家で飼ってる猫がわがまますぎる

泉水川緑地公園前国立大学附属病院の個室227号室は、夏の午後でも涼しげだった。

カーテン越しの光が、ベッド脇の小さな丸テーブルに落ちている。


川妹綾は、その光の中で三つ目の林檎の皮を剥いていた。

手には銀色の果物ナイフ。

真剣な眼差しの奥には、分厚い厚底ぐるぐる眼鏡がずれかけていた。


ベッドの上で、雲井泉ぴのんは枕に頬を預けて林檎の残骸を見ていた。

最初の一個、二個目、その皮という名の赤い螺旋には、林檎の実がほとんどそのまま残っていた。

つまり、皮というより、林檎本体をほぼ丸ごと削ぎ落とした代物だった。


「……どうやったらこうなるの?」


ぴのんは小さくため息をついた。

綾は少しだけ肩をすくめた。


「遠近感が……だめなのかも……」


「川妹さんの厚底ぐるぐる眼鏡さぁ、ほんとに見えてる?重力波検知してない?、レンズ標準量子格子屈折率反射深光度とかマイスナー値なんじゃない?」


「うーむ」


綾は手を止め、眼鏡の奥で目を細める。

しばらく林檎を凝視していたが、静かに呟いた。


「林檎と皮の切断断面が……六重に見える」


「六重?」


ぴのんは呆れたように目を見開いた。


「それ、視覚認識機能分裂してるんじゃん……。コンタクトにしなよ。眼鏡よりマシだよ、絶対」


「でも……この眼鏡がないと落ち着かないから」


「その落ち着きの代償が林檎三個だよ?」


綾は口元だけで薄く笑った。

それでも、林檎を剥く手は止まらなかった。

六重に見える林檎と皮に挑むように、またそっとナイフを当てる。


ぴのん、は思った。

この人は、静かなくせに時々とんでもない現代アートを生み出すんだな、と。


部屋の中には、林檎の甘い匂いと、二人だけの柔らかな空気が満ちていた。


三つ目の林檎をようやく剥き終えると、川妹綾はしばらく赤と白の断面を見つめていた。

それから、深々と息を吐き、しみじみと呟いた。


「……うん。やっぱり、私に家事は無理」


その一言を残し、銀色のナイフを丁寧に布で拭うと、学校の鞄の内ポケットに仕舞い込んだ。

厚底ぐるぐる眼鏡の奥の目が、少しだけしょんぼりしていた。


雲井泉ぴのんは、その様子を横目に見ながら、テーブルの端に置かれた林檎の“皮”をひとつ手に取った。

実が分厚く残った赤い帯を、かじる。

シャクシャク、と林檎の瑞々しい音がして、甘い香りが広がった。


「……、、退院はいつ?」


綾は、まだ少し落ち込んでいるのか、視線をテーブルに落としたまま訊いた。


「午前十一時くらいかな」


ぴのんはさらりと答え、もう一口、皮をかじった。

綾はそれを見て小さく目を丸くした。


「なんで入院してたの?」


「検査入院だよ」


「ふうん……」


それ以上、綾は何も訊かなかった。


病室の窓の向こうでは、泉水川緑地公園の木々が小さく揺れていた。風がそっと吹いている。


「私、ちょっくら先生に挨拶してくるね」


そう言うと、雲井泉ぴのんはベッド脇に立ち上がった。

川妹綾は頷いて、手近にあったゴミ袋を手に取る。


「私、病室の掃除しとくね」


「頼むねー」


軽く手を振り、ぴのんは病室を出て行った。

ドアが閉まる音が、やけに静かに響いた。


廊下を抜けて渡り廊下に出ると、白い光が硝子越しに差し込んでいた。

ぴのんは足早に研究棟へ向かった。

検査で何度も通った道だが、今日でしばらく来ることもない。


研究棟のエレベーターを降り、薄暗い廊下を進む。

硝子窓の向こうで、白衣の先生が書類をめくっていた。

ぴのんは軽く手を上げる。


「子猫、落ち着きました?」


声をかけると、先生は顔を上げて小さく笑った。


「今はね。昨日の夜は大運動会だったよ」


「脱走を企てたとか?」


「うん、職員総出で阻止した。疲れたのか、今はぐっすりだよ」


