性は、見知らぬ私のために振り返ってくれた。

そしてこちらをはっきり認識するよりも前に、彼女の腹に深々と刃を突き刺した。

甲高い悲鳴が響き渡ると街はざわめきだした。

誰かの叫び声や悲鳴、数知れぬ雑踏――騒然とした音が瞬く間に広がっていった。

ゆっくりと包丁を引き抜くと、女性は力なく倒れた。

服はすっかり血で汚れてしまった。

彼女に視線を投げかけることもせず、痛む膝を引きずりながら次の人に向けてゆっくりと走り出した。

男でも女でも、もう誰だっていい。

これで明日に進めるなら、私は皆を殺す。


不快に感じる脂汗にまみれながら、人々が逃げる方をただ追いかける。

この足で追いついた子供に刃を突き立てる。

目の前にいた老人をかばうように、立ちふさがった青年を切り裂く。

この行いは決して許されない。だが――

「明日に進むためのトリガーになってるかもしれない」と思うと、自然と口角が緩んでしまう。

さらに、追いついた青年の肩に手をかける。

すると……遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。

逃げ出そうともがく青年の首を裂くと、彼の死体と一緒に包丁を捨てた。

それから警官が到着するまでの間、その場に座り込み動くことはなかった。

私は、もう暴れることはなく静かに取り押さえられ連行されて行った。



連行されている間、私はずっと黙ったままだった。

手にかけた人たちの悲鳴や表情が、頭にこびりついて消えそうもない。

だが――起こしてしまったことに、後悔はなかった。


その後の取り調べでも、すべてを正直に話した。

「私は今日、8月10日をずっと繰り返しているんです……」

「は?お前は何を言っているんだ?」

当然、信じてもらえるはずもなく――

私は、そのまま留置所へ入れられた。


最低限の設備だけの質素な作りだった。

格子越しに日めくりカレンダーが見える。

それの日付は、当然8月10日のままだった。

「もう……何もすることがないな。」

そう言って私は、硬く味気ないベッドに横になり目を閉じた。

留置所の壁はやけに静かで、隣の房の人間の物音さえ聞こえてこなかった。

ただ、自分の耳鳴りだけが、ずっと鳴っていた。

「何か……小さな事でいい、変わっていてくれ……」

そう呟いた言葉は誰にも聞かれることもなく消えていった。


いつものように目を覚ますと、起き上がり体を伸ばす。

格子越しの日めくりカレンダーを確認する。

10日じゃなければいい。そんな淡い期待をしながら恐る恐る見ると……

カレンダーは8月11日を表示していた。

「また、変わらなかった……」

一気に疲労が押し寄せてその場にへたり込む。

「自殺だけに飽き足らず、殺人までしたってのにこの仕打ちかよ……」

言葉を発する気力も無くなり、ただうなだれていた。

しばらくすると、看守がやってきて点呼を始めた。

「これより、8月11日の点呼を始める!全員格子前に整列!」

看守の号令に、重い体を起こして格子前に立つ。

……ん?今なんて言った?聞き間違いでなければ11日だと?

格子を勢いよく掴んで問う。

「なぁ、看守さん!今なんて言ったんだ?今日は何日なんだ?」

「静かにしなさい!」

「教えてくれって!いや、教えてください!これだけ聞いたら大人しくするから!」

「なんだってんだ……今日は8月11日だ。

……これで満足か?分かったなら、静かにしなさい。」

――ようやく、ようやく進んだ。時間が正しく進んだ。

私の目からは、とうに枯れたはずの大粒の涙が溢れ出る。

ぼやける視界に震える膝、もう立っているのも精一杯だった。

点呼が終わり看守が去ると私は、人目も憚らずあらん限りの大声で泣き喚いた。

そして私は、開放感から泣き疲れて赤子のように眠りに落ちた。

このまま明日が、12日になっているかも考えぬままに。

また10日に立ち返ってしまう恐怖も忘れて、ただ安らかに眠った。


翌日――8月12日。

目が覚めて、カレンダーを見た。

またちゃんと、昨日の次の日が訪れていた。

その事実だけで、他になにも要らない気がしていた。

何かが変わったわけじゃない。

だが、変わり続けている。

それでいい。


「……い……きろ……おい…………起きろ!」

看守の怒鳴り声に起こされる。

「……!か、看守さん!今日は、今日は何月何日ですか!」

「はぁ?今日は8月21日だ。

……そんなことより、今日お前の起訴が決定したそうだ。

弁護士はどうするつもり――何をそんなに笑っている?」

看守の指摘に思わずハッとする。

「あ、ああ……すみません。こっちの事情ですんでお構いなく……

弁護士先生は必要ありません。私は、すべて認めますんで。」

「いや、お前の事件じゃそうはいかない。裁判所が国選弁護人をつける。

今日の夜、拘置所へ移送される。準備しておくように。」

そう言う看守は、変なものを見る目のまま出ていった。


その夜私は、拘置所へ移送された。

拘置所での暮らしは、矢のようにあっという間に過ぎ気づけば、私の裁判の前日だった。

こんなにも何もなく、時間が正しく進むことが嬉しいなんて感じたことがない。

毎晩、明日は8月10日に戻っているんじゃないかと恐れながら眠りにつき、

目を覚ますと日付が変わっていることに心から安堵する。

この感覚は、何度繰り返し噛み締めても飽きることは無い。

明日の裁判のことなど、考えることは無い。

――私は、ただすべての罪を認めるだけなのだから。

今日も私は、明日への恐れと、少しの期待を胸に眠りについた。


目を覚ます、それから日付を確認して正しく進んでいることに安堵する。

そして今日――11月4日。

ついに、私の初公判が始まった。


「開廷します。

奈良崎但巳被告人の事件について審理を開始します。」

――誰だよ、と心の中で突っ込む。

裁判長からの質問に淡々と答える中、私はどうしてもこの裁判が他人事のように感じられて仕方なかった。

名を呼ばれ、私は被告人席に立った。

「それでは、起訴状の朗読に移ります。」

書記官の声が静まり返った法廷に響いた。

「被告人は、8月10日、市街地において、4人の通行人を殺害した――」

淡々と読み上げられる文章で、もう4人の命は永遠に戻ってこないことを、静かに理解する。

以前の私なら、この言葉さえも聞き流していたかもしれない。

だが今は、ただ少しだけ、その日が遠い昔のように感じられただけだった。

――いや、“事件”としてのあの日は、すでに私にとって他人事に近い。

8月10日――あの永遠に続くかと思っていた地獄。

今でも昨日のことのように思い出す。

すべてを終えて、裁判長が私に問うた。

「奈良崎但巳、間違いありませんか。」

少しだけ目を閉じる。頭の中には何も浮かばない。

「はい、すべて認めます。」

そして、そのまま流れるように初公判は終了した。

判決を言い渡されると思っていたが、どうやら別日らしい。

私は、拘置所へ戻されていた。

無知なもので――裁判が終わったら、そのまま刑務所へ送られるものだと思っていた。

この、白く簡素な房に帰ってくるとは思わなかった。


それからはまた、何も起こらない日々を続けていた。

寝て起きて日付が戻っているかもしれない恐怖も和らいできていた。

そんな頃、私の裁判がもう明日に迫ってきていた。

「明日は、いよいよ私の判決が言い渡されるのか……一体、どうなるんだろうか。」

最後になるだろう裁判の前夜なのに、不思議なほど落ち着いていた。

そして私は、いつもと変わらず、硬いベッドで眠りについた。


2月15日。私の裁判が始まった。


「開廷します。

これより、奈良崎但巳被告人に対する判決を言い渡します。」

裁判長は原稿を一瞥し、ただ正しく言い放った。

「主文。被告人を――死刑に処する。」

法廷の空気は、まさに凍りついたようだった。

「被告人は重大犯罪を引き起こし、多数の人々に甚大な恐怖と混乱を与えた。

また、鑑定の結果、精神状態も良好で責任能力も十全であると判断する。」

「被告人は判決が確定するまでの14日間、その内容が不服があれば控訴することができます。」

「……それでは、公判を終了します。」

私が、読み上げられた判決に呆然としているうちに、裁判は滞りなく終了した。


……まさか、死刑ときたか。

ただ寝て起きても変わらず、自分を殺し続けても変わらなかった。

そして――とうとう他人を殺めて初めて時計の針が動き出した。

私は、あの日から”8月10日”から抜け出したかっただなのに。

この結末は……本当に正しいんだろうか。

今1度問い直すも、自分でも驚くほど答えが見つからなかった。

私の考えは、ずっとまとまらないまま時は過ぎていった。