「あの子がパニックになるの珍しいです」


「君の検査終了が昨日の夜だったからね」


「……それでかぁ」


ぴのんは小さく肩をすくめた。

先生は書類を机に置いて、少しだけ表情を柔らかくした。


「納得?」


「ええ。しかしですけど、本当に……テレパシーなんてあるのでしょうか?先生?」


「うーん、今のところはなんとも言えない。データは取ったけどね。学会には出せない資料の整理が大変だよ(笑)」


「お疲れ様です」


ぴのんが言うと、先生は白衣のポケットに手を入れたまま、軽く頷いた。


「雲井泉さんも、お疲れ様」


「次は?」


「半年後だ」


「……わかりました」


一瞬だけ、研究棟の窓から光が差し込んだ。

それを背に、ぴのんは病室へ戻るために踵を返した。


午前十一時きっかり。

退院の手続きを終えると、雲井泉ぴのんと川妹綾は荷物をまとめて個室を後にした。


「ここ、何日かで急に暑くなったね。」


病棟の自動ドアを抜け、白く陽の反射する病院玄関ロータリーに出た瞬間。

ぴのんがそう呟くと、綾は無言で頷いた。

荷物を持つ手が少しだけ重そうで、でもぐるぐる眼鏡の奥の瞳はどこかすっきりしていた。


ロータリーには白いタクシーが一台、止まっていて。

ドライバーが窓を下げてこちらを見やる。


「タクシー、ちょうどいいや」


ぴのんが言うと、綾は小さく笑って、先に歩み寄る。

助手席側のドアを開け、運転手に行き先を告げる声が、初夏の空気に溶けた。


荷物を後部座席に押し込むと、ふたりは並んで座席に滑り込む。

タクシーがゆっくりと滑り出すと、ぴのんは窓から振り返って病院を一度だけ見上げた。


「……またね、病院。」


「……あ、看護師さんだよ」


綾は、ぐるぐる眼鏡を指で押し上げた。

白い病院の建物が後ろへ流れていく。

ロータリーにいた看護師がひらひらと手を振るのを、ぴのんは小さく手を上げて返した。


タクシーのエンジン音だけが規則正しく響いて、病院の敷地を抜ける。


午前の光の中で、車は街へと向かっていった。


小一時間、タクシーは走り続け商住宅街を抜け、雲井泉の家の前で静かに停車した。

ぴのんはポケットから病院でもらったタクシーチケットを取り出し、運転手に差し出した。


「ありがとうございました」


運転手が軽く会釈する。

川妹綾も黙って荷物を抱えて降り、ドアが閉まるとタクシーはゆっくり走り去っていった。


二人だけになった玄関先に、ひとときの静けさが落ちる。


「……、上がって」


ぴのんが合鍵を使ってドアを開けた。

靴を脱いで廊下を抜けると、家の中は人気がなく、冷んやりと静かだった。

両親は共働きでまだ帰らない。妹も学校の時間。


「久しぶりに人がいない家」


言いながら、ぴのんはリビングのソファに深く腰掛けた。

外の光がレースのカーテン越しに薄く差し込み、白い壁に模様を落としている。


川妹綾は荷物を廊下に置くと、ふとぴのんを振り返る。


「お茶、淹れるね」


「あ、ありがと」


綾はぐるぐる眼鏡を少し上げ、淡々とキッチンに向かった。

冷蔵庫を開ける小さな音と、湯沸かしポットの電子音が、ひとつずつ静寂を埋めていく。


ぴのんはソファに背を預け、ゆるい疲労が身体に戻ってくるのを感じていた。

検査のあれこれ、入院生活、病院の白い匂い――全部が、今ようやく遠ざかっていく。


湯が沸くまでのわずかな時間、二人は別々の空間にいながら、同じようにほっと息をついていた。


気がつくと、少しうたた寝していたらしい。

雲井泉は薄く目を開けた。視界には、ダイニングテーブルで新聞を広げる川妹綾の姿があった。

厚底のぐるぐる眼鏡が光を反射して、顔の表情が読み取りづらい。


リビングは先ほどよりもわずかに明るく、外の陽射しが増している。

しばらくページをめくる音だけが部屋に響いていたが、ぴのんが身じろぎすると、綾は手を止め、静かに新聞を畳んだ。


「……起きた?」


綾はそう言って、新聞を抱えてソファへ戻り、ぴのんの隣に腰を下ろした。

目が覚めたばかりのぴのんには、その動作がゆっくりした夢の延長のように見えた。


「……お茶、ありがとう」


視線の先のテーブルには淡い青の湯呑みと、菓子皿に乗った個包装の小さな焼き菓子が置かれている。

ぴのんは湯呑みをそっと持ち上げ、口元へ近づけた。


ひんやりとした陶器の感触が、指先に涼しく触れる。


「冷めちゃったね」


そう呟くと、綾は少しだけ肩をすくめてみせた。


「……淹れてから、三十分くらい経ったと思う」


「……でもいい。飲む」


ぴのんはひと口含む。お茶はもう温かさを失っていたけれど、その苦みと香りが別の意味として喉を潤した。


湯呑みをテーブルに戻しながら、ぴのんは隣に座る綾をちらりと見た。

綾は手の上にたたんだ新聞を置き、何か考えるように視線を遠くへ向けていた。


外では車が通り過ぎる音が滑らかだ。


「川妹は、学校戻る?」


ソファに座ったまま、雲井泉が尋ねる。

窓の外では、夏の始まりを思わせる強い陽射しが、白く街を照らしていた。


「今、戻っても私の給食は無」

川妹綾は感情の起伏をほとんど見せない声で答える。


「終業式には間に合うよ」

ぴのんは軽く笑った。


「夏休みの宿題は終了済」


「……早!」

ぴのんは素直に驚いた。


「お昼、出前、頼もうよ」

綾は自然な流れで提案した。少しだけ浮き足立つように。


しかし、ぴのんは申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめん、親にお金もらうの忘れた」


綾は数秒黙り、すっと立ち上がった。


「了解。キッチンに食料探査に行きます(`・ω・´)ゞ」

敬礼のポーズを決めてから、スタスタとリビングを出ていく。


ぴのんは背後に去っていく足音を聞きながら、小さく笑った。


「……ほんとに、助かるなあ。川妹って」


玄関の向こうでは、セミが鳴いていて夏の暑さを表現しているようだった。


川妹綾はキッチンの引き戸をゆっくり開けると、無人の空間に入った。

午前中の光が、磨き上げられたステンレスの調理台に反射している。

雲井家のキッチンは、生活感と几帳面さが同居していた。

調味料の瓶がきれいに整列し、まな板は洗って立て掛けられ、ガスコンロの五徳も黒光りしている。


「……ぴのん家は、いつも整ってる。」


ぽつりと独り言を言いながら、綾は冷蔵庫に手をかけた。

空虚音と共に白い内部が現れる。

中を覗き込みながら、静かに観察する。


――牛乳、卵、きゅうり、ハム。

――冷凍ご飯、保冷剤。


「これで最低限の糧は確保。」


冷蔵庫の扉を閉め、今度は戸棚を開ける。

スパゲティ、缶詰、インスタントラーメン、乾燥わかめ。


「……わかめとご飯は合わないな」


一つ一つ、指先でパッケージを確認しながら、何を組み合わせるか考える。

決して表情は変えないが、その脳内では小さな料理会議が開かれているのだ。


「決定。冷凍ご飯を解凍して、ハムエッグ。お味噌汁は……顆粒で」


そう結論すると、綾は迷いなく冷凍ご飯を電子レンジに入れた。

透明な皿に卵を割り入れ、ハムをそっと広げる。

厚底ぐるぐる眼鏡に、レンジの数字が逆さに映った。


小さく息を吐くと、綾はコンロの火を点けた。

パチン、と火花が弾け、青白い炎が立ち上がる。

やがて、卵の縁が白く固まっていった。


キッチンに漂う、少し塩気を含んだいい匂い。

夏休みが始まる日の、ささやかな日常断片。


川妹綾は菜箸でハムを少しずらし、卵の黄身にそっと塩を振った。

油の弾ける音が、コンロの上で小さく爆ぜる。

その音を聞きながら、綾は少しだけ胸を張る。


「……意外と、出来るかも」