その後、担当の弁護人は控訴審に向けて何度も面会に来た。

私はそのたび「結構です」と「やはりお願いします」を、行きつ戻りつ繰り返していた。

二転三転し続ける私の意見に彼は戸惑いながらも、粛々と準備を進めてくれていた。


そして7月11日、控訴審が行われたが、判決は変わらなかった。

……私にとっては、それでよかった。

けれど――どこか認めることができない私もいた。


私の弁護人は上告すると言っていた。

もう彼に、すべて任せようと思う。

揺れる思考の狭間に立ち、もはやどちらが正しい願いなのか分からない。

私が思い悩んでいるうちに時間は流れ、”1年ぶり”の8月10日がやってきた。

カレンダーの日付を見た途端、思考も、体も、凍りついた。

かつて繰り返してきた、無数の"私"の記憶が頭の奥から沸き上がり、心を激しく揺さぶる。

時間が正しく進むことに慣れてきたはずの今日。私は、去年とは違うようで――それでも、同じことに悩まされていた。

――時間こそ進んではいるが、まだまだ私は8月10日に囚われたままのようだ。

今日は眠ることが出来なかった。

また目覚めると、8月10日から出ることができなくなるかもしれない。

そう考えると、もう恐ろしくて目なぞ閉じれなかった。

だが気づけば私は、眠ってしまっていた。


朝、慌てて飛び起きてカレンダーの日付を見る。

8月11日。

「よかった……」

安堵から一気に力が抜けて、その場に座り込んでしまう。

もはや、数え切れないほどの積み重ねの末何ごともなく乗り越えることができた。

つかの間の休息もよそに、私の考えは冷めわたる。

「もし最後の裁判で、何かの間違いで死刑が取り消しになったとしても―そんなこと起こるはずないのに―毎年毎年この日に怯え続けて生きるなんて、吐き気がした。

……こんなの生殺しじゃないか。

ただ、生きているのに生きた心地がしないなんて、この生になんの意味があるんだ?」

私の言葉に返してくれる声はなく、房に静かに溶け消えていった。

おもむろに立ち上がると、まるで時が止まったかのようにその場に立ち尽くした。

ただ、第3審の結果が分かる日まで立ち続けた。


そして、年も明けた1月20日。

私の、第3審の結果が届けられた。

『判決は覆らず』

ただそのような事が、読む気も失せるほどの難しい文章と共に書かれていた。

……もう、これでいいんだ。

もはや、迷うことはなにも無い。

「……無力でした。」

目を伏せてそう呟いた弁護人の声に、私はなぜか罪悪感を覚えた。

「あなたに責任は無い。」

それだけを伝え、二度と会わないと告げて、別れた。


立ち止まることなく流れ続ける時の中で、私はただ立ち尽くしていた。

定められた終わりに抗う気はない。

これでようやく、8月10日に怯え続ける人生と別れることができるのだから。

……ある種の喜びや開放感すら感じている。

必死にあの日から抜け出した先に待つ結末が死なんて――もはや滑稽ですらある。

……この体の持ち主には悪いことをした。

突然体から追い出されたかと思えば、生き続けることを許されず肉体も死んでしまうのだから。

寝て、起きて、カレンダーを確認する。

機械的に日常を飛ばして過ごしているうちに、終わりが足音をさせて近づいてきた。


203×年4月1日。

房の窓からのぞく桜が、ひどく綺麗に咲いているよく晴れた日だった。

今日は私の死刑が執行されるという。

前日に言われるなんて、さすがに驚いた。

それでも私は、信じられないくらい落ち着いていた。

刑務官に連れられ、絞首台に向かう道すがら遙か昔の地獄を思い出す。

かつては、何をしても変わらない現実に打ちのめされていたあの頃。

そして、人を殺めて初めて動き出した時間。

もう、立ち止まる素振りもみせない時間。

もはやすべてが、懐かしい。

この結末を、受け入れてはいる。だが、それを望んでいたかは未だに分からない。

よい人生だったとは言えない。

けれども――少なくとも後悔はない。


そして―――


冷たい縄の感覚。

私はこの意識をようやく手放した。







「めぐるさーん、朝ですよ。そろそろ起きてくださ~い。」

すっかりと忘れていた声に起こされる。

目を開けると、朝の日差しが記憶の隅にあった部屋を照らしていた。

トーストのよく焼けたいい匂いが鼻を刺激する。

私はベッドから立ち上がり、横でまだ寝ている子供を尻目にリビングへ向かった。

今日は……202‪✕‬年8月10日。

暑さの厳しいなんでもない1日だ。


……また「この日」だ。

あぁ……「この日」に、1番最初の「私」に戻ってきた。



ここまでしても、まだ世界は立ち止まったままだ。

私は、恥も外聞も、人の目も評判も、何もかも捨て……いや、そんなものあっても何の役にも立たない。

家族……かつて愛していた妻も、娘も、もはや路傍の石にすら劣る。

――もうただただ、激しく、喉が裂けても、血を吐いても、なおも慟哭する他なかった。

だが、どれだけ声を張り上げても、その声は夏の眩しい朝日に溶けて消え……

立ち止まった世界の中でさえも、響き渡ることは無かった。


男は力尽きたように、床へ崩れ落ちた。

彼の周りには人の形をした”何か”が心配げに群がっていた。

もはや鬱陶しいとさえも感じぬまま、たかる羽虫を払うように乱暴にどかしてのけた。


そうしてよろめくようにゆっくり立ち上がると、裂けた喉で何を言うでもなく扉に手をかけ……

まだ暑くなる夏のなんでもない1日へと、足を踏み出して行った。

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