電子レンジが「チーン」と鳴る。

冷凍ご飯の湯気が、ふわっと立ち上る。

それを見て、綾は一瞬うっとりした顔をした。

小さな達成感が、胸の奥に広がる。


「ぴのんは……また寝てるかな?」


ひとりごとを呟きながら、ご飯のラップを剥がす。

熱い湯気が眼鏡を曇らせると、彼女は慣れた手つきで眼鏡を少し上げて曇りを逃した。


お味噌汁も忘れずに用意する。

戸棚から顆粒味噌を取り出し、湯を注ぐと、静かに香りが立った。

味噌の匂いとハムエッグの匂いが混ざって、家庭的なにおいがキッチンを満たした。


「完成、だね」


ハムエッグを皿に盛り、ご飯とお味噌汁を盆に乗せる。

盆を持ち上げると、ほんの少しぐらりと揺れたが、落とさないように慎重にリビングへ歩く。


リビングでは、雲井泉がソファに横になり、うとうとと半分目を閉じていた。

その顔を見て、綾はそっとため息をつく。

盆をテーブルに置き、湯呑みをそっと押しやる。


「ぴのん、ご飯だよ」


声をかけると、雲井泉は片目だけ開けた。


「……出来た?」


「出来たよ」


「……偉い」


その言葉に、綾は少しだけ照れたように唇を噛んだ。

そして自分もソファに腰を下ろす。


「食べよう」


「うん……ありがとう」


夏の光がカーテン越しに優しく差し込む中、二人は静かにご飯を食べ始めた。



「雲井泉の両親って変わってるの?」


「?」


「雲井泉ぴのんって日本に1人しかいないと思う」


「ぴのんって変かな?」


「変ではないけど…」


「確かに自己紹介で名前言うとみんな微妙な顔する」


「私は名前、地味って言われる」


「川妹の場合、厚底ぐるぐる眼鏡だから余計言われるかも…」


「ぴのんって何語なの?日本人名事典に無さそう」


「私がつけたらしい」


「どういうこと?」


「私が生まれる前の日に母の夢に私が出てきて、私、ぴのん、よろしくね!って言ったらしい」


「すご」


「親戚は雲井泉家の謎って言って笑う」


「(笑)」


雲井泉はお茶をひと口、ほっと息をついた。

川妹綾は、箸を置いて湯呑みを両手で包む。


「ぴのんって可愛い名前だと思うよ」


雲井泉は少し頬を赤くして、ご飯をひと口食べる。


「ありがとう…。でも小学校のときは、ずっと変なあだ名にされてたよ」


「どんな?」


「ぴのんぴのん星人」


「(吹き出しそうになって口を押さえる)……ひどいね……」


「笑うな――……」


「ごめん……でも……(笑)……ごめん……」


雲井泉もつられて小さく笑った。


「川妹は?」


「めがねガリ勉部長」


「……それはそれは……」


二人はしばらく顔を見合わせて、同時に吹き出した。

夏の昼下がりの光が、テーブルに落ちて、湯呑みの影がゆらゆら揺れた。


「食後のデザート食べたい」


「雲井泉家の冷蔵庫にはなんもかったよ」


「雲井泉家の冷蔵庫の奥に確か妹のプリンがある」


「だめだよ実妹のプリンは地雷アイテム」


「大丈夫、川妹が食べたことにすればいい」


「ちょっやめて、そんな陰謀」


「冗談」


「なんかなかったかなー、デザート系?」


川妹綾は立ち上がってキッチンに向かいながら、小さく呟いた。


「デザート系って……どこまでがデザート……?」


「ゼリーとか……チョコとか……アイスとか……」


「そのへんは全部妹さんの保護対象じゃない?」


「……なんでうちの冷蔵庫って妹支配率高いの?」


川妹綾は冷蔵庫を開けて奥を覗き込み、仕切りケースを一つずつ確認する。


「……これは。」


「なに?」


「冷凍みかん、二個発見」


「冷凍みかん?……いつの?」


「見た感は古そうです?」


「……賞味期限切れてない?」


「冷凍って…永遠って聞いたことある」


「それ都市伝説だから」


「賞味期限切れてても食べる」


「やっぱ食べるんだ……」


冷凍みかんをテーブルに置くと、二人はじっと見つめた。

なんだか小さな宝物でも出てくるような……。


「質問」


「なんでしょう?川妹さん」


「冷凍みかんは解凍すべきか否か?」


「解凍一択」


「却下」


「なんで?解凍しないと味薄い」


「解凍したら冷凍みかんの意味無し、後、解凍待つのは時間の無駄、さらに、解凍するなら最初から普通のみかんを買うべし」


「珍しい奴」



雲井泉は苦笑しながら、冷凍みかんを手に取って軽く鼻先に押し当てた。



「……つめたっ。川妹って、なんでそんなとこだけパワーMAXなの?」


「みかんは嗜好品。合理性と気分のせめぎ合い。私は今、冷たいものが食べたい気分なの」


「その割に、この前、冷凍庫から出したばっかのアイス『歯にしみる』って言って食べなかったよね?」


「それとこれとはナンセンス」


「哲学?」


「人は冷凍みかんをどう扱うかによって、性格が分類される」


「どんな分類」


「即食型、半解凍待機型、全解凍柔らか主義型、そして……」


「そして?」


「冷凍庫に入れっぱなしで存在を忘れる、放置型」


「それ、うちの母」


「全国に多発してる」


「じゃあ私は今、即食型として文明を築くんだね」


「冷凍みかん文明」


二人はスプーンでカチカチのみかんに挑みながら、話を続けた。

夏休みの午後の光は、静かにリビングに差し込んでいた。



 午後の光が陽だまりを創る廊下の向こうから、小さな鳴き声が二人の耳に聴こえてきて、二人は同時にその方向を見た。


「にゃーん」


「猫かな?」


 雲井泉は冷凍みかんを手にしたまま、すこし眉を上げて笑った。


「にゃーん、て言う動物は、大抵猫でしょ」


「雲井泉家って猫、飼ってるの?」


「どうだったかなあ」


 ふたりが言葉を交わす間に、その鳴き声の主は廊下から姿を現した。

 部屋の白い壁を背景に、やわらかい金色の光をまとったように、その子猫は毛並みをきらきらと揺らしながら歩いてきた。


「……金色の毛? 外国種かな?」川妹綾が目を丸くする。


 雲井泉は猫に声をかけた。


「やぁ、猫ちゃん。君も冷凍みかん食べる?」


 猫は答えずに小さく鼻をひくつかせると、そのまま迷わず川妹綾に向かって進んだ。足元まで来ると、ためらいなく膝に飛び乗って、くるりと体を丸める。あたたかい重みがふわりと乗った。


 川妹綾は少しだけ驚いた顔をしてから、その小さな背中にそっと手を置いた。毛はふかふかで、掌が沈むようだった。猫は一度小さく鳴いて、目を閉じると静かに呼吸を始める。


「猫さん……寝ちゃったの?」


 川妹綾の声はわずかにあたたかい響きを含んでいた。

 雲井泉はテーブルの向こうからにやりと笑った。


「猫ちゃん気に入られたみたいですね」


「大人しい猫……金色の毛がすごい、ふわふわ……」


 川妹綾がゆっくりと猫の背を撫でる。柔らかい毛が指の間を滑っていく。


 雲井泉は椅子の背にもたれかかって、何か思い出したように言った。


「その猫ちゃん、宇宙人だよ」


「……?」


 一瞬、川妹綾は顔を上げて彼女を見た。


 雲井泉はすぐに、肩を揺らして声を立てた。


「冗談」


「……もう」


 川妹綾もつられて笑った。猫はふたりの声にも目を覚まさず、丸くなったまま小さく胸を上下させている。


 窓の外では、夏の陽射しがわずかに傾いていた。

 時間がゆっくりと溶けていく。


「それより」


 雲井泉は、ふと真顔に戻った。


「夏休みの予定、どうする?」


 川妹綾は猫を撫でながら考えるように息を吐いた。


「えっとね、私は……」












